2011年11月21日

今日の一枚+一枚(クロアチア)

 クロアチアでのショットです。

 11 ザグレブトラム 親子(2003年5月)1600画素.jpg

 欧州の、地下鉄がない10万人以上クラスの都市や町の多くで、トラム(路面電車)が街を貫いています。西ヨーロッパや北欧はピカピカの電車ですが、東ヨーロッパに行くと、年季が入った車輌がウンウンうなりながら通りを引きずっています。

 旧ユーゴスラビアの国々は、どちらかというと東側にあたるのでしょうか。そんなイメージで行くと、ルーマニアやブルガリアなどと比較して、洗練された感じの町並みや人々の暮らしぶりが目に入ります。一応、昔のユーゴ連邦というのは、ソ連系の社会主義と一線を引き、独自の路線を突き進んだので、けっこうインフラがしっかりしています。それが、90年代の戦争でメチャクチャになったのが残念です。

 写真はクロアチア共和国の首都、ザグレブで撮った瞬間です。街から北外れの終着停留所で、運転手がのんびりと折り返しまで休憩をしている間に、親子がノッシノッシと電車に向かって線路上を歩いています。日が傾く夕方の西陽に照らされる頃、友人の家からの帰りなのか、それとも、これから街へ繰り出して、夜のディナーにも行くのでしょうか。

 今日はもう一枚アップします。

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 クロアチアのザグレブからスプリト(Split)という海辺の町までの長距離列車からのワンシーンです。これも夕方の西陽にやや強烈に車体を射している最中、雄大な峠道を疾駆しています。

 この辺はダルマチア地方と呼びます。ザグレブなどがある、旧オーストリア・ハンガリー領と違い、海岸地方などは旧ベネチア領でしたので文化が違います。線路は海岸沿いには決して引かれていないのですが、いくつかの峠を越える際に車窓に浮かぶその大地は余りにも雄大で、私個人としては、ヨーロッパの鉄道の中で指折りの車窓の景色だと感じております。

 静かな山のふもとに向けて、列車の奏でる擬音だけが孤高に放たれていました。

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2011年11月13日

今日の一枚(ドイツ)

 今日の一枚(ドイツ)

 2.レーゲンスブルク駅列車 車掌ICE.jpg

 ヨーロッパの車掌さんは、あまり車掌室に閉じこもらず、客席でいつも忙しそうに駆けずり回ってます。ドアの開閉も中間扉で操作していました。

 ガラガラの時は、乗客とだべっていたり、すごいのは、ドカっと寝そべっていたりもします。そんな、規則規則でがんじがらめではない社会もいいな、と思った次第です。
 
 (写真:ドイツ連邦共和国・レゲンスブルク中央駅にて 2002年)

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2011年11月10日

今日の一枚(ジャイアンツ・コーズウェー)


北アイルランド(ウルスター・UK領)のジャイアンツ・コーズウェー(Giant's Causeway)の五角形の岩です。

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火山活動で現れた石柱群の一部。溶岩が海に流れ、チョーク状の地層に入ったものが急速に冷やされて収縮した結果だそう。

これにまつわる伝説もあり、近くのビジターセンターで案内されています。

アイルランド北部というと、カトリック勢力と英国国教会勢力とで長い間争いが続き、治安が良くないのではないか、と思いましたが、普通の観光客という立場であれば問題ありません。アイルランド共和国側からでも普通に行けます。

スコットランド側から船で渡る方法もありです。


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2011年11月07日

いのちの価値差

殺処分のガス室生き残った犬、“2度目のチャンス”に引き取り希望殺到。
http://www.narinari.com/Nd/20111116676.html

注目される固体だけ引き取り手あまた・・・ってもうやめてほしいなぁ〜。

うちのクロは迷い猫だったけど、もし猫をまた飼うとすれば、愛護団体などで里親探しているのが沢山あるし、保健所行けば可愛いのが沢山いるので、そこから引きとります。きちんと予防注射もしてくれるよ。

でも、結局、人々はペットショップに行ってしまうんだよね。ブランド感覚がどこかあるような気もするし。それがまた、動物マーケットの維持に繋がるんだよね。ペット業界なんて、ひどいよ。店先で売られているのはまだいいほう。私たちが知らない、裏では、とってもヒサンな目にあっている固体が沢山居る事を知ってます。かといって、あるペットショップがつぶれたら、悲劇が待っている固体も沢山いる。

そういえば、イギリスではペットショップを見掛けなかったな。保護センターに一回だけ行ったことがあるけど、ここで里親探しや、ノラで連れてこられた個体を世話していたけど、どうしても殺処分になる固体はあるらしい。でも、日本の10分の一程度の数。

確かに、保健所の固体は人間慣れしていないものも多く、扱いづらい子もいるし、里親の出現を待ちわびている子もいるし、いろいろ。でも、そこから命を感じるのではないかな。命に値段?人間って本当に罪な生き物だと思う。

日本の動物愛護の感覚なんて、この20年、あまり進歩していない。

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2011年11月06日

ギリシャの生き様

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 ギリシャ

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555 ギリシャ行程図 地名入りgoogle.JPG
 
 テッサロニキ(サロニカ)からアテネに向かう列車に乗っていると、綿花やオリーブの畑とよく出会う。それに対し、木々の気配がほとんどない、貧弱で乾いた大地が延々と広がるのもギリシャの車窓だ。これこそ、ギリシャの辛さを表した一面かもしれない。

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 ギリシャは地中海性気候という、あまり雨が降らない温暖な気候と、石灰がむき出し、土がない大地のため土地はやせ、牧畜や穀物が出来ない。そのため、ギリシャはオリーブやオレンジなどのかんきつ類、そして綿花などを生産し、穀物を輸入してきた。土地が貧しいという点ではアイルランドも似ていて、どうも近年の経済危機にこの両小国が関わっているのは偶然ではない気もする。

 7.テッサロニキ−アテネ広軌線5 車窓.jpg

 そんな農業が振るわないギリシャは、古代から近代にかけて地中海をまたにかけた海運業を興し、農業では足りないものを補ってきた。オナシス家などの有名な海運王がギリシャにあり、船舶保有量は世界第四位らしいが、近年、ギリシャ人船主はさらに税金が安い安いパナマやリベリアに籍を移し、船員もトルコやフィリピン、インド人にとって代わってしまわれ、主な収入源ではなくなってしまった。

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 ● 歴史のあらすじ

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 そんなギリシャは、歴史的には華やかな一面があった。まずヨーロッパ史をやった方ならご存知な、東・西ローマ帝国における‘東’側はギリシャの帝国とみなされている。それは、古代ギリシャ文明と共にギリシャ人の大きなプライドの糧である。

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 因みに、現代ギリシャ人は、古代ギリシャ人のルーツを受けず、どちらかといえばスラヴ系である。さて、その東ローマ(ビザンチン帝国)とは、西(カトリック)と相対する正教会の盟主でり、西欧でも東ローマの皇帝を『ギリシアの皇帝』とも呼んだほど、支配層はギリシャ人によって固められ、古代ギリシャの伝統を受け継いだ。

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 それが今のギリシャ人のプライドの大きさに関係しているかもしれない。そんなプライドを複雑にしたのが、13世紀の西欧からの十字軍と、15世紀(1453年)、オスマン(トルコ)の侵略によって帝国が滅んだことだ。さらに、東西から攻められた挙句、ギリシャは19世紀まで異教徒・イスラムのオスマン帝国によって380年も支配された。

 近代になって、イギリスなどの支援によって独立を達成し、バイエルン王国(ドイツ)から王様を呼んでギリシャ王国が建国された(1833年)。しかし、王による政治は安定せず、またカネは最初から外国から借りてしまうほど税制はボロボロ、さらに王の独断専行が目だった為に軍が反旗を翻し、結局この王は退位、英仏露などの後押しでデンマーク王室から王様がギリシャ王に即位した。これが近代ギリシャの出発点であった。

 ここから興味深い歴史が始まる。独立以降、ギリシャの債務問題はなかなか解決せず、国家財政の4割を債務の返済に充てなければならないほどになっていた。そして、1893年、ギリシャは財政破綻し、多くの国民がアメリカやオーストラリアへと移住していった。

 そんな中、1896年には第1回近代オリンピックが開催され、ギリシャが西欧国家の一員であることを欧米に示した。しかし、西欧の観光客が殺害されるという事件をネタに列強は莫大な賠償金を要求、さらに野蛮国のレッテルを貼られたギリシャの評判はがた落ち、散々だった。

 その後、オスマン帝国との戦争にも敗北したことにより、さらに借金。結局、列強国の債権者代表で作られた委員会の監視下に置かれることになった。これって、2004年オリンピック以後のギリシャの状況と似ていない?

