2012年11月20日

最後のフロンティア 3 (動脈幹線 ) ミャンマー編

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http://jp.wsj.com/World/Europe/node_551046
(米国のオバマ大統領は、2012年11月19日、米大統領として初めてミャンマーを訪問した。選挙で再選されて初めての新規外遊先にミャンマーを選んだのはかなり意味が深い。そんなミャンマーに9月に行っていた。これはミャンマーの鉄道乗車記である。)
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 ● 動脈幹線 

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 ヤンゴン(Yangon) 〜マンダレー(Mandalay)

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(ヤンゴン→マンダレー線 経路)

 15:00発、マンダレー行き5列車は、すでに1番線ホームに‘ズン’と構えている。総編成は客車14輌+機関車、堂々とした国の代表列車があくびを唱えながら発車を待っている。
 
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 (発車前の第5列車)

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 私は寝台券の切符が取れなかったので、仕方なく1等車(Upper Class)に流れるしかないが、1等車といっても寝台に比べれば雲泥の差の‘泥’の地位であり、くたびれた旅だけは保障される。一応、斜め70度くらいリクライニングできるが。
 
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(1等車(Upper Class)の内観)

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(1等車(Upper Class)の座席)

 時計の針が15時を指すころ、定刻ぴったりに笛が鳴り響き、はるか前方の機関車の汽笛が鼓長くこだまする。意外と時間には正確なようだ。列車はヤンゴン中央駅の広い構内の線路を跨ぎながら次第に軌道は2つに収斂し、ゆっくりとヤンゴン市内を刻む。
  
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(ヤンゴンの駅を発車する)

 しかし、少し走っただけでは街は終わらない。人々や車の喧騒が漂う中、20km/hくらいの速度でトロトロ走っていると、列車を待っている売り子たちが呆然とこちらを見送る。あまりにもゆっくりだからか、列車は線路際の子どもたちの格好の遊び相手にもなり、全速力で追いかけては、デッキの手すりを捕まえて‘チョコン’と飛び乗るのだ。これはなかなか楽しい遊びだ。

 子ども達の遊び場である近郊の駅をいくつか通過し、すれ違う列車の姿がまだ頻繁に顔を見かける頃、出会う彼ら客車たちはどれも年季を経て相当使い込んでいると解る車輌ばかり。長い独裁政権の間、鉄道会社は車輌を新しく製造したり、輸入する余裕はなかったため、周辺の東南アジア諸国と比べて経済が相当遅れていることが鉄道をみてもわかる。
 
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 (年季が入っている車輌たち)

 ミャンマーの客車の状態はかなり悪く、事実、古いものを今でも使ってる。1,252輌ある客車のうちの約32%。386輌ある機関車においては47%。3,311輌ある貨物車輌にいたっては56%程が40年以上も前の超お古だというのだから、これから経済発展が見込まれるこの国の政府としては、急いでリニューアルしなければならない。だから、融資してくれる国であればどこでもウェルカムであろう。因みに、ドイツやフランス、そして日本からも中古の車輌を無償で受けている。※3)

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 さて、列車はやがて都会の片隅からようやく解放され、それまでの手押し車のような速度の列車はようやく本気を出し始めた。気がつけば沿線の建物は少なくなり、変わって田んぼや畑、時々水に沈んだ浮き畑が窓の向こうに流れる。トラクターの代わりに牛がのんびりと畑の上で休みながらこちらを見、機械化されていない農村の風景にしばし心を落ち着かせる。広大な大地とグレー色の雲の境目あたりに、七色の虹橋がダブルに連なる気まぐれな雨季の空が、あちらこちらで大いに湿らせていて、やがて列車がその雫の下へ突入してゆくのだ。

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 (原野をゆく)

 列車はそれでもひたすら走る、走る、走る。雨が途切れ、一斉に日差しが差し込む頃、かすかに先頭の機関車から汽笛が聞こえ、光り輝く黄金の寺院が静かに彩を放ち始める。

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それは小さな駅を思いっきり通過する合図であり、ほんの少しだけ人の息吹を感じる瞬間を窓辺の私に与えてくれる。線路際の駅の周りの集落には、竹の材質の土台の上にヤシの木で造られた家々が並び、大人も子ども総出でこちらに関心を寄せる。中には満面の笑みと最大限の意思を表現するために両手を左右に振ってこちらにシグナルを送っている子どももいる。
 
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 (小さな駅を通過)

 そして列車はまた孤独な大地に舞い戻る。

 ヤンゴンから約2時間、ここまでノンストップで走り続けた列車から英国風の手動信号群が観えてくると、
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列車はバゴー(Bago)に到着する。ここは南方の モン州方面への路線が分かれる要所の駅だ。構内の線路際では黒牛が草をエッサエッサとむしり食べていて、その横に列車は‘ガツン’と停車すると、勢いよく待ち構えていた多種多様な売り子たちが一斉に乗り込んでは、商品の名前を連呼しながら車内を掻き分ける。

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(バゴー(Bago)駅)

 駅の造りといい、信号機から踏切、鉄橋のカタチといい、どれも‘ブリテッシュ’様式である。この余韻はパキスタンや本国イギリスを思い出してしまうが、この国がやっぱりイギリスの植民地であったことを改めて認識させられる。

 ミャンマー(ビルマ)の鉄道は、1877年、イギリス統治下の時代に、ラングーン(ヤンゴン)から北西のピイ(Pyay)までの262kmが『The Irrawaddy Valley State Railway』という会社によって開業したのが始まりである。その後、さらにまた別の会社によって、1884年にシッタン川(Sittang River)に沿いながらタングー(Taungoo)まで267kmが開業した。その路線は、今走っているヤンゴン−マンダレーの今日の大幹線の一部を成している。

 その後、内陸のマンダレーが第三次英麺戦争(英名:Third Anglo-Burmese War)でイギリス軍によって陥落されると、1889年までにそのマンダレー(Mandalay)まで開業させた。その後、路線はどんどん増えてゆき、1896年に植民地政府による『Burma Railway Company』という会社にまとめられ、1929年にインド政府からビルマ側に移管された。そして戦後の1948年、ビルマがイギリスから独立し国有化されると、それ以降は中国やインドの援助を受けながら少しずつ拡張してきた。しかし、他の東南アジア諸国との差は歴然であり、これから相当な整備が開始されるであろう。

 そんな未来を予感すると、今あるこの風景は後になってとっても貴重な一瞬になるかもしれない。開けっぴろげの窓、乗客たちの優しい笑顔、楽しい売り子たちの群れ。彼らはいつも水やジュースはもちろん、弁当にした調理モノ、カエルを燻製にしたもの、コウロギか何か得体の知れない虫をフライにしたもの、果物類、を頭の上に載せてこちらに必死にアピールしてくる。

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 (車内販売は彼らの貴重な現金収入源)
 
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 (得体の知れない食べ物たち)

 私はその中で、『ミコディー』という果物を選ぶ。少しプラムに似て皮はかなり硬いものだが、何かで叩いて二つに割ると、白いみかんの実のようなものが一杯詰まっている。それを一口入れると、舌全体に‘シュワー〜’と甘酸っぱさが広がりけっこう病み付きになる。列車の中ではいろいろな物が売りに来るので、車内買い物を楽しめるのも列車旅の魅力の一つであろう。
 
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 (旅のくだもの、ミコディー)

 列車はバゴーから本格的に北へ向けて針路を取るのだが、まだ全体の1割強しか走っていない。あとはひたすら原野と畑のレイルロードを刻むだけで、時々プチ嵐が襲ったり、その嵐の雲の隙間からインドへ傾いた陽が差し込み、その角度が0度になる頃、辺りはあっという間に闇が包みこんでゆく。

 街明かりというものはほとんど無く、その代わりに、弱弱しいほのかな灯りが村々の窓から炊き出しの余韻と一緒に窓から伝わり、心もとない車内の照明は実に輝きを増しているように見えるが、照らす乗客の疲れを一層濃く映すだけである。

 それでは良い時間になったので食堂車へ行ってみよう。

 続く。
 
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参考文献:
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm

その他

『Train travel in Myanmar (Burma)』 (http://www.seat61.com/Burma.htm
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会(2005年6月発行)
『地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)』 '11〜'12 ダイヤモンド社 / ダイヤモンド・ビック社
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2012年11月18日

最後のフロンティア 2 (ヤンゴン 自画像の旅 ) ミャンマー編

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 2.ヤンゴン 自画像の旅 

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 ヤンゴン環状線。1周およそ3時間である。

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(サークル線路線図)

 例えば、時計周りで旅でヤンゴン中央駅を出ると、1km程度走ってはすぐに停車場に到着し、人の影を吐き出し別の群れがまた吸い込まれる。それらの出と入りのカウントは常に激しく、静脈のように脈をつき、息を放っているこのヤンゴンの縮図が、私は妙に気に入った。

 彼らは、ただの通勤通学に利用している若者、バナナやパイナップルを大量に持ち込んでは輸送車代わりに利用している行商人、商売の宣伝をする怪しい青年、オバちゃんたちの井戸端。区間によっては大混雑する箇所もあるし、一気にガラガラになったりとなかなかワクワクする。
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(サークルトレイン車内の様子)

 一方、窓の外を観ると、木造の住宅から、鉄筋団地のような住宅群。その傍らには、芯まで汚いどぶ川と水溜りが控え、それは猛烈に鼻につく重い異臭をふんだんに発し、やがて顔がつぶされそうになる時も。目を下方に向けると、線路際では軒先の列車が去るとちゃぶ台を広げたり、店を出しなおしたりて線路が商店街になっているところもあり、どちらも最強のエキサイティング。
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(線路端)

 しだいに郊外に放たれるにしたがって少しずつ駅間が長くなってくると、辺りは畑や更地が目立つようになる。『Golf Course』何ていう駅名もあり、かつてはイギリス人がここでゴルフでもしていたんだろう、と勝手に想像するしかない名前のその駅には畑しかなかったり、とイギリス時代の名残も感じることができる。

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(ゴルフコース駅付近)

 そのゴルフコース駅あたりがヤンゴンから一番遠い地点で、ここまで来ると都市の雰囲気はあまりない。その後、Wa Bar Gi駅付近で国際空港に近づき、再び都市っぽい喧騒が始まる。やがて、マンダレーからの本線が合流すると Ma Hiwa Gone駅。この辺りでもう運行サービスは終わりだよ、というような雰囲気が広がり、乗客がほぼいなくなるが、次の駅からまた乗り込んできて、列車はまたヤンゴン中央駅に戻ってゆく。
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(やがてヤンゴン中央駅に戻る)
 
 そんなサークルトレインに乗ってヤンゴンの町を感じるのもいいかも。因みに外国人は一周1ドル、駅のホーム上の事務所みたいなところで切符を買う。



 ● 旅行者から遠ざかる鉄道

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 この、人口約250万人を数えるミャンマー最大都市である旧首都ヤンゴン。その陸の玄関口であるヤンゴン中央駅は、イギリス植民地時代の1877年に開業した。陸橋から観るヤンゴン中央駅の構内は堂々とし、狭い線路幅の軌道が低いホームを挟んで秩序よく並んでいる。ミャンマー鉄道のレールの幅は1,000mm、つまり1メートルゲージで、タイ、マレーシアやベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国と同じである。

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 2010年現在、総延長5,403kmだが、そのうち41%ほどにあたる2,242kmが1988年以降に開業しており、つまり独裁軍事政権時代に造られたことになる。

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(ミャンマー鉄道路線図)

 とある新聞記事によると(※3)、2012-13年の計画では、中国やインドから融資を受けてさらに拡張してゆくらしい。インドは歴史的な経緯でシステムが似ているのでわかるが、中国とは関連がない。しかし、ミャンマーにおける政治的な中国の影響力の大きさが鉄道面からみて感じ取れる。特に中国は、機関車、貨車そして客車も多く譲渡している。

 そんなことを思うと、北側に正面を向いている今のヤンゴン中央駅のその駅舎は、どこかで観たような?。それは北京駅の駅舎に似ている、と直感的に思った。

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(北京駅舎:2003年)

 これも中国影響か?と思ってしまうが、調べてみると、この華麗で立派な駅舎は、第二次大戦でイギリス軍によって駅が破壊されてしまった駅舎に代わって、戦後、ミャンマーの建築家、シン・ユー・ティン(Sithu U Tin)によるデザインで、1954年に駅舎が完成したらしい。

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(現ヤンゴン中央駅舎)

 因みに、中央駅は将来的に30kmほど東の郊外へ移転する話があるが、詳しいことは分からない。

 その駅前は典型的な車だまりの広場を形成している。その真ん中に草木を植えた庭が‘ちょこん’と意外と堂々とした感じで佇み、大都会の真ん中とは思えない穏やかさが漂うロータリーである。それにしても外国人の姿が一切ない。それもそのはず、外国人はミャンマー人の10倍もする特別運賃が組まれていて、競合する長距離バスよりもはるかに高い設定となっているからだ。よって、よほど鉄道が好きではない限り、外国人旅行者がミャンマーの列車で長距離の旅をするなんてないであろう。

 因みに、ミャンマーの通貨はチャット(Kyat)。1ドル≒860チャット程度(2012年9月)が為替レートで、空港で換えることが出来る。空港のレートは悪くはなく、市内の闇レートでの交換はそれほどうまみはなくなったようにも感じる。

 お札は1、5、10、15、20、35、45、75、50、90、100、200、500、1,000、5,000,10,000、とあるらしいが、100以下はインフレのためほぼ存在価値なしでみる事はなかった。

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(ミャンマーの紙幣)

 外国人は、政府の運営するものや、宿の支払などは米ドル現金を要求され、両替も、ドルやユーロ、シンガポールドル以外はなかなか交換出来ない。因みに日本円は、不利ながらもヤンゴン市内の両替屋で換えることができるが、地方都市は難しい。

 100ドル換えると86000チャットに化けて出てくるわけだが、少し金持ちになった気がしても市内の物価はそう安くはない。宿代がヤンゴンの場合はだいたい13ドル程度、食事も3,000チャットが平均、タクシーも一回乗れば市内だけで最低2,000チャット、と、バンコクに比べてそんなに割安感は感じず、それでいてレストランや売られている物の品質は悪いので、物価安を目当てに来たらがっかりするかもしれない。もちろん、日本に比べれば格段に安いことは間違いないが。

 肝心の列車であるが、ヤンゴン−マンダレー間は、寝台だと33ドル、1等座席車30ドル、準一等が22ドル、一般座席車が11ドルとなっている。外国人は米ドル払いを必ず要求される。

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(ヤンゴン−マンダレー 鉄道切符)

 さあ、これから中部の都市、マンダレーへ列車で行こう。まずは切符だ。ミャンマーの長距離列車の切符の買い方はあほらしいほど面倒だ。まず、前売り券と当日券の売り場が異なる。前売り券は、駅南にある、鉄格子の窓口が並んでいるところで売られている。薄暗くて野良犬がたくさんタムロしている陰気な場所なのであまり行きたくはない。さらに前売り券は1日前から3日前までで、4日後以降の切符は買えない。電話も難しく、だから、忙しいあなたが、直接、人気のある寝台券など抑えるのはなかなか難しい。

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(離れにある切符売り場)

 さて、午後3時ころを過ぎると、中央駅構内は、ミャンマー各地へ走る長距離列車が続々と発車を迎え庶民の声に包まれ賑やかになる。私が目指すのは、中部にある第二の都市、マンダレーへ突っ走る5番列車だ。このヤンゴン(Yangon)−マンダレー(Mandalay)間は、日本で言う東海道線みたいなもので、全線複線化されている一大幹線といっていいだろう。

 マンダレーまで通しで走る列車は上下3本。622kmを約15〜16時間かけて走るのだが、近隣諸国の列車と比べてなかなか遅い。因みに、日本で同じような距離をディーゼル列車では、1980年(昭和55年)の函館〜幌延間の急行列車でみるとそれでも11時間だから、よほど遅いか分かる。

さあ、出発!

