2012年12月31日

今年もありがとうございました

今年も一年ありがとうございました。

このプログに偶然訪問してくださった方々、わずかな読者ですが、大変貴重です。心から感謝申し上げます。

次はいつ旅が出られるか分かりませんが、厳しい日本でずっと監獄のように生きていくのも限界があるでしょう。きっとまたこのプログの更新で皆様とお会いできると思っております。

では、良いお年を。

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2012年12月25日

最後の汽笛街道 (最終回:最後のフロンティア 12 ミャンマー編)

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 2012年9月のミャンマーの風は温かかった。

 訪れる前は、軍事政権やら、北部カレン州の虐殺のような少数民族との衝突イメージがどんよりと暗くのしかかっていたが、いざ上陸してしまうとあっけなくそれらは消えうせた。

 確かに、今なお軍事政権だが、つい2、3年前に行った人のミャンマー観とは全く違う触り心地でこの国を観させてもらった。ヤンゴンで出会ったミャンマー好きの旅行者から聞くと、この国は2010年から急速に変化してきた、という。

 今、日本人がミャンマーを訪れる事はさほど難しくはない。東京か、バンコクで意外とあっけない手続きでビザさえ手に入れれば、堂々とバンコクから一日数往復ある飛行機に乗ることが出来、そのノリで旧首都ヤンゴンに到着すれば、もちろん難なく旅が続けられる。ただ、タクシーは料金をいちいち交渉しなければいけないので、空港から少々面倒を感じるかもしれない。

 さて、そのタクシーに乗れば、バンコクからの携帯の電波は少しも入らないのを確かめるや否や、外界からの‘隔離’も期待できよう。一方、高級ホテルではWI-FIサービスが届き始め、ここもやがて‘普通の国’になりつつある予感を与えてくれるだろう。10年もしないうちにこの国は、外国と電話&インターネット網に塗りつぶされることだろう。

 改めて、あのミャンマーの旅から早3ヶ月が過ぎようとしている。アウンサン・スーチー女史があちこちで話題を振りまき、最高指導者、テ・イン・セイン大統領が始めてアメリカを訪問し、そして逆にオバマ米大統領がミャンマーを訪問するなど、あまりにも急角度で密接な西側外交に舵をきっており、ミャンマーという国名がマスコミに踊ることがとても多くなった。

 まさに今、世界はこのアジア最後の未開の地となったミャンマーに熱い視線をそそいでいる。この国が近い将来、少数民族との対立が和らぎ、タイやインド、西側諸国と交流が深まれば、きっと陸上の国境も開き、東南アジア経由でヨーロッパから日本の対岸である上海あたりまで陸路で横断できる日がくるであろう。

 しかし、その頃には素朴で垢抜けていない今のミャンマーがあるであろうか。紀行文でジャンピングトレインと揶揄してミャンマーの列車の劣悪さを愚痴りはしたが、旅という心のへ窓から観ればこれほど面白いものはなく、後で振り返って、『古きよき開発前のミャンマー』として思い出されるのであろうか。あの心地よい劣悪さは、滲んだカラー写真のように過去の記憶としてすぐに始末されるかもしれない。

 あの人々はあまりにも勤勉であるがゆえに、まさに‘今’だけを追い求めて無我夢中なため、気持ちよいほど素直な心と顔の艶を置き忘れてしまうのではないか、と内心勝手な心配をしてしまっている。思い出せば、街でよく出会ったぼったくりや、両替商の詐欺などは‘悪’のレベルとはほど遠く、実は歯から笑いすら出てくるのだ。しかし、夜の街では、中国の影があるので、その悪のどぎつさは計り知れないが。

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(日本語学校の教室[マンダレーの『富士山』日本語学校にて])

 ミャンマーがなぜ今までのような中華帝国から離れ、いきなり西側とのお付き合いに急にハンドルをきったのか。それはいろいろな人が述べているのでここで詳しく演説はしないが、どんなに国内の少数民族同士が果てしないいざこざを続けようが、やはりこの国は平和を求めているのだ。これからも中国とべったりであれば、富は吸い上げられ、その代わりに武器が流入し、自分たちの祖先のふるさとであるチベットのようになるのが怖かったからかもしれない。ミャンマーは気づくのが遅かったが、ようやく行動におこした。

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 さて、一連のミャンマーの鉄道旅であるが、ここで終わりにさせていただく。都合、11泊12日、1国を周るにはあまりにも時間がなかった。ご存知の通り、ミャンマー鉄道では、外国人が乗れる路線は制限がかけられている。旅のガイドブック『地球の歩き方(ダイヤモンド・ビック社)』に乗車可能路線が載っているので参照してほしいが、今回、最新版として全路線ではないが自分で時刻を調べたので参考にしてほしい。

 いろいろと他にも行きたかった。特に南部方面の路線が乗りたかった。そちらの方は今回は足を踏み入れていないため、どんな景色が展開されるか全くわからないが、今回は空想旅行にとどめ、その手がかりとして、一応、列車の運行予定表と運賃を調べたので、いかに列挙しておく。

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※ミャンマーの一大幹線、ヤンゴン〜マンダレー線
 
 図Yangon-Nayoyitaw-Mandalay線 .jpg
 ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_1.jpg 
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※南部方面、アンダマン海沿いの路線
 
 図Dawel port線.jpg
 ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_2.jpg
 
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※(その他路線)
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A
Mandalay- Lashio.jpg
B
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C
図Yangon-Pyay線.jpg
 
ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_3.jpg

※2012年9月現在、筆者調べ

ミャンマー国鉄 ヤンゴン−マンダレー(2012).jpg   

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※ ミャンマーの鉄道は設備が古く、快適とは言いがたいが、快適を求める人がミャンマーを旅することはない、と信じる。そして鉄道好きは、本数が1日一本だろうが、バスの何倍の運賃を取られようが、それらの苦難を乗り越えて乗車するものとさらに信じる。汽車の味がいっそう濃くクリーミーに感じるであろう。

 何よりも、レールの上で疾駆している間だけ、あなたはどこの世界にも属さず、はるか遠い異国に地の雲の下で、インターネットとも繋がらず、バスのように運ちゃんの機嫌を気にせず、本当の意味での自由と解放を感じることができるだろう。そして、列車が終点になれば、また現実へと旅立ってゆくのだ。

(おわり)

修正.1996.3.02 島原鉄道 島原外港〜諫早 (5).jpg


次の旅はあるのであろうか・・・

http://www.kitekikaido.com/
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2012年12月18日

天空の軌道 (最後のフロンティア 11 ミャンマー編)

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 ミャンマー北部のこの地では、中国とのいざこざが近年になって急増してきました。どこの民族も、あの国家へ抱く感情は同じのようです。では、最終段階になった紀行話に・・・

(10からの続き・・・そして ナウンペンから約1時間、今日のスーパーカット、ゴッティー橋(Gokteik Viaduct)が眼の前に現れる。)

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(ラーショ線地図)

 巨龍の鉄骨が天を架けるゴッティー橋(Gokteik Viaduct)は、この鉄道旅の最大のターゲットでもあり、見せ場である。またあの谷が目の前に迫ってきたわけだ。

 思い出せば、車の道路旅で散々苦しんだ大崖のような谷は、紙に描かれる地震波のようなつづら折りで克服した。その谷が今度は今ゆくレールの先でまた迫ってくるのだが、道路橋の川幅よりもずっと広く、そして渓谷が峡谷になっている。列車は車よりも勾配に弱い。小回りが利かないためどうやってあの谷を越えるのであろうか。

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(一瞬姿を現したゴッティー橋の遠景)

 進行方向左手に、草陰の向こうにチラッと巨橋が一瞬姿を現した。そう、どうやら一挙に橋でぶち抜けるようだ。橋が観えたかと思うと、また草むらにもぐり、眼下にループの軌道を一瞬見つけては、急坂を斜め降りて蚊取り線香の形ように線形をクネクネ辿りながらトンネルを交えておりてゆく。

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(ゴッティー橋手前のループ状の線形)

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(橋が現れるのを待つ少女)

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(トンネルを出ると・・・)

 そしてもうこれ以上は無理!というところでそあのゴッティー橋が登場する。日本の餘部鉄橋を‘さらに倍’にした感じの大橋梁が、グランドキャニオンのような大峡谷をドーンと跨いでいるのだ。

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(ゴッティー橋(Gokteik Viaduct))

 この大鉄橋は、当時の支配国、イギリスが1901年に建設した(工期は9ヶ月間)。施工はアメリカの会社、『Pennsylvania and Maryland Bridge Construction社』が建設し、鉄はアメリカはペンシルバニア鉄工所から調達した。開業時は、当時の大英帝国の領土の中で最も高さが高い橋だった。その後、1950年に補修されたが、1990年に時のビルマ政府によって第二次補修工事が施され、とりあえず、放棄する意思はない姿勢を示している。橋の全長は689m、一番深い水の流れまでは高さ102m、14の橋脚塔に1つの二重塔を含めた橋梁からなる。そして当時のお金で約113,200英ポンドかかった※6)。

 イギリスは同じころ、スコットランドにも鉄骨製の大橋脚, フォースブリッジ(Forth Bridge)を建設しており、当時の大英帝国の国力をうかがえさせる。芸術として、そして歴史遺産としても貴重な存在だが、建設後この橋は、中国国民党軍を背後から助けた実用的な実績もある。1930年代後半、ラングーン(ヤンゴン)港に荷揚げした物資を重慶の蒋介石支援の為に輸送した際に威力を発揮した。

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(イギリス フォースブリッジ[2002年筆者撮影])

 そんな歴史は遠に忘れたの如く、ローカルな列車は、まるで歓喜する乗客たちにしばしの空中散歩を体験させてあげようとあえてゆっくり、ゆっくりと歩くような速さで惰走しているかのようで、とびっきりのエンターテインメントをいただいた感じである。思い起こせばここも写真撮影禁止と聞いていた。しかし、目の前の旅行者は堂々とフラッシュを焚いており、改革解放によって昔のような厳しいものはなくなった証かもしれない。

 
 (動画6:ゴッティー橋)

 橋を渡り終えるとソロリソロリと ゴッティ駅(Gokteik)に到着する。

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(ゴッティ駅(Gokteik)に到着)

 因みに、マンダレー方向からやってきてこの駅で降り、橋脚を渡って次の駅まで歩いたところで、逆からの列車がやって来るタイミングもありなので、そうした日帰りスケジュールも組めてしまう。

 その後列車は、再び峡谷を登る坂道をくねり登り、振り返ると、はるか後方にさがったゴッティー橋の最後の遠景が小さく、小さくなってゆく。

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(最後のゴッティー橋の遠景)

 さて、台地に到達したあたりでナウンショー(Nawnghkio)に停車。すると、ここで思いもしなかった、貨物列車との行き違いと出会う。見捨てられているかと思っていたこの鉄路であったが、貨物輸送の担い手としてまだ活躍していており、そんな貨車の汽笛を聴けるとは実に嬉しいものである。

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(出会ってしまった貨物列車)

 この駅でしばし賑わいを感じていればすぐに発車時間となって、列車は再び西を目指し始める。こうして一連のハイライトが終わったからであろうか、車内には倦怠感が漂い始める。

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(小さな駅での出会いと別れ)

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(蒸気機関車時代の名残り)

 徐々に木々の高さが低くなり、気温も少しながら涼しくなってくると高原地帯に入ってゆく。‘軽井沢ゾーン’に入ってきたようだ。

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(高原地帯をゆく列車)

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(焼き畑農業の火・・・)

 突如、雲行きが怪しくなり、進行方向がかなり視界が悪いゾーンが出現。間違いなく雨が降っていると察知し、急いで窓を閉めれば案の定、土砂降りが雨戸を叩く。

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(突然の土砂降り)

 そんな土砂降りの中、列車は17:10、ゴッティー橋から55km、定刻より約1時間強遅れて高原の町、ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)に到着する。ビシャビシャになったおんぼろ客車だが、深刻なトラブルもなく何とか140キロを走りぬいたのであった。

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(ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)駅到着、標高はフィート標記だ)

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(高原の町の名物、イギリス馬車)

 時刻表通りだと列車は17:40に発車する予定だが、駅員に聞くと、あと数十分は発車しない、との事。そうすると、マンダレー到着が午前0時を過ぎる可能性もあり、それは実に困る。なぜならば、宿の確保に問題が生じるからだ。楽しみにしていたこの先のスイッチバックは闇の中で観えないだろうし、私は断腸の思いでマンダレーまでの汽車旅を断念し、ここからピックアップバスでマンダレーに向かうのであった。

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(ピン・ウールィン駅舎)

(次回は最終回&あとがき)

※1) 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) 『戦史叢書 シッタン・明号作戦』, pp.501-502。厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。
※3)『メコン圏を題材とする 書籍』 http://www.mekong.ne.jp/books/nonfiction/020801.htm
※4)『Burma Lifeline 』 http://www.burmalifeline.org/projects/bll_twilight_over_burma.shtml
※5)『シャン州を訪ねる』 http://www51.tok2.com/home/cafemondiale/nss1.htm
※6)『Woodford Station Master's house.』 http://www.transportarchive.org.uk/getobject.php?rnum=L1335&searchitem=&mtv=&pnum=
※6)『Welcome to HighestBridges.com 』 http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Gokteik_Viaduct
James Waite, "The Burma Mines Railway, Namtu"

その他:

http://www.news24.jp/articles/2012/04/11/10203633.html

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2012年12月11日

草のてつ道 (最後のフロンティア 10 ミャンマー編)

 ● Dn 132

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 マンダレー行き 第135列車は、予定より1時間弱ほど遅れてシポー(Hsipaw)の駅を出発した。

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(第132列車時刻表)

 列車は、機関車 プラス 客車5輌&尻尾に荷物車2輌の計8輌編成で、一般等級車‘Orginally’車輌がメインの連なりだ。

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(132列車の連なり)


(動画3:ゆっくりと進む第132列車)