 その後ギリシャは、トルコと、そしてブルガリアやセルビアなどのバルカン諸国と戦争を重ね、いくつかの戦争に勝ったため領土を増やした。しかし、第二次大戦でイタリアと戦争、さらにはナチスドイツに占領されて、略奪や虐殺を経験した。

 第二次大戦後は、東西冷戦下でバルカン半島が共産圏になっていったためギリシャは微妙な位置に置かれた。その為、内戦を経て何とか西側陣営にとどまったものの政治は安定せず、アメリカの都合のいい軍事政権が誕生した。そんな軍政と王制が終わり、今の民主国家となったのは1974年のことである。

 ● 破綻の経緯

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 以上がギリシャの簡単な歴史のあらすじだ。こうしてみると、今のギリシャの債務問題が外国を巻き込んでの大騒ぎという状況はまさに‘かつて来た道’に近い状況かもしれない。しかし、今回はどこか様相が違う。

 まず、ギリシャは農業や海運業などが主産業であったが、そんな国にこんな多額の投資をするわけがない。それを可能にしたのが、インチキデーターでもってユーロに参加した事だ。人々はそれを『ギリシャ神話』という。おかげ為替リスクがなくなり、国力や信用に見合わない低金利でお金が借りることが常に可能になった。

 そして、外資がドドッとギリシャに押し寄せ、郊外に大規模店舗を乱立させた。この外資の店は品揃えは良く、中心部の細々とした商店たちは軒並みやられた。おかげで個人事業主が減り、雇われ人が急増したため定年を迎える人口が増えた。

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 これは日本でも似たような状況だが、日本と違うのは、いくら大規模店舗が儲けても、そのお金は日本国内に株の配当や生産者、労働者に還流するのに対し、ギリシャの場合は、儲けた金はほとんど外国の債権者や企業へ流れていった。そして商品のほとんどは輸入品のため、自国の産業が育たない。

 こうして、外資は外で作ったモノをギリシャで売り、その儲けを外に流すものだから地方は疲弊し、産業や文化が育たなくなっていった。

 それにプラスして観光業の衰退だ。ギリシャ・エーゲ海の島々は、欧米の金持ちたちにとって実にまばゆいほどの輝きを放つ。エーゲ海の島々は昔から農業などできないほど土地は痩せていたが、外国からみた島々の輝きの付加価値は大きく膨らみ、それは島民にとって願ってもないチャンスだった。

 始めのうちは観光客が押し寄せ、島々には観光業が発達した。サブプライムバブルのころ、次々と不動産投資が島々をかき乱し、別荘が豪華絢爛に建ち乱れた。しかし、リーマンショック後のバブル崩壊で不動産価値は暴落、放棄された別荘地やホテル、そして巨額の負債だけが島々に残ってしまい、今、繁盛しているのは、ミコノス島やサントリーニ島のような名の通った有名どころだけ辛うじて観光業が成立しているだけらしい。

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 こうした産業構造のため、どうにかして雇用を確保しなければいけない。それを支えたのが『公務員』だった。彼らは労働人口の1/4を占め、その財源はやっぱり借金(国債)。しかし、ユーロ圏でも独自の利率で債権を発行できるため入札は成功していた。しかし、バブルが崩壊し、他国から「カネ貸してんだから、せつやくしろや、コラァ!」という形で人員削減、給与カットを突きつけられ、そして確実に内需は落ち込み税収は減り、また借金は返せない、という悪循環が生まれるのであった。

 もう、国家財政の破綻は間違いない。

 ● 意外としたたかなギリシャ

切手13 ブルガリア・ギリシャ・アルバニアのコピー.jpg

 しかし一方、彼らにカネを貸したり、高利率の債権を買ったり、不動産投資をしたのは、欧米の銀行団だ。特にドイツとフランスの銀行が醜い。彼らは『ギリシャを救済する』と意気込むが、実際は、自国の銀行を助ける、という事だ。結局50パーセントは債務放棄にしろ、と半ば脅迫に近い形で受け入れさせたが、さらに悪いことに、『債権放棄』なのだからデフォルト(破綻)ではないため、破綻時に保障をしてもらう保険金(CDS)の対象ではない!ときた。当然、一気に‘信用’というものがなくなった。

 そんな事をしたため、EFSFという、欧州の債務危機に対応するための基金を作っても、誰も金を出さなくなってしまった。プールは作ったけど水が入らない状況だ。そりゃそうだ。国家の都合でルールが破られる事を目の当たりにしたのだから。 信用という何事にも換えられがたいものを犠牲にして目先の安泰を手に入れた格好だ。

 さて、バブル時の笛につられて踊っていた銀行団は、ギリシャに対して大きな点を見過ごしていた。それは、この国の『持ち味』だという。とにかく、ギリシャの歴史を見ればわかる通り、借金をし破綻することなどそれほど深刻に受け止めない。

 さらにもう一つ、‘アリとキリギリス’の話の‘キリギリス’的な国民性な点だ。それを知らずに金を貸したのなら貸した方が悪いと言われても仕方がない。もしかして、金を貸せばすぐに使い果たすと知っていたのではないだろうか。しかし、『ユーロ圏』という魔法じみたブランド力が判断を鈍らせたのかもしれない。これが旧通貨ドラクマ経済だったら・・・

 2000年代、ギリシャは高級車ポルシェの購入台数が人口当たり世界一。昨年の自動車ローン総額は80億ユーロ(現レート約8800億円)に上る。この額は、昨年6月以降、ギリシャに対して3カ月ごとにユーロ加盟国がしているつなぎ融資と同規模だ。これをどう観るか。

 こんな事を可能にしたのも、西欧の強欲な金融戦略だった。

 公務員優遇と放漫財政、貧しい大地に過剰な外資の資本、不動産投資にギリシャの国民性・・・。借金に借金を重ねて消費し、経済を伸ばしてきた果てが今のギリシャ。米国の著名な経済学者は、「成長経済は債務なしにはあり得ない」と言う。しかし、いったん財政危機に陥ると、「債務のコストは利益と同様、不平等に配分され貧困と格差を助長する」との事。実際、ギリシャの福祉は削られ、貧困、格差、社会不安が広がっている。

 これらの債務危機の発端は、ちょうどリーマンショックが起こったころ、今のギリシャ首相が財政赤字のインチキを暴露したことから始まった。これ自体は評価すべきだが、ある人たちにとっては、『余計なことを・・・』と受け止められたかもしれない。理想や正直者が不幸を観る、典型的な例だと・・・。

 そして、今更ギリシャ人の怠け草など治るわけがなし、長い間帝国の植民地だったギリシャ人は意外と強いかもしれない。私も何度かギリシャ人の商売にイライラしたことがあった。ある日、案内されたホテルの住所はめちゃくちゃだった事もあったし、宿のレセプションは毎日、競馬中継を観ながらエキサイティングしていたのを思い出す。それがギリシャのすべてというわけでもないが。