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続く
参考文献
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm
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2012年11月15日

最後のフロンティア 1 (サークルトレイン) ミャンマー編


 1. サークルトレイン(ヤンゴン)

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(ミャンマーの位置)

 ミャンマー連邦共和国、通称『ミャンマー』、※1)人口約5200万人、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接する国である。南北の最長距離は約2,000キロ(南へ約700キロの方は尻尾のように狭い)、東西の最長距離は約1,000キロ、面積は日本の約1.8倍の大きな国だが、隣国タイと同じレベルの規模の国だ。

 しかし、タイと違うのは、この国は長らく中国影響下の軍事独裁国家だったこともあり、ずいぶんと遅れた国という印象がこびり付いているが、事実そうである。だが、国を開けた今、政治が後ろ向きにならない限り、これから急速に経済発展することは目に見えている。そこで、今のうちに未開の鉄道に乗ってみよう、という事で、

『ミャンマー、ジャンピングトレインの巻』
と題して、ヤンゴンからマンダレーまで約600kmを走破してみよう、という企画を立て、財政の壁と戦いながらバンコクより北西の旧首都へ飛んでみた。
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(ヤンゴン国際空港)

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(日本製のバスが早速お出迎え)

 バンコク国際空港に比べて笑ってしまうほど片田舎のように感じるヤンゴン空港から車で約30分、僧侶やアカデミックな若者が闊歩する喧騒の町、ヤンゴンが姿を現す。この大都会の町の造りは、海からやってきた侵略者たちが、大河ヤンゴン川から這い上がるようにして占領し、そこを拠点にしてビルマ全土に広がっていった名残でもある。
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(植民地時代の建物が堂々と。ヤンゴン中央郵便局)

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(日本語のロゴのトラックはある意味でステータス?)

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(ヤンゴンの街の喧騒)

 そんな歴史のおかげで、河に面した平たい一角がこの町の中で最も忙しい地域であり、そこは狭い区域に薄汚いビルや粉汚い複合建物がブタ小屋のように乱立している。そんなグチャグチャな路地を北へ歩いていると、やがてうっそうと茂った緑がポカンと広がるエリアが目の前に広がる。

 実はそこはヤンゴン中央駅。駅構内と大雑把なヤードが実に無駄なスペースを陣取っていて、太陽に向かって激しく伸びる雑草たちのおかげで線路が消えかかっている。望遠越しに覗いたその雑草から‘グーン’と広角にレンズを広げれば、そのヤンゴン駅は避難場所のようになかなか大きく観える。

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(広い構内のヤンゴン中央駅)

 駅にはいくつかの列車が屯(たむろ)し、やがて煤を吐いた機関車が‘ゴットンゴットン’と軽そうな客車たちを引き連れて車輪の鈴を鳴らしながら陸橋の下で唸って行った。駅からは東西方向へ一線しかないが、いくつかの近郊路線がヤンゴン首都圏にはあるようだ。

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(客車列車の近郊線)

 その中で環状線(サークルトレイン)というものがある。東京で言えば山手線みたな存在か。しかしこちらは電車ではない。例えば、機関車が5輌〜以上の客車を引くぱってゆくタイプのものが主流で、駅間距離は1キロ程度のものがほとんど。よってかなり鈍足である。

 一周が45.9km、山手線の1.3倍、駅数39駅、およそ200輌の客車で毎日10〜15万人が利用している。最も運転間隔が短いのが、朝どきの15分であるが、2012年9月現在、以下のような列車本数だった。
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(サークル線路線図)

8;20,/8:35,/10:10,/11:30,/11:50,/13:05,/13:40,/14:25./

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(サークル線列車)

 本当にこれだけなのか、ちょっと疑ってしまうが、上記の列車はあくまでも完全一周するタイプのもので、区間列車がまだけっこうある。しかし、けっこう頻繁に予定時刻が変わるようなので、もし訪れるのであれば、このスケジュールはあまりあてにはならないであろう。※2)

 面白いのが、馴染みだった日本の気動車と、ここでかなりの確率で出会えることだ。今回は、JRのキハ58や四国で活躍していたキハ47、そして九州の松浦鉄道出身の気動車たちと出会えた。

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(松浦鉄道出身)

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(四国出身)

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(北日本出身)



 ではサークルトレインに乗ってみることにしよう。

 続く・・・

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参考文献:
※1) CITY POPULATION :『 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) http://www.minamitours.com/yangon_circular.htm
posted by kazunn2005 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月03日

感想 『二つの祖国で 日系陸軍情報部』

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  『二つの祖国で 日系陸軍情報部』米題 『MIS (Military Intelligence Service)』

 作品を観終わった時、MISのメンバーの素晴らしさに感嘆すると共に、思わず我が日本の情けなさを感じた。こう書くとネガティブに伝わるかもしれないが。

 この映画は、単なる証言集ではなく、映像や写真、そして資料を駆使して裏づけし、若干エピソードを添えながら日系人の目線で表現されており、それでも観るものを熱くさせる作品になっている。

 恥ずかしながら私は、ドキュメンタリー番組は観るけれど、ドキュメンタリー‘映画’という作品を、近年まで映画館で観た事はなかった。映画というのは、主人公がいて、物語があり、脚本・台詞があって、結末に期待を寄せる、そんな劇作品のことを指すのだと思っていた。やがて映画自体観ることが少なくなった。

 最後はアメリカ一番、のハリウッド映画に慣れるのも良い。しかし、そんなものばかりが映画ではなく、すずきじゅんいち監督の一連の日系人シリーズに出会ってからは、ドキュメンタリー映画の存在を意識し、イラン映画など違った角度での作品も面白いということに気付いた。その後、回数はまだまだ少ないながらも、映画館へ脚を向けるようになった。

 さて本編の感想である。

 最初に思ったことは、証言と同時並行で映される白黒の映像だ。これらは単なる参考資料ではなく、証言に沿った脈絡がある映像だった。例えば、MIS(米日系陸軍情報部)の兵士が、捕虜(日本兵)の尋問に際し、タバコを与えて相手の警戒を和らげる場面の話をする。その時、静かな笑みを浮かべてタバコを与えているその映像を添えるのである。

 証言を集めることも大変な作業だが、「よくこんな映像が残っているな、よく見つけてくるな、」とその収集能力のすごさに感嘆した。おそらくアメリカ側の映像だろうが、英米の『記録』に対する執念が伝わった。

 ところで、前作2作目と違い、本作は直接我が日本が関わってくる。そして、MISというのは情報部隊であるため、二作目の442の実戦部隊のような派手さが少ないかもしれないが、日本軍の兵士と直接関わる点でイメージがしやすい。

 しかし、敵である日本軍兵士をやっつける、とか、実戦での成果を強調するものでは決してなく、ハリウッド映画にあるような、アメリカは正義だ、何ていうプロパガンダの要素はない。その代わり、敵である祖国日本への愛情がいたるところで感じられ、私は正直ほっとした。

 むしろ、当時の日本軍の愚かさ・幼稚さに、分かっていたつもりでも改めて心底驚き、怒りさえ感じてしまう。諜報を軽視し、作戦が筒抜けで海と空で戦うなんて、兵士を捨て駒のように殺しにいくようなものである。

 MISの方々の素晴らしいところは、置かれた立場の悲劇性や優秀さを忘れさせてくれるほど、敵軍兵士に対する愛情を強く感じる点である。日本軍としては、彼らを敵として扱わなければならなかったことに不運が襲ったが、日本人としてはこれは真に幸運だったといえよう。

 顔や言葉が通じるだけでなく、精神や感覚が分かり合える人間性を持ちえた『帰米』部隊に捕虜の尋問を担当させたり、沖縄の地上戦で洞窟へ逃げ隠れている一般民の説得に起用するなど、アメリカ軍はソフトの面でも考え方が優れていた。