 一般座席車は、傷だらけなガチンゴチンの木製の椅子だ。草木が散らかり放題の床から湧き上がる緑色の臭気や熱気の草いきれが車内に充満していて、それもそのはず、線路際で大いに伸びている高い雑草が日々力強く成長するので、列車が1日おきに通るたびに巻き込まれては、開いた窓から草刈り機械のごとく‘バリバリ’と切り込まれて車内に飛び散るのだ。そんな強靭草の怖さを知らないおかげで、私も外の風景を写真に収めている最中に、笹の茎に見事に襲われて手のひらを切ってしまう。


(動画4:線路際の草の襲撃の様子)

 列車は‘ダダン♪〜ダダン♪〜(&グジャグジャグジャ)と草を掻き分ける雑音を混ぜながら、とうもろこし、ひまわり、スイカの畑、ヤシの木の林、そして水田の中をゆっくり、ゆっくりと時速40km/h程度の速さで進んでゆく。道路からの景色と違い、鉄道からの風景はより一層大地が近く、先に伸びるか細い鐡路は低い草々に埋もれていて、まるでじゅうたんの道を這うように進んでいる。だが、どんなに自然と一体化していようと、重要なのは、この鐡路は今もまだ生きているということであり、悲しき廃線では決して無いという事だ。単なる自然の大地なら、私にとってこの景色すべてに価値はない。

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(草の道をゆく列車)

 列車は、右に左にくねりながら鐡路が導く道のとおりに翻弄され、そのかすかに光る溝色の銀路が少しでも勾配の少ない有利な道を示してくれている。時折集落が見え始めると、まるで存在を誇示するようにタイフォンを鳴り響かせ、それに人々が気づく頃、まもなく小さな駅に到着する、といったテンポで汽車旅は流れてゆく。

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(小さな駅にとってはこのこの列車は外の世界とを結ぶ唯一の架け橋)

 面白い物語の一コマとは日常の中にある。ここで感じる貴重なこの時間も、ほぼすべてが地元客で染められていることこそが重要であり、この車内ではただのいつもの一こまに過ぎない光景が私にとって愛おしい。行商人が担いできたパイナップルの山がデッキに山積みになっていたり、親戚の家に遊びに行こうとしている大家族が大いに奇声を挙げて落ち着かなかったり、賭博に夢中になっている怠け者の男たち、といったこのローカル劇場は、日々の日常であり何でもないことなのだ。それを今、こうやって文章にしている事自体がなんとも面白い。

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(物置部屋のパイナップルの山)

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(賑やかな一般座席車)

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(静かに過ごす者もいる)

 さて、シポーから約1時間40分、やがて列車は少し賑やかな駅、クアクメ(Kyaukme )に到着する。ここでも売り子の群れが襲ってくるが、何やら身なりが綺麗な学生の集団らしき者たちが乗り込んできて、私を見つけては英語で突然話しかけてくる。

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(英語教室の学生さんと先生〈右〉)

 手短に話を聞いていると、彼らは外国語教室の生徒と先生のようで、時々駅に来ては、列車の中の外国人を捕まえて、自分たちの英語を試すだけでなく、外国のことを知ったり学んだりして実地の勉強をしているのだ、と言う。日本ではなかなか考えられないシーンである。私はその中の一人、可愛らしい娘さんに話しかけられようとアピール。彼女の名前はフタインちゃん。将来は橋を設計したりと建築家になりたいのだそう。

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(フタインちゃん)

 顔に塗っている化粧は、ミャンマー独特の化粧方式、『タナカ』というものらしい。原料はとても自然に優しいもので、フリーマッケットなどで売っているMUREAEXOTICA(日本名:ゲッキツ/ミカン科)の木の片を摺って、それに水を加えて出来上がり。その顔料をどっぺりと顔に塗るらしく、かといって均等に塗るのではなく、部分的に顔に塗るスタイルだ。皮膚がまだ弱い子供も同じように化粧しているし、化粧と同時に、清涼感があって、熱帯の厳しい日やけの防止になるということだから、UVカットの役割も兼ねているのだそう。

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(ミャンマー名物‘タナカ’)

 ただ近年、外国の化粧品がミャンマーにも進出し、他の国の女性と同じように‘美白’願望が強くなった影響で、実に速いテンポで外国の化粧品に流れていっているのだそう。特に現在の大統領、テイン・セイン(Thein Sein)の時代になって以来、本格的に開放路線を採っているためにこの動きが加速している。おそらく10年後くらいという短期間で、相当タナカ離れは進むと思う。しかし、日本民族だって、オシロイや民族衣装を捨てたのだから、‘さみしい’何ていう勝手な旅行者感情丸出しはかっこ悪いのでここでは考えないことにする。

 さて、列車は クアクメを出ると、相変わらず畑や林の中をのんびりと進む。 クアクメから1時間、ナウンペン(Nawngpeng)に到着すると、列車は何と信号待ちをしているではないか。そう、ここで唯一の上下行き違いを演じるのだ。

 こちらの方が先に到着して5分ほど待っていると、やがてマンダレー方向から同じような機関車を先頭にしたラーショ行の列車が‘ゴゴゴゴ〜’と到着すると、貴重な貴重な上下2本の列車が並んだシーンが発生する。その賑やかさは他の駅の比ではない。ほんの僅かな2本同時停車の時間の下で、売り子の群れがあっちへこっちへと散ってはあっという間に祭りの終わりの汽笛が鳴り響き、こちらのマンダレー行きが先に発車していく。

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(大いに賑わった瞬間)

 そして ナウンペンから約1時間、今日のスーパーゴールデンタイム、ゴッティー橋(Gokteik Viaduct)が眼の前に現れる。これを目当てにこの列車に乗っているようなものなので、続きは次回に・・・最終章は近い

(11に続く・・・)

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2012年12月06日

シャン族の駅長 (最後のフロンティア 9 ミャンマー編)

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● シャン族の駅長
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(シポー駅)

 かつて明治や昭和の時代、駅長といえば、郵便局長や校長、警察署長と並んで地元の名士の一つとして社会的地位が高かった。それは、あらゆる交通機関の中で鉄道はすべての交通の基本だったからである。

 日本の鉄道はイギリスをお手本としたものであり、‘駅長が偉い’という概念はおそらく本家英国からであったかもしれない。調べてみると、イギリスの駅長もけっこう社会的地位が高く、なぜなら、駅長(Station Master)はVIPや外国の首脳をお迎えする大役を仰せつかっていたため、まあそれなりの風格が必要だったからであろう。その名残の香がまだインドやエジプトなど旧大英帝国域内では残っていて、ミャンマーもその一つであろう。

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(シポー駅時刻表)

 この山村、シポー(Hsipaw)のやや町外れに、ホームが一本延びるひなびた情をかもし出す小さな鉄道駅が、炎天下をさえぎる木陰の林の下で静かに息づいている。この木陰の下が賑わうのは、一日の中で午前と午後の二回だけ。それもほんの一瞬だが、そのひと時こそが、この駅の威厳を保たせているのである。

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(シポー駅の玄関)

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(昼下がりのシポーの駅)

 陽火が下る午後の昼下がり、今日の野良犬が見回りに来る頃、牛たちと一緒に明日の切符を買いに駅の玄関口に立つ。影に暗い駅舎の中に入ると、一人、すべてにやる気を無くしている若い駅助役が電話交換機を暇つぶしにいじくっている光景がポツンと流れているだけで、私は物珍しそうな顔つきでその助役の顔を覗き込みながら尋ねる。

「おい、駅長はいるか?」

 彼は遠い目つきで私を眺めると、

「しらねーよ。さっきまで居たけどな。どーせ離れの小屋にでも行ってテレビでも観てるんだろ」

「切符を買いたいんだ。売ってくれ」

「ああ?、外国人に切符を売るのは駅長しかできねーんだ。しょうがないな。呼んで来るよ」

そう言い放ち、青年が駅長を呼びに向かったはいいが、牛が構内の草をすべて食べ終わるのではないか、と思うほどずいぶんと砂時計が零れ落ちた頃、デカパンとランニングの姿でコミカルな威厳と共に駅長がやっと登城(場)する。何なんだ、この倦怠感は!?

 どうやらこの駅は、駅長の住居も兼ねている様で、手下の駅員たちはこの駅長に雇われているようだ。この構図は宗主国大英帝国の鉄道文化の名残であろう。※6)

 駅員たちが腫れ物を触るように駅長に接している光景を観ていると、この駅長は確かに町の名士っぽいオーラーを感じてしまう。しかし、それと仕事ぶりとは別の話だ。たかがカーボン紙を下敷きにして手書きの切符を書き上げるのに遥かなる時間が流れ、その間、訪れる町人ヅラの男とくっちゃべり、ニワトリに餌をやり、可愛い孫娘を相手にお散歩ごっこを繰り広げたりと、まさにわが道を行き続ける駅長。目の前の日本人は少〜しイライラしつつも、この男を怒らせては切符は買えない、と言い聞かせ、う〜ん、駅長とは実に偉いお方なのだ、と痛感してしまう。

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(駅長)

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(元気な駅長の孫娘たち)

「明日の朝10時ころに列車は来るので、30分前くらいには来なさい!」
とグチャグチャな英語で‘命令’する駅長だが、孫娘が真横にいるためか、その表情はゆがんでいて柔らかそうだ。この男に明日の午前、また世話にななるとは、やれやれ・・・。

● 第132列車

 午前10時ころ、プラットホームの上はもう、列車を迎え撃つ準備が整っていて、すでに乗客たちで賑わっている。

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(列車を待つシポーの人たち)

 やがて北東のラーショ方面から、川を渡ったあたりだろうか、かすかに鳴り響いたの機関車のタイフォンに気づくと、それまで退屈な線路風景が一変して豪快な大列車が‘ゴゴゴ〜’と現れる。マンダレー行き第132列車だ。


(動画1:第132列車入線)

 さあ、一挙に忙しくなる。他の外国人旅行者が切符を買い求めるべく駅長に擦り寄るが、爺さん駅長は部下とペチャクチャしゃべりながら手は動かず足も動かず、なかなか切符を発行してくれない。切符の運賃は外国人1人3ドルだ。
「1ドル札3枚分の紙幣番号を書かなければいけないんだよ。悪いけど、この1ドル札5枚を渡すから、5ドル札一枚にしてくれない?」

何で俺が?もう、実にめんどくさいシステムである。

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(列車の時間だけ大忙し?の駅長)

 列車が到着したプラットホームでは、果物や地元料理を頭に担いだ売り子たちの群れが一斉に列車になだれ込み、乗客たちに必死のアピール合戦を繰り広げる。そのほとんどが女たちであり、男はあまり見当たらない。ミャンマーの女たちは働き者で、かつ、強い。因みに、スイカの4分の一の切り分けで200チャット(約20円)である。

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(スイカ売りの少女)

 時刻表上の発車だと9:40だが、時計はもう10時半を回ろうとしている。先頭の機関車の方を眺めると、機関士や駅員たちが集まっては何やら機関車の床下でモグモグ作業をしている。どうやら機関車の調子が悪いようだ。別の機関士がエンジンオイルみたいなものを駅から取り寄せて、バーを持ってまた床下に入る。

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(第135列車の機関車)

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(なかなかエンジンがかからない機関車)

 そんなこんなで30分ほど格闘した末、ようやくエンジンが入り、長声一発出発進行!。

 世話なったシポーの駅が後ろに流れ、列車は草蒸した本線に掻き分けるように進軍を始め、横切る踏切りで列車の威厳を大いに放つ。援蒋ルート街道の車たちもこの時ばかりは踏み切りで立ち往生しなければいけない。
「列車様のお通りだ!」


(動画2:シポー駅を発車し、援蒋道路を横切る)

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(列車のために渋滞する援蒋道路)

(10へ続く・・・)

 ※6)『Woodford Station Master's house.』 http://www.transportarchive.org.uk/getobject.php?rnum=L1335&searchitem=&mtv=&pnum=

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2012年12月04日

シャン族の田舎まち (最後のフロンティア 8 ミャンマー編)

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(シポー《Hispaw》の位置)

 シポー(Hsipaw)の町に到達した。‘シポー’という呼び名は、地元土着の民族、シャン族による呼び名であり、ビルマ名ティボー(Thibaw)という。ここではシャン族名で標記する。

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(シポー(Hsipaw)の町)

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(町の中心にある郵便局)

 シポーは、その昔現在のシャン州北部 6つの藩の一つ、シポー‘藩王国’の中心地と栄えた。ヒマラヤや中央アジアなどの内陸の山岳地帯というのは敵が入りにくいからか、19世紀あたりまで藩王国で栄えていた例が多く、その独自文化が今も息づいている。パキスタンのカラコルムでもそうであったように、例外なく大国(イギリスや中国など)の侵略にあい、藩領と帝国との二重支配となって弱体化し、最終的には消えていった。

 イギリスに支配されたシポーの藩王国は物語が多く、英領時代のソーボワ(世襲藩主)はイギリスに留学させられた。つまり、意外と丁重な扱いを受けていたのである。そして最後の『ソーボワ』、サオ・チャ・セン(Sao Kya Seng)は、アメリカ留学中に知りあったオーストリア人、インゲ・サージェント (Inge Sargent )と結婚したが、1962年3月、ヘホー空港に向かう途中行方不明になった。後年、その妻が思い出を綴った“Twilight over Burma”という本をタイの出版社から出している※3)※4)※5)。
(英単語‘Twilight’とは、薄明りという意で、日の出・日没後のたそがれ時を意味する)

 その藩王国で栄えたシポーの町も、今では何の変哲もない小さな町に違いないのだが、内面は変哲がけっこうある。人々はビルマ族よりも少し日本か中国人ッぽい顔つきのように感じるシャン族の割合がとっても高く、女の子も、日本人好みの可愛らしい娘が元気よく町を闊歩している。

 子供たちは、勉強の傍ら店の手伝いに忙しく、それでも気まぐれに訪れた外国人に対して笑顔を忘れない。このシャン族食堂のこの子は、客が居ない間は子守や、学校の英語の宿題に忙しくて、それでも私と一緒に単語の勉強をしよう!と言うほど。どこの国も子どもは大変だ。

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(この食堂で元気一杯の女の子、みんなに愛されている)

 宿のスタッフとして働いている学生の女の子たちはみな働き者で、こりゃまた愛想がいい。将来は外国に旅行に行きたい、と答える彼女の賃金は1日3ドル。これでは一生かかっても実現できないのが気の毒だ。彼女はオーナーの悪口を言い始めてたが、すぐに笑顔に戻った。