 アテネの街角には、宝くじが溢れていた。それでもギリシャの人々は何を悩むわけでもなくノー天気だった。何でこんなインチキなことばかりなんだ、と聞いても、「さあ、知らないよ、なぞだらけだよ〜ん」とニヤニヤしている顔が目に浮かぶ。

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2011年11月03日

ギリシャ レファレンダム



欧州の首脳、国民投票問題でギリシャを非難
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111103-00000001-wsj-int

 ギリシャはけしからん、怠け者ギリシャはつぶしてしまえ、という声がネット上で溢れています。ギリシャという国を弁護するわけではないですが、もう一回、ギリシャという国を観て見ます。過去の内容と一部重複しますが、お許しください。

 先月、ギリシャへの債務不履行をどうごまかすか、すったもんだした挙句、ユーロ圏、EU圏は、ギリシャ債権を保有している銀行団に対して50パーセントの減免を脅迫要求し、合意させました。

 これで一時的に欧州危機は去った、時間稼ぎは出来た、という見る向きが強くなり、ある筋では、『欧州危機に悲観しすぎ!悲観ばかりになったら株は買いだ』という雰囲気が熟成されました。

 しか〜し、そんなおめでたい雰囲気も1っ週間とてもちませんでした。国民投票などやってどうしようというのでしょうか。破滅への引き金をひく可能性というものが冗談ではないかもしれません。

 何でこんなにギリシャが騒がれなきゃならなかったのか。何でギリシャの高利回りの債務がこんなにも世界の金融機関を渡り歩いて取引されてきたのか、不勉強な私はもう少し調べなきゃいけませんが、少なくとも、極端な無駄遣いカット、公務員首切りで経済が縮み、よけい収入が減って借金がまた増えるという悪循環になって国はボロボロになりつつあります。

 借金踏み倒しを『ヘアカット』だ何て、モノは言いようですね。これからどうなるのでしょうか。

 ギリシャの総人口は約1100万人、うち約370万人がアテネ首都圏に集まっています。私がギリシャに行ったのは2002年と2003年、計4週間ほどです。その頃から広場では毎日毎日デモばかりやっていて、警官隊とにらめっこをしていました。

 通貨はすでにユーロになっていて、物価が騰がった、と人々は嘆いていましたが、ドイツとかに比べるとレストラン以外は安かったです。観光と海運業(今では衰退)でもっていた国なので、遺跡の保存には力を入れていて、ホテルとかは沢山あるのですが、うるさいクラクションは堪りませんでした。

 行ってみて最初の印象は、車の洪水とクラクション、そして盛んなデモでとにかくやかましく、古代都市のイメージとはちょっと違う感じでした。

ギリシャは軍事国家です。なが〜い間トルコに支配され、武力闘争で独立を勝ち取った歴史的経緯と、長かった軍政、そして、トルコ、ブルガリア、スコピエ政府〔マケドニア共〕、アルバニアと、周りを敵国に囲まれ、兵隊さんが多い国だな、と感じました。

 ギリシャ人は昔、イギリスの影響下にあったので英語が出来る人が多いですが、言語はギリシャ語で、数学の公式に出てくるあのギリシャ文字を使用しているので、何書いてあるのかよく解りません。

 私が行った時代はユーロに参加仕立てのころで、景気もよく、アテネ市内はとても賑わっていました。今では暴力的なデモでしかその余韻は感じられません。

 ギリシャ人はドイツが概して嫌いです。それは、第二次大戦中、ナチスドイツによって虐殺や飢饉などでとても苦しめられたからです。今のギリシャ首相、パパンドレウは政治の家系です。彼の父や祖父は、ナチスやその後の王政、軍事政権に苦しめられたので、彼の中に欧州北部に対する感情的なものがあるのかもそれません。因みに彼はアメリカで育ちましたので、インタビューでも流暢な英語を話します。

 ギリシャは、長い間軍事政権や隣国との戦争に明け暮れたので、ユーロの参加はインチキでもして成し遂げたかったのでしょうね。観光と海運(衰退)でしかウリがなかった国家なのに、それを餌食にした欧米の金融怪物が一番の癌だと思います。彼らが気の毒です。

 ギリシャに平穏が戻ったら、ぜひ観光でも行ってあげてください。新婚旅行するには最高ですよ。

以下は、半年前の2011年4月に書いた、プログのものです。

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ここ近年、この南欧の小国で財政危機と盛んに騒がれているギリシャ。昨年の今頃あたりから自国の債務に「返せないから助けて!」とECB(ヨーロッパ中央銀行)に擦り寄り、何とか自転車操業的なやり方で1年持たせましたが、ついに今度は「返せなくなるかも」ときました。去年より深刻な事態なのに、市場では昨年ほど騒がれていません。ところで、ギリシャとはどういう国か。今日はこのギリシャという国を取り上げてみます。

 【ギリシャ共和国】

── なめる様に青い空、紺碧のエーゲ海と輝く島々、そして古代遺跡 ──

 よく、『今までどこの国が一番よかったですか?』と聞かれます。答えるのに一番難しい質問なんですが、‘自然が良い国、人が良い国、滞在していて良い国’と、その‘良かった?’という内容によって答えが違ってくるのですね。そこで、単なる『観光』でいうのなら、私はギリシャという名を挙げたいと思います。新婚旅行などで行くにはベストではないか?と思います。

 1. ギリシャ概略

 ギリシャの位置です。
500 ギリシャ広域ギリシャ楕円 google.JPG
(欧州広域)

トルコとイタリアの間にあります。エーゲ海とアドリア海に挟まれた半島と島々から成り立っています。

 ギリシャの地図です。
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(ギリシャ旅工程図)

 色の線がついているのは実際に通ったところです。

 この国の首都はアテネです。数年前にオリンピックをやったので覚えている方もいると思いますが、オリンピック発祥の地です。 

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(アテネ市内上空からアテネ中心部の全景です。ギリシャの総人口約1100万人のうち約370万人がアテネ首都圏に集まっています。車の洪水とクラクション、そして盛んなデモでとにかくやかましく、古代都市のイメージとはちょっと違う感じでした)
10.アテネ市場 - コピー.jpg9.アテネ市場2.jpg
(アテネの市場です。海に近いため、ヨーロッパでは珍しく海の幸が豊かです)

12.アテネ市内列車広軌踏み切り.jpg7.アテネ市街4.jpg
(アテネ市内の様子、朝から晩までクルマのクラクションがうるさい)

 面積は北海道の2倍弱程度で、人口は国全体で東京都ほどの約1千百万人。国土は半島部と大陸部、そしてたくさんの島から成り立っていて、トルコの大陸目の前の島までギリシャ領になっています。
 冬は雨が降り、夏は乾燥して気温が高いのですが、一年を通じて雨量はそんなに無いので森はまばらです。しかし、北の大陸部は高い山々もあるため、他のギリシャの地方とは気候が違います。

 2. ギリシャの小史

 ギリシャといえば古代ギリシャ文明で有名ですね。オリンピアという町が半島部西部にあり。そこに古代オリンピックの遺跡があります。

9.オリンピア1.jpg
(オリンピア遺跡)

一見すると石ころばかりですね。

 紀元前に有名な都市国家(ポリス)が発達しました。ギリシャは今もこの古代文明を誇りに思っていて、自分たちがヨーロッパの起源だという想いを持っている人が多いようです。でも古代ギリシャと現代ギリシャ人は血統が違うらしいです。