 沖縄戦の話しでも、たまたまMISのメンバーに説得されて命を拾った洞窟もあったが、では助からなかった洞窟はなぜ悲劇を迎えなかればいけなかったのか。コミュニケーションがある・ないで命が助かる運命の分かれ目はあまりにも辛い。沖縄戦のことは、戦後の教育で知っている‘つもり’になっていた私も改めて自分の無知を確認した。

 少しはずれるが、日本は沖縄(琉球)を併合し、地上戦で犠牲にし、そして今も米軍基地や不平等条約で沖縄に冷たい歴史を歩んできた。こんなことをし続けていると、本当に沖縄は独立するか、中国の属国になるぞ、という事が冗談話ではすまなくなるかもしれない。
 
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 そして戦争が終わった後のMISの活躍だ。

 白黒はっきりさせるアメリカ文化、対して玉虫色が大好きな日本文化。当然、占領政策にも文化や考え方が影響してくるが、どちらの精神性を兼ね備えているMISのメンバーはまさに戦後日本の占領政策の架け橋となった。

 サンフランシスコ講和条約までたった6年で占領が終わるなんて、ある意味奇跡だが、その背後にはMISの活躍があったから、と思うとは思い上がりであろうか。その後のベトナムやイラク、アフガニスタンの例でも分かるように、占領される側との間に立つ人間がいないとうまくいかないのではないか。

 一方、占領がうまくいったもう一つの要素は、我々日本人が持っていた性(さが)かもしれない。日系人は、明治生まれの1世に育てられ、日本人性というものを受け継いだ。日本人とは何か?と問われて私は即座に答えられない。なぜならば失っているからだ。なぜ失っているのか?それはアメリカ占領後に生まれた世代で多くのものを捨てたからだ。

 おそらく、それらは、宗教観であったり、年上の人を敬ったり、主人を尊敬し、弱者をいたわり・・・・つまり武士道と言われるものも入っていると思うが、MISの方々始め、日系人にはそれが残っている。我々本国の日本人が、逆に彼らから日本人とは何か?を学ぶしか日本人を理解できないのではないか、と思うのである。

 時が経つにすれ、人々の記憶から歴史は遠くなる。一方、外交文書の公表やいろいろな証拠が出てきたりして歴史がより鮮明になる側面もある。そして、時の経過は人の心もほぐし、体験者の重い証言が得られやすくなる。記録映画になるという事で、重い口を開けた方もいるだろう。

 印象に残ったのは、日本の精神を教えてもらった叔父に会いたかったけど、敵国であるアメリカに肉親を殺された叔父に会えなかったばかりか、何も伝えられなかった無念さをようやく吐露した方がいた。その思いは、まるで映画のスクリーンの向こうに現れるであろう我々日本人に向けた、最後の訴えに近いものを感じた。

 新しい事実が出たけれども、漫然と公表されては誰の関心も払われずに静かに埋もれる歴史もあれば、記録や証言を集めて学会やマスコミなどを通じて発信され、注目を集める歴史もある。アメリカの日系人の話は、今では多くの人々があの事実を知るようになったのだが、それは、コツコツと証言を集めて映画化した、すずきじゅんいち監督のおかげであろう。監督がもしこの映画を作らなかったのであれば、日系人の一連の話はこれほどまでに関心を集めなかった。

 私は、監督が第3作目の『MIS (Military Intelligence Service)』 の製作を始めた、と聞いた時、1作、2作目のような、豊富な証言が詰まった内容に仕上げられるのであろうか、と素人ながら心配した。なぜならば、今回の主役たちは、日系二世、三世たちよりもさらに年配で、90歳を超える方々が大変多い。しかし、監督はそんな困難を承知で手がけた。

 そして作品は完成し、封が切られた米国での反響を聞いていた私は最初に思った。『間に合ったんだ。』監督は歴史のギリギリのところでメガホンを取っていたのだ。

 そして今日、鑑賞する機会に恵まれた。作品は、ドキュメンタリーと記録映画作品として質の高い内容に仕上げられ、後世を生きる人間たちへ、遺産としての価値を十分手渡せる内容であった。
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2012年10月31日

『二つの祖国で 日系陸軍情報部』

邦題 『二つの祖国で 日系陸軍情報部』  米題 『MIS (Military Intelligence Service)』
(東京映画祭 TIFF in 日本橋 / ヒューマン・ドキュメンタリー/ 「山路ふみ子賞」の文化功労賞の受賞作品)

http://2012.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=191
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今年も東京映画祭の季節がやってきた。数多くの優良な作品が都内の各映画館で上映され、芸術の秋、文化の秋真っ盛り。そこで、たまには社会性のある作品を鑑賞して、いろいろ感じてみようではないか。そんな作品を観るきっかけを作ってくれるのも映画祭の魅力であろう。

その一つ、『二つの祖国で 日系陸軍情報部』を紹介したい。すずきじゅんいち監督のアメリカ日系人部隊シリーズ第三弾だ。すでに米国にて『MIS (ミリタリーインテリジェンスサービス)』という題で封が切られており、多くの新聞や雑誌がこの映画に関する内容や社会現象の記事にしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111103-00000016-cnn-int
(日系人部隊出身者に米最高勲章に関する記事だったが、削除)
http://www.us-lighthouse.com/specialla/e-587.html
3月18日付 読売新聞ロサンゼルス支社発記事など・・

そして、「山路ふみ子賞」の文化功労賞を受賞した。社会的反響はかなりのものだ。

その日本版の発表が、去る10月24日、東京国際映画祭の作品として日本橋室町の三井コレドホールにて行われた。すずきじゅんいち監督の挨拶から始まり、ちょっぴり硬くなった雰囲気の中、‘監督の監督’の紹介、つまり、奥様の榊原るみさんの登場。プチ独演会??も添えて会場は和やかになったところで、『二つの祖国で・日系陸軍情報部』が上映された。上映後、監督と、ハーバート・ヤナムラさん(元MIS兵士)が登壇、Q&Aも交えて内容の濃い2時間だった。

ここで、 『二つの祖国で 日系陸軍情報部』 のあらすじを紹介する。



 MISとは、かつて日本とアメリカが戦争状態になっていた時、アメリカに籍をもつ日系人で編成された情報部隊の事である。アメリカに籍を持っているとはいえ、彼らの父母や祖父母は日本から渡ってきた日本人移民である。

 特にMISのメンバーは日本滞在経験があり、また日本語が堪能、つまりこの時点では日本人としてのアメリカ人だった。前作2作で扱われた日系二世とは決定的に違うのは、自分の祖先の祖国・日本という国を知っていることである。彼らは‘帰米’とも呼ばれ、日系二世たちとは違うカテゴリーにに分けられた。

 帰米日系人は、日系二世たちよりもはるかに強い祖国愛のため敵国日本を憎む事ができず、かといって忠誠先はアメリカに向けなければいけない。また、日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人としてみられ、外からも内面においても悩みが深かった。その二つの祖国がよりによって交戦状態となり、彼らはもっとも辛い境遇に置かれた。
 
 彼らがアメリカへ忠誠を示すことを証明するには軍隊に入隊する以外、道はなかった。そうした祖国愛と本国への忠誠心という特殊な立場を、アメリカという国家は利用した。

 戦時中、情報戦を軽視していた当時の日本軍は、暗号もずさんで、多くは日本語さえ解れば作戦すら解読されるという有様だった。MIS部隊は、その情報収集任務を任され、山本五十六長官を打ち落とすきっかけを作るなど、その活躍は目覚しかった。また、捕虜となった日本兵を詰問する任務にもあたり、顔カタチが日本人だけでなく、流暢な日本語を話す彼らに、多くの日本兵捕虜は心を開いた。ここでも多くの情報を手に入れるなど、アメリカ軍が対日戦をかなり有利に進める原動力を果たした。

 一方、戦争前に日本に帰国した日系人もいて、彼らの多くは日本軍兵として戦場に狩り出された。太平洋の小さな島で同じ境遇を経たり、場合によっては肉親同士だった日系人たちが同じ戦場で敵味方に分かれて戦っていた事もあった。

