2011年10月23日

なぎさの中の孤島 (国境の島の歴史 ) 与那国島〜

  ここは国境の島

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 この島は国境の島だ。それは、他の離島とは違う重みがあり、厳しい現実の反面、可能性に満ちた未来も開かれる。

 さて、与那国同様、国境の島として似たような境遇にあるのが対馬(長崎県)だ。その対馬へ、与那国を訪れる直前に立ち寄ってきた。

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 (対馬の位置)
 
 対馬(島)全体の人口は約3万4千、本州・北海道・四国・九州の主要4島を除くと、第6位の大きさの島で、さらに周辺に100以上の孤島をちりばめている独立したワールド感の島だ。

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 (対馬の島影)

 対馬は対州(たいしゅう)とも呼ばれ、一島で『対馬市』という市があるだけだが、南北100キロある広い対馬を表現するには大きすぎ、合併前の旧市町村(厳原町・美津島町・豊玉町・峰町・上県町・上対馬町)で、ものを考える。

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 (対馬を縦断する唯一の公共交通)

 その北部、上対馬町の対馬北端部からは韓国が望むことが出来、岬から約49km先に韓国の釜山であるため、与那国よりも外国が近い。当然ながら、普通の国ではこういう場所は緊張区域になり、海栗島のように例外なく海上自衛隊と航空自衛隊の基地が備えを施している。かつては要塞だった。

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 (自衛隊の基地の島、海栗島)

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 (岬から韓国を望んだが観えなかった)

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 (実際、南側の海から眺めた釜山のまち)

 しかし、自衛隊が駐屯しているからといって韓国人観光客が敬遠しているかと思えばそうでもない。15年ほど前、対馬は国境の町という利点を利用して起死回生の作戦に出、韓国人観光客の受入れを決断した。そして今や韓国人観光客が来なければ対馬経済も成り立たないのも現実。一方、日本の観光客なんぞあまり来ない。

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 (韓国からの観光客で賑わう展望所)

 対馬観光が韓国側で大々的に宣伝されツアーが行われてきた結果、今では人気のコースだそう。その証拠に、私が対馬で出会った観光客のほとんどが韓国人で、この事業は何とか軌道に乗っているようにも観えた。よって、日本ばかりに固執していては展望が開けない、よい例でもある。

 しかし、光もあれば影も差し、対馬は韓国に対して多くの悩みを抱えている。まずはゴミ。韓国人からの持ち込みゴミは想像以上で、さらに海岸に打ち上げられる漂着ゴミはすさまじい量だ。中には違法に張られた漁業網、筒などの漁具、そして陸地からのゴミ、蛇が籠にたくさん詰め込まれたまま漂着する事もある(もちろん死んでいる)。

 近年問題となった韓国人による不動産取得だが、最近は手放す方が多いとのこと。一時期は、対馬にたくさんの韓国人観光客用の民宿が立ち並んだが、商売にならないとなると撤退も早い。

 もちろん、住民の間でも軋轢はあり、観光業に関係している方々と、そうでない方では考え方も異なる。しかし現状現実には逆らえないので、感情問題は、一歩一歩、徐々に理解を深めるしか方法はないように思える。

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 (こうした看板もある)

 ただ、韓国人観光客を大切にしない風潮が続くと、いざとなると困る場面もでてくる。これが直接の原因ではないが、現に大震災の影響で2011年は客足が遠のき、韓国側の船会社も週末だけの運行とし、それが韓国側、対馬側双方で不評を買う事態が起きた。韓国側による対馬観光産業はある意味ピンチと言ってよいかもしれない。

 だが、こうした観光交流こそが平和への礎となる早道であると思う。お互いを知れば、韓国の人も『対馬は韓国領』と騒ぐ人間も少なくなるであろう。もちろん、例外もいるが。

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  (船着場は韓国人観光客で賑わう)

 以上が対馬の例だが、与那国はどうであろうか。

 もう一度、この島の位置を確認しよう。

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台湾(接近部)約111km
石垣 約127km
尖閣列島 約150km
那覇 約540km
東京 約1,900km