 やがて古代ギリシャはローマ帝国の支配下になっていきます。
 ローマ帝国が東西に分裂したのち、ギリシャは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に属しました。この帝国はギリシャ文化が中心でしたので、ギリシャの帝国と言っていいかもしれません。しかし1453年、歴史的大事件が起きます。東ローマ帝国がイスラム教徒のオスマン帝国によって滅ぼされ、その支配下に置かれます。以後400年近く、ギリシャはオスマン帝国の統治が続きました。

 19世紀、ギリシャ独立戦争が始まり、海の戦で勝って独立を獲得しました。約400年ぶりにギリシャの国家が復活し、ドイツのバイエルン王国から王様をすえました。

 そして逆にトルコに二度も侵攻しましたが、今度はコテンパに負けました。その後は戦争の歴史で、今の国境線は第一次大戦の結果の影響が大きいです。第二次大戦ではナチスドイツの攻撃も受けました。

 第二次大戦後は内戦で混乱したりと、どうも国づくりをしっかりする時代が続かず、軍事政権が続いていました。
 そして1974年に民主的に王政から共和制になり、現在は何とかEUに加盟し、ユーロにも加わりました。しかし、ギリシャはまだ比較的最貧困地域であることは変わりなく、政治的にも保守的です。

 3. ギリシャ経済

 ギリシャのお金はユーロです。
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(50ユーロ紙幣【見本】)

 しかしドイツで使う1ユーロとギリシャで使う1ユーロは価値が違います。以下の物価は2002年11月当時です。
 アテネの地下鉄初乗りが0.7ユーロ(約100円)、安宿1泊6ユーロ(約800円)、たばこが2.5ユーロ(320円)、缶コーラーが0.6(80円)、缶ビールが0.6(80円)、チーズバーガ1.2ユーロ(150円)くらいです。それに比べて外食が異様に高く、ランチでも4ユーロ(約500円)はどうしても下回りませんでした。観光地はそれなりに高いのです。

 世界経済を騒がせているのはこのギリシャです。かつて海運業が盛んでしたが今は観光程度しか目だった産業も無く、そのうえ放漫財政をずっとしてきました。年金が60歳から現役時代の8割もらえるらしいですね。

 ユーロに加盟する時、一生懸命背伸びをしたのですが、最近、その時の経済指標が嘘っぱちだった事が分かり、ギリシャはユーロ圏の問題国とされています。以降、緊縮財政を強いられてますが、デモ好きで手ごわい労組はかなり抵抗し、今、ギリシャは債務棒引きという危機を迎えています。
 ドイツと同じ通貨であることに、旅行者の立場から見ても違和感を感じます。これからユーロはどうなるんでしょうかね。

 4. ギリシャの鉄道

ギリシャの鉄道です。

管理・運営OSE(ギリシャ鉄道)
軌間: 1,435mm (約1,565km→
現在約1800km? ) 、1,000mm (961km→現在推定730km)、その他
創業年 : 1869年 
営業キロ : 2,751km
電化キロ : 76km (AC25kV:50Hz )
右側通行

 都市鉄道を除いて国鉄が運営しています。国鉄は、国土が山岳地帯や狭い半島、そして島々ばかりなので鉄道はそれほど路線がないです。ただ大きく分けて2つに分けられます。

 一つは標準軌鉄道です。大陸部を南北に貫く鉄道エリアです。これは隣国などに繋がる鉄道網でして、ギリシャ北部からアテネまで延びています。一応国際列車が運行されています。
 トルコとの戦争で鉄道の重要性を知り、1916年にアテネから北部のテッサロニキまで繋がり、バルカン諸国と鉄道で結ばれました。やがてパリとアテネを結ぶ国際列車が運行を開始しました。映画などで有名なオリエント急行はアテネにも顔を出しました。

3.テッサロニキ−アテネ広軌線2.jpg
4.テッサロニキ−アテネ広軌線3 車内.jpg
5.テッサロニキ−アテネ広軌線4 車窓.jpg
6.テッサロニキ−アテネ広軌線1 山越え.jpg
7.テッサロニキ−アテネ広軌線5 車窓.jpg 
(テッサロニキからアテネまでの標準軌線の旅。山岳地帯を貫きます)

 写真は大陸部の標準軌線の車窓です。
 北部から南部にかけては山地が列なり、鉄道はいくつか峠を越えます。見事な峠越えで、盆地へ入れば車窓にはオリーブの木々や綿花畑など、いかにもギリシャらしい畑作地帯を眺められます。

 現在ギリシャ国鉄は国家予算を投じてゆくゆくはイタリア並みの水準に持って行きたいようですが、この素晴らしい鉄道車窓を眺められ、行きかう旅人もこのように風を感じられるような鉄道路線を今のまま残るのでしょうか。

 もう一つは半島部の狭いレール幅の鉄道です。鉄道が初めてこの国に出来た1869年の時代はギリシャの国土は今の4割ほどで国力が小さく、建設費が安いメーターゲージを採用した経緯がありました。その後半島部のほうへ伸びていきました。
 私が行った時はアテネ市内から狭軌でしたが、現在は半島部の北岸まで標準軌に換えられて、さらにどんどんメーターゲージ線は無くなりつつあります。

1.ピレウス駅狭軌.jpg 
(狭軌線のピレウス駅)

11.アテネ市内列車狭軌.jpg 
(今では見られない、狭軌線 アテネ駅の列車)

13.再アテネ市内列車広軌.jpg 
(今では見られない、アテネ市内のナロー鉄道の軌道と併走する標準軌の列車)
 真上の写真はアテネ市内を走る標準軌の列車です。港まで標準軌と狭軌の線路が並走していました。
 アテネの鉄道駅は長い間、狭軌駅と標準軌駅が位置することとなりましたが、現在は狭軌駅のほうは閉鎖されているようです。

 ギリシャの鉄道はオリンピックを境にとても変化が激しいようで、DVDに収録されている様子はギリギリ最後の郷愁を記録したものとなってしまいました。
 
 アテネの地下鉄・都市鉄道です。当時、地下区間は少ししかありませんでした。

2.アテネメトロ1号線.jpg 
 (アテネ市の都市鉄道)

 100万都市でありながら長らく地下鉄や路面電車は近年まで乏しいものでした。2000年以降順次開業し、オリンピック以後は空港へ連絡する地下鉄線も開業したようです。また、近郊電車も整備中です。因みに料金は、90分以内券が0.6ユーロ(約90円)で、一日共通券は2.90ユーロ(約350円)でした。

 5. ペロポネソス半島

4.コリントス運河と列車.jpg
 この写真はコリントス運河を渡っている狭軌の列車です。運河は1893年に完成し、それまでペロポネソス半島を迂回していました。船舶は一気に400kmも短縮されましたが、小型船舶しか航行できず、それでも年間約11,000隻の往来があるらしいです。
5.列車からコリントス運河.jpg

 地図で言うとこの辺ですね。

520 ペロポネソス半島 コリントス運河 Google.JPG
(コリントス運河の位置)

 ペロポネソス半島と本土にわずかに繋がる細い地峡をバッサリと切り落としたように一直線に横切っている運河です。こっちがペロポネソス半島です。

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 鉄道は半島を一周するように描いています。ペロポネソス半島は四国より少し大きいほどの半島で、コリントス運河のおかげで実質島になりました

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 狭軌線をゆくギリシャ6460型列車です。列車は、ゴツゴツした崖に埃っぽい山岳地帯の中をミカン畑やオリーブの木々に囲まれながら走ります。この車窓こそギリシャの風景でして、線路はクネクネ左右に曲がりに曲がり、単調でない地形の為、鉄道は大きく回り込みながらループを描いて山越えをしていきます。さぞかしこの路線を建設するのに資金がかかり難工事であったでしょう。ローカル色がとっても濃く、オンボロ列車が通っています。

