2012年12月31日

今年もありがとうございました

今年も一年ありがとうございました。

このプログに偶然訪問してくださった方々、わずかな読者ですが、大変貴重です。心から感謝申し上げます。

次はいつ旅が出られるか分かりませんが、厳しい日本でずっと監獄のように生きていくのも限界があるでしょう。きっとまたこのプログの更新で皆様とお会いできると思っております。

では、良いお年を。

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2012年12月25日

最後の汽笛街道 (最終回:最後のフロンティア 12 ミャンマー編)

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 2012年9月のミャンマーの風は温かかった。

 訪れる前は、軍事政権やら、北部カレン州の虐殺のような少数民族との衝突イメージがどんよりと暗くのしかかっていたが、いざ上陸してしまうとあっけなくそれらは消えうせた。

 確かに、今なお軍事政権だが、つい2、3年前に行った人のミャンマー観とは全く違う触り心地でこの国を観させてもらった。ヤンゴンで出会ったミャンマー好きの旅行者から聞くと、この国は2010年から急速に変化してきた、という。

 今、日本人がミャンマーを訪れる事はさほど難しくはない。東京か、バンコクで意外とあっけない手続きでビザさえ手に入れれば、堂々とバンコクから一日数往復ある飛行機に乗ることが出来、そのノリで旧首都ヤンゴンに到着すれば、もちろん難なく旅が続けられる。ただ、タクシーは料金をいちいち交渉しなければいけないので、空港から少々面倒を感じるかもしれない。

 さて、そのタクシーに乗れば、バンコクからの携帯の電波は少しも入らないのを確かめるや否や、外界からの‘隔離’も期待できよう。一方、高級ホテルではWI-FIサービスが届き始め、ここもやがて‘普通の国’になりつつある予感を与えてくれるだろう。10年もしないうちにこの国は、外国と電話&インターネット網に塗りつぶされることだろう。

 改めて、あのミャンマーの旅から早3ヶ月が過ぎようとしている。アウンサン・スーチー女史があちこちで話題を振りまき、最高指導者、テ・イン・セイン大統領が始めてアメリカを訪問し、そして逆にオバマ米大統領がミャンマーを訪問するなど、あまりにも急角度で密接な西側外交に舵をきっており、ミャンマーという国名がマスコミに踊ることがとても多くなった。

 まさに今、世界はこのアジア最後の未開の地となったミャンマーに熱い視線をそそいでいる。この国が近い将来、少数民族との対立が和らぎ、タイやインド、西側諸国と交流が深まれば、きっと陸上の国境も開き、東南アジア経由でヨーロッパから日本の対岸である上海あたりまで陸路で横断できる日がくるであろう。

 しかし、その頃には素朴で垢抜けていない今のミャンマーがあるであろうか。紀行文でジャンピングトレインと揶揄してミャンマーの列車の劣悪さを愚痴りはしたが、旅という心のへ窓から観ればこれほど面白いものはなく、後で振り返って、『古きよき開発前のミャンマー』として思い出されるのであろうか。あの心地よい劣悪さは、滲んだカラー写真のように過去の記憶としてすぐに始末されるかもしれない。

 あの人々はあまりにも勤勉であるがゆえに、まさに‘今’だけを追い求めて無我夢中なため、気持ちよいほど素直な心と顔の艶を置き忘れてしまうのではないか、と内心勝手な心配をしてしまっている。思い出せば、街でよく出会ったぼったくりや、両替商の詐欺などは‘悪’のレベルとはほど遠く、実は歯から笑いすら出てくるのだ。しかし、夜の街では、中国の影があるので、その悪のどぎつさは計り知れないが。

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(日本語学校の教室[マンダレーの『富士山』日本語学校にて])

 ミャンマーがなぜ今までのような中華帝国から離れ、いきなり西側とのお付き合いに急にハンドルをきったのか。それはいろいろな人が述べているのでここで詳しく演説はしないが、どんなに国内の少数民族同士が果てしないいざこざを続けようが、やはりこの国は平和を求めているのだ。これからも中国とべったりであれば、富は吸い上げられ、その代わりに武器が流入し、自分たちの祖先のふるさとであるチベットのようになるのが怖かったからかもしれない。ミャンマーは気づくのが遅かったが、ようやく行動におこした。