 シャンについて何も知らない私は、思わず、
「ミャンマーとシャンは違うの?」
と質問した。すると彼女は少し厳しい表情を一瞬浮かべては、また笑顔に戻り、少しまじめな瞳で言い始めた。
「シャンは日本軍が撤退した後、アウンサン将軍によって独立を約束させたのよ。でも、彼が暗殺されたために約束が果たされず、ラングーン(ヤンゴン)の政府が強引にここを支配したんです。シャン族は彼らに苦しめられ、この町からもたくさんのシャン族が強制連行されたり、拷問を受けました。だから私たちは自分たちを守るためにシャン地方革命軍(その後北部・南部で別れる)を作って抵抗してきたのです。特にこの町はとっても緊張していていました。その後、この町で北部シャン州軍(SSA North)が休戦協定を結んだので今では平和です。」

 なかなか民族愛に溢れた少女の言葉は私の心にグサッと響き、改めてここはミャンマーであってミャンマーではない、シャンの土地なんだ、という認識を持った。今では平穏に見えるが、もし相手がラングーンの政府ではなくて北京の政府だったら、彼らはチベットのような状態になっていたであろう。

 政治の話は置いておいて、シポーの町を歩いてみよう。

 町は歩いて回れるほどの大きさで、昼間でも死んだように静まり返る日本の田舎町とは違い、どこの商店も品物が豊富で、通りはけっこう活気に包まれている。

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(町の青空野菜売り場)

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(お米屋さん)

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(やっぱりあった、倉庫代わりの日本バス)

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(今では比較的自由になった政治色もかかせない)

 そんな町の通りから一歩裏道に入ると、所々、鉄筋造りの豪華なお屋敷が点在しているのが目に入る。これらの多くは中国系の商売人の家らしい。そうと分かると納得することがある。町の商店には簡体字の中国製品が溢れ、町で一番華やかで豪華なレストランは中華料理屋であり、道路には中国からのトラックが頻繁に出入りしている。ここから中国本土まで約200キロ、遠くはないところに巨龍は虎視眈々と控えている。ミャンマーと中国の狭間の小さな民族の将来はいったいどうなるのであろうか。

 中華料理はどこでも食べられるので、あえてシャン族の料理を食べよう。脂っこくなく、意外とさっぱりしている麺類が多いので、きっと日本人にも食べられやすいだろう。
 
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(賑わいをみせる夜のシャン族の料理屋)

 因みに、シポー独自の名産品として、竹細工や野菜、そしてお茶などがある。私が茶工房でまとめ買いしたのが、ラパ茶と言われる、ほうじ茶に近いお茶。これがなかなか油料理に合う。

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(茶工房の様子)

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(当地の名産、ラパ茶)

 そしてシポーはトレッキングの人気名所らしく、ヨーロッパ人が勇んで狩にでも出向くかのようなノリで山の方へ歩き出している光景が、午前中であれば嫌でも目に入る。山には蚊もいるし、用事はないし、興味もない。私は山の中にある温泉にだけ行きたかったが、行ってきたスペイン人の話によると、散々探したけど見つからなかった、という話を聴いて、サクッとあきらめた。

 そんな山々が町に迫る小さな盆地にこの町はある。繁華街?から少し外れると、木細工で出来た小さな民家と、木々や畑に覆われた人々の生活の営みが感じられる。そこには、イギリスさんが置いていった小さな教会が、比較的賑やかな通りに潜む一方、

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(教会)
昔から伝わる趣深い仏塔が民家の外れの森の中に静かに佇んでいる。それは実に神々しく鎮座していて、つい思わず神を見上げるように立ち止まってしまうと、突然天から稲妻が舞い降り、激しい滴雨が私を寺に呼び寄せる。

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(神々しい仏塔)

 思わず境内の人となった私は、仏像に深くお辞儀をし、しばし何を想ったのか、心の寄りかかり先を求めていたかのように、滴の音を静かに受入れながらしばし無言で仏を見上げていた。

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(ミャンマーのお寺)
 
● 援蒋ルート鉄道

 さあ、鉄道の話にいこう。

 シポーの駅は、町の中心より少し西側に外れてひっそりと佇んでいる。草じゅうたんに覆われた鉄道の線路は駅構内に入ると姿を現し、かつては列車がここで上下行き違ったり、貨物列車でも留置したのであろう、数本の線路が平行して土に埋もれている。

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(草のじゅうたんに覆われた軌道)

 駅構内だけ草があまりない理由は、時折牛飼いによって導かれた牛たちが、構内の雑草をムシャぶり食い尽くすからだろう。ノッシノッシとどこからか現れた牛の群れが夢中になって駅の草をむしり喰っている、そんなのんびりとした時間が今流れている・・・。

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(牛が線路の草を 食べる、食べる、食べる)

 これが駅でのおおよその一日の大部分がそんな空間だ。しかし、一日2回だけ、駅は一瞬の目覚めを催したかのように賑わいを奏でる瞬間がある。それは、マンダレー行きの午前10時ころとラーショ行きの午後3時ころだけに現れる列車の時だ。

 さあ、次回は今回のミャンマー旅のハイライトである、シポーからの列車である。

 (つづく・・・)

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(ネコはここでは食べられないようだ)

(参考資料)

※3)『メコン圏を題材とする 書籍』 http://www.mekong.ne.jp/books/nonfiction/020801.htm
※4)『Burma Lifeline 』 http://www.burmalifeline.org/projects/bll_twilight_over_burma.shtml
※5)『シャン州を訪ねる』 http://www51.tok2.com/home/cafemondiale/nss1.htm
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2012年12月01日

逆支援の峠道 (最後のフロンティア 7 ミャンマー編)

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(援蒋ルート)

(つづき・・・マンダレーを出発したシェアタクシーは、かつて連合軍が蒋介石を支援した道を辿って、シャン族の土地を目指して峠道を疾駆している。)・・・

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 登り坂一辺倒の九十九折の峠を越えると、やがて一気にあたりは涼しくなり、窓からは心地よい涼風が入り込んでくる。そこはピン・ウールィン(Pyin U Lwin)、以前はメイミョーと呼ばれた高原地帯だ。

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(ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)の街)

 植民地時代、下界の猛暑にほとほと疲れ果てた支配者・イギリス人が切り開いた高原の避暑地らしく、日本で言えば軽井沢みたいなところか。町に入ると、並木の傘が美しく覆い、その国道沿いにはドライブインや商店が建ち並んではけっこうな賑やかさを放っている。

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(イギリス時代の名残の教会 【ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)にて】)

 そのドライブインはけっこうな熱気に包まれていて、30種類以上もあるカレーがテーブルの上に並べられては、好きなカレーをご自由にライスの上に盛ってください、というスタイルだ。鳥肉カレーに牛肉カレー、羊肉にジャガイモカレーなど、香りに誘われてなかなか楽しいではないか。

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(カレー三昧のドライブイン)

 お会計のやり方に迷っていると、同乗していた中国人が助けてくれ、おまけにお会計まで世話になってしまった。
『客人には払わせない』と彼はカタコトの英語でそう答え、私はしばし躊躇したが、彼の言葉に甘えることにした。以来、車の中では連中と和気あいあいと旅が進んだのは言うまでもない。

 さて、この辺からシャン州に入る。シャン州にはタイ系統のシャン族という、ビルマ族に次いで2番目に大きい勢力の民族の地であるが、州の中の県によってだいぶ異なり、政治的にミャンマー政府と対立する勢力が今でも活発な活動をしているために、近年まで外国人がなかなか自由に旅行が出来なかった。

 さて、そこからは一転して高原のさわやかな道路となり、点在する林を突き抜けて快調に車は北東方向の街道をすっ飛ばすのであった。すると、待ちに待った鉄道線路が道路を横切るではないか。これが後の主役であるマンダレー〜ラーショ線である。雑草に覆われ、かなり朽ち果てているので本当に列車が動いているのか心配になるが、一応1日1往復は走っているらしい。

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(やっと出会えた鉄路)

 街道はこの線路としばらく併走する。やがて線路が離れ、道路が北方向に針を向け、一気に腸のように崖をジグザグ降り始める。

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(さっきの峠よりも一段と厳しい)

 そして、その谷底に到達すると小さな川を渡る。

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(大渓谷を削る谷底の川)

 これが後に今回の主役である渓谷なのだ。なぜ主役になるのかは、後で述べる。

 そして再び超傾斜道を登る。ガソリンを積んだローリーが、急坂に悲鳴をあげてわき道でドロップアウト寸前で埃を巻き上げているのを眺めてながら我がタクシーは横目で流し、車道はいったん北方向に伸びて標高を稼ぐ。

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(大型車はもがく)

 そこから逆V字のように南へターンをすると、たるんだロープのような線形で斜面を登っている鉄道線路とまたかち合う。まさか列車は、あの道路のようなつづら折り方式であの谷底を越えているのであろうか。

 こうしてなかなか面白い援蒋ルートの地形であるが、戦争中はさぞかしこの難儀な道に泣かされたであろう。この道は今でもマンダレーと中国とを結ぶ重要幹線であり、中国に向かうトラックがけっこう走っているので、現代においてもこの援蒋ルートは‘援中ルート’として生きているのだ。因みに、中国に物資を補給するための道路でもあるが、今では逆にミャンマーに物資を輸送する逆援蒋ルートになった感がある。この道を通じて中国から大量の人や物資そして文化がなだれ込み、そして現在、その中国パワーにミャンマーは染められつつある。

 マンダレーより約200キロ、車はシポー(Hsipaw)に到達する。ビルマ名ティボー(Thibaw)と呼ばれるこの町の宿に、私は降り立ち、今宵の最北端地点とした。世話になった運転手や中国人たちに礼を告げ、車は中国方面へ消えていった。

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(マンダレーから世話になったシェアタクシー)

 時間の関係で今宵の旅の最北端をここにする。なぜここを最終目的地にしたのか、私もよく分からない。ただ、温泉があるというガイドブックの記述や、何となく雰囲気が良さそうだ、という曖昧な理由付けでここにしたのだ、と宣言してもいいかもしれない。

 一人残された私に、欧米人観光客慣れした高級宿のシャン族スタッフのウェルカム待遇に根気負けし、この幾分心地良さそうな宿で2泊お世話になることにする。

(つづく)(次回は4日 火曜日ごろ)

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2012年11月29日

マンダレーの峠道 (最後のフロンティア 6 ミャンマー編)

 援蒋ルートを辿る

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(援蒋ルートの一部)

 マンダレーから北東方向へ中国へ通じる道がある。これがかつての援蒋ルートの一部であり、これに沿って鉄道が伸びている。この鉄道が西洋人旅行者にとってけっこう人気のようだが、マンダレー発朝の4時というとんでもない時間に発車するため、いろいろ考え抜いた。そこで、この鉄道を逆方向から乗ってみることにし、往路は車で移動するする事にする。

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 蒸し暑い当日の朝、泊まっている宿に私を迎えに来てくれたのはタクシー会社の男だった。バスはかなり早い時間に出てしまうので、前日からタクシーを予約していたからだ。タクシーといっても、一般乗用車に乗れるだけ同じ方向へ行きたい同志を集めてシェアするスタイルで、シェアタクシーとも呼ばれている。経済的だし、タクシー会社も人数分儲かるのでお互い都合がいい。日本ではこういうビジネスは不可能だが。

 シェアタクシーは、予約していた同乗者の家にいちいち立ち寄るためなかなか町を出発できない。ある者は工場の従業員部屋から、ある者は、団地の奥から。運転手は会社から渡された住所のメモだけを頼りに付近を右往左往。そして最後は中国人ビジネスマンの男を乗せてようやく出発!となった。

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 南に伸びるマンダレー市内の大通りをゆくと、とある交差点で左に曲がる。実質的にここから援蒋ルートが始まった。マンダレーは盆地の中にある町だが、やがてそれが終わりかけ、江戸旧街道のように木々がざわめく気持ちいい並木街道の景色に移り代わり、道は立ちはだかる眼前の山魂に向かって一直線に伸びる。

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(平らな緑の道は山にぶつかるまで)

 その山魂がすぐに額ほどの距離まで近づくと、当たり前のように急勾配が登場する。登り下りが大樹で分けられたつづら折りの険しい道路に、福山通運ロゴのトラックや、京王観光ロゴのバスなどが数珠を連ねるようにもがき登っていて、それを横目にわれ等が年代モノのトヨタ乗用車が煤をぶちまけて抜いてゆく。積載名やトン数まで日本語標記になっている強敵タンクローリなどは抜くほうもハラハラする、まるで碓氷峠か箱根の1号バイパスを登っているようだ。

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(ミャンマー版碓氷峠)

 九十九折のこの道こそ、かつて日本軍を大いに苦しませた悲劇の道であり、今、日本車が溢れるその道を這いで行っている私は、鳥肌が少しざわめくほど実に複雑な思いがするのだ。

(つづく)

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2012年11月27日

マンダレーの霊魂 (最後のフロンティア 5 ミャンマー編)

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■米大統領ミャンマー初訪問、中国けん制の狙いも
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121119-OYT1T00705.htm
■北朝鮮、兵器物資輸出図る 対ミャンマー、日本押収 (朝日デジタル - 2012年11月24日5時55分)
http://www.asahi.com/international/update/1124/TKY201211230786.html

(アメリカのオバマ大統領が先日ミャンマーを訪問した。それまでならず者国家だったミャンマーが一気に国際社会の価値観を共有しようとしている。その証拠に、北朝鮮などの‘元友達’とは距離を置きつつある。ところで、日本の首相はまだ訪問の気配すらない。もちろん、過去にはまだ一度も訪問したことがない。西側の経済制裁を受けていたミャンマーであったが、日本は影ながらチョチョコ人道援助くらいはしていたが、あまりにも西側一辺倒の外交をやっていた為に、すでに現地では中国や韓国企業によって開拓されて出遅れている。最後のフロンティアといっても、日本のミャンマー進出はかなりいばらの道だ)。

 では紀行文に・・・
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● マンダレーの霊魂

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(マンダレー市の位置)