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(キパリシア駅に停車中の列車)
 半島西南部のキパリシア駅に停車中の列車です。1902年に最後のピルゴス(Pirgos)とキパリシリア(Kiparissia)間が完成し、半島一周線が全通しました。キパリシアは古代都市の歴史を持つ人口約4000人の美しいビーチを持つ町で、毎年観光客が多く訪れます。

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 古代オリンピック遺跡があるオリンピアへ向かう路線が出ているピルゴス駅です。私が行った時は工事運休中でした。やってきた列車は、ピレウス行き303列車で、オレンジのディーゼル機関車と荷物車2輌、普通車3輌の計5輌編成の客車でした。

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 ピルゴス駅では、荷物車から家電製品や食料品、新聞などの大荷物を搬出・搬入する作業でにわかに活気が興ります。まだまだギリシャの田舎の駅では鉄道が日常生活のドラマとして現役の舞台であるようです。
 
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(ピルゴス駅での小さな小さなにぎわい)

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 車内でであった少女です。学生さんたちで賑わっていました。

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(学生列車の華やかなにおい)

 6. エーゲ海地方

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 変わってエーゲ海の島です。ここではサントリーニ島を紹介します。

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 写真はサントリーニ島で、ギリシャ本土から南東へ約200`の位置にあります。よく絵や写真の舞台になる景色の美しい島です。
 
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(サントリーニ島名物の500段階段のロバたち)
 サントリーニ島の本港は強烈ながけ下にあって、一気に標高100メートルほど上がらなければ市街へ行けません。写真は観光客をがけ上の市街へタクシー代わりとなって観光客を運んでいる様子(因みにロープウェーもあります)。

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(サントリーニ島の静寂の沈陽)

 サントリーニ島の夕陽は世界三大夕陽と言われているようです。誰がそう言ったかは知りませんが、よくガイドブックに書かれています。確かにおっとりするほど見事です。あとは北海道の釧路といううわさも・・・
 

 島には古代遺跡もあります。フィラ遺跡といいます。ギリシャにはあちこちに遺跡がありますね。でもここの遺跡はかなり山の上にあります。

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(山の上にあるフィラ遺跡)

 19世紀にドイツの考古学者グループに発見されました。長い歴史を含んでいるのでどれがどの時代の遺跡かは混乱してしまいますけど、東方エーゲ海を監視・支配する上で都合のいい場所にあったので長く繁栄したらしいです。でもまあ、行きにくいからこそ観光客が少なくてじっくりと古代を感じることが出来るのではないでしょうか。
  
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(フィラ遺跡の残骸)

 エーゲ海の島々は他にも魅力的な島がいっぱいあります。新婚旅行など、雰囲気重視の旅ならぜったいおススメです。夏には海岸をスッポンポンで歩いている男女の光景も観られます。

 7. 北部・北東部マケドニア・トラキア地方

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 さて、長くなりましたが最期にテッサロニキ駅です。アテネとは全く違う都市圏です。ここはギリシャでも北部にあたり、バルカン諸国が近くまで迫っている土地柄で、第一次大戦までギリシャ領ではありませんでした。
 
 アテネまでは約500`、ブルガリアのソフィアは350`、マケドニア(共)のスコピエは270`、という位置関係です。アテネまでの502kmをICが27ユーロ(約3300円)/ 約5時間30分、急行が14.10ユーロ(約1100円)/ 約7時間くらいです。安いでしょ。

 テッサロニキは、人口約105万、ギリシャ第二の都市であり、サロニカとも呼ばれています。長い間オスマン・トルコの領土でしたが、1912年のバルカン戦争でギリシャ領になりました。東方訛りや文化的にトルコに近いこともあり、アテネとはまた違った雰囲気です。

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(テッサロニキ市内の全景)

 ギリシャ・マケドニア地方の中心でして、ギリシャのマケドニアこそが本当のマケドニアとして譲らず旧ユーゴ・マケドニアの国名を絶対に認めません。理由は実際マケドニア地域は3国に跨っているからです。

 現在、マケドニアという名前の独立国家はスラブ語系民族が実権を握っている国です。彼らはブルガリア語と酷似した言葉を使い、この新マケドニアに対してブルガリアでは『あなたたちは私たち』と思っているとのこと。ギリシャだけではなく、したがってブルガリアも、ギリシャの一地方名を使用していることを快く思っていないようです。因みに、ユーゴスラビア統一のチトー時代に、ここの本当の名前は‘ヴァルダルスカ’とするはずだったとのこと。

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 さて写真はトルコ方面へ走る列車で撮った遠足の子どもたちです。テッサロニキからイスタンブールへは820kmです。

 ギリシャは観光国の顔を持ちながら、一方では軍事国家で、ブルガリア・マケドニア(共)、そしてトルコとの間で今なお穏やかではなく、テッサロニキより東は歴史的経緯により緊張地帯となっています。よって、兵隊の輸送など、軍事的に鉄道も活用されています。

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(列車で任地へ向かうギリシャ兵たち)

 最期にギリシャ・トルコ国境の駅です。国境を越える列車は一日1往復運行されています。長い間ヨーロッパを周りついにトルコへ入る瞬間は感慨にふけります。
 
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(ギリシャ・トルコ国境駅の様子)

 それでは出かけて見ますか?
http://www.kitekikaido.com/
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2011年10月31日

(終)なぎさの中の孤島 (遠くなる隣国 ) 与那国島〜

 遠くなる隣国 (最終回)

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 石垣には、かつて台湾から移り住んだ住民の集落と台湾文化が花咲いている地区がある。実は、石垣や西表のパイン産業は元は台湾からやってきた人たちが興したものであり、また、かつて西表島にあった炭鉱に多くの台湾人が働いていた。

 また、昔は農業、今では観光で活躍している水牛も台湾から持ち込まれた。

 石垣島にある台湾人の集落では、今日でも台湾的な習慣の香りが漂っている。旧盆の精霊(シャウリョウ)送りの日には、台湾風の長い線香をたき、『ポエ』と呼ばれる三日月型の神具を使って、家の精霊が満足したかを尋ねる光景が観られる。これは琉球ではない、台湾式の伝統的なしきたりだ。

 しかし、八重山の人たちはあまり台湾系の人たちの話をしたがらない傾向があるらしい。それは、過去、彼らをどこかで差別してきた歴史と関係があるようだ。その話はここではあまり触れない。

 一方、台湾人は沖縄をいまだに『琉球』と呼ぶが、それは、あちらから観て沖縄を兄弟分とみなしているほど歴史的関わりが深い証拠かもしれない。しかし、沖縄の人々にとって台湾は意外と遠い存在になりつつある。

 明治以前の沖縄(琉球)は琉球独自の歴史と文化が華やいでいた。かつて琉球王国が中国王朝の朝貢国であった事と、後に薩摩藩に間接支配された結果、中国と日本の文化が入り混じったものとなった。そしてそれ自体が琉球独自の文化ということにもなる。
 
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 (琉球時代の城跡:勝蓮城跡・沖縄本島)

 さらに、明治期には日本に編入され、台湾も日本の植民地となったので、垣根もなくなっていっそう台湾文化もミックスされた。しかし、第二次大戦で状況は一変。沖縄戦という過酷な被害を受け、また、日本から離れた台湾側は大陸の国民党が流れてきて現地住民を苦しめた。2.28事件という虐殺事件も加わり、沖縄へ亡命してきた台湾人も多くいた。

 台湾との間に決定的な境が出来てしまった沖縄は、戦後の米国統治、日本復帰を歩んでいるうちにその境が鎖のように固くなってゆき、次第に隣国文化の度合いが薄くなってきた。

 私は以前、那覇や石垣から国際フェリーに乗って台湾に向かった事がある。当時(1996年)は、八重山(石垣)と台湾の間の国境の海を渡っていた旅客船があった。

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 (高雄行きフェリー、1996年)