 そのような悲劇を経て敗北し、廃墟となった日本。戦後、MISはその後の復興や憲法製作にも携わった他、ソ連への対抗から共産党活動への封じ込めにも活躍し、戦後から続く現代日本の礎を担った。つまり、現代日本の繁栄は彼らの汗も混ざっている事にもなるのだ。

 しかし、彼らがいかにすばらしかったか、いかに優秀だったか、だけに焦点をあてると、この映画を観る上で訴えるものがぼやけてしまうかもしれない。

 彼ら『帰米』や日系二世、三世・・・たちは、明治以前の『日本人性』を思い出させてしまう。明治時代に育った一世がアメリカ本土やハワイに渡り、子供たちを日本の昔ながらのやり方で育てたため、二世や帰米の方は今でも日本人性を持っている。まるで時が止まったように。

 一方、本国の日本人たちは、戦争に負けたことによって、自信を失い、世界観が180度変わった影響も手伝い、あまりにも多くの大和魂が消えてしまった。戦後の日本人は、自ら日本人性を捨てたのであろうか。

 そして、その‘日本人性’とは何であろうか。MIS部隊が捕虜を尋問する時のその こころ、白人と日本人との間にたってコミュニケーションを大事にする配慮、そして日本の叔父に謝意を伝えたかったが果たせなかったその なみだ、いろいろな場面や証言から日本人のこころとは何か、を感じることと思う。

 この映画は、日系人部隊の歴史的事実と心を体験者たちのインタビューと記録映像をまじえてドキュメンタリーとして仕上がっている。しかしその内容は決して重苦しい雰囲気ではなく、明るく、前向きで、そして優しく描かれている。そして功績の誇らしげを強調するものでもない。 まじめな映画を鑑賞する前に、「では楽しんで」と言うと怒られるかもしれないが、映画を観るということは楽しいことだ。何も緊張して神妙になる必要はない。ここであえて言う。

「楽しんで観てください。」

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2012年10月30日

7.泰麺世界の旅(タイ編)タイ国鉄北部線 2 夜より長い夜行列車

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(1からの続き)
 日差しの下の夜行列車
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(森の中に伸びる鉄路)

 改めて言います。私は寝起きの悪さが自身の人生において最大の大損を引き起こしている痛感しており、これは、亡くなった恩師にもかつて言われた事があります。

 そんなことはどうでも良いとして、列車の刻みは夜が明けたようです。遅い目覚めからしばらくボーとし、われに返って下段へ降りる準備をすると、あまりにも蚕だなが狭いため体の方向転換がなかなか出来ません。ようやく足先を金属製のはしごに乗せて下に降りられる感触を得た瞬間、足を踏み外し、無様なカエルのように‘ベタン’と下に転げ落ちてしまうではありませんか。上段はやっぱり若くなければ大変です。
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(二段寝台の細いはしご)

 通路はまだ静かな時間が流れていて、下段の酔っ払いはまだ眠っているため窓の外が観られません。仕方なくドアの方まで歩くと、揺れで通路上に転がった荷物につまずき、また“ベタン”。ここでまた体を痛めます。やれやれ・・・

 ドアは思った通り開放されています。首を出し、斬る風に身を投げ出すようにして外を眺めると、列車はどうやら森の中を走っているようです。ここがチェンマイからどのくらいの地点なのかさっぱり分かりませんが、辺りに人家も道路もない山の中をひた走っているだけです。列車にとっては昨晩から続いている劇場の一環ですが、私にとっては目覚めたばかりの第一回シーンですのでとても新鮮です。ここでトラでも出てきたらなお面白いでしょう。
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(外の空気が気持ちいい)
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(ドアは開放)
 ひとつ思ったのですが、タイの線路の周りはごみがそれ程ありません。それはミャンマーの線路際を比較してから思ったことですが、かの国ではまだまだ衛生概念が未熟のため、ポイポイ窓からゴミを放り投げる習慣が根強いです。一方、タイではそんな事はあまり無いようで、ここらが成熟国家とそうでない国との境目の一つの目安である、と確信しています。

 このタイ国鉄(State Railway of Thailand 《SRT》)北部線(Northern Line)は、1897年3月26日にバンコク - アユタヤ駅間が開業したのが始まりで、同時にタイの鉄道の出発点でもあります。その後25年かけてチェンマイまで開業させました。現在はレール幅(軌間)1,000mm、タイ国鉄において最も重要な幹線として位置付けられていますが、競合するバスや飛行機より相当所要時間が長いことから、地元客からはあまり人気がない、と聞きます。

 さあ、レストランカーに行きましょう。そこでは、タイの“フワ〜ン”とした、おちょくっているような演歌調のポップミュージックを爆音で奏でているところです。その中で鉄道警察官たちが暇そうに椅子に‘ドテン’と居座って、ひまわりの種を口に運びながら、何やら同僚たちと世間話で盛り上がっています。このやる気のない適当ワールドが私は好きです。
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(食堂車の世界)
 ミャンマーでは、どうしようもない不良少年・中年たちが鉄道員も交えてトランプ遊びに興じて盛り上がっているところに、鉄道保安警察官が現れて、厳ついカオで一喝していたのを思い出すと、全然国情が違いますね。

 メニューはそれほど種類はありません。そこで、ありきたりなおかゆとコーヒーセット100バーツ(約270円)を注文すると、意外とナミナミお椀に入った朝食がドン!と出てくるのです。100バーツはタイの一般的な物価感覚からするとかなり高級な食事ですが、ここは食堂車、まあ許せましょう。
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(けっこうタップタップにおかゆが)
 しかし、寝台車でしつこいボーイにビールを一本仕方なく注文すると、なんと150バーツもするんです。これは許せません。私は駅の売り子以外で金輪際列車内でボーイに物を注文しないことを誓います。

 さて、発車から約11時間、列車はデン・チャイ(Den Chai)という駅に到着します。さすがに一晩かけて走ったのでけっこうな距離を走り、地図上だとチェンマイまであと一息のように感じます。しかし、ここからは峠道の連続で、川に沿いながらエッちらおっちら蛇行しながら進むのでちっとも先に進みません。先進国のように長いトンネルでズドン!と突き抜けるような芸当はまだ出来ず、列車はまだまだかなりの時間をかからせる余韻を与えてくれます。
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(長いトンネルにズドン!)
 茶色い川はやがてか細くなり、ついには森の中で潰えます。するとタイ国鉄最長トンネル、クンターントンネル (全長1352.10m)が現れ、そしてトンネルを出れば峠の駅、クンターン(Khun Tan)駅に到達します。ここはタイ国鉄の中で最も標高の高い駅で、標高578m地点にある、小さな小さな山の中の駅です。ここからは下り坂の連続で、バリバリ音をたてながら勢い欲突っ走ります。
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(標高を伝える駅名版)
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(峠の駅)

 ところで、寝台車の様子ですが、さすがに昼の11時を過ぎた頃になると、下段の人間たちもカーテンを開けて活動をしています。すると、若干のタイ人を除いて外国人観光客ばかりではありませんか。それも中国人と欧米系で比率は二分されています。日本では決してみられない光景でしょう。
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(外をじっと眺めているファラン《ガイジン》)
 車内の写真を撮っていると、ある二人組みの女性中国人旅行者から声を掛けられます。英語で返答したらあちらサンは事情が分かったようで、すぐに英語で返してくれます。どうやら私は他の中国人乗客と様子が違うので、何人か、と言いあてっこしていたようです。

 すると、流暢な日本語で話をしてくるではありませんか。彼女は中国・深圳市で日本企業で通訳で働いているとの事で、身に着けている腕時計や携帯電話、カメラを見るとかなりお金持ちのようです。彼女によると、今、中国では外国旅行がかなりのステータスのようで、タイはその行き先として最もポピュラーとの事。

 この旅では日本語が出来る外国人とけっこう出会ってきましたが、それに対して私は日本語と英語しか出来ません。この差は何なんでしょうか。相手の母国語が一切出来ないなんてちょっと寂しいものですね。