 ミャンマー第二の都市 マンダレー(Mandalay、発音: [máɴdəlé]) は、※1) 人口約100万人、東西南北から鉄道が集まる交通のクロス町でもある。

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(マンダレー鉄道駅)

 ムダに豪華なこのターミナル駅から歩いて外に出ると、染みてくるように浮きあがる汗を覆うように、夜行列車明けの煤けた街の埃との戦いが始まる。それに参ってついタクシーを拾いたくなるが、料金交渉の気力はすでに無く、幌付き荷台トラックのシェアバスや、自転車お兄さんたちを捕まえては大都市めぐりをしながらホテルを目指す意欲もなく、ただただ客引きの誘いを断りながら干された足で街をゆく。

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(マンダレーの朝の大通り)

 一つ言えることは、ヤンゴンと比べてとても整った町並みで歩きやすい事であり、碁盤の目のようにカクカクした街の造りにやがて気づく。

 だから、マンダレーの宿屋街への地図を片手に持っていればなかなか迷うことはなく、またそれらは旧王宮の西側近くに集中しているので解りやすい。駅から歩いて20分ほどの所と断定してもいい。その旧王宮は、東西2kmほどの正方形の形をしていて、街はこの旧王宮の南側に市街が広がっている、といった感じだ。

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(旧王宮)

 ところで、旧王宮の背後の北側の丘は、『マンダレーヒル(Mandalay Hill、発音:manta. le: taung)』と呼ばれている、標高236m程度の丘が控えていて、山ろくから山頂まで寺院が点在している礼拝のポイントがある。途中でいくつかの仏塔を拝みながら、頂上の寺院に登って行くのだが、なかなか勾配がきつくてとろけそうになる。ゼーゼー言いながら最後、屋根つき階段の脇に江ノ島のような土産屋群の参道のお出迎えに受け、そうしてやっと頂上に到着するのだ。

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(頂上の参道とお土産物屋街)

 そしてそこから眺める旧王宮やマンダレーの町並み、そして西側を雄大に流れるエーヤワディー(Ayeyarwady)川(旧称:イラワジ川)は一見の価値はある。特に夕暮れ時からの時間がお勧めだ。

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(マンダレーヒルからの夕陽)

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(マンダレー市街の夜景)

 さて、王宮があるということは、このマンダレーとはかなり古い町だと思うであろう。しかし意外にもそうでもない。この町は、実は19世紀中ごろになって当時のミンドン・ミン(Mindon Min)という王様が、ブッダの教えに従ってこの地に都を建設したのが始まりらしい。日本で言えば幕末あたりの時代であるので、つい最近出来た町のような感じだ。

 その後まもなくイギリスに占領されたために、王都としての歴史はほとんどない。さらに、第二次大戦が勃発し、日本軍がこの地を占領したために攻撃の標的になり、結局跡形もなく破壊されたのである。

 ご存知の通り、日本はあの時代、ビルマ(ミャンマー)を占領し、連合軍と過酷な戦いを繰り広げた。日本からはるか遠いこの南方の地でいったいなぜ戦わなければいけなかったのであろうか。それは、日中戦争と関係がある。

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 日本は、大東亜戦争前は中国と戦闘状態にあった。もう少し正確に言えば、中華民国(国民党)軍と紅軍(共産党)軍を相手に中国大陸を舞台に戦いに明け暮れていた。戦争は数年に渡る長期戦となり、日本軍は国民党軍を追い詰めてもゾンビの如く復活してくる敵にだんだん疲れが出てきた。そこで司令部は、後ろからの補給ルートの存在に眼をつけた。それは援蒋ルートと呼ばれる、アメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路であった。この道がビルマ経由で雲南省へ通じていたので、この輸送路を遮断することによって国民党軍を弱らせる作戦に出た。こうして日本は、1941年12月に真珠湾攻撃で対米宣戦布告とほぼ同時にビルマにも進撃を開始、南から一気にビルマを占領した。1942年5月にはマンダレーにも到達し、当初の目的である輸送路の遮断は一応実現した。

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(【☆】ビルマ戦線の日本兵)

 しかし、もう一つ別ルートが生きていた。そのため、国民党軍の壊滅には至らず、そうこうしている間に連合軍が反撃してまたまた泥沼の長期戦に陥り、気づいてみれば、戦線をあまりにも拡大しすぎた日本軍は総崩れ。各戦線で肉弾戦や玉砕が相次ぎ、ついにはマンダレー近郊で大敗北(イラワジ川会戦)を喫した。結局、日本はビルマから血の退却戦争を余儀なくされ、最後は地元のビルマ人勢力からも銃口を向けられ、玉音放送にてビルマでの戦争が終わるのである。

 ビルマ戦線に投入された303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、生きて帰ってこれたのは118,352名のみであった※2)。そして地元のビルマの人々や国土に多大な悲しみと損害を与えたことは紛れもない事実である。そんな歴史があるのに無関心・完全無知である事は、ミャンマーを訪れている私にとって‘それっていったいどうなの?’という感情をどうしても無視できなかった。

 今回の私のミャンマーの旅はとても短く、そしてスケジュールがぎっしり詰まっている。そこで、貴重な時間をあえて、少しでも日本軍に関係する土地を目指すことで鎮魂の意も含ませるために予定を変更し、かつての援蒋ルートを途中まで辿ってみることにした。観光地・バガンに向かうのをやめて・・・。

 なおご心配なく、それは鉄道探訪も兼ねている。鉄道&歴史を絡めて慰め程度に強引に目的を関連づけよう。

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 次回(来週火曜・27日ごろにup)に続く・・・

(参考文献・資料)
※1) 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) 『戦史叢書 シッタン・明号作戦』, pp.501-502。厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。

【☆】添付写真引用  『ビルマに入る前の第15軍』
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2012年11月22日

最後のフロンティア 4 (ジャンピングトレイン) ミャンマー編

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● ジャンピングトレイン

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(ヤンゴン〜マンダレー)

 食堂車までの距離は2,3輌分である。だが、足元はコップを逆さまにしたような縦揺れと、揺りかごのような横揺れに阻まれてふらつき、よろけながら何とか香漂うレストランカーにたどり着く。しかしそこでは、趣味の悪い音量で現地のポップミュージックでふんだんに染められ、どんよりとやる気が感じられない従業員と客との馴れ合いが辺りを支配している。その中で独り、外国人がチョコンと座るので、なかなか注目の的になりやすい。

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(倦怠感漂う大揺れ食堂車)

 とにかくメニュー表を観なければ話にならない。ボーイだ、ボーイはどこにいる?あぁ、あいつがそうだ。読めるアルファベット標記のメニューを持ってきてくれ!。

 壊れたバネのトランポリンが勢いずく縦揺れが巻き起こる中、私は何とかメニュー表に期待をつなぎボーイが近づいてくるのを喜びのまなざしを向ける。しかし、それをもらっても何が何だかよく分からない。とりあえず、『ナントカNoddle』『ナントカRice』は解るので、麺類と炒飯らしきものを適当にオーダー。すると、汁無しジャージャー麺のような料理がプラスティックの皿に載って現れるではないか。ところがどっこい、見た目よりなかなかいける味で、その他にミャンマービールを片手にすれば、これは立派なご馳走である。

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(キモチがリッチに、食堂車の食事)

 しかしこれだけでは腹がふくれない。かといってメニューの大冒険はしたくないのだが、すると、従業員が食べているスープが妙に食べたくなり、指を差す。やはり、何を食べていいか解らない場合は、現地の人が食べているものを指差すのが一番かもしれない。

 コックはどうやら私の希望を理解したようで、厨房の火を強め始める。やがてそのスープはお椀ナミナミなってテーブルの上に運ばれてくるが、ジャンピングトレインの恐ろしさはここで本領発揮!スープが大波を打って激しく軌道の刻みにあわせて盛り上がっては沈むので、なかなか口に到達できない有様である。
 
 まるで闇の大地が激しく怒っているようだ。雨季の空は稲妻が東西南北、豪華絢爛に激しく乱舞し、その模様は下手な芝居を眺めているよりかはるかに芸術的で面白い。そんなものに惚れていると、車内はすっかり虫の息のように寝静まった様子となってしまっている。ミャンマーの夜は意外と早いようだ。

 食堂車で優雅に腹いっぱいスープを口に運んでいる、その隣の車輌である一般座席車からは時々叫び声が聴こえてくる。そう、一般座席車は恐ろしいほど窮屈なのだ。くたびれた木造の椅子にすっかり二人分占有してスヤスヤ眠りに落ちている要領の良い子どももいれば、4人座席に6人くらい詰め込んでは嫌〜な顔しながらあちらを向いて眼を閉じている者もいる。そんなごちゃ混ぜの空間だが、治安はなかなか良い。一般のミャンマー人はたいていは礼儀正しく、そして寛容であり、僧侶も民衆も一緒になってみな安心して一夜を共にする。

 長い長い夜路をゆく第5列車は、夜9時半を過ぎた頃、ようやくタングー(Taungoo)に到着する。ミャンマーの鉄道がヤンゴンから始めて開業した一番北側の駅である。

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(タングー(Taungoo)駅到着)

 さらに3時間北へ走れば道中の中間点、ピンマナー(Pyinmana)に到達する。バガン方面線の分岐点であるが、同時にここは新しい首都、ネピドー(Naypyidaw)の近郊だ。ピンマナーから20分ほど北に走ると、0:20、突然不気味に不自然な目新しい駅、ネピドー駅に到する。2009年に開業した低いコンクリートホーム3面ほどの地平の駅で、跨線橋で繋がっている。

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(首都・ネピドー(Naypyidaw)駅)

 2003年から2006年にかけていきなりここに首都を建設し、遷都を実行させたのだから、その大胆さと軍事政権のやりたい放題さに当時は笑いが出てしまったのを思い出すが、しかし、南に偏り、そして、イギリスによる侵略の拠点であるヤンゴンをわざわざ首都にしておく必要もないわけだから、これはこれでいいのかもしれない。

 首都・ネピドーは進行方向左側にある。もちろんこんな時間だから仕方がないのだが、煌々と輝く街路の灯りの下には車一台も走っていないが、だだっ広い道路といい、無駄に明るい街路の灯といい、ほんの少し新首都を見たような気がする。

 ここを過ぎれば後はマンダレーまでそんなに特別なイベントはない。解放の窓からは月の光が追いかけるように差し込み、どこまで走ってもその月は私を見放さなさず、頭上にぶら下げているミコディーが月光のシルエットとなって顔を照らす。時折、車輌が断続的にジャンプして下から突き上げられては空中に舞うような錯覚と相まって、異次元の世界の旅にしばし酔っていた。

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 朝

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(夜明けの窓辺)

 いつの間にか眼はうつろい、眠っていたことすら記憶と感覚が薄い夜汽車の旅だったが、改めて眼を開けると、見事に東の空が明るい。そう、一晩をついにここで明かしたのである。何であろうかこの達成感は。列車は右手に左手に湖らしき水溜まりに車体を映しながら最後の力走をしていて、その水溜りの群れが東から差し込む陽の光に漫然と輝き始める。

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(水溜りが映える)



 朝もやの村々の小さな駅を通過する際、おそらく僧学校に登校する途中であろうか、赤いマントのような僧服をまとった子どもたちがせっせと線路の上を並んで歩いている。これこそミャンマーらしい風景だ。



 そしてここら辺はすでにマンダレー近郊の村であることは何となく感じ始め、次第に車内はソワソワと忙しくなってくる。

 やがてマンダレーの住宅群がいきなり現れ始め、右より左より線路が合流してくるとマンダレー駅は近い。堂々と町の真ん中を貫く列車は、踏み切りを使って大通りを思いっきり封鎖しては、ノッシノッシと歩んで群集の視線を一挙に集めて最後の歩みを続ける。

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(終点マンダレーは近い)

 6:15、定刻より何と15分よりも早く、第5列車はマンダレー駅に到達する。やはりHoot(汽笛)が最後を締めくくり、‘ガツン’と客車が停止すると、一斉に人々が低いホームに流れては、四方八方に散らばってゆく。無駄に豪華なマンダレー駅は、上階の切符売り場からホームまで今日一日が始まったばかり。15時間を駆けた古傷だらけの老列車は、夜明けのミャンマーで最後の息をついていた。

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(約16時間の旅路を終えた第5列車の兵《ツワモノ》)

※寝台車の‘たび'
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 寝台券は3日先から駅の窓口で買える。とても不便なシステムのため、手数料はかかるが、旅行会社に頼むのもありだ。寝台車は1列車に1輌しか連結されておらず、7つのコンパートメント部屋に、1部屋に2段ベッドが二つ並んでいる。部屋まで食堂車で雇われている少年たちが食べ物を持ってきてもらう事ができる。また部屋の鍵も車掌から渡されるので、セキュリティーは大丈夫だ。月の光を眺めながらレールのジョイント音を感じ、ベッドで横になる心地は、自分が今この時だけ、あらゆる世界から切り離された究極の自由の中を泳いでいる錯覚を感じるであろう。眼が覚めるとそこは太陽の下。シーツは朝方回収される。掛け布団はない。

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参考文献:
※1) CITY POPULATION :『 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) http://www.minamitours.com/yangon_circular.htm
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm

その他
『Ministry of Rail Transportation (Burmese)』 http://www.ministryofrailtransportation.com
『Heritage structure still serves railway system』
http://www.myanmar.com/myanmartimes/MyanmarTimes18-343/n010.htm

『Train travel in Myanmar (Burma)』 (http://www.seat61.com/Burma.htm
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会(2005年6月発行)
『地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)』 '11〜'12 ダイヤモンド社 / ダイヤモンド・ビック社

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2012年11月20日

最後のフロンティア 3 (動脈幹線 ) ミャンマー編

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http://jp.wsj.com/World/Europe/node_551046
(米国のオバマ大統領は、2012年11月19日、米大統領として初めてミャンマーを訪問した。選挙で再選されて初めての新規外遊先にミャンマーを選んだのはかなり意味が深い。そんなミャンマーに9月に行っていた。これはミャンマーの鉄道乗車記である。)
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 ● 動脈幹線 

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 ヤンゴン(Yangon) 〜マンダレー(Mandalay)

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(ヤンゴン→マンダレー線 経路)