 その時はまだ掘っ立て小屋風の石垣島のイミグレオフィスで、それをパスすれば早速そこは台湾語、普通中国語が流れる異国に見事にチェンジ!。那覇や八重山から台湾へ戻る台湾系の帰省客や台湾からの観光客で賑わっていた。

 船内放送もみんなあちらの言葉。いかに台湾との結びつきが強いかをその時知った。船内で知り合った、石垣島に住む台湾系の人にいろいろお話を伺いながら次第に仲良くなり、現地の港に着くと、親切にも私を鉄道駅まで案内してくれて頼もしかった。

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 (高雄〔カオシュン〕駅)
 
 思えば貴重な体験だったが、今、そのフェリーは存在しない。2011年10月現在、八重山から台湾へ船で行くことはおろか、飛行機ですらない状態だ。那覇まで上ってそこから中華航空の飛行機で台北を目指すのが現実的で、それには石垣から那覇までの航空代と、さらに最低3万から4万かかる台湾までの往復代がかかってしまう。かつてのフェリーでは石垣から1万円しない程度で台湾へ渡れたのを思うと、時代はおかしな方向へ向かっている。

 一応、台湾側の復興航空という会社が飛行機を石垣に飛ばす、と地元の新聞が報じているが、試験運行の域から発展せず、年に数回程度しか飛んでいない。運賃も運航日もよく分からず、気軽に乗れるような状況ではない。因みに、関西空港から台湾まで格安航空会社が就航しているが、片道8,000の安さである。これはいったい何なのであろうか。

 沖縄の台湾系の人々は、このフェリーの復活を強く嘆願してきたが、船の売却を急いだ霞ヶ関との溝は深く、次第にフェリー復活の熱は冷めてしまった。復活活動は今でも細々と続いているようだが、どうにも実現しそうにない状況のようだ。

 私は世界のいろいろな国境を越えてきたが、互いの国の仲がそんなに悪くないのに状況が悪化している例はあまりないように思う。あの仲が悪いギリシャとトルコの間の島の国境ですら旅客航路はあるのに。

 八重山全体で動いても航路一つですら復活できないのだから、与那国町独力で国境越え航路が出来るとは到底思えない。あの『フェリーよなぐに』を台湾への定期航路として直行させる事は意外にも夢物語になりつつある。結局、これは日本国政府の姿勢が映されたものであり、いかに沖縄を軽視しているかが伺える。

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 (台湾の東海岸、晴れた日には与那国島が観えるらしいが)


 与那国に話を戻す。

 この島は、『よなぐに』とあるとおり、島ではない‘くに’でありたいと思い続けている。強い保守的なくにから、いかに開かれた‘くに’になるのか。将来華やぐのか、それとも無人島へまっしぐらなのか、今後10年程度で将来が決まる、そんな気がするのは私だけであろうか。

 正直言って、与那国島の将来はよそ者をどう受け入れるか、国内・国外に向かって開くしか活路はないように思える。幸い、与那国島はよそからの移住者を不遇するほど閉鎖的ではないように思える。うまく共存し、新しい発想としがらみのない環境を作る事によってのみ、活路が見出せるかもしれない。それは自衛隊を受け入れろ、という意でもない。

 台湾の人々にも『与那国』の事を知ってもらいたい。相手が相手を知らなければ不信にも繋がりやすい。今、与那国で異国の地を感じるのは、海岸に大量に打ち上げられた異国からのゴミしかない。それだけではいかにも寂しいではないか。与那国島の海岸は想像以上にゴミでやられている。これを与那国島の中で解決させるのは少し酷だ。

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 (海岸の草木にもゴミがからみついている)

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 (たった30分で集めた海岸のゴミ)

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 (ペットボトルや漁具が多い)

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 (7割以上が中国大陸からのゴミだった)
 
 理想としては、与那国の土着の人と台湾系の人と、よそ(国内)から与那国に惚れて移り住んだ者と、そしてあまり多すぎない自衛隊員と・・・そんな小さな島で共存共栄することなど、はるかな夢物語なのであろうか。

 なぎさは波と陸地が交互に交わる境界ゾーン。波打ち際の島の苦悩は曲がり角に来ている。

 2011(平成23)年10月

 おわり
 
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2011年10月28日

なぎさの中の孤島 (目覚めた国境の島 ) 与那国島〜

 島を揺るがす自衛隊問題

 今や全国紙をも賑わしている与那国の自衛隊誘致問題。

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 その自衛隊とは陸上自衛隊(陸自)のことだ。離島の情報部隊に海上でも航空でもない、陸上の部隊を置こうとしている。その背景にある国側の事情とはよく解らないが、島側の事情はそれほど不明ではない。それは、島が生きるか死ぬ(無人島)かの瀬戸際に追いやられた末のものであることは簡単に想像できる。

 内地の尺度では、国境の島なのだから自衛隊がいて当然、という概念が大きいが、島の人にとっては、その国境防衛の意識は薄く、自分たちの島の将来感に即つながる意識で考える。

 2010年、与那国の北方約150キロの尖閣列島で、日本の海上保安庁が中国大陸の漁船に攻撃衝突され、両国で大騒ぎとなった。この地域の漁民は、漁場を中国・台湾の漁船のやりたい放題に長年頭を抱えてきたが、こうした年々エスカレートする中国側の実力行使はついに日本当局の危機感を決定的にし目覚めさせた。ただ、大陸側に海域を侵しているという感覚はなく、向こうも人民の好戦的な世相におされ、国家のメンツも手伝って事は長期化の様相である。ただ、国境防備の話が持ち上がったのはこれがきっかけではない。

 与那国島では、2005年に長く就いてこられた町長が死去し今の町長が当選した。現在の町長は福山海運という、与那国島に人や物資を運んでいる船会社の実質オーナーで、自民党系の人だ。当初は台湾との交流に力を入れていて、例えば、台湾投資ファンドによって島の西部にゴルフ場やリゾートホテルなどのレジャー施設『台湾国際村』(仮称)を計十数億円規模で整備を計画するなど、やり方がいかにも‘自民党的’だった。

 しかし、霞ヶ関の壁は厚く万策つきると、一転、自衛隊誘致に舵をきった。2009年8月、二期目を狙う現職の町長は、誘致推進の立場だが自衛隊問題という争点をぼかしながら選挙戦に望み、直前になり立候補した野党系(民主党などが支援)の候補を破り再選した。

 よくある離島の構図は、土建屋さんが支持する議員が議会を占め、土建屋さんたちが支持する町長や村長が当選し、いかに国や県から公共事業予算をもってくるかが評価のすべてであるが、与那国島はそれにプラスして、防衛協会という組織が後ろ盾にいる。

 町長が自衛隊誘致を表明して以来、中央から大臣や政権党の幹部が島を訪れるようになった。国としても与那国に自衛隊を置きたいという方針だろう。陸自は、沖縄本島の旅団を再編成して1800人規模から2100人規模の第15旅団にするという計画がある。旅団長は那覇防衛局内にあり、旅団の上は師団で、師団は九州福岡にある。 そして、与那国にレーダー設備を完備した監視任務の部隊を置きたいらしい。

 二期目の選挙の直前、当時の防衛大臣が与那国を訪問した時、町長はマスコミの前で堂々と「日ごろ、国防上の不安はない。自衛隊誘致の目的は経済的な理由だ」と言いのけ、防衛ではなく島の経済のために誘致する事を否定しなかった。一方、長く台湾交流を支持してきた人たちを落胆させた。