 与那国から石垣と台湾へはほぼ等距離。那覇などは500キロも離れているので、島からの感覚ではとっても遠い存在であり、天気予報で那覇の天気を示されても目安程度にしかならない。むしろ台湾の天気予報を流してくれ、という感じだ。因みに、台湾のテレビは、技術的に観られるはずだがお目にかかる事はなかった。

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 (NHKでは、きちんと八重山地方の天気を伝えている)

 与那国島は、2009年には島に籍を置く定住人口がついに1567人(世帯数770)まで減少し、今(2011年)でこそ人口1600人程度だが、危機的な状況にある。

 しかし、戦前は4千人程度、さらに、籍を置かない滞在人口が常に約1万2千人から2万人もいたほど活気があった。(参照:『‘国境のまち’再生/与那国島の国境交流推進事業報告書』 与那国町、内閣府沖縄総合事務局発行〔平成21年3月〕)

 山手線の内側程度の面積の、特段資源もない島なのになぜ昔は1万人以上も人が居たのか。それは、当時は‘最果ての島’ではなかったからだ。

 与那国島の西、およそ110キロ程度に台湾が浮かんでいる。与那国から観た台湾は、それはまるで大陸を眺めているかの如く大きくて神秘的であり、台湾の高い山々がこちらを呼んでいるかのようだ。

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 (与那国から台湾を望む)

 台湾は、戦前は日本統治下であったため国境が存在しなかった。そのため、自由に行き来することが出来、琉球と台湾とを結ぶ架け橋の途上にある重要な中継点としてとても賑わった。

 与那国の民族資料館の池間苗さん(御年90歳)は、戦前の与那国を良く知る。
 
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 (池間さん)

 池間さんのお話によると、戦前は、三井商船の船が、内地と台湾の基隆港とに航路を開いていて、内地の文化が台湾を経由して与那国、そして琉球(沖縄)方面へ運ばれていった、という。つまり、那覇よりも与那国の方が文化的に洗練されていて、池間さんが那覇に行ったとき、内地のハイカラな服装を観た那覇の人に逆に嫉妬を受けたほどだったという。

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(台湾経由で入ってきた陶器、メイドイン ‘占領下日本’とあるが、これは、日帝時代の台湾製よりも、GHQに占領されていた日本が台湾へ輸出した可能性が高い)

 だからといって与那国島が決して住み良い島という意ではなく、『‘よなぐにしま’出身』とは恥ずかしくて言えず、池間さん曰く、『よなぐには‘いやなくに’』と当時そう揶揄されていたという。因みに、与那国の人は、与那国島のことを『ドゥナン チマ』と呼ぶ。チマとは‘国’の意である。

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  (戦前の与那国で使われた生活道具:与那国の民族資料館にて)

 台湾は近いが、一方、他の沖縄の島々とは距離が大きくあった。1936(昭和11)年以前は、与那国と石垣の間に船便は月に2,3便しかなく、電報ですらその船便で届くといった状況だった。

 その後、新里和盛という人が郵便無線の開設に尽力し、1936(昭和11)年9月、那覇郵便局無線との間で電信を開始した事が、与那国島最初のテクノロジーだった(プログ:与那国民族資料館参照)。いくら台湾が近いといっても、絶海の孤島には違いなく、しかしそれは、台湾との中継貿易で賑わう島において、無線一つもないのは国防上問題だったからもあるだろう。昔からそうした整備は遅れがちで、今の自衛隊問題にも通じるところはある。今では、郵便物は主に航空便で運ばれる。宅急便はみかけない。

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 (現在の与那国郵便局)

 そして、第二次大戦で日本が完膚なきまでに敗北して台湾が日本から離れ、与那国島がアメリカの施政権下になった。しばらくは密貿易という形で栄えたが、徐々に取締りが厳しくなり交流が途絶。以来、与那国島は一転して絶海の孤島+ただの辺境の島に転落してしまった。

 主な産業がない与那国島はこの60年間で大きく人口が減少してしまった。島を復活させるにはどうしたらいいか。それはやはり台湾との交流を進めるしか道はなく、与那国の行政は、国の支援も得ながら台湾との交流事業に力を入れてきた。

 次回は台湾との交流について書く。
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posted by kazunn2005 at 05:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行
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