 15:00発、マンダレー行き5列車は、すでに1番線ホームに‘ズン’と構えている。総編成は客車14輌+機関車、堂々とした国の代表列車があくびを唱えながら発車を待っている。
 
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 (発車前の第5列車)

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 私は寝台券の切符が取れなかったので、仕方なく1等車(Upper Class)に流れるしかないが、1等車といっても寝台に比べれば雲泥の差の‘泥’の地位であり、くたびれた旅だけは保障される。一応、斜め70度くらいリクライニングできるが。
 
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(1等車(Upper Class)の内観)

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(1等車(Upper Class)の座席)

 時計の針が15時を指すころ、定刻ぴったりに笛が鳴り響き、はるか前方の機関車の汽笛が鼓長くこだまする。意外と時間には正確なようだ。列車はヤンゴン中央駅の広い構内の線路を跨ぎながら次第に軌道は2つに収斂し、ゆっくりとヤンゴン市内を刻む。
  
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(ヤンゴンの駅を発車する)

 しかし、少し走っただけでは街は終わらない。人々や車の喧騒が漂う中、20km/hくらいの速度でトロトロ走っていると、列車を待っている売り子たちが呆然とこちらを見送る。あまりにもゆっくりだからか、列車は線路際の子どもたちの格好の遊び相手にもなり、全速力で追いかけては、デッキの手すりを捕まえて‘チョコン’と飛び乗るのだ。これはなかなか楽しい遊びだ。

 子ども達の遊び場である近郊の駅をいくつか通過し、すれ違う列車の姿がまだ頻繁に顔を見かける頃、出会う彼ら客車たちはどれも年季を経て相当使い込んでいると解る車輌ばかり。長い独裁政権の間、鉄道会社は車輌を新しく製造したり、輸入する余裕はなかったため、周辺の東南アジア諸国と比べて経済が相当遅れていることが鉄道をみてもわかる。
 
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 (年季が入っている車輌たち)

 ミャンマーの客車の状態はかなり悪く、事実、古いものを今でも使ってる。1,252輌ある客車のうちの約32%。386輌ある機関車においては47%。3,311輌ある貨物車輌にいたっては56%程が40年以上も前の超お古だというのだから、これから経済発展が見込まれるこの国の政府としては、急いでリニューアルしなければならない。だから、融資してくれる国であればどこでもウェルカムであろう。因みに、ドイツやフランス、そして日本からも中古の車輌を無償で受けている。※3)

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 さて、列車はやがて都会の片隅からようやく解放され、それまでの手押し車のような速度の列車はようやく本気を出し始めた。気がつけば沿線の建物は少なくなり、変わって田んぼや畑、時々水に沈んだ浮き畑が窓の向こうに流れる。トラクターの代わりに牛がのんびりと畑の上で休みながらこちらを見、機械化されていない農村の風景にしばし心を落ち着かせる。広大な大地とグレー色の雲の境目あたりに、七色の虹橋がダブルに連なる気まぐれな雨季の空が、あちらこちらで大いに湿らせていて、やがて列車がその雫の下へ突入してゆくのだ。

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 (原野をゆく)

 列車はそれでもひたすら走る、走る、走る。雨が途切れ、一斉に日差しが差し込む頃、かすかに先頭の機関車から汽笛が聞こえ、光り輝く黄金の寺院が静かに彩を放ち始める。

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それは小さな駅を思いっきり通過する合図であり、ほんの少しだけ人の息吹を感じる瞬間を窓辺の私に与えてくれる。線路際の駅の周りの集落には、竹の材質の土台の上にヤシの木で造られた家々が並び、大人も子ども総出でこちらに関心を寄せる。中には満面の笑みと最大限の意思を表現するために両手を左右に振ってこちらにシグナルを送っている子どももいる。
 
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 (小さな駅を通過)

 そして列車はまた孤独な大地に舞い戻る。

 ヤンゴンから約2時間、ここまでノンストップで走り続けた列車から英国風の手動信号群が観えてくると、
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列車はバゴー(Bago)に到着する。ここは南方の モン州方面への路線が分かれる要所の駅だ。構内の線路際では黒牛が草をエッサエッサとむしり食べていて、その横に列車は‘ガツン’と停車すると、勢いよく待ち構えていた多種多様な売り子たちが一斉に乗り込んでは、商品の名前を連呼しながら車内を掻き分ける。

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(バゴー(Bago)駅)

 駅の造りといい、信号機から踏切、鉄橋のカタチといい、どれも‘ブリテッシュ’様式である。この余韻はパキスタンや本国イギリスを思い出してしまうが、この国がやっぱりイギリスの植民地であったことを改めて認識させられる。

 ミャンマー(ビルマ)の鉄道は、1877年、イギリス統治下の時代に、ラングーン(ヤンゴン)から北西のピイ(Pyay)までの262kmが『The Irrawaddy Valley State Railway』という会社によって開業したのが始まりである。その後、さらにまた別の会社によって、1884年にシッタン川(Sittang River)に沿いながらタングー(Taungoo)まで267kmが開業した。その路線は、今走っているヤンゴン−マンダレーの今日の大幹線の一部を成している。

 その後、内陸のマンダレーが第三次英麺戦争(英名:Third Anglo-Burmese War)でイギリス軍によって陥落されると、1889年までにそのマンダレー(Mandalay)まで開業させた。その後、路線はどんどん増えてゆき、1896年に植民地政府による『Burma Railway Company』という会社にまとめられ、1929年にインド政府からビルマ側に移管された。そして戦後の1948年、ビルマがイギリスから独立し国有化されると、それ以降は中国やインドの援助を受けながら少しずつ拡張してきた。しかし、他の東南アジア諸国との差は歴然であり、これから相当な整備が開始されるであろう。

 そんな未来を予感すると、今あるこの風景は後になってとっても貴重な一瞬になるかもしれない。開けっぴろげの窓、乗客たちの優しい笑顔、楽しい売り子たちの群れ。彼らはいつも水やジュースはもちろん、弁当にした調理モノ、カエルを燻製にしたもの、コウロギか何か得体の知れない虫をフライにしたもの、果物類、を頭の上に載せてこちらに必死にアピールしてくる。

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 (車内販売は彼らの貴重な現金収入源)
 
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 (得体の知れない食べ物たち)

 私はその中で、『ミコディー』という果物を選ぶ。少しプラムに似て皮はかなり硬いものだが、何かで叩いて二つに割ると、白いみかんの実のようなものが一杯詰まっている。それを一口入れると、舌全体に‘シュワー〜’と甘酸っぱさが広がりけっこう病み付きになる。列車の中ではいろいろな物が売りに来るので、車内買い物を楽しめるのも列車旅の魅力の一つであろう。
 
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 (旅のくだもの、ミコディー)

 列車はバゴーから本格的に北へ向けて針路を取るのだが、まだ全体の1割強しか走っていない。あとはひたすら原野と畑のレイルロードを刻むだけで、時々プチ嵐が襲ったり、その嵐の雲の隙間からインドへ傾いた陽が差し込み、その角度が0度になる頃、辺りはあっという間に闇が包みこんでゆく。

 街明かりというものはほとんど無く、その代わりに、弱弱しいほのかな灯りが村々の窓から炊き出しの余韻と一緒に窓から伝わり、心もとない車内の照明は実に輝きを増しているように見えるが、照らす乗客の疲れを一層濃く映すだけである。

 それでは良い時間になったので食堂車へ行ってみよう。

 続く。
 
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参考文献:
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm

その他

『Train travel in Myanmar (Burma)』 (http://www.seat61.com/Burma.htm
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会(2005年6月発行)
『地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)』 '11〜'12 ダイヤモンド社 / ダイヤモンド・ビック社
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2012年11月18日

最後のフロンティア 2 (ヤンゴン 自画像の旅 ) ミャンマー編

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 2.ヤンゴン 自画像の旅 

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 ヤンゴン環状線。1周およそ3時間である。

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(サークル線路線図)

 例えば、時計周りで旅でヤンゴン中央駅を出ると、1km程度走ってはすぐに停車場に到着し、人の影を吐き出し別の群れがまた吸い込まれる。それらの出と入りのカウントは常に激しく、静脈のように脈をつき、息を放っているこのヤンゴンの縮図が、私は妙に気に入った。

 彼らは、ただの通勤通学に利用している若者、バナナやパイナップルを大量に持ち込んでは輸送車代わりに利用している行商人、商売の宣伝をする怪しい青年、オバちゃんたちの井戸端。区間によっては大混雑する箇所もあるし、一気にガラガラになったりとなかなかワクワクする。
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(サークルトレイン車内の様子)

 一方、窓の外を観ると、木造の住宅から、鉄筋団地のような住宅群。その傍らには、芯まで汚いどぶ川と水溜りが控え、それは猛烈に鼻につく重い異臭をふんだんに発し、やがて顔がつぶされそうになる時も。目を下方に向けると、線路際では軒先の列車が去るとちゃぶ台を広げたり、店を出しなおしたりて線路が商店街になっているところもあり、どちらも最強のエキサイティング。
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(線路端)

 しだいに郊外に放たれるにしたがって少しずつ駅間が長くなってくると、辺りは畑や更地が目立つようになる。『Golf Course』何ていう駅名もあり、かつてはイギリス人がここでゴルフでもしていたんだろう、と勝手に想像するしかない名前のその駅には畑しかなかったり、とイギリス時代の名残も感じることができる。

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(ゴルフコース駅付近)

 そのゴルフコース駅あたりがヤンゴンから一番遠い地点で、ここまで来ると都市の雰囲気はあまりない。その後、Wa Bar Gi駅付近で国際空港に近づき、再び都市っぽい喧騒が始まる。やがて、マンダレーからの本線が合流すると Ma Hiwa Gone駅。この辺りでもう運行サービスは終わりだよ、というような雰囲気が広がり、乗客がほぼいなくなるが、次の駅からまた乗り込んできて、列車はまたヤンゴン中央駅に戻ってゆく。
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(やがてヤンゴン中央駅に戻る)
 
 そんなサークルトレインに乗ってヤンゴンの町を感じるのもいいかも。因みに外国人は一周1ドル、駅のホーム上の事務所みたいなところで切符を買う。



 ● 旅行者から遠ざかる鉄道

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 この、人口約250万人を数えるミャンマー最大都市である旧首都ヤンゴン。その陸の玄関口であるヤンゴン中央駅は、イギリス植民地時代の1877年に開業した。陸橋から観るヤンゴン中央駅の構内は堂々とし、狭い線路幅の軌道が低いホームを挟んで秩序よく並んでいる。ミャンマー鉄道のレールの幅は1,000mm、つまり1メートルゲージで、タイ、マレーシアやベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国と同じである。

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 2010年現在、総延長5,403kmだが、そのうち41%ほどにあたる2,242kmが1988年以降に開業しており、つまり独裁軍事政権時代に造られたことになる。

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(ミャンマー鉄道路線図)

 とある新聞記事によると(※3)、2012-13年の計画では、中国やインドから融資を受けてさらに拡張してゆくらしい。インドは歴史的な経緯でシステムが似ているのでわかるが、中国とは関連がない。しかし、ミャンマーにおける政治的な中国の影響力の大きさが鉄道面からみて感じ取れる。特に中国は、機関車、貨車そして客車も多く譲渡している。

 そんなことを思うと、北側に正面を向いている今のヤンゴン中央駅のその駅舎は、どこかで観たような?。それは北京駅の駅舎に似ている、と直感的に思った。

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(北京駅舎:2003年)

 これも中国影響か?と思ってしまうが、調べてみると、この華麗で立派な駅舎は、第二次大戦でイギリス軍によって駅が破壊されてしまった駅舎に代わって、戦後、ミャンマーの建築家、シン・ユー・ティン(Sithu U Tin)によるデザインで、1954年に駅舎が完成したらしい。

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(現ヤンゴン中央駅舎)

 因みに、中央駅は将来的に30kmほど東の郊外へ移転する話があるが、詳しいことは分からない。

 その駅前は典型的な車だまりの広場を形成している。その真ん中に草木を植えた庭が‘ちょこん’と意外と堂々とした感じで佇み、大都会の真ん中とは思えない穏やかさが漂うロータリーである。それにしても外国人の姿が一切ない。それもそのはず、外国人はミャンマー人の10倍もする特別運賃が組まれていて、競合する長距離バスよりもはるかに高い設定となっているからだ。よって、よほど鉄道が好きではない限り、外国人旅行者がミャンマーの列車で長距離の旅をするなんてないであろう。

 因みに、ミャンマーの通貨はチャット(Kyat)。1ドル≒860チャット程度(2012年9月)が為替レートで、空港で換えることが出来る。空港のレートは悪くはなく、市内の闇レートでの交換はそれほどうまみはなくなったようにも感じる。

 お札は1、5、10、15、20、35、45、75、50、90、100、200、500、1,000、5,000,10,000、とあるらしいが、100以下はインフレのためほぼ存在価値なしでみる事はなかった。

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(ミャンマーの紙幣)

 外国人は、政府の運営するものや、宿の支払などは米ドル現金を要求され、両替も、ドルやユーロ、シンガポールドル以外はなかなか交換出来ない。因みに日本円は、不利ながらもヤンゴン市内の両替屋で換えることができるが、地方都市は難しい。

 100ドル換えると86000チャットに化けて出てくるわけだが、少し金持ちになった気がしても市内の物価はそう安くはない。宿代がヤンゴンの場合はだいたい13ドル程度、食事も3,000チャットが平均、タクシーも一回乗れば市内だけで最低2,000チャット、と、バンコクに比べてそんなに割安感は感じず、それでいてレストランや売られている物の品質は悪いので、物価安を目当てに来たらがっかりするかもしれない。もちろん、日本に比べれば格段に安いことは間違いないが。

 肝心の列車であるが、ヤンゴン−マンダレー間は、寝台だと33ドル、1等座席車30ドル、準一等が22ドル、一般座席車が11ドルとなっている。外国人は米ドル払いを必ず要求される。

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(ヤンゴン−マンダレー 鉄道切符)

 さあ、これから中部の都市、マンダレーへ列車で行こう。まずは切符だ。ミャンマーの長距離列車の切符の買い方はあほらしいほど面倒だ。まず、前売り券と当日券の売り場が異なる。前売り券は、駅南にある、鉄格子の窓口が並んでいるところで売られている。薄暗くて野良犬がたくさんタムロしている陰気な場所なのであまり行きたくはない。さらに前売り券は1日前から3日前までで、4日後以降の切符は買えない。電話も難しく、だから、忙しいあなたが、直接、人気のある寝台券など抑えるのはなかなか難しい。

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(離れにある切符売り場)

 さて、午後3時ころを過ぎると、中央駅構内は、ミャンマー各地へ走る長距離列車が続々と発車を迎え庶民の声に包まれ賑やかになる。私が目指すのは、中部にある第二の都市、マンダレーへ突っ走る5番列車だ。このヤンゴン(Yangon)−マンダレー(Mandalay)間は、日本で言う東海道線みたいなもので、全線複線化されている一大幹線といっていいだろう。

 マンダレーまで通しで走る列車は上下3本。622kmを約15〜16時間かけて走るのだが、近隣諸国の列車と比べてなかなか遅い。因みに、日本で同じような距離をディーゼル列車では、1980年(昭和55年)の函館〜幌延間の急行列車でみるとそれでも11時間だから、よほど遅いか分かる。

さあ、出発!