 それにしても日本語が出来るセクシーすぎる彼女のその服装はどうでしょうか。もう薄着そのもので 、男である私をムラムラさせます。タイ人と比べて自由奔放で活動的で、中国人、恐るべき、とつい思ってしまいます。私は富裕層の中国の人と結婚する、という選択肢がもし自分のところに転がってきたら、喜んでさせてもらいたい、と勝手な妄想につい苦しんでしまいました。
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(美しい中国人)
 夜行列車は時刻表上より約2時間半遅れています。太陽は昼を通り越して午後を指し、本当ならばこの辺りでチェンマイに着いているはずですが、まだ列車はナコーン・ランパン(Nakhon Lampang)という町に着いたところです。ここで何輌か切り離し、少し身軽になったところで最後の峠道をゆきます。
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(お釈迦様、仏様は駅にも集う)
 16時が近くなった頃、ついに待望のチェンマイ到着の知らせが車掌より伝えられると、中国人たちは喜び歓喜し、デッキのステップで座りながらボ〜と流れる景色を眺めていた欧米人たちは荷造りに勤しみ始めます。

 15時50分、列車は751.42kmを走りぬき、定刻よりも2時間半ほど遅れてチェンマイ(Chiang Mai)に到達します。チェンマイの町は列車からは分からず、田舎風景からいきなり町が現れた感じで、チェンマイ駅も三つの行き止まりホームがこじんまりあるだけの小さな駅です。バンコクより17時間の旅の終点にしてはちょっとあっけない感じはする終着駅でしょうかね。

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(チャンマイ駅到着)
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2012年10月28日

6.泰麺世界の旅(タイ編) タイ国鉄北部線 1 寝静まった列車

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 胴長足短、メガネにやや髪長の私は、どうやら壱っ発で日本人と分かる風貌をし、車内にいるアジア人たちを差し置いて私だけがご指名を受けます。

「ハロ〜オウ、ないすみーちゅう。ミー、ナゴヤ、タジミ、セト、オオズ、ビジネスビジネス、ジュライー ゴー、ジャパン グッド!」

 傾いたテーブルの上に、タイの大衆ビール『シンハー』の空き缶をいくつも並べながら、黒ぶちメガネ男は上機嫌に私と壊れた会話を楽しんでいます。これはタイの夜行列車のありきたりな一風景、ミャンマーと同じようにこの国でも私を一人にさせてはこれないようです。
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 今の日本の鉄道旅においてはあまり目にしなくなったこんな光景も、世界列車の旅にはまだあります。そして物語もあります。見知らぬ者同士の自然な語らいが滑らかに集う人間臭さを感じる旅が、私はとても大好きです。

 今、私はタイ国鉄の夜行列車に乗って北部の都市、チェンマイ(Chiang Mai)に向かおうとしています。そのチェンマイはバンコクより約751km、一般的な急行列車で約15時間かかりますが、さらに雨季である今の季節はあまり時刻表どおりに走ってくれることは期待せず、遅れてもマイペーンライ(ノープロブレム)思考が必要になるでしょう。

 バンコク側始発駅のバンコク・フアランポーン(Hualamphong)駅はただ、『Bangkok』としか案内されていないものが多いですが、そのフアランポーンは、タイの田舎の人々の多くが『 กรุงเทพฯ (クルンテープ)』と呼んでいるそうです。そのバンコク中央駅は、なかなかの威厳があり、欧米式のドーム型ターミナル駅に、ディーゼルの煤を巻き上げながら到着する機関車のとどろきは血をみなぎらせます。そうです。タイは鉄道王国なのです。
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(バンコク・フアランポーン(Hualamphong)駅)

 タイの鉄道は、周辺の国々と比べてかなり整ってきている、と断言できます。ミャンマーの列車を体験した後なので相当深くそれを感じてしまうのは仕方がないでしょう。例えば、寝台車には冷房が効いている車輌もあり、食堂車ではテレビ、清潔なトイレには洗面所もあるなど、色々な面が隣国とは違いすぎます。私にとってタイの列車はかなり快適な空間なのです。
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 ここまで書くとまるで先進国の鉄道のような趣きを想像するかもしれませんが、設備面で誉めるのは オッとここまで。あとは期待通りの東南アジアの鉄道のノリ があちらこちらに転がっていて、走っている最中に勝手にドアをこじ開けて写真を撮ろうとしてもお叱りは受けません。さすがです。
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 この、中途半端な先進国っぷりと、隠し切れない発展途上国ぶり、そしてわが道をゆく東南アジアの適当っぷりが、また、私をとりこにさせてくれるのです。それが私にとってのタイ王国。

 さあ、バンコク・フアランポーン(Hualamphong)中央駅を23時半ごろにノコノコと出発した急行列車は、やる気なさそうにネオンが遠くに光るバンコク市内をトロトロ走ります。
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(闇を北へゆく列車)
 
 実は時刻表の上では22時発でしたが、出発の段階ですでにもう1時間半ほど遅れている計算になります。どうして遅れているのか分かりませんが、おそらく雨の影響でしょう。

 タイの夜行列車の多くは、昼間に着いた車輌の折り返しで使用することが多いので、昼の段階で遅れて到着したら、後のスケジュールに影響を及ぼすというわけです。そんな案内を中央駅の案内放送はしていたかもしれません。しかしながら、駅のタイ人の英語は本当に何言っているのか分からなかったため、遅れの原因を知るには翌日になってのことでした。

 散々待った末、ようやく列車が現れます。その列車は、機関車を先頭にして15両のくたびれた客車を引き連れています。そのうち前2輌は荷物車と乗務員用車輌、
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5輌は三等車、

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5輌は二等車、

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1輌は食堂車、

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そして2輌は二等寝台車という内訳で、

寝台車も空調『あり/なし』で別れています。暑い季節は空調ありの車輌が断然良いかもしれませんが、それ以外の季節だとエアコンが効きすぎて逆にブルブル寒気がしてしまうほどサービス満点を通り過ぎる地獄を見る可能性もあるので、一概にエアコン車輌がグッド!というわけでもないのです。私は以前、マレーシアからタイへ鉄道で通した時、まさにその体験をしたので、若干エアコンの恐怖があります。

 しかし、今回はそれほど冷蔵庫ではないですね。これは助かりました。おかげで十分快適な睡眠をとることができ、よって、おそらく翌日の撮影の準備は問題なし!です(コンパクトカメラですが)。

 ベッドは線路と並行して二段の蚕だなのように通路を挟んで並んでいて、ミャンマーのようなコンパートメント部屋ではないのでプライバシーの“プ”の字もありません。屁をしようが、パンツ一丁になろうが、個人の自由ですが、みんなに筒抜けであることを添えて記しておきます。

 それでも、西洋人なんか堂々と着替える者もいたりしますね。そして車内の秩序はいたってよく、夜中の2時あたりに差し掛かれば皆お利口さんに寝静まり、両側の寝台ベッドは見事なくらいに両側をカーテンの幕がびっしり仕切られている、ナイトバザール閉店のような光景なんです。そんなのを観ると、なんだか面白く感じます。
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 翌朝、蚕だなの上段でスヤスヤ眠っていた私はようやく遅い目覚めが始まります。実は夜明けと陽の出の様子を写真に収めたかったのですが、叶いませんでした。私はこの寝起きの悪さがとても人生において最大の大損を引き起こしていると認識していて、かつて亡くなった恩師にもこれを言われた事があります。

 さあ、遅まきながら昼の列車を楽しみましょう。
(つづく)

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2012年10月26日

5.泰麺世界の旅 ミャンマーの悩み

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引き続きミャンマーです。

旅行者としての立場から見るとそれほどこの国の悩みなど感じませんが、いろいろとマャンマー人の話を聞いているとなかなか難しい問題もあるようです。

 街を歩くと、意外と多くの大陸漢字を掲げた店や企業の看板が目に付きます。広告や車に描かれているロゴなどもそうです。ミャンマーは今、過熱していると言っていいほど経済が熱いです。そうした経済の発展の裏には、やはり中国の影があり、金持ちの多くは中華系マャンマー人、もしくは中国人たちです。華僑ではありません。

