2012年12月04日

シャン族の田舎まち (最後のフロンティア 8 ミャンマー編)

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(シポー《Hispaw》の位置)

 シポー(Hsipaw)の町に到達した。‘シポー’という呼び名は、地元土着の民族、シャン族による呼び名であり、ビルマ名ティボー(Thibaw)という。ここではシャン族名で標記する。

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(シポー(Hsipaw)の町)

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(町の中心にある郵便局)

 シポーは、その昔現在のシャン州北部 6つの藩の一つ、シポー‘藩王国’の中心地と栄えた。ヒマラヤや中央アジアなどの内陸の山岳地帯というのは敵が入りにくいからか、19世紀あたりまで藩王国で栄えていた例が多く、その独自文化が今も息づいている。パキスタンのカラコルムでもそうであったように、例外なく大国(イギリスや中国など)の侵略にあい、藩領と帝国との二重支配となって弱体化し、最終的には消えていった。

 イギリスに支配されたシポーの藩王国は物語が多く、英領時代のソーボワ(世襲藩主)はイギリスに留学させられた。つまり、意外と丁重な扱いを受けていたのである。そして最後の『ソーボワ』、サオ・チャ・セン(Sao Kya Seng)は、アメリカ留学中に知りあったオーストリア人、インゲ・サージェント (Inge Sargent )と結婚したが、1962年3月、ヘホー空港に向かう途中行方不明になった。後年、その妻が思い出を綴った“Twilight over Burma”という本をタイの出版社から出している※3)※4)※5)。
(英単語‘Twilight’とは、薄明りという意で、日の出・日没後のたそがれ時を意味する)

 その藩王国で栄えたシポーの町も、今では何の変哲もない小さな町に違いないのだが、内面は変哲がけっこうある。人々はビルマ族よりも少し日本か中国人ッぽい顔つきのように感じるシャン族の割合がとっても高く、女の子も、日本人好みの可愛らしい娘が元気よく町を闊歩している。

 子供たちは、勉強の傍ら店の手伝いに忙しく、それでも気まぐれに訪れた外国人に対して笑顔を忘れない。このシャン族食堂のこの子は、客が居ない間は子守や、学校の英語の宿題に忙しくて、それでも私と一緒に単語の勉強をしよう!と言うほど。どこの国も子どもは大変だ。

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(この食堂で元気一杯の女の子、みんなに愛されている)

 宿のスタッフとして働いている学生の女の子たちはみな働き者で、こりゃまた愛想がいい。将来は外国に旅行に行きたい、と答える彼女の賃金は1日3ドル。これでは一生かかっても実現できないのが気の毒だ。彼女はオーナーの悪口を言い始めてたが、すぐに笑顔に戻った。

 シャンについて何も知らない私は、思わず、
「ミャンマーとシャンは違うの?」
と質問した。すると彼女は少し厳しい表情を一瞬浮かべては、また笑顔に戻り、少しまじめな瞳で言い始めた。
「シャンは日本軍が撤退した後、アウンサン将軍によって独立を約束させたのよ。でも、彼が暗殺されたために約束が果たされず、ラングーン(ヤンゴン)の政府が強引にここを支配したんです。シャン族は彼らに苦しめられ、この町からもたくさんのシャン族が強制連行されたり、拷問を受けました。だから私たちは自分たちを守るためにシャン地方革命軍(その後北部・南部で別れる)を作って抵抗してきたのです。特にこの町はとっても緊張していていました。その後、この町で北部シャン州軍(SSA North)が休戦協定を結んだので今では平和です。」

 なかなか民族愛に溢れた少女の言葉は私の心にグサッと響き、改めてここはミャンマーであってミャンマーではない、シャンの土地なんだ、という認識を持った。今では平穏に見えるが、もし相手がラングーンの政府ではなくて北京の政府だったら、彼らはチベットのような状態になっていたであろう。

 政治の話は置いておいて、シポーの町を歩いてみよう。

 町は歩いて回れるほどの大きさで、昼間でも死んだように静まり返る日本の田舎町とは違い、どこの商店も品物が豊富で、通りはけっこう活気に包まれている。

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(町の青空野菜売り場)

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(お米屋さん)