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続く
参考文献
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm
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2012年11月15日

最後のフロンティア 1 (サークルトレイン) ミャンマー編


 1. サークルトレイン(ヤンゴン)

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(ミャンマーの位置)

 ミャンマー連邦共和国、通称『ミャンマー』、※1)人口約5200万人、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接する国である。南北の最長距離は約2,000キロ(南へ約700キロの方は尻尾のように狭い)、東西の最長距離は約1,000キロ、面積は日本の約1.8倍の大きな国だが、隣国タイと同じレベルの規模の国だ。

 しかし、タイと違うのは、この国は長らく中国影響下の軍事独裁国家だったこともあり、ずいぶんと遅れた国という印象がこびり付いているが、事実そうである。だが、国を開けた今、政治が後ろ向きにならない限り、これから急速に経済発展することは目に見えている。そこで、今のうちに未開の鉄道に乗ってみよう、という事で、

『ミャンマー、ジャンピングトレインの巻』
と題して、ヤンゴンからマンダレーまで約600kmを走破してみよう、という企画を立て、財政の壁と戦いながらバンコクより北西の旧首都へ飛んでみた。
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(ヤンゴン国際空港)

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(日本製のバスが早速お出迎え)

 バンコク国際空港に比べて笑ってしまうほど片田舎のように感じるヤンゴン空港から車で約30分、僧侶やアカデミックな若者が闊歩する喧騒の町、ヤンゴンが姿を現す。この大都会の町の造りは、海からやってきた侵略者たちが、大河ヤンゴン川から這い上がるようにして占領し、そこを拠点にしてビルマ全土に広がっていった名残でもある。
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(植民地時代の建物が堂々と。ヤンゴン中央郵便局)

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(日本語のロゴのトラックはある意味でステータス?)

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(ヤンゴンの街の喧騒)

 そんな歴史のおかげで、河に面した平たい一角がこの町の中で最も忙しい地域であり、そこは狭い区域に薄汚いビルや粉汚い複合建物がブタ小屋のように乱立している。そんなグチャグチャな路地を北へ歩いていると、やがてうっそうと茂った緑がポカンと広がるエリアが目の前に広がる。

 実はそこはヤンゴン中央駅。駅構内と大雑把なヤードが実に無駄なスペースを陣取っていて、太陽に向かって激しく伸びる雑草たちのおかげで線路が消えかかっている。望遠越しに覗いたその雑草から‘グーン’と広角にレンズを広げれば、そのヤンゴン駅は避難場所のようになかなか大きく観える。

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(広い構内のヤンゴン中央駅)

 駅にはいくつかの列車が屯(たむろ)し、やがて煤を吐いた機関車が‘ゴットンゴットン’と軽そうな客車たちを引き連れて車輪の鈴を鳴らしながら陸橋の下で唸って行った。駅からは東西方向へ一線しかないが、いくつかの近郊路線がヤンゴン首都圏にはあるようだ。

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(客車列車の近郊線)

 その中で環状線(サークルトレイン)というものがある。東京で言えば山手線みたな存在か。しかしこちらは電車ではない。例えば、機関車が5輌〜以上の客車を引くぱってゆくタイプのものが主流で、駅間距離は1キロ程度のものがほとんど。よってかなり鈍足である。

 一周が45.9km、山手線の1.3倍、駅数39駅、およそ200輌の客車で毎日10〜15万人が利用している。最も運転間隔が短いのが、朝どきの15分であるが、2012年9月現在、以下のような列車本数だった。
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(サークル線路線図)

8;20,/8:35,/10:10,/11:30,/11:50,/13:05,/13:40,/14:25./

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(サークル線列車)

 本当にこれだけなのか、ちょっと疑ってしまうが、上記の列車はあくまでも完全一周するタイプのもので、区間列車がまだけっこうある。しかし、けっこう頻繁に予定時刻が変わるようなので、もし訪れるのであれば、このスケジュールはあまりあてにはならないであろう。※2)

 面白いのが、馴染みだった日本の気動車と、ここでかなりの確率で出会えることだ。今回は、JRのキハ58や四国で活躍していたキハ47、そして九州の松浦鉄道出身の気動車たちと出会えた。

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(松浦鉄道出身)

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(四国出身)

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(北日本出身)



 ではサークルトレインに乗ってみることにしよう。

 続く・・・

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参考文献:
※1) CITY POPULATION :『 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) http://www.minamitours.com/yangon_circular.htm
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2012年10月30日

7.泰麺世界の旅(タイ編)タイ国鉄北部線 2 夜より長い夜行列車

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(1からの続き)
 日差しの下の夜行列車
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(森の中に伸びる鉄路)

 改めて言います。私は寝起きの悪さが自身の人生において最大の大損を引き起こしている痛感しており、これは、亡くなった恩師にもかつて言われた事があります。

 そんなことはどうでも良いとして、列車の刻みは夜が明けたようです。遅い目覚めからしばらくボーとし、われに返って下段へ降りる準備をすると、あまりにも蚕だなが狭いため体の方向転換がなかなか出来ません。ようやく足先を金属製のはしごに乗せて下に降りられる感触を得た瞬間、足を踏み外し、無様なカエルのように‘ベタン’と下に転げ落ちてしまうではありませんか。上段はやっぱり若くなければ大変です。
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(二段寝台の細いはしご)

 通路はまだ静かな時間が流れていて、下段の酔っ払いはまだ眠っているため窓の外が観られません。仕方なくドアの方まで歩くと、揺れで通路上に転がった荷物につまずき、また“ベタン”。ここでまた体を痛めます。やれやれ・・・

 ドアは思った通り開放されています。首を出し、斬る風に身を投げ出すようにして外を眺めると、列車はどうやら森の中を走っているようです。ここがチェンマイからどのくらいの地点なのかさっぱり分かりませんが、辺りに人家も道路もない山の中をひた走っているだけです。列車にとっては昨晩から続いている劇場の一環ですが、私にとっては目覚めたばかりの第一回シーンですのでとても新鮮です。ここでトラでも出てきたらなお面白いでしょう。
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(外の空気が気持ちいい)
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(ドアは開放)
 ひとつ思ったのですが、タイの線路の周りはごみがそれ程ありません。それはミャンマーの線路際を比較してから思ったことですが、かの国ではまだまだ衛生概念が未熟のため、ポイポイ窓からゴミを放り投げる習慣が根強いです。一方、タイではそんな事はあまり無いようで、ここらが成熟国家とそうでない国との境目の一つの目安である、と確信しています。

 このタイ国鉄(State Railway of Thailand 《SRT》)北部線(Northern Line)は、1897年3月26日にバンコク - アユタヤ駅間が開業したのが始まりで、同時にタイの鉄道の出発点でもあります。その後25年かけてチェンマイまで開業させました。現在はレール幅(軌間)1,000mm、タイ国鉄において最も重要な幹線として位置付けられていますが、競合するバスや飛行機より相当所要時間が長いことから、地元客からはあまり人気がない、と聞きます。

 さあ、レストランカーに行きましょう。そこでは、タイの“フワ〜ン”とした、おちょくっているような演歌調のポップミュージックを爆音で奏でているところです。その中で鉄道警察官たちが暇そうに椅子に‘ドテン’と居座って、ひまわりの種を口に運びながら、何やら同僚たちと世間話で盛り上がっています。このやる気のない適当ワールドが私は好きです。
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(食堂車の世界)
 ミャンマーでは、どうしようもない不良少年・中年たちが鉄道員も交えてトランプ遊びに興じて盛り上がっているところに、鉄道保安警察官が現れて、厳ついカオで一喝していたのを思い出すと、全然国情が違いますね。

 メニューはそれほど種類はありません。そこで、ありきたりなおかゆとコーヒーセット100バーツ(約270円)を注文すると、意外とナミナミお椀に入った朝食がドン!と出てくるのです。100バーツはタイの一般的な物価感覚からするとかなり高級な食事ですが、ここは食堂車、まあ許せましょう。
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(けっこうタップタップにおかゆが)
 しかし、寝台車でしつこいボーイにビールを一本仕方なく注文すると、なんと150バーツもするんです。これは許せません。私は駅の売り子以外で金輪際列車内でボーイに物を注文しないことを誓います。

 さて、発車から約11時間、列車はデン・チャイ(Den Chai)という駅に到着します。さすがに一晩かけて走ったのでけっこうな距離を走り、地図上だとチェンマイまであと一息のように感じます。しかし、ここからは峠道の連続で、川に沿いながらエッちらおっちら蛇行しながら進むのでちっとも先に進みません。先進国のように長いトンネルでズドン!と突き抜けるような芸当はまだ出来ず、列車はまだまだかなりの時間をかからせる余韻を与えてくれます。
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(長いトンネルにズドン!)
 茶色い川はやがてか細くなり、ついには森の中で潰えます。するとタイ国鉄最長トンネル、クンターントンネル (全長1352.10m)が現れ、そしてトンネルを出れば峠の駅、クンターン(Khun Tan)駅に到達します。ここはタイ国鉄の中で最も標高の高い駅で、標高578m地点にある、小さな小さな山の中の駅です。ここからは下り坂の連続で、バリバリ音をたてながら勢い欲突っ走ります。
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(標高を伝える駅名版)
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(峠の駅)

 ところで、寝台車の様子ですが、さすがに昼の11時を過ぎた頃になると、下段の人間たちもカーテンを開けて活動をしています。すると、若干のタイ人を除いて外国人観光客ばかりではありませんか。それも中国人と欧米系で比率は二分されています。日本では決してみられない光景でしょう。
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(外をじっと眺めているファラン《ガイジン》)
 車内の写真を撮っていると、ある二人組みの女性中国人旅行者から声を掛けられます。英語で返答したらあちらサンは事情が分かったようで、すぐに英語で返してくれます。どうやら私は他の中国人乗客と様子が違うので、何人か、と言いあてっこしていたようです。

 すると、流暢な日本語で話をしてくるではありませんか。彼女は中国・深圳市で日本企業で通訳で働いているとの事で、身に着けている腕時計や携帯電話、カメラを見るとかなりお金持ちのようです。彼女によると、今、中国では外国旅行がかなりのステータスのようで、タイはその行き先として最もポピュラーとの事。

 この旅では日本語が出来る外国人とけっこう出会ってきましたが、それに対して私は日本語と英語しか出来ません。この差は何なんでしょうか。相手の母国語が一切出来ないなんてちょっと寂しいものですね。

 それにしても日本語が出来るセクシーすぎる彼女のその服装はどうでしょうか。もう薄着そのもので 、男である私をムラムラさせます。タイ人と比べて自由奔放で活動的で、中国人、恐るべき、とつい思ってしまいます。私は富裕層の中国の人と結婚する、という選択肢がもし自分のところに転がってきたら、喜んでさせてもらいたい、と勝手な妄想につい苦しんでしまいました。
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(美しい中国人)
 夜行列車は時刻表上より約2時間半遅れています。太陽は昼を通り越して午後を指し、本当ならばこの辺りでチェンマイに着いているはずですが、まだ列車はナコーン・ランパン(Nakhon Lampang)という町に着いたところです。ここで何輌か切り離し、少し身軽になったところで最後の峠道をゆきます。
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(お釈迦様、仏様は駅にも集う)
 16時が近くなった頃、ついに待望のチェンマイ到着の知らせが車掌より伝えられると、中国人たちは喜び歓喜し、デッキのステップで座りながらボ〜と流れる景色を眺めていた欧米人たちは荷造りに勤しみ始めます。

 15時50分、列車は751.42kmを走りぬき、定刻よりも2時間半ほど遅れてチェンマイ(Chiang Mai)に到達します。チェンマイの町は列車からは分からず、田舎風景からいきなり町が現れた感じで、チェンマイ駅も三つの行き止まりホームがこじんまりあるだけの小さな駅です。バンコクより17時間の旅の終点にしてはちょっとあっけない感じはする終着駅でしょうかね。

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(チャンマイ駅到着)
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2012年10月28日

6.泰麺世界の旅(タイ編) タイ国鉄北部線 1 寝静まった列車

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 胴長足短、メガネにやや髪長の私は、どうやら壱っ発で日本人と分かる風貌をし、車内にいるアジア人たちを差し置いて私だけがご指名を受けます。

「ハロ〜オウ、ないすみーちゅう。ミー、ナゴヤ、タジミ、セト、オオズ、ビジネスビジネス、ジュライー ゴー、ジャパン グッド!」

 傾いたテーブルの上に、タイの大衆ビール『シンハー』の空き缶をいくつも並べながら、黒ぶちメガネ男は上機嫌に私と壊れた会話を楽しんでいます。これはタイの夜行列車のありきたりな一風景、ミャンマーと同じようにこの国でも私を一人にさせてはこれないようです。
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 今の日本の鉄道旅においてはあまり目にしなくなったこんな光景も、世界列車の旅にはまだあります。そして物語もあります。見知らぬ者同士の自然な語らいが滑らかに集う人間臭さを感じる旅が、私はとても大好きです。

 今、私はタイ国鉄の夜行列車に乗って北部の都市、チェンマイ(Chiang Mai)に向かおうとしています。そのチェンマイはバンコクより約751km、一般的な急行列車で約15時間かかりますが、さらに雨季である今の季節はあまり時刻表どおりに走ってくれることは期待せず、遅れてもマイペーンライ(ノープロブレム)思考が必要になるでしょう。

 バンコク側始発駅のバンコク・フアランポーン(Hualamphong)駅はただ、『Bangkok』としか案内されていないものが多いですが、そのフアランポーンは、タイの田舎の人々の多くが『 กรุงเทพฯ (クルンテープ)』と呼んでいるそうです。そのバンコク中央駅は、なかなかの威厳があり、欧米式のドーム型ターミナル駅に、ディーゼルの煤を巻き上げながら到着する機関車のとどろきは血をみなぎらせます。そうです。タイは鉄道王国なのです。
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(バンコク・フアランポーン(Hualamphong)駅)

 タイの鉄道は、周辺の国々と比べてかなり整ってきている、と断言できます。ミャンマーの列車を体験した後なので相当深くそれを感じてしまうのは仕方がないでしょう。例えば、寝台車には冷房が効いている車輌もあり、食堂車ではテレビ、清潔なトイレには洗面所もあるなど、色々な面が隣国とは違いすぎます。私にとってタイの列車はかなり快適な空間なのです。
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 ここまで書くとまるで先進国の鉄道のような趣きを想像するかもしれませんが、設備面で誉めるのは オッとここまで。あとは期待通りの東南アジアの鉄道のノリ があちらこちらに転がっていて、走っている最中に勝手にドアをこじ開けて写真を撮ろうとしてもお叱りは受けません。さすがです。
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 この、中途半端な先進国っぷりと、隠し切れない発展途上国ぶり、そしてわが道をゆく東南アジアの適当っぷりが、また、私をとりこにさせてくれるのです。それが私にとってのタイ王国。

 さあ、バンコク・フアランポーン(Hualamphong)中央駅を23時半ごろにノコノコと出発した急行列車は、やる気なさそうにネオンが遠くに光るバンコク市内をトロトロ走ります。
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(闇を北へゆく列車)
 
 実は時刻表の上では22時発でしたが、出発の段階ですでにもう1時間半ほど遅れている計算になります。どうして遅れているのか分かりませんが、おそらく雨の影響でしょう。

 タイの夜行列車の多くは、昼間に着いた車輌の折り返しで使用することが多いので、昼の段階で遅れて到着したら、後のスケジュールに影響を及ぼすというわけです。そんな案内を中央駅の案内放送はしていたかもしれません。しかしながら、駅のタイ人の英語は本当に何言っているのか分からなかったため、遅れの原因を知るには翌日になってのことでした。

 散々待った末、ようやく列車が現れます。その列車は、機関車を先頭にして15両のくたびれた客車を引き連れています。そのうち前2輌は荷物車と乗務員用車輌、
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5輌は三等車、

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5輌は二等車、

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1輌は食堂車、

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そして2輌は二等寝台車という内訳で、

寝台車も空調『あり/なし』で別れています。暑い季節は空調ありの車輌が断然良いかもしれませんが、それ以外の季節だとエアコンが効きすぎて逆にブルブル寒気がしてしまうほどサービス満点を通り過ぎる地獄を見る可能性もあるので、一概にエアコン車輌がグッド!というわけでもないのです。私は以前、マレーシアからタイへ鉄道で通した時、まさにその体験をしたので、若干エアコンの恐怖があります。

 しかし、今回はそれほど冷蔵庫ではないですね。これは助かりました。おかげで十分快適な睡眠をとることができ、よって、おそらく翌日の撮影の準備は問題なし!です(コンパクトカメラですが)。

 ベッドは線路と並行して二段の蚕だなのように通路を挟んで並んでいて、ミャンマーのようなコンパートメント部屋ではないのでプライバシーの“プ”の字もありません。屁をしようが、パンツ一丁になろうが、個人の自由ですが、みんなに筒抜けであることを添えて記しておきます。

 それでも、西洋人なんか堂々と着替える者もいたりしますね。そして車内の秩序はいたってよく、夜中の2時あたりに差し掛かれば皆お利口さんに寝静まり、両側の寝台ベッドは見事なくらいに両側をカーテンの幕がびっしり仕切られている、ナイトバザール閉店のような光景なんです。そんなのを観ると、なんだか面白く感じます。
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 翌朝、蚕だなの上段でスヤスヤ眠っていた私はようやく遅い目覚めが始まります。実は夜明けと陽の出の様子を写真に収めたかったのですが、叶いませんでした。私はこの寝起きの悪さがとても人生において最大の大損を引き起こしていると認識していて、かつて亡くなった恩師にもこれを言われた事があります。

 さあ、遅まきながら昼の列車を楽しみましょう。
(つづく)

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2012年10月26日

5.泰麺世界の旅 ミャンマーの悩み

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引き続きミャンマーです。

旅行者としての立場から見るとそれほどこの国の悩みなど感じませんが、いろいろとマャンマー人の話を聞いているとなかなか難しい問題もあるようです。

 街を歩くと、意外と多くの大陸漢字を掲げた店や企業の看板が目に付きます。広告や車に描かれているロゴなどもそうです。ミャンマーは今、過熱していると言っていいほど経済が熱いです。そうした経済の発展の裏には、やはり中国の影があり、金持ちの多くは中華系マャンマー人、もしくは中国人たちです。華僑ではありません。

 私は、シェアタクシーで中華系マャンマー人と一緒になりましたが、彼らの身なりや持っている携帯電話の様子から、一般のマャンマー人とは違う印象を受けました。たまたま私と一緒だった彼らはみな良い方々ばかりだったので、悪い印象はありませんが、多くのマャンマー人にとっては、中国は巨大過ぎて恐怖の念を抱いているようです。長年の対中接近政策により、街には大陸漢字が溢れ、ナイトクラブは毒々しい中国の匂いや余韻が伝わってきます。

 こうした中国依存に危機感を持ち始めたのでしょうか。政府はようやく重い腰をあげ、中国よるダム建設の問題をきっかけに西側に接近する外交政策に転換しました。今の国のリーダーである'テ イン・セイン(Thein Sein)'はけっこう人々に支持されています。
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 (テ イン・セイン《Thein Sein》ミャンマー連邦共和国大統領、BBCWORLDニュースより)

 しかし何と言ってもアウンサン・スーチー(Aung San Suu Kyi)さんでしょう。彼女は今は野党のリーダーにすぎないながらも、アメリカやヨーロッパへ精力的に足を運んでは自ら発信し、明瞭な英語力も助けて、欧米社会では大人気です。もはや実質的な外務大臣でしょう。彼女の影響力はすさまじく、これから多くの西側企業がマャンマーを目指すでしょう。

 しかし、あまりにも中国傀儡軍事政権の時代が長かったために、もはや脱中国は不可能に近い状況です。おそらく、前政権は中国からたくさんの利益を得ていた為に国の行く先を誤らせたのでしょう。マャンマー人の祖先はチベットから流れてきた人々です。チベットの惨状を親類縁者などから聞いているマャンマー人は、ようやく気づいたようです。

 これは日本も他人事ではないような気もします。中国政府のやり方はあまりにも悪意がはびこり、気がつけば・・・という事も日本だってありえます。たまたま日本は島国であり、経済力があってアメリカの後ろ盾があったからこそ、AKBで騒いでいられるのです。

 マャンマーにおいては日本の影はあまりありませんが、街を走る日本語ロゴ入りの中古車や鉄道車輌、電化製品、などの影響で日本に接する機会が増え、そして日本語を学びたいと思うマャンマー人の増加や歴史的なことも影響し、対日感情はかなり良いように見えます。
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(ヤンゴン近郊を走る日本製中古気動車《ヤンゴン中央駅にて》)
 
 マャンマー人は仏教を敬愛し、国民性も日本と似ておとなしく、伝わるものに常に何か共感を見つけられる、そんな安心を与えてくれます。日本は、ピンチになったら味方してくれる友邦がありません。これからの日本は、アジアの信用できる友好国作りこそ重要なのではないでしょうか。

 先進国人にありがちな、ちょっと上から目線を直し、同じ視線で対等に接する事が大切で、それが出来る数少ない先進国は日本人だと、列車の窓の外に浮かぶ月を眺めながら想ってしまいました。
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2012年10月12日

3.泰麺世界の旅 明けない夜

 バンコク時間朝4時半、次なる国への期待よりも、「今日はいったいどうなるのであろうか」という鋭い不安ばかりが濃くなっていた記憶がある。

 洗練されたバンコク国際空港から飛びたった飛行機は、雲の中へ突入し、しばらくみなかった太陽の光線が天井界を照らしている。小さな窓の向こうはそんな軽やかな風景が広がりはじめた。この雲の白色、そして青い宇宙は先進国だろうか後進国だろうが、熱帯だろうが寒帯だろうが同じであることになぜ今まで気付かなかったのであろうか。

 バンコクから約1時間半、飛行機はヤンゴン国際空港に到着した。バンコクのそれと比べて熱帯の木々が滑走路周辺を取り囲む、田舎っぽい雰囲気をかもし出していて、それがいっそうこの国のうっそうとした情勢のイメージを増殖させていた。
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 ところが入ってみると、空港の入管や税関の係官は拍子抜けするほど暖かく、検査も全く厳しくなかった。おまけに空港の両替レートも悪くはない。ただし、この国は日本円からの両替は極めて難しく、USドルかユーロ、シンガポールドルしか受け付けてくれない。第一、1ドル≒859K(チャット)ていったいいくらなんだ、と思いながら90ドルを両替したら、意外数が多い5000チャット札にドカンと変身してくるではないか。第一、これがどのくらいの価値なのであろうか、と思いながら、札を15枚ほど数えていた。
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 初めての国は恐怖と好奇心の狭間で心を躍らせてくれる。街に出れば雰囲気や匂いから始まり、文字、話し言葉、お金、看板、信号機、人々の服装、車の形、バスの混雑度、道路の凹凸の具合、店先の様子・・・何から何までため息が出るほど戸惑いの塊が飛び出してきた。しかし、あっちに驚き、こっちに驚き、といった、若いころの感受性はあまりなく、そんな心を放棄してしまった自分が少し悲しくなった。

 そういう事で、ただいま、ミャンマー連邦の旧首都ヤンゴンにいる。
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 ところで、私が感じているその匂い、つまり余韻とは、かつて、十数年前だたっけな、カンボジアで感じたサバイバルな感触に似ているような気がする。見るもの映るものみな激しく、新鮮で、そして鼻にくる強い匂いをいつも感じている。例えば、どぶ臭い路上ででんぐり返しをするもの、駅の切符売り場が野良犬の集団で占拠されていること、屋台の飯が怖くて食べられないこと、煤だらけのタクシーの運ちゃんがどうにも信用できない・・・など、必ず‘匂い’がある。そしてその匂いたちは、私に生存をかけた旅をしている錯覚に久しぶりに陥らせるのだが、ただ、自分でも意外だと思ったのは、思いのほかうろたえることなく淡々と行動を起こしていることだった。

 その生存本能が最高潮に達したのは、昨夜のナイトクラブでの出来事だった。 少し詳細を話そう。いや、話さずに居られない。

 空港で知り合った日本人が、一人のミャンマー人を連れてきた。旅行エージェントに所属しているという彼の名は『ココ』というらしい。彼はごく普通のミャンマー人だが、英語が非常に堪能な男のようで、こういった輩で信用できるかできないかの分岐点は彼の眼である。それだけで判断できるかどうかは謎だが、そのあまり綺麗とは言えない目をみて、100パーセントとはいかないまでも彼にいろいろ教わることを決心した。
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 そんなわけで、彼の導きによりみんなで前のめりになって夜の遊びに繰り出した。初めての国でそれも初日の夜に危険度マックスの夜総会とは私も落ちたものである。私たちを乗せた車はヤンゴン市街のはずれの闇の住宅地の一角に足を留め、あれよあれよという間に、怪しい簡略漢字が掲げられている`とあるクラヴに吸い込まれた。
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 そのクラヴ、いやディスコはそのすさまじい音響と振動で来る者を惑わせ、なんだかいやらしくて危険な魔力を思いっきり拡散させていた。

 どうやら中国系の店らしく、ぼったくり100パーセントの按摩も兼ねそろえている、どうにもこうにも怪しい感満点の毒華があちこちに咲き乱れ、私は心の中でうろたえるしかなかった。ミャンマーはつい最近まで中国べったりの外交方針だったので、裏社会は完全に中国系が支配してしまっている。ミャンマー人にとって‘悪は中国から‘というのが概念にあり、これに危機感を持った現政権が急に西側へすり寄りの方針転換をしたのはそうした背景も一つにあるのだ、と後で聞いたミャンマー人は言っていた。

 さあ、夜10時から始まったディスコは、厳つい軍政の警察官の監視の下、まずは綺麗なお姉さん方たちによるファッションショーから繰り広げられ、どうにも血脈を上げさせてくれる薄着の赤いドレスのお姉さま方がステージでアピールしている。これは彼女たちの衣装を強調しているのではない事だけは私にも察しがついてしまい、そんな彼女たちを眺めていたら、この音響がやがて遠くに響くような妄想のお花畑に誘われてしまっていた。

 すると、私が日本人ということがどうもバレバレのようで、あちこちから女の子たちがスリ擦り寄ってくる。日本人は人気者のようで、忙しいったらありゃしない。基本的には私から声を掛けることが礼儀のようなのだが、ウインクや視線を生暖かく飛ばしながら、なかなかアピール力を誇示してくることに私もたじたじだった。
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 しかし、ミャンマーの物価は下手をするとタイより高い。その高さにがっかりの私だが、ここ女の子の相場も同様だ。男という生き物は悲しいものである。毒の蜜に誘われては今までどのくらいの日本人男が夜の餌になっていったことやら。

 時計は日付をまたいで1時...2時と回ってゆく。あれだけいたお姉ちゃんも次第に姿が少なくなり、もう、けっこう商談が成立したのであろうか。残っているお姉さまは次第に焦りが見え始めてきた。

 一方、私は一杯150円ほどのビールをチビチビ飲みながらこの雰囲気に酔っていた。もう疲れてしまい、ダレ てきた頃、一人の女が私の隣に座った。隣の椅子に座ることなど珍しくないのだが、彼女のは、いきなり私の頬の頭をつけ、乏しい英語で私を誘っては、瞳の力で私を彼女の蜜でがんじがらめにしてゆく。

 こうして気がついてみれば私はこの女の子と戯れるようになり、酔いに任せて記憶も放り出してしまっていた。
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 こうして長い夢の後、ついにディスコが閉まる時間となった。

 音響が一斉に静まり返り、大勢の人間たちが外に繰り出しはじめたその時、すると、私を誘った自称旅行エージェントのミャンマー人‘ココ’のところに7,8人の男たちが押しかけては何やら揉め事が始まった。現地語でエキサイティングしてゆく彼らが、何が原因で口論になっているのか私にはさっぱりわからない。

 そこに、別件であちらの方から鋭い声が発せられ、たちまち暴力沙汰の乱闘が向こうで始まった。そんな危険きわまるエキサイティングな雰囲気に呑まれたのか、こちらも悪の余韻がモンモンと垂れ込み、ついには喧嘩相手のタクシー運転手たちが棍棒や車修理用のバーを掲げては「殺すぞ!」ときた。これはまずい状況だ。本当にまずい。

 われわれは何でもいいからここから立ち去るべく1台のタクシーに無理やり押し込み、お姉ちゃんを含め6人を乗せた車は猛烈な急発進をして街中へ向かって逃げるように、いや、実際逃げているのだが、その場を去った。

 ココはタクシーの中でも興奮している。いったい何が起こったのか、場所を街中の食堂に変えて話を聞いてみることにした。

 朝4時、開いたばかりのその食堂では、クラヴでの怪しい雰囲気など知る由もなく店の従業員が煮込みのスープに夢中にっていた。そんな落ち着いた環境なのに、ココの興奮した声があたりを一気に鋭くするばかりだ。そこで、私は落ち着きを取り戻すため、全員に一杯のコーヒーをごちそうした。

 事情が少しわかってきた。どうやら、私と仲良くなったこの女が、実はクラヴのボスのお気に入りの娘だそうで、手下のタクシー運転手たちがココに殴りかかるようにして鬼の血相をしていたのは、
「彼女の要求を少しでも拒んでみろ。お前は生きては出国させないからな!」
という内容だったらしい。おまえとは、私のことである。それを聞いて私は血が引いてゆくように青ざめた。

 ココは、
「おれはただ通訳をしただけだ。何で俺がこんな目にこんな目にあわなければいけないのか!でも悪いのはあなたではない。でも、今後のあなたのことが心配だ」

 女は私の隣にまだいる。さて、いったい私はどうするべきなのか。長い一日の明けない夜はまだ続く。
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2012年09月16日

2.泰麺世界の旅

2. バンコク通信難民

思えば、論文やレポートをせっせと書き上げている頃の暑い最中でした。それは8月の終わり、そろそろタイへの旅を画策し始めたころ、集中力を割いてはチャットやメールの返事に精を出している自分の姿がありました。

もはやバンコクで観光などいまさらしても仕方がない私は、インターネットでタイの友人作りに精を出し、何とか知り合った3人のタイ人の友人たちとコミュニケーションを取ることに成功しました。お互い英語が出来るので話が滑らかに進んでいきます。

印象としては、タイ人はどうやら日本が大好きな人が多いようです。AKBやジャニーズの嵐、そして原宿やシブヤにあこがれている子が多く、日本へ旅行に行きたくてしょうがない感じが伝わってきます。そんなに良いかな〜、日本?、いろいろやり取りしていると、先方の対日観が徐々にわかってきます。さあ、次は出会いの日への手続きにワンステップ進みます。

と、いうことで、今回の旅の前半は『タイ人の友人たちと一緒に遊んで交流を深めよう〜』、というのが今回のスタンスとなりました。

さあ、タイ入国の日を迎えます。
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ところで、5年前と大きく異なる点として、通信事情があります。
私が汽笛街道のユーラシア一周をした際の2000年一桁時代は、インターネットを通じて電子メールで本国の友人たちとやり取りする事がとっても画期的な瞬間でした。その後、街中にインターネットカフェがポンポンと芽が生えてはあっという間に雑草のごとく乱立したのを覚えています。

そして、ニホンゴも打てる端末も豊富にお目にかかれるようになり、旅をしながら随時外の世界と交信することが普通になりました。

ところが、今回バンコク中心部のスクンビット通りを歩いてみると、すっかりインターネットカフェが少なくなっている事に気づきます。あるのは旅行者が溢れる観光客相手の歓楽街や宿屋街くらいです。

なぜならば、タイにおける携帯電話の普及率が関係しているからでした。いまやパソコンから携帯、そして個人が普通に一人一台携帯とパソコンを持つ時代となったバンコク市民。当然、それまでのお客だった『携帯・パソコンを持たない通信難民』が少なくなったからです。

今回の私のバンコクの旅は、この通信事情との戦いから幕を開けました。
日本から持ってきたスマートフォンは、特別なバカ高い料金を払わない限り使い物になりません。唯一、WI-FIが使えるところに逃げ込んではニッポンスマフォでいちいち文字で返信したりするのは難儀なことこのうえない。

電話も、ストリートの公衆電話の多くはぶち壊されているものばかり。
コインを入れても通話はできないどころか、コインが戻ってこない可能性もあるシロモノに頭を抱えて、土砂降りの下、「こんなの我慢できない!」と叫ぶ始末。

そこで、ついにやってしまいました。それは、当地バンコクの携帯電話を手に入れたのです。

携帯代が800B、SIMカードが200B、その他100、飾り物100Bで、計1200B(約3100円)です。市内約60分間通話可能で、これが高いかどうかはその後の費用対効果で検証しなければなりません。全部タイ語で何がなんだかわからずかなり苦労しましたが。。。
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(みんなタイ語、英語すらありません)

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(`左〜がサムスン製のバンコク用携帯電話)

さあ、友人に電話をします。
「ハーイ、カズンだよ!」
「カズン?ホントニ カズン ナノ?電話、テニイレタノ?」
「うん、君とお話したいために」
「アリガトウ。デモ キョウハ イソガシイカラ ゲツヨウビ 二 アイマセンカ?」
「オブ コース!」
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てな具合で、今まで文字でタラタラやり合っていたのが一瞬で会話が成立。これほど電話のありがたさを身にしみたことはないです。日本の携帯電話は、いったん外に出てしまうとなかなか使えない、使えたとしても莫大な金額がかかるため、あっという間に通信難民になります。
中国や韓国の携帯は問題ないのに、日本という国の特殊な異様さを感じます。

バンコクは今日も重そうな空です。雨季のため、カラッと晴れる瞬間はなかなかやってこず、いつも上を眺めては、滴の嵐が落ちてこないか心配しながら歩いています。すると、‘どおお〜!`と言いながらあまりにも激しいぶっ太い雨がたたきつけてきます。

5年前と今と比べて、私が感じるバンコクとはそんなに変わっていません。ただ、食料品や遊びの物価がけっこう上げっていることと、公共交通網がかな整ってきた感じがします。

今、バンコク中心部には、MRTという日本の経済援助で建設された地下鉄と、高架式鉄道・BTS、そして空港連絡鉄道(Suvarnnabhumi Aieport Rail Link)があります。道路渋滞は相変わらずなのでとても重宝します。
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(地下鉄MRT)

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(高架式鉄道BTS)
地下鉄とBTSは5年前と比べてかなり路線長が長くなりましたし、朝・夕の通勤時間帯は以前よりも増して混雑が激しくなった感があります。

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(混雑する車内)

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(道路渋滞とBTS)
一方、前回、空港からのエアポートリンク(空港連絡鉄道)に触れた際、今までの国鉄在来線の様子を書きましたが、写真で観るとこんな感じで相変わらずです。
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しばらくしたらタイ国鉄にも乗ると思いますので、そのときに詳しく書きます。ちなみにこのような鉄道式の交通機関は本当にバンコク中心部だけで、ちょっと郊外に行くにはまだまだバスかタクシーしかありません。

次回は、タイの友人たちとの語らいや、夜の部を書くつもりですので、夜の部においては切り離してご報告申し上げ奉ります。
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1.ぶらり思いつき泰麺世界の旅

ぶらり思いつき泰麺世界の旅

1.現実逃避

ここには蝉はいません。まったくいません。聞こえるのは道路の喧騒と人々の小さなささやきの塊しか聞こえてきません。しかしどうも日本の延長線のようにしか感じられないのです。

成田を離陸し、5年ぶりとなる国外脱出にもかかわらず、心は他に向いていたような覚えがあります。5年も空いたのにちっともわくわく感やドキドキがないのが意外な感じがしました。

となりの座席の人が、食い入るように到着先のガイドブックを凝視して、「あれが不安だ」「これが不安だ」というような面持ちでいるのを、私がそこに横槍をいれて、その街の過ごし方、などをアドバイスをしている自分がとっても嫌な感じでした。

今、私はタイ王国の首都・バンコクにいます。東京から片道総額14200円。つい、画面のクリックを押してしまい、航空券を買ってしまったのが運の尽きでした。

バンコクに着いたのは、当地時間午後3時半。6時間のフライトでした。‘Aiecraftを降りるとそこは広大な空港敷地の端っこに追いやられていて、そこから入国審査、Baggage Claim`を経てついに入国!

昔はドンムアン空港というやや汚い空港だったけど、顔を覆い尽くす、あの「ムワっ」という熱気がバンコク歓迎光臨の鳴らし合図だったのだけど、今の空港は近代的過ぎてそんなものはありません。その代わり、「クロッサーン〜」から始まるタイ独特の案内放送を聞いたらたちまち元気が出てきました。
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5年前と大きく異なるのは、空港から市内に伸びる新しい鉄道、エアポートリンクが走っていることです。片道90バーツ(約230円)、以前はタクシーで渋滞に巻き込まれながら向かっていたのを思い出すと便利さが一気に増しました。これならボッタクラレなくてもすみますね。
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実はこの鉄道、タイ国鉄が運行しているのですが、財政火の車の路線でして、新幹線かと思うほどの立派な設備とターミナルを造ったのはいいのですが、お客さんがぜんぜんいません。私が乗ったときも1両に5人ほどしかいませんでした。こんな豪勢な造りで開業したのに、下に並行して走る国鉄の在来線はちっとも手を施していないようで、昔ながらの小汚いヨレヨレ線路が大渋滞の踏み切りのでかみ殺されているのが観えてきます。
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まあ、なんだかんだ言って今は喧騒の街バンコクでひっそり生きています。ただ、意外とやることが多くてのんびりしていません。今日はとある国の大使館に朝早くから行ってビザ申請の戦いをしてきましたし。

この事は後ほど書きます。さあ、旅が始まりました。

つづく。
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2012年09月13日

冷たい残暑

冷たい残暑

蝉がシクシク泣いています。

最近の夏は後にずれているような気がして、夏が好きな私にとっては、9月こそベストな夕暮れ時の夏休みと感じてます。

先般、わが恩師である生徒時代の先生が亡くなりました。享年75、ちょっと早すぎるんじゃないの?と、冷たくなった頭を触りながら思わず口に出してしまう。あまりにも静かな表情をし、それでいて厳しくこちらを今にも叱りそうな、そんなお顔を奏でていました。

恩師は、私が小学生のころ、小学校2年生だったけな、当時は近所に餓鬼ンちょたちがいっぱいいて、誰かしら習い事をしていた。特にそろばん教室は絶大の人気で、いつも教室に行けば、仲間が必ず何人かいました。

そんなごく普通の小学生の一人であった私が、恩師に見初められてそろばんの道をひた走り、中学の段階で1級を取得しました。そのころになると同級生たちは高校入試のために学習塾に通う子がほとんどになり、中学生になってまでそろばんをやっている子はごく少数でした。

それでも私はやめず、いや、そろばんが好きだったのかもそれない。本人にはその自覚はなかったのですが、恩師の叱る言葉が実に心地よかったのかもしれません。

そして、ついに運命は高校に移ります。
「おまえ、行きたい高校はあるのか?」
「市立か津久井浜高とかになるかも」
「だったら商業来い」

その言葉で私の高校生活が確定いたしました。無事入学を果たし、ふたを開けてみると、そろばん教室の恩師が今度は担任になるじゃありませんか。実に複雑な心境であり、そのような経緯があろうとは周りは知るはずもなく、私もあえて黙っていました。

所属した部活も珠算部。珠算の競技大会では、市レベルではもちをん一位でしたが、恩師は目にも留まってくれません。恩師の目指す先は全国大会でした。

そして私が3年生の時、そして珠算部の部長として、ついに神奈川県代表の一員として全国大会に行けたのでした。その年の大会は岐阜市で行われ、恩師はその岐阜までの鉄道に乗ることも楽しんでいました。つまり鉄道好きでした。

そんな縁もあって、北海道での競技大会では、終わった後に稚内行きの夜行列車に乗り込んでは北に向かっていました。翌朝、8月だというのに15度しかない車内で震えていた恩師に長袖のシャツを着せたのはいい思い出でした。

時が過ぎ、最後にお会いしたのは今年の7月。お見舞いのために病室をノックする前に、足音で解ったのですかね、「おい、ノムラ!」と叫んだのです。さらに、「おまえは結婚もせず、いいかげんしっかりせい!」とお叱りの言葉をいただいたときには、内心、「あ、大丈夫そうだな」と確信したのですが・・・

去る9月7日、恩師は突然、そしてあっという間に我々から離れて逝ってしまました。報を聞いた瞬間、悲しみよりも、大きな、大きな後悔だけが残ってしまいました。

恩師の最後の私への指示は、英語の教員免許を取れ!でした。現在、学生をしているのもそのためです。しかし、間に合わなかったのが悔しい限りです。

今年に入って、悲しみばかりが重なり、自分もなかなか元気がでていない、と悟るようになりました。少し区切りをつけるために、ちょっと旅に出てきます。もちろん、天国の恩師には内緒で。また怒られるかな。

「目覚めが遅い!」

1..1993.8月上旬 植田先生・礼文島〜 (3).jpg
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