 私は、シェアタクシーで中華系マャンマー人と一緒になりましたが、彼らの身なりや持っている携帯電話の様子から、一般のマャンマー人とは違う印象を受けました。たまたま私と一緒だった彼らはみな良い方々ばかりだったので、悪い印象はありませんが、多くのマャンマー人にとっては、中国は巨大過ぎて恐怖の念を抱いているようです。長年の対中接近政策により、街には大陸漢字が溢れ、ナイトクラブは毒々しい中国の匂いや余韻が伝わってきます。

 こうした中国依存に危機感を持ち始めたのでしょうか。政府はようやく重い腰をあげ、中国よるダム建設の問題をきっかけに西側に接近する外交政策に転換しました。今の国のリーダーである'テ イン・セイン(Thein Sein)'はけっこう人々に支持されています。
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 (テ イン・セイン《Thein Sein》ミャンマー連邦共和国大統領、BBCWORLDニュースより)

 しかし何と言ってもアウンサン・スーチー(Aung San Suu Kyi)さんでしょう。彼女は今は野党のリーダーにすぎないながらも、アメリカやヨーロッパへ精力的に足を運んでは自ら発信し、明瞭な英語力も助けて、欧米社会では大人気です。もはや実質的な外務大臣でしょう。彼女の影響力はすさまじく、これから多くの西側企業がマャンマーを目指すでしょう。

 しかし、あまりにも中国傀儡軍事政権の時代が長かったために、もはや脱中国は不可能に近い状況です。おそらく、前政権は中国からたくさんの利益を得ていた為に国の行く先を誤らせたのでしょう。マャンマー人の祖先はチベットから流れてきた人々です。チベットの惨状を親類縁者などから聞いているマャンマー人は、ようやく気づいたようです。

 これは日本も他人事ではないような気もします。中国政府のやり方はあまりにも悪意がはびこり、気がつけば・・・という事も日本だってありえます。たまたま日本は島国であり、経済力があってアメリカの後ろ盾があったからこそ、AKBで騒いでいられるのです。

 マャンマーにおいては日本の影はあまりありませんが、街を走る日本語ロゴ入りの中古車や鉄道車輌、電化製品、などの影響で日本に接する機会が増え、そして日本語を学びたいと思うマャンマー人の増加や歴史的なことも影響し、対日感情はかなり良いように見えます。
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(ヤンゴン近郊を走る日本製中古気動車《ヤンゴン中央駅にて》)
 
 マャンマー人は仏教を敬愛し、国民性も日本と似ておとなしく、伝わるものに常に何か共感を見つけられる、そんな安心を与えてくれます。日本は、ピンチになったら味方してくれる友邦がありません。これからの日本は、アジアの信用できる友好国作りこそ重要なのではないでしょうか。

 先進国人にありがちな、ちょっと上から目線を直し、同じ視線で対等に接する事が大切で、それが出来る数少ない先進国は日本人だと、列車の窓の外に浮かぶ月を眺めながら想ってしまいました。
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2012年10月15日

4.泰麺世界の旅  ミャンマー旅の暖かい記憶

 まだ旅行は終わっていないけど、一応思ったことをツラツラって書いてみます。
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 久し振りの海外は、おおいなる♪刺激を与えてくれました。勝手が分かる国内旅行とは違い、良きも悪くも自分に生命力を与えてくれて、眠っていた探究心、好奇心を復活させてくれたように感じます。まだまだ私もいろいろと足が元気なようです。
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 今回のメインステージであるマャンマーは、思いも寄らなかった出会いや出来事が毎日のように散乱 し、旅の日々の夢の眠りの中を泳いでいるようでした。これらは、年がら年中、あちこちと旅行していては養えない鋭い感受と発想の力を発掘させられた感じです。

 この国を旅していると、次からつぎへと現地の人たちが話しかけてきます。特に独りでになった時、例えば列車に乗ってぼんやり過ごしていると、彼らは何を考えているのか、私を放ってはおいてはくれません。時には少しうっとうしくも感じるけ時もあるけど、冷静になって彼らの表情を観ると驚くほど眼が純粋なんですね。嘘はつかないし、あまり悪巧みを交わさない。物は盗まないし、礼儀正しい。こういった面でのおかげで私はとても快適に旅ができました。
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 実は私は、在ミャンマー時間の多くを欧米系のバックパッカー(長期旅行者)たちと行動を共にしました。なぜならば、同じ旅の話や国際情勢に興味を持っているなど会話の波長が合うし、英語が通じるなど。だから意外と居心地がよかったからでしょうね。思ったのは、欧米系の若い女性パッカーの方々は、ため息が出るほど活動的であり、そして自己主張が強い。それがちょっと疲れさせる時がある反面、そう感じた時は独自の交通手段を使うと決め、行動に起こします。すると、彼女たちが私の後を追うようについてくる事に少しおかしく思いました(笑)。
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 ところで、地元のマャンマー人たちは、こうした外国人旅行者一向に出会うと、かなり意識しながらアプローチしてきます。自分の英語を試したい者、異文化と触れ合いたい者、単にものめずらしさから、などなど。様子を観ていると、やはり眼が青い人たちよりも、同じアジア人の顔をした私の方が近づきやすいのですかね。心なしか、欧米系には一線を引いているように見えましたが気のせいでしょうか。

 一方、マャンマーで困った事もありました。まずは衛生面、蚊の問題、そしてタクシーやシェアバスなどいちいち値段交渉しなければいけない、などなど、シチ面倒な事は多かったような気がします。また、意外とアルファベット併記が少なく、あの丸っこい、地元のマャンマー文字のみの看板や表記が多く、買い物や食べ物の注文に苦労しました。食に関してはあまり“はずれ'はなかったのが幸いでしたが、タイと違って衛生面では不安があり、路上の屋台の飯は、耐性のない日本人は危険でしょうね。犠牲者(死んだという意ではない)を何人かから聞いています。
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 ミャンマーを旅するにあたっての注意点は、外国人は行動が制限される事です。好き勝手にマャンマー全土を訪問できるわけではなく、入れない州もあります。なぜならば、まだ中央政府が完全に支配しきっていないからです。そして、鉄道などの政府系の乗り物は、USドルしか受け付けてくれません。宿も政府指定のホテルなどは基本ドル払いですので、ある程度アメリカドルを持って歩かねばなりません。

 日本円の両替は難しいです。路上での闇両替もあるにはありますが、騙される確率大!と聞いていたので利用はしませんでしたが、例外的にヤンゴンの、とある両替屋で、10000円=105000チャット(K)で交換してくれました。ドルベースだと、100$=86000チャットですので、円建てだとあまり率はよくありませんが、これでも、円→ドル→チャット、と間接両替するよりは良いでしょうね。ちなみに、食堂で腹一杯ご馳走を食べたら、4000チャット(約400円)、タクシーヤンゴン市内3km 程度が2000チャットくらい、ヤンゴンの安宿シングルが、13ドル、ヤンゴン〜マンダレー間の寝台利用で33ドルでした。タイに比べて物によっては安いですが、旅行者物価はタイよりも高いでしょう。

 つまり、それだけ物価高とインフレが激しく、人々の生活はかなり苦しい、とのこと。ここ一年でマャンマーはかなり変わりました。国を西側に開け、資本を誘致し始めたばかりですので、街を歩いていてもかなり経済の過熱を感じます。

 しかし、いろいろとマャンマー人の話を聞いているとなかなか難しい問題もあるようです。
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 (次へ続く)
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2012年10月12日

3.泰麺世界の旅 明けない夜

 バンコク時間朝4時半、次なる国への期待よりも、「今日はいったいどうなるのであろうか」という鋭い不安ばかりが濃くなっていた記憶がある。

 洗練されたバンコク国際空港から飛びたった飛行機は、雲の中へ突入し、しばらくみなかった太陽の光線が天井界を照らしている。小さな窓の向こうはそんな軽やかな風景が広がりはじめた。この雲の白色、そして青い宇宙は先進国だろうか後進国だろうが、熱帯だろうが寒帯だろうが同じであることになぜ今まで気付かなかったのであろうか。