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(やっぱりあった、倉庫代わりの日本バス)

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(今では比較的自由になった政治色もかかせない)

 そんな町の通りから一歩裏道に入ると、所々、鉄筋造りの豪華なお屋敷が点在しているのが目に入る。これらの多くは中国系の商売人の家らしい。そうと分かると納得することがある。町の商店には簡体字の中国製品が溢れ、町で一番華やかで豪華なレストランは中華料理屋であり、道路には中国からのトラックが頻繁に出入りしている。ここから中国本土まで約200キロ、遠くはないところに巨龍は虎視眈々と控えている。ミャンマーと中国の狭間の小さな民族の将来はいったいどうなるのであろうか。

 中華料理はどこでも食べられるので、あえてシャン族の料理を食べよう。脂っこくなく、意外とさっぱりしている麺類が多いので、きっと日本人にも食べられやすいだろう。
 
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(賑わいをみせる夜のシャン族の料理屋)

 因みに、シポー独自の名産品として、竹細工や野菜、そしてお茶などがある。私が茶工房でまとめ買いしたのが、ラパ茶と言われる、ほうじ茶に近いお茶。これがなかなか油料理に合う。

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(茶工房の様子)

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(当地の名産、ラパ茶)

 そしてシポーはトレッキングの人気名所らしく、ヨーロッパ人が勇んで狩にでも出向くかのようなノリで山の方へ歩き出している光景が、午前中であれば嫌でも目に入る。山には蚊もいるし、用事はないし、興味もない。私は山の中にある温泉にだけ行きたかったが、行ってきたスペイン人の話によると、散々探したけど見つからなかった、という話を聴いて、サクッとあきらめた。

 そんな山々が町に迫る小さな盆地にこの町はある。繁華街?から少し外れると、木細工で出来た小さな民家と、木々や畑に覆われた人々の生活の営みが感じられる。そこには、イギリスさんが置いていった小さな教会が、比較的賑やかな通りに潜む一方、

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(教会)
昔から伝わる趣深い仏塔が民家の外れの森の中に静かに佇んでいる。それは実に神々しく鎮座していて、つい思わず神を見上げるように立ち止まってしまうと、突然天から稲妻が舞い降り、激しい滴雨が私を寺に呼び寄せる。

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(神々しい仏塔)

 思わず境内の人となった私は、仏像に深くお辞儀をし、しばし何を想ったのか、心の寄りかかり先を求めていたかのように、滴の音を静かに受入れながらしばし無言で仏を見上げていた。

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(ミャンマーのお寺)
 
● 援蒋ルート鉄道

 さあ、鉄道の話にいこう。

 シポーの駅は、町の中心より少し西側に外れてひっそりと佇んでいる。草じゅうたんに覆われた鉄道の線路は駅構内に入ると姿を現し、かつては列車がここで上下行き違ったり、貨物列車でも留置したのであろう、数本の線路が平行して土に埋もれている。

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(草のじゅうたんに覆われた軌道)

 駅構内だけ草があまりない理由は、時折牛飼いによって導かれた牛たちが、構内の雑草をムシャぶり食い尽くすからだろう。ノッシノッシとどこからか現れた牛の群れが夢中になって駅の草をむしり喰っている、そんなのんびりとした時間が今流れている・・・。

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(牛が線路の草を 食べる、食べる、食べる)

 これが駅でのおおよその一日の大部分がそんな空間だ。しかし、一日2回だけ、駅は一瞬の目覚めを催したかのように賑わいを奏でる瞬間がある。それは、マンダレー行きの午前10時ころとラーショ行きの午後3時ころだけに現れる列車の時だ。

 さあ、次回は今回のミャンマー旅のハイライトである、シポーからの列車である。

 (つづく・・・)

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(ネコはここでは食べられないようだ)

(参考資料)

※3)『メコン圏を題材とする 書籍』 http://www.mekong.ne.jp/books/nonfiction/020801.htm
※4)『Burma Lifeline 』 http://www.burmalifeline.org/projects/bll_twilight_over_burma.shtml
※5)『シャン州を訪ねる』 http://www51.tok2.com/home/cafemondiale/nss1.htm
posted by kazunn2005 at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行