 2009年7月9日 琉球新報より:
 『中国意識「国防」明確に 防衛相 与那国初訪問』

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146887-storytopic-25.html

 『歴代防衛相として初めて与那国町を訪れ、外間守吉町長(左)と会談する浜田靖一防衛相(右)=8日、同町役場

 浜田靖一防衛相が8日、歴代防衛相として初めて与那国島を訪れた。与那国島を含む県内離島への自衛隊配備を念頭にした訪問だ。浜田氏は、6月末に与那国町長らの自衛隊誘致の要請を受ける以前から、日本の最西端である与那国に関心を示し訪問を希望しており、今回の訪問は、浜田氏の強い意向を反映したものだった。
 今回の訪問について防衛省首脳は「(犬などが自らの縄張りを示す)マーキングのようなもの。(国土防衛の)意思を示すことは重要だ」と話し、尖閣諸島の領有権問題や東シナ海での資源争いなどで対峙(たいじ)する中国を意識したものだと説明する。台湾からわずか111キロしか離れていない国境の島に、わが国の国防最高幹部が降り立つことに、台湾など近隣諸国の反発も懸念されたが、同省首脳は「台湾を意識しているのではない」と述べ、視線の先には中国があることを暗ににおわせた。

■進む南西防衛強化
 国は2004年に策定した現在の防衛大綱(05〜09年)で、島嶼(とうしょ)防衛の重要性を初めて明記した。09年度中には、那覇の陸上自衛隊第1混成団(定員1800人)を300人増員し「旅団」へ格上げするなど、南西地域での防衛体制の強化を着々と進める。
 浜田氏は8日、与那国島への自衛隊配備を要請した外間守吉町長との面談後、自衛隊配備の有無は明言しなかったものの、与那国空港が有する滑走路などに関心を示し、自衛隊配置へ前向きな姿勢を示した。
 さらに、今回の与那国視察には陸上自衛隊幹部の陸上幕僚監部防衛部長が同行した。陸上自衛隊の現場幹部の同行に省内では「珍しいこと」との声があり、陸自の配備に向けた着実な一歩との見方がある。

■異なる思惑
 防衛の観点から、先島防衛の重要性を訴える国に対し、地元の思惑は異なる。
 「日ごろ、国防上の不安はない。自衛隊誘致の目的は経済的な理由だ」。7日、外間町長は断言した。100人規模の駐屯地を誘致することで、人口増や税収増、インフラ整備を期待する。与那国防衛協会副会長の糸数健一町議も「自衛隊誘致は人口減に底を打たせるための小さな起爆剤であって、基地だけに依存するつもりもない」と説明する。
 一方で、「これまで進めてきた国境交流はなんだったのか」と嘆く町民もいる。与那国町は、台湾・花蓮市との交流に自立の道を見いだし、07年には全国の自治体で初めて台湾に事務所を設置した。「与那国島への自衛隊誘致に反対する住民の会」の新崎長吉共同代表は「片方ではお付き合い、片方では基地は成り立たない」と危機感を募らせる。町内の30代男性は「町長自ら『自立ビジョン』の失策を認めたことになるのでは」と疑問を投げ掛ける。(深沢友紀、仲井間郁江)』
・・・以上が新聞報道
 
 つまりこういう図式だ。

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  台湾資本頼み→失敗→自衛隊頼み→土建産業の活性化・・・賛成派

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 台湾との細々とした交流→結果が出ない→自衛隊が来たら標的にされる・・・反対派
 
 自衛隊に関してはここで誘致反対・賛成を述べるつもりはないが、一応頭に入れておきたいのは、対馬の例にあるとおり、自衛隊が駐屯する事によって隣国の観光客が敬遠する理由とはならない事。

 しかし、事実や計算よりも感情のほうが先に走ることは致し方ないこと。例として、沖縄のマスコミは概して自衛隊反対、つまり左寄りの姿勢一辺倒であることを気にしたい。教科書に少しでも彼らの意にそぐわない内容があれば大々的なキャンペーンを張るほど、事態は内地で想像する以上にすごい。よって、いくら土建屋さん万歳の与那国でも反対派の勢力もそれなりにいて、反対・賛成で島は二分されている。

 これは、そのまま議会の勢力図に現れている。直近2010(平成22)年の議会選挙ではこの問題が大きく影響し、買収選挙吹き荒れる中でも、反対派系議員がトップ当選した。これは、島民の中で今の保守勢力への反感と、自衛隊の誘致に強烈な拒否反応を起こしている人が無視できないほど存在することがわかる。

 島の人は概ねよそ者に対しては親切だが、反対派の方々のほうが外(よそ)からの人に対して政治的な意見を堂々と言う傾向があるように思えた。それはまるで援軍に加わって欲しいかのように。その反対派の人たちの言い分は、

 「せっかく台湾との交流を深めているところなのに、自衛隊なんか来たら向こうが警戒してすべてご破算になる」
 「真っ先に与那国が標的になる」
 「その裏に隠されている石垣島への部隊配置を目論んでいる」
 「琉球列島は軍事戦略の要塞化となる」
 「どんなことでも戦争は反対」

という内容であった。

 一方、賛成派のほうは、

 「じゃあ、このまま与那国は無人島になれというのか」
 「島に駐在している二人の警察官の持つ拳銃2丁のみで食い止めろ、というのか」
 「現に中国(中共)が島を脅かしているではないか。戦争はいけない、と言っていても、相手が攻撃し、妻子が殺される運命になっても黙って従え、というのか」
 「チベットやウイグルのようになれ、というのか」

と、反対・賛成派も島の将来と共に国家的視点から考えている人もいる。

 因みに、最近になって中国の観測船や調査船、さらには怪しい船が島近辺に頻繁に現れ、海底探査やら測量らしき行為を行っているのが度々目撃されている。 何もない島なのに、体格が良い男二人連れの、それも目つきが鋭い中国人が島に来訪してきて 写真を取り捲(まく)る姿など。

 小さな島なので、そうした事件はすぐにうわさになり、これらを聞いた島民は中国大陸の恐ろしい靴の音を意識しない訳にはいかず、今、国境の島はリアルに脅威を感じている。

 もっとも、執政者が考えている最重要事項は、島の経済・国家の防衛よりもスケールははるかに小さい。一番欲しいものはもちろん、自衛隊の『票』だ。わずか8票差で議員の当落の運命が分かれてしまうこの島に、自衛隊員約200人とその家族が与那国に移り住んだらどうなるか。それは必ずやダメ押し的に賛成派・保守派の地盤になる事は確実で、反対派はおろか、土建屋に関係のない一般の人たちの票など屁でもなくなる。それが一番の恐怖であるため、反対派は絶対に認めることは出来ないのである。

 隣国が目の前にあるから監視の軍隊を置く。それは特段怪しいことではないはずだが、軍隊を置いたら隣国から標的にされる、隣国との交流が閉ざされる、よそ者に支配される、だけど島に産業がほしい、など、国境を巡る島の人々の感情が大きく揺れ動いている。

 島の中での騒動をみてみると、一連のことは与那国という小さな島だけの視点にしかすぎず、台湾への理解はいっさい感じない。しかし、八重山諸島という視点で観てみると、やはり台湾とのつながりを意識しなければいけないだろう。そうした台湾文化がじつは八重山地方でも息づいている。

 次回は最後に八重山と台湾のお話をして締めたい。

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2011年10月26日

なぎさの中の孤島 (さめた国境の島 ) 与那国島〜

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前回は、与那国と台湾の交流の歴史について少し触れた。では、現代の与那国は台湾との交流はあるのか。

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 以下が、町’として公式に動いたその事業史である。

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 1982年:台湾・花蓮市※1.と姉妹都市締結.

 1990年:シンポジウム開催にあたって、フェリーよなぐにを花蓮市へ直行運行、与那国文化交流団が花蓮市を訪問.

 1992年:8月、与那国の児童・生徒による花蓮市ホームスティー事業が始まり、同10月、花蓮市より親善訪問団が来島.

 1995年:姉妹都市親善交流事業の一環、中国語講座が開講.
 
 1996年:花蓮市より知音合唱団が来島、歌や踊りの交流.

 1997年:姉妹都市15周年を記念して花蓮市側から与那国町訪問団144人が来島.

 2000年:花蓮〜与那国島親善ヨットレースが開催(2001年も開催)

 2002年:姉妹都市20周年記念、与那国側から訪問、一方、児童・生徒によるホームスティー事業が中断、2003年より中国語講座も中断.

2007年:花蓮市・与那国町姉妹都市締結25周年式典、事務所開設。与那国町長と蔡啓塔(ツァイチータ)花蓮市長が「両市町国境交流強化に関する協議書2007」に署名.

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(以上が与那国町勢要覧・第三次与那国町総合計画参照)

 2008年:7月4日だけ 台湾の復興航空による与那国―花蓮間初のチャーター便運航。同年、
運行計画にあった船での運行が中止に.

 2009年:数回だけ与那国―花蓮間にチャーター便. 同年12月22日、 与那国花蓮縣交流発展協会が設立(与那国側・野党系による)

 2010年: 社会実験実施として、台湾側からサトウキビ肥料を台湾航路を持つ大東海運産業(株)の貨物船を利用し輸入.

※1.花蓮市・・・与那国島の対岸にある台湾東部地域にある最大の都市で、鉄道が通る。人口約108,000人(市域2011年時)。山岳が海岸近くまで迫り、平地がわずかしかない。鉱山資源が豊富で大理石の産出などで有名。

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 (花蓮駅:1996年)
 
 いろいろとやってきているようだが、結論から先に書こう。

 はっきり言ってうまくいっていない。過去にこのような事があった。

 2008年に、与那国町が日本政府との『再生事業』の一環として与那国・花蓮間のチャーター船の運航が計画されていたが、突然、天候を理由とした運行中止が発表された。すでに申し込みが済んでいた段階(日本側からは53人、台湾側で約250人)での中止だったため、当然多くの批判が起こった。
 
 町によると、台湾の船会社側で役員や出資者に変動があり、会社側が花蓮市の関係者と面談して運航延期の方針を示した、というが、真の理由はよくは解らない。
 
 交流事業には相手もいる事なので、台湾側から観て与那国との交流にどれだけメリットがあるのか考えなくてはならない。金銭的に観ればそれほどメリットはないかもしれないが、台湾東部の人たちにとって『外国に行ける』という事だけでも大きな魅力らしい。現に、台湾領東部に浮かぶ小さな島に多くの観光客が訪れている。

 よって、観光事業として成り立つ可能性はおおいにある。さらに、台湾側の有力者や民間会社は、与那国を含めた交流事業に意外なほど前向きな事業者が多い、との事。しかしなぜ、30年も取り組んできた交流事業がなかなか実を結ばないのか。

 それは日本側の事情によるものが大きいと見る。

 少し難しい話になるが勘弁願いたい。まず、与那国に外国の船舶を入港させるためには、日本国の船舶法や関税法に基づいた『開港』をしなければいけない。外国航路が開かれるならば、そこに入管も税関も海上保安庁も置かなければいけないし、国境としての機能がなければいけない。

 開港するには、外航船の入船数、貨物取扱量、港湾設備の整備状況、必要官公署の設置などいろいろと厳しい条件があるため、当面『不開港』の港として、国の支援(補助金)による交流事業などで実績を積む努力がなされてきた。

 さらに、与那国島の中心町、祖内の港の整備を行い、2000トン級の船が接岸できるようにしてきた。よって、美しい砂浜があった祖内の港はコンクリートだらけの港と化してしまった。

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 (祖納のみなと)

 しかし、いつまでたっても開港が出来ない。台湾側も「いつになったら開港してくれるんだ」といらだつ。実は、日本側の開港の条件として、年間50隻、5000トン級バースを前提とする法律が壁となっていた。その後挑戦してみたところ、この壁のクリアは今の与那国の規模では到底無理だ、ということが実感として沸いてきたため、この厳しい開港条件を与那国には適用せず、査証(ビザ)を免除するなど特区扱いしてほしい、と町は長い間陳情してきた。

 税関の問題は財務省、直接航行の問題は国土交通省、査証は外務省と役所が分かれているのも問題であった。さらに、台湾は日本国政府が認めている正式な国家ではないため、事実上、交流は認めにくい流れが出来てしまった。

 また、与那国・祖内港の岸壁に欠陥が見つかり、石垣とを結んでいるフェリー(1482トン)ですら入港出来ていない。だからわざわざ遠回りして西の久部良港に入港しているわけだ。与那国町としては、このフェリーを台湾に乗り入れたいと願っているが、規制が邪魔して動けない。因みに、このフェリーは台湾・花蓮港へ『短国際航海(60海里)』として行った実績がある。

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 (フェリー‘よなぐに’)

 結局、そうこうしている間に島民の熱もさめ、行政もただただ補助金の消化に明け暮れる、そんな状況となり、そんな町の現状を国は見透かしてしまったために、未だに特区には至っていない。

 与那国島は、国境の島ということを逆手にとり、国境を開いて夢を抱いてきた。与那国島だけをゾーン指定の免税特区、査証免除となれば台湾からいくらかの観光客が島に立ち寄り、物産展が賑わい雇用が増え、逆に島の人は、石垣よりも近い台湾へ買い物に出かけたり、もしかしたら病院にも苦労せずいけるかもしれない。

 また、沖縄(琉球)を中心にして地図を眺めれば、台湾を飛び越えてフィリピンや大陸、香港などが日本本土とさほど変わらない距離に位置し、与那国がその玄関口になりうる。人だけでなく物資の中継点として期待できる・・・。そんな可能性も頭をよぎっていた。

 「戦前のあのころがもう一度よみがえる」

 しかし、現実は厳しすぎた。交流が発展するどころか逆に衰退し、2008年、八重山地方と台湾とを結んでいた唯一の旅客フェリーが、経営難のため廃止になった。こうして人々は、はるばる那覇を経由するしか台湾に行けない状況となってしまった。遠い北海道や東京にはたくさんの台湾人観光客が訪れ、沖縄本島でも年間10万人が訪れているにもかかわらず、与那国はゼロ。おかしな状況だ。

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 (台湾行きの船から眺める与那国:1996年)

 国の補助金を食いつぶすだけの事業になり下がり、島は相変わらず人口が減ってゆく。国から見離され、もう島の人たちは台湾に期待しなくなった。

 こうした中、最後の活路として見出されたのが、自衛隊だった。


 次は、島を揺るがす自衛隊問題

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(写真はすべて筆者撮影)
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2011年10月24日

2011 トルコ東部大地震

■トルコ東部で地震、500〜1000人死亡か
(読売新聞 - 10月23日 20:16)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111023-00000595-yom-int
12.ドゥバヤジット夕陽(ポジ).jpg

報道によると、トルコ東部で大地震があった模様です。

Van 1.jpg
(トルコ東部、推定域:広域)
Van 2.jpg
(ワンを中心とした拡大図)

9.アララット山〜ワン車窓.jpg
(トルコ東部、ワン付近の大地)

よく読むと、『ワン』とあります。私はこの町で4泊しました。小さな町ですが、『ワン猫』というのが名物で、他にも、イラン国境が近いので、国境貿易で栄えている感じでした。

ワン湖という、塩の湖の湖岸の町でして、トルコ国鉄の鉄道連絡船があります。

自分が知っている遠い町が被害にあっているという報を聞くと無関心ではいられなくなります。状況が今ひとつよく解りません。

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(ワン駅にて)


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