 バンコクから約1時間半、飛行機はヤンゴン国際空港に到着した。バンコクのそれと比べて熱帯の木々が滑走路周辺を取り囲む、田舎っぽい雰囲気をかもし出していて、それがいっそうこの国のうっそうとした情勢のイメージを増殖させていた。
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 ところが入ってみると、空港の入管や税関の係官は拍子抜けするほど暖かく、検査も全く厳しくなかった。おまけに空港の両替レートも悪くはない。ただし、この国は日本円からの両替は極めて難しく、USドルかユーロ、シンガポールドルしか受け付けてくれない。第一、1ドル≒859K(チャット)ていったいいくらなんだ、と思いながら90ドルを両替したら、意外数が多い5000チャット札にドカンと変身してくるではないか。第一、これがどのくらいの価値なのであろうか、と思いながら、札を15枚ほど数えていた。
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 初めての国は恐怖と好奇心の狭間で心を躍らせてくれる。街に出れば雰囲気や匂いから始まり、文字、話し言葉、お金、看板、信号機、人々の服装、車の形、バスの混雑度、道路の凹凸の具合、店先の様子・・・何から何までため息が出るほど戸惑いの塊が飛び出してきた。しかし、あっちに驚き、こっちに驚き、といった、若いころの感受性はあまりなく、そんな心を放棄してしまった自分が少し悲しくなった。

 そういう事で、ただいま、ミャンマー連邦の旧首都ヤンゴンにいる。
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 ところで、私が感じているその匂い、つまり余韻とは、かつて、十数年前だたっけな、カンボジアで感じたサバイバルな感触に似ているような気がする。見るもの映るものみな激しく、新鮮で、そして鼻にくる強い匂いをいつも感じている。例えば、どぶ臭い路上ででんぐり返しをするもの、駅の切符売り場が野良犬の集団で占拠されていること、屋台の飯が怖くて食べられないこと、煤だらけのタクシーの運ちゃんがどうにも信用できない・・・など、必ず‘匂い’がある。そしてその匂いたちは、私に生存をかけた旅をしている錯覚に久しぶりに陥らせるのだが、ただ、自分でも意外だと思ったのは、思いのほかうろたえることなく淡々と行動を起こしていることだった。

 その生存本能が最高潮に達したのは、昨夜のナイトクラブでの出来事だった。 少し詳細を話そう。いや、話さずに居られない。

 空港で知り合った日本人が、一人のミャンマー人を連れてきた。旅行エージェントに所属しているという彼の名は『ココ』というらしい。彼はごく普通のミャンマー人だが、英語が非常に堪能な男のようで、こういった輩で信用できるかできないかの分岐点は彼の眼である。それだけで判断できるかどうかは謎だが、そのあまり綺麗とは言えない目をみて、100パーセントとはいかないまでも彼にいろいろ教わることを決心した。
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 そんなわけで、彼の導きによりみんなで前のめりになって夜の遊びに繰り出した。初めての国でそれも初日の夜に危険度マックスの夜総会とは私も落ちたものである。私たちを乗せた車はヤンゴン市街のはずれの闇の住宅地の一角に足を留め、あれよあれよという間に、怪しい簡略漢字が掲げられている`とあるクラヴに吸い込まれた。
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 そのクラヴ、いやディスコはそのすさまじい音響と振動で来る者を惑わせ、なんだかいやらしくて危険な魔力を思いっきり拡散させていた。

 どうやら中国系の店らしく、ぼったくり100パーセントの按摩も兼ねそろえている、どうにもこうにも怪しい感満点の毒華があちこちに咲き乱れ、私は心の中でうろたえるしかなかった。ミャンマーはつい最近まで中国べったりの外交方針だったので、裏社会は完全に中国系が支配してしまっている。ミャンマー人にとって‘悪は中国から‘というのが概念にあり、これに危機感を持った現政権が急に西側へすり寄りの方針転換をしたのはそうした背景も一つにあるのだ、と後で聞いたミャンマー人は言っていた。

 さあ、夜10時から始まったディスコは、厳つい軍政の警察官の監視の下、まずは綺麗なお姉さん方たちによるファッションショーから繰り広げられ、どうにも血脈を上げさせてくれる薄着の赤いドレスのお姉さま方がステージでアピールしている。これは彼女たちの衣装を強調しているのではない事だけは私にも察しがついてしまい、そんな彼女たちを眺めていたら、この音響がやがて遠くに響くような妄想のお花畑に誘われてしまっていた。

 すると、私が日本人ということがどうもバレバレのようで、あちこちから女の子たちがスリ擦り寄ってくる。日本人は人気者のようで、忙しいったらありゃしない。基本的には私から声を掛けることが礼儀のようなのだが、ウインクや視線を生暖かく飛ばしながら、なかなかアピール力を誇示してくることに私もたじたじだった。
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 しかし、ミャンマーの物価は下手をするとタイより高い。その高さにがっかりの私だが、ここ女の子の相場も同様だ。男という生き物は悲しいものである。毒の蜜に誘われては今までどのくらいの日本人男が夜の餌になっていったことやら。

 時計は日付をまたいで1時...2時と回ってゆく。あれだけいたお姉ちゃんも次第に姿が少なくなり、もう、けっこう商談が成立したのであろうか。残っているお姉さまは次第に焦りが見え始めてきた。

 一方、私は一杯150円ほどのビールをチビチビ飲みながらこの雰囲気に酔っていた。もう疲れてしまい、ダレ てきた頃、一人の女が私の隣に座った。隣の椅子に座ることなど珍しくないのだが、彼女のは、いきなり私の頬の頭をつけ、乏しい英語で私を誘っては、瞳の力で私を彼女の蜜でがんじがらめにしてゆく。

 こうして気がついてみれば私はこの女の子と戯れるようになり、酔いに任せて記憶も放り出してしまっていた。
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 こうして長い夢の後、ついにディスコが閉まる時間となった。

 音響が一斉に静まり返り、大勢の人間たちが外に繰り出しはじめたその時、すると、私を誘った自称旅行エージェントのミャンマー人‘ココ’のところに7,8人の男たちが押しかけては何やら揉め事が始まった。現地語でエキサイティングしてゆく彼らが、何が原因で口論になっているのか私にはさっぱりわからない。

 そこに、別件であちらの方から鋭い声が発せられ、たちまち暴力沙汰の乱闘が向こうで始まった。そんな危険きわまるエキサイティングな雰囲気に呑まれたのか、こちらも悪の余韻がモンモンと垂れ込み、ついには喧嘩相手のタクシー運転手たちが棍棒や車修理用のバーを掲げては「殺すぞ!」ときた。これはまずい状況だ。本当にまずい。

 われわれは何でもいいからここから立ち去るべく1台のタクシーに無理やり押し込み、お姉ちゃんを含め6人を乗せた車は猛烈な急発進をして街中へ向かって逃げるように、いや、実際逃げているのだが、その場を去った。

 ココはタクシーの中でも興奮している。いったい何が起こったのか、場所を街中の食堂に変えて話を聞いてみることにした。

 朝4時、開いたばかりのその食堂では、クラヴでの怪しい雰囲気など知る由もなく店の従業員が煮込みのスープに夢中にっていた。そんな落ち着いた環境なのに、ココの興奮した声があたりを一気に鋭くするばかりだ。そこで、私は落ち着きを取り戻すため、全員に一杯のコーヒーをごちそうした。

 事情が少しわかってきた。どうやら、私と仲良くなったこの女が、実はクラヴのボスのお気に入りの娘だそうで、手下のタクシー運転手たちがココに殴りかかるようにして鬼の血相をしていたのは、
「彼女の要求を少しでも拒んでみろ。お前は生きては出国させないからな!」
という内容だったらしい。おまえとは、私のことである。それを聞いて私は血が引いてゆくように青ざめた。

 ココは、
「おれはただ通訳をしただけだ。何で俺がこんな目にこんな目にあわなければいけないのか!でも悪いのはあなたではない。でも、今後のあなたのことが心配だ」

 女は私の隣にまだいる。さて、いったい私はどうするべきなのか。長い一日の明けない夜はまだ続く。
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posted by kazunn2005 at 14:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅行