2012年11月27日

マンダレーの霊魂 (最後のフロンティア 5 ミャンマー編)

P9221395.JPG
■米大統領ミャンマー初訪問、中国けん制の狙いも
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121119-OYT1T00705.htm
■北朝鮮、兵器物資輸出図る 対ミャンマー、日本押収 (朝日デジタル - 2012年11月24日5時55分)
http://www.asahi.com/international/update/1124/TKY201211230786.html

(アメリカのオバマ大統領が先日ミャンマーを訪問した。それまでならず者国家だったミャンマーが一気に国際社会の価値観を共有しようとしている。その証拠に、北朝鮮などの‘元友達’とは距離を置きつつある。ところで、日本の首相はまだ訪問の気配すらない。もちろん、過去にはまだ一度も訪問したことがない。西側の経済制裁を受けていたミャンマーであったが、日本は影ながらチョチョコ人道援助くらいはしていたが、あまりにも西側一辺倒の外交をやっていた為に、すでに現地では中国や韓国企業によって開拓されて出遅れている。最後のフロンティアといっても、日本のミャンマー進出はかなりいばらの道だ)。

 では紀行文に・・・
P9221392.JPGP9221366.JPG

● マンダレーの霊魂

マンダレー.jpg
(マンダレー市の位置)

 ミャンマー第二の都市 マンダレー(Mandalay、発音: [máɴdəlé]) は、※1) 人口約100万人、東西南北から鉄道が集まる交通のクロス町でもある。

P9231406.JPG

P9231409.JPG

P9231422.JPG
(マンダレー鉄道駅)

 ムダに豪華なこのターミナル駅から歩いて外に出ると、染みてくるように浮きあがる汗を覆うように、夜行列車明けの煤けた街の埃との戦いが始まる。それに参ってついタクシーを拾いたくなるが、料金交渉の気力はすでに無く、幌付き荷台トラックのシェアバスや、自転車お兄さんたちを捕まえては大都市めぐりをしながらホテルを目指す意欲もなく、ただただ客引きの誘いを断りながら干された足で街をゆく。

P9231405.JPG
(マンダレーの朝の大通り)

 一つ言えることは、ヤンゴンと比べてとても整った町並みで歩きやすい事であり、碁盤の目のようにカクカクした街の造りにやがて気づく。

 だから、マンダレーの宿屋街への地図を片手に持っていればなかなか迷うことはなく、またそれらは旧王宮の西側近くに集中しているので解りやすい。駅から歩いて20分ほどの所と断定してもいい。その旧王宮は、東西2kmほどの正方形の形をしていて、街はこの旧王宮の南側に市街が広がっている、といった感じだ。

P9221357.JPG

P9221362.JPG
(旧王宮)

 ところで、旧王宮の背後の北側の丘は、『マンダレーヒル(Mandalay Hill、発音:manta. le: taung)』と呼ばれている、標高236m程度の丘が控えていて、山ろくから山頂まで寺院が点在している礼拝のポイントがある。途中でいくつかの仏塔を拝みながら、頂上の寺院に登って行くのだが、なかなか勾配がきつくてとろけそうになる。ゼーゼー言いながら最後、屋根つき階段の脇に江ノ島のような土産屋群の参道のお出迎えに受け、そうしてやっと頂上に到着するのだ。

P9221379.JPG
P9221380.JPG

P9221377.JPG
(頂上の参道とお土産物屋街)

 そしてそこから眺める旧王宮やマンダレーの町並み、そして西側を雄大に流れるエーヤワディー(Ayeyarwady)川(旧称:イラワジ川)は一見の価値はある。特に夕暮れ時からの時間がお勧めだ。

P1000130.JPG
(マンダレーヒルからの夕陽)

P9221393.JPG
(マンダレー市街の夜景)

 さて、王宮があるということは、このマンダレーとはかなり古い町だと思うであろう。しかし意外にもそうでもない。この町は、実は19世紀中ごろになって当時のミンドン・ミン(Mindon Min)という王様が、ブッダの教えに従ってこの地に都を建設したのが始まりらしい。日本で言えば幕末あたりの時代であるので、つい最近出来た町のような感じだ。

 その後まもなくイギリスに占領されたために、王都としての歴史はほとんどない。さらに、第二次大戦が勃発し、日本軍がこの地を占領したために攻撃の標的になり、結局跡形もなく破壊されたのである。

 ご存知の通り、日本はあの時代、ビルマ(ミャンマー)を占領し、連合軍と過酷な戦いを繰り広げた。日本からはるか遠いこの南方の地でいったいなぜ戦わなければいけなかったのであろうか。それは、日中戦争と関係がある。

Burma1942[1].jpg

 日本は、大東亜戦争前は中国と戦闘状態にあった。もう少し正確に言えば、中華民国(国民党)軍と紅軍(共産党)軍を相手に中国大陸を舞台に戦いに明け暮れていた。戦争は数年に渡る長期戦となり、日本軍は国民党軍を追い詰めてもゾンビの如く復活してくる敵にだんだん疲れが出てきた。そこで司令部は、後ろからの補給ルートの存在に眼をつけた。それは援蒋ルートと呼ばれる、アメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路であった。この道がビルマ経由で雲南省へ通じていたので、この輸送路を遮断することによって国民党軍を弱らせる作戦に出た。こうして日本は、1941年12月に真珠湾攻撃で対米宣戦布告とほぼ同時にビルマにも進撃を開始、南から一気にビルマを占領した。1942年5月にはマンダレーにも到達し、当初の目的である輸送路の遮断は一応実現した。

ビルマに入る前の第15軍[1].jpg
(【☆】ビルマ戦線の日本兵)

 しかし、もう一つ別ルートが生きていた。そのため、国民党軍の壊滅には至らず、そうこうしている間に連合軍が反撃してまたまた泥沼の長期戦に陥り、気づいてみれば、戦線をあまりにも拡大しすぎた日本軍は総崩れ。各戦線で肉弾戦や玉砕が相次ぎ、ついにはマンダレー近郊で大敗北(イラワジ川会戦)を喫した。結局、日本はビルマから血の退却戦争を余儀なくされ、最後は地元のビルマ人勢力からも銃口を向けられ、玉音放送にてビルマでの戦争が終わるのである。

 ビルマ戦線に投入された303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、生きて帰ってこれたのは118,352名のみであった※2)。そして地元のビルマの人々や国土に多大な悲しみと損害を与えたことは紛れもない事実である。そんな歴史があるのに無関心・完全無知である事は、ミャンマーを訪れている私にとって‘それっていったいどうなの?’という感情をどうしても無視できなかった。

 今回の私のミャンマーの旅はとても短く、そしてスケジュールがぎっしり詰まっている。そこで、貴重な時間をあえて、少しでも日本軍に関係する土地を目指すことで鎮魂の意も含ませるために予定を変更し、かつての援蒋ルートを途中まで辿ってみることにした。観光地・バガンに向かうのをやめて・・・。

 なおご心配なく、それは鉄道探訪も兼ねている。鉄道&歴史を絡めて慰め程度に強引に目的を関連づけよう。

P9221394.JPG
 次回(来週火曜・27日ごろにup)に続く・・・

(参考文献・資料)
※1) 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) 『戦史叢書 シッタン・明号作戦』, pp.501-502。厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。

【☆】添付写真引用  『ビルマに入る前の第15軍』
posted by kazunn2005 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/60351665

この記事へのトラックバック