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 さて、一連のミャンマーの鉄道旅であるが、ここで終わりにさせていただく。都合、11泊12日、1国を周るにはあまりにも時間がなかった。ご存知の通り、ミャンマー鉄道では、外国人が乗れる路線は制限がかけられている。旅のガイドブック『地球の歩き方(ダイヤモンド・ビック社)』に乗車可能路線が載っているので参照してほしいが、今回、最新版として全路線ではないが自分で時刻を調べたので参考にしてほしい。

 いろいろと他にも行きたかった。特に南部方面の路線が乗りたかった。そちらの方は今回は足を踏み入れていないため、どんな景色が展開されるか全くわからないが、今回は空想旅行にとどめ、その手がかりとして、一応、列車の運行予定表と運賃を調べたので、いかに列挙しておく。

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※ミャンマーの一大幹線、ヤンゴン〜マンダレー線
 
 図Yangon-Nayoyitaw-Mandalay線 .jpg
 ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_1.jpg 
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※南部方面、アンダマン海沿いの路線
 
 図Dawel port線.jpg
 ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_2.jpg
 
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※(その他路線)
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A
Mandalay- Lashio.jpg
B
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C
図Yangon-Pyay線.jpg
 
ヤンゴン→マンダレー幹線 優等列車時刻表(2012年9月現在)修正_ページ_3.jpg

※2012年9月現在、筆者調べ

ミャンマー国鉄 ヤンゴン−マンダレー(2012).jpg   

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※ ミャンマーの鉄道は設備が古く、快適とは言いがたいが、快適を求める人がミャンマーを旅することはない、と信じる。そして鉄道好きは、本数が1日一本だろうが、バスの何倍の運賃を取られようが、それらの苦難を乗り越えて乗車するものとさらに信じる。汽車の味がいっそう濃くクリーミーに感じるであろう。

 何よりも、レールの上で疾駆している間だけ、あなたはどこの世界にも属さず、はるか遠い異国に地の雲の下で、インターネットとも繋がらず、バスのように運ちゃんの機嫌を気にせず、本当の意味での自由と解放を感じることができるだろう。そして、列車が終点になれば、また現実へと旅立ってゆくのだ。

(おわり)

修正.1996.3.02 島原鉄道 島原外港〜諫早 (5).jpg


次の旅はあるのであろうか・・・

http://www.kitekikaido.com/
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2012年12月18日

天空の軌道 (最後のフロンティア 11 ミャンマー編)

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 ミャンマー北部のこの地では、中国とのいざこざが近年になって急増してきました。どこの民族も、あの国家へ抱く感情は同じのようです。では、最終段階になった紀行話に・・・

(10からの続き・・・そして ナウンペンから約1時間、今日のスーパーカット、ゴッティー橋(Gokteik Viaduct)が眼の前に現れる。)

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(ラーショ線地図)

 巨龍の鉄骨が天を架けるゴッティー橋(Gokteik Viaduct)は、この鉄道旅の最大のターゲットでもあり、見せ場である。またあの谷が目の前に迫ってきたわけだ。

 思い出せば、車の道路旅で散々苦しんだ大崖のような谷は、紙に描かれる地震波のようなつづら折りで克服した。その谷が今度は今ゆくレールの先でまた迫ってくるのだが、道路橋の川幅よりもずっと広く、そして渓谷が峡谷になっている。列車は車よりも勾配に弱い。小回りが利かないためどうやってあの谷を越えるのであろうか。

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(一瞬姿を現したゴッティー橋の遠景)

 進行方向左手に、草陰の向こうにチラッと巨橋が一瞬姿を現した。そう、どうやら一挙に橋でぶち抜けるようだ。橋が観えたかと思うと、また草むらにもぐり、眼下にループの軌道を一瞬見つけては、急坂を斜め降りて蚊取り線香の形ように線形をクネクネ辿りながらトンネルを交えておりてゆく。

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(ゴッティー橋手前のループ状の線形)

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(橋が現れるのを待つ少女)

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(トンネルを出ると・・・)

 そしてもうこれ以上は無理!というところでそあのゴッティー橋が登場する。日本の餘部鉄橋を‘さらに倍’にした感じの大橋梁が、グランドキャニオンのような大峡谷をドーンと跨いでいるのだ。

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(ゴッティー橋(Gokteik Viaduct))

 この大鉄橋は、当時の支配国、イギリスが1901年に建設した(工期は9ヶ月間)。施工はアメリカの会社、『Pennsylvania and Maryland Bridge Construction社』が建設し、鉄はアメリカはペンシルバニア鉄工所から調達した。開業時は、当時の大英帝国の領土の中で最も高さが高い橋だった。その後、1950年に補修されたが、1990年に時のビルマ政府によって第二次補修工事が施され、とりあえず、放棄する意思はない姿勢を示している。橋の全長は689m、一番深い水の流れまでは高さ102m、14の橋脚塔に1つの二重塔を含めた橋梁からなる。そして当時のお金で約113,200英ポンドかかった※6)。

 イギリスは同じころ、スコットランドにも鉄骨製の大橋脚, フォースブリッジ(Forth Bridge)を建設しており、当時の大英帝国の国力をうかがえさせる。芸術として、そして歴史遺産としても貴重な存在だが、建設後この橋は、中国国民党軍を背後から助けた実用的な実績もある。1930年代後半、ラングーン(ヤンゴン)港に荷揚げした物資を重慶の蒋介石支援の為に輸送した際に威力を発揮した。

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(イギリス フォースブリッジ[2002年筆者撮影])

 そんな歴史は遠に忘れたの如く、ローカルな列車は、まるで歓喜する乗客たちにしばしの空中散歩を体験させてあげようとあえてゆっくり、ゆっくりと歩くような速さで惰走しているかのようで、とびっきりのエンターテインメントをいただいた感じである。思い起こせばここも写真撮影禁止と聞いていた。しかし、目の前の旅行者は堂々とフラッシュを焚いており、改革解放によって昔のような厳しいものはなくなった証かもしれない。

 
 (動画6:ゴッティー橋)

 橋を渡り終えるとソロリソロリと ゴッティ駅(Gokteik)に到着する。

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(ゴッティ駅(Gokteik)に到着)

 因みに、マンダレー方向からやってきてこの駅で降り、橋脚を渡って次の駅まで歩いたところで、逆からの列車がやって来るタイミングもありなので、そうした日帰りスケジュールも組めてしまう。

 その後列車は、再び峡谷を登る坂道をくねり登り、振り返ると、はるか後方にさがったゴッティー橋の最後の遠景が小さく、小さくなってゆく。

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(最後のゴッティー橋の遠景)

 さて、台地に到達したあたりでナウンショー(Nawnghkio)に停車。すると、ここで思いもしなかった、貨物列車との行き違いと出会う。見捨てられているかと思っていたこの鉄路であったが、貨物輸送の担い手としてまだ活躍していており、そんな貨車の汽笛を聴けるとは実に嬉しいものである。

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(出会ってしまった貨物列車)

 この駅でしばし賑わいを感じていればすぐに発車時間となって、列車は再び西を目指し始める。こうして一連のハイライトが終わったからであろうか、車内には倦怠感が漂い始める。

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(小さな駅での出会いと別れ)

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(蒸気機関車時代の名残り)

 徐々に木々の高さが低くなり、気温も少しながら涼しくなってくると高原地帯に入ってゆく。‘軽井沢ゾーン’に入ってきたようだ。

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(高原地帯をゆく列車)

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(焼き畑農業の火・・・)

 突如、雲行きが怪しくなり、進行方向がかなり視界が悪いゾーンが出現。間違いなく雨が降っていると察知し、急いで窓を閉めれば案の定、土砂降りが雨戸を叩く。

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(突然の土砂降り)

 そんな土砂降りの中、列車は17:10、ゴッティー橋から55km、定刻より約1時間強遅れて高原の町、ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)に到着する。ビシャビシャになったおんぼろ客車だが、深刻なトラブルもなく何とか140キロを走りぬいたのであった。

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(ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)駅到着、標高はフィート標記だ)

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(高原の町の名物、イギリス馬車)

 時刻表通りだと列車は17:40に発車する予定だが、駅員に聞くと、あと数十分は発車しない、との事。そうすると、マンダレー到着が午前0時を過ぎる可能性もあり、それは実に困る。なぜならば、宿の確保に問題が生じるからだ。楽しみにしていたこの先のスイッチバックは闇の中で観えないだろうし、私は断腸の思いでマンダレーまでの汽車旅を断念し、ここからピックアップバスでマンダレーに向かうのであった。

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(ピン・ウールィン駅舎)

(次回は最終回&あとがき)

※1) 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) 『戦史叢書 シッタン・明号作戦』, pp.501-502。厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。
※3)『メコン圏を題材とする 書籍』 http://www.mekong.ne.jp/books/nonfiction/020801.htm
※4)『Burma Lifeline 』 http://www.burmalifeline.org/projects/bll_twilight_over_burma.shtml
※5)『シャン州を訪ねる』 http://www51.tok2.com/home/cafemondiale/nss1.htm
※6)『Woodford Station Master's house.』 http://www.transportarchive.org.uk/getobject.php?rnum=L1335&searchitem=&mtv=&pnum=
※6)『Welcome to HighestBridges.com 』 http://highestbridges.com/wiki/index.php?title=Gokteik_Viaduct
James Waite, "The Burma Mines Railway, Namtu"

その他:

http://www.news24.jp/articles/2012/04/11/10203633.html

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2012年12月11日

草のてつ道 (最後のフロンティア 10 ミャンマー編)

 ● Dn 132

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 マンダレー行き 第135列車は、予定より1時間弱ほど遅れてシポー(Hsipaw)の駅を出発した。

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(第132列車時刻表)

 列車は、機関車 プラス 客車5輌&尻尾に荷物車2輌の計8輌編成で、一般等級車‘Orginally’車輌がメインの連なりだ。

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(132列車の連なり)


(動画3:ゆっくりと進む第132列車)

 一般座席車は、傷だらけなガチンゴチンの木製の椅子だ。草木が散らかり放題の床から湧き上がる緑色の臭気や熱気の草いきれが車内に充満していて、それもそのはず、線路際で大いに伸びている高い雑草が日々力強く成長するので、列車が1日おきに通るたびに巻き込まれては、開いた窓から草刈り機械のごとく‘バリバリ’と切り込まれて車内に飛び散るのだ。そんな強靭草の怖さを知らないおかげで、私も外の風景を写真に収めている最中に、笹の茎に見事に襲われて手のひらを切ってしまう。


(動画4:線路際の草の襲撃の様子)

 列車は‘ダダン♪〜ダダン♪〜(&グジャグジャグジャ)と草を掻き分ける雑音を混ぜながら、とうもろこし、ひまわり、スイカの畑、ヤシの木の林、そして水田の中をゆっくり、ゆっくりと時速40km/h程度の速さで進んでゆく。道路からの景色と違い、鉄道からの風景はより一層大地が近く、先に伸びるか細い鐡路は低い草々に埋もれていて、まるでじゅうたんの道を這うように進んでいる。だが、どんなに自然と一体化していようと、重要なのは、この鐡路は今もまだ生きているということであり、悲しき廃線では決して無いという事だ。単なる自然の大地なら、私にとってこの景色すべてに価値はない。

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(草の道をゆく列車)

 列車は、右に左にくねりながら鐡路が導く道のとおりに翻弄され、そのかすかに光る溝色の銀路が少しでも勾配の少ない有利な道を示してくれている。時折集落が見え始めると、まるで存在を誇示するようにタイフォンを鳴り響かせ、それに人々が気づく頃、まもなく小さな駅に到着する、といったテンポで汽車旅は流れてゆく。

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(小さな駅にとってはこのこの列車は外の世界とを結ぶ唯一の架け橋)

 面白い物語の一コマとは日常の中にある。ここで感じる貴重なこの時間も、ほぼすべてが地元客で染められていることこそが重要であり、この車内ではただのいつもの一こまに過ぎない光景が私にとって愛おしい。行商人が担いできたパイナップルの山がデッキに山積みになっていたり、親戚の家に遊びに行こうとしている大家族が大いに奇声を挙げて落ち着かなかったり、賭博に夢中になっている怠け者の男たち、といったこのローカル劇場は、日々の日常であり何でもないことなのだ。それを今、こうやって文章にしている事自体がなんとも面白い。

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(物置部屋のパイナップルの山)

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(賑やかな一般座席車)

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(静かに過ごす者もいる)

 さて、シポーから約1時間40分、やがて列車は少し賑やかな駅、クアクメ(Kyaukme )に到着する。ここでも売り子の群れが襲ってくるが、何やら身なりが綺麗な学生の集団らしき者たちが乗り込んできて、私を見つけては英語で突然話しかけてくる。

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(英語教室の学生さんと先生〈右〉)

 手短に話を聞いていると、彼らは外国語教室の生徒と先生のようで、時々駅に来ては、列車の中の外国人を捕まえて、自分たちの英語を試すだけでなく、外国のことを知ったり学んだりして実地の勉強をしているのだ、と言う。日本ではなかなか考えられないシーンである。私はその中の一人、可愛らしい娘さんに話しかけられようとアピール。彼女の名前はフタインちゃん。将来は橋を設計したりと建築家になりたいのだそう。

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(フタインちゃん)

 顔に塗っている化粧は、ミャンマー独特の化粧方式、『タナカ』というものらしい。原料はとても自然に優しいもので、フリーマッケットなどで売っているMUREAEXOTICA(日本名:ゲッキツ/ミカン科)の木の片を摺って、それに水を加えて出来上がり。その顔料をどっぺりと顔に塗るらしく、かといって均等に塗るのではなく、部分的に顔に塗るスタイルだ。皮膚がまだ弱い子供も同じように化粧しているし、化粧と同時に、清涼感があって、熱帯の厳しい日やけの防止になるということだから、UVカットの役割も兼ねているのだそう。

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(ミャンマー名物‘タナカ’)

 ただ近年、外国の化粧品がミャンマーにも進出し、他の国の女性と同じように‘美白’願望が強くなった影響で、実に速いテンポで外国の化粧品に流れていっているのだそう。特に現在の大統領、テイン・セイン(Thein Sein)の時代になって以来、本格的に開放路線を採っているためにこの動きが加速している。おそらく10年後くらいという短期間で、相当タナカ離れは進むと思う。しかし、日本民族だって、オシロイや民族衣装を捨てたのだから、‘さみしい’何ていう勝手な旅行者感情丸出しはかっこ悪いのでここでは考えないことにする。

 さて、列車は クアクメを出ると、相変わらず畑や林の中をのんびりと進む。 クアクメから1時間、ナウンペン(Nawngpeng)に到着すると、列車は何と信号待ちをしているではないか。そう、ここで唯一の上下行き違いを演じるのだ。

 こちらの方が先に到着して5分ほど待っていると、やがてマンダレー方向から同じような機関車を先頭にしたラーショ行の列車が‘ゴゴゴゴ〜’と到着すると、貴重な貴重な上下2本の列車が並んだシーンが発生する。その賑やかさは他の駅の比ではない。ほんの僅かな2本同時停車の時間の下で、売り子の群れがあっちへこっちへと散ってはあっという間に祭りの終わりの汽笛が鳴り響き、こちらのマンダレー行きが先に発車していく。

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(大いに賑わった瞬間)

 そして ナウンペンから約1時間、今日のスーパーゴールデンタイム、ゴッティー橋(Gokteik Viaduct)が眼の前に現れる。これを目当てにこの列車に乗っているようなものなので、続きは次回に・・・最終章は近い

(11に続く・・・)

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2012年12月06日

シャン族の駅長 (最後のフロンティア 9 ミャンマー編)

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● シャン族の駅長
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(シポー駅)

 かつて明治や昭和の時代、駅長といえば、郵便局長や校長、警察署長と並んで地元の名士の一つとして社会的地位が高かった。それは、あらゆる交通機関の中で鉄道はすべての交通の基本だったからである。

 日本の鉄道はイギリスをお手本としたものであり、‘駅長が偉い’という概念はおそらく本家英国からであったかもしれない。調べてみると、イギリスの駅長もけっこう社会的地位が高く、なぜなら、駅長(Station Master)はVIPや外国の首脳をお迎えする大役を仰せつかっていたため、まあそれなりの風格が必要だったからであろう。その名残の香がまだインドやエジプトなど旧大英帝国域内では残っていて、ミャンマーもその一つであろう。

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(シポー駅時刻表)

 この山村、シポー(Hsipaw)のやや町外れに、ホームが一本延びるひなびた情をかもし出す小さな鉄道駅が、炎天下をさえぎる木陰の林の下で静かに息づいている。この木陰の下が賑わうのは、一日の中で午前と午後の二回だけ。それもほんの一瞬だが、そのひと時こそが、この駅の威厳を保たせているのである。

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(シポー駅の玄関)

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(昼下がりのシポーの駅)

 陽火が下る午後の昼下がり、今日の野良犬が見回りに来る頃、牛たちと一緒に明日の切符を買いに駅の玄関口に立つ。影に暗い駅舎の中に入ると、一人、すべてにやる気を無くしている若い駅助役が電話交換機を暇つぶしにいじくっている光景がポツンと流れているだけで、私は物珍しそうな顔つきでその助役の顔を覗き込みながら尋ねる。

「おい、駅長はいるか?」

 彼は遠い目つきで私を眺めると、

「しらねーよ。さっきまで居たけどな。どーせ離れの小屋にでも行ってテレビでも観てるんだろ」

「切符を買いたいんだ。売ってくれ」

「ああ?、外国人に切符を売るのは駅長しかできねーんだ。しょうがないな。呼んで来るよ」

そう言い放ち、青年が駅長を呼びに向かったはいいが、牛が構内の草をすべて食べ終わるのではないか、と思うほどずいぶんと砂時計が零れ落ちた頃、デカパンとランニングの姿でコミカルな威厳と共に駅長がやっと登城(場)する。何なんだ、この倦怠感は!?

 どうやらこの駅は、駅長の住居も兼ねている様で、手下の駅員たちはこの駅長に雇われているようだ。この構図は宗主国大英帝国の鉄道文化の名残であろう。※6)

 駅員たちが腫れ物を触るように駅長に接している光景を観ていると、この駅長は確かに町の名士っぽいオーラーを感じてしまう。しかし、それと仕事ぶりとは別の話だ。たかがカーボン紙を下敷きにして手書きの切符を書き上げるのに遥かなる時間が流れ、その間、訪れる町人ヅラの男とくっちゃべり、ニワトリに餌をやり、可愛い孫娘を相手にお散歩ごっこを繰り広げたりと、まさにわが道を行き続ける駅長。目の前の日本人は少〜しイライラしつつも、この男を怒らせては切符は買えない、と言い聞かせ、う〜ん、駅長とは実に偉いお方なのだ、と痛感してしまう。

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(駅長)

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(元気な駅長の孫娘たち)

「明日の朝10時ころに列車は来るので、30分前くらいには来なさい!」
とグチャグチャな英語で‘命令’する駅長だが、孫娘が真横にいるためか、その表情はゆがんでいて柔らかそうだ。この男に明日の午前、また世話にななるとは、やれやれ・・・。

● 第132列車

 午前10時ころ、プラットホームの上はもう、列車を迎え撃つ準備が整っていて、すでに乗客たちで賑わっている。

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(列車を待つシポーの人たち)

 やがて北東のラーショ方面から、川を渡ったあたりだろうか、かすかに鳴り響いたの機関車のタイフォンに気づくと、それまで退屈な線路風景が一変して豪快な大列車が‘ゴゴゴ〜’と現れる。マンダレー行き第132列車だ。


(動画1:第132列車入線)

 さあ、一挙に忙しくなる。他の外国人旅行者が切符を買い求めるべく駅長に擦り寄るが、爺さん駅長は部下とペチャクチャしゃべりながら手は動かず足も動かず、なかなか切符を発行してくれない。切符の運賃は外国人1人3ドルだ。
「1ドル札3枚分の紙幣番号を書かなければいけないんだよ。悪いけど、この1ドル札5枚を渡すから、5ドル札一枚にしてくれない?」

何で俺が?もう、実にめんどくさいシステムである。

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(列車の時間だけ大忙し?の駅長)

 列車が到着したプラットホームでは、果物や地元料理を頭に担いだ売り子たちの群れが一斉に列車になだれ込み、乗客たちに必死のアピール合戦を繰り広げる。そのほとんどが女たちであり、男はあまり見当たらない。ミャンマーの女たちは働き者で、かつ、強い。因みに、スイカの4分の一の切り分けで200チャット(約20円)である。

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(スイカ売りの少女)

 時刻表上の発車だと9:40だが、時計はもう10時半を回ろうとしている。先頭の機関車の方を眺めると、機関士や駅員たちが集まっては何やら機関車の床下でモグモグ作業をしている。どうやら機関車の調子が悪いようだ。別の機関士がエンジンオイルみたいなものを駅から取り寄せて、バーを持ってまた床下に入る。

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(第135列車の機関車)

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(なかなかエンジンがかからない機関車)

 そんなこんなで30分ほど格闘した末、ようやくエンジンが入り、長声一発出発進行!。

 世話なったシポーの駅が後ろに流れ、列車は草蒸した本線に掻き分けるように進軍を始め、横切る踏切りで列車の威厳を大いに放つ。援蒋ルート街道の車たちもこの時ばかりは踏み切りで立ち往生しなければいけない。
「列車様のお通りだ!」


(動画2:シポー駅を発車し、援蒋道路を横切る)

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(列車のために渋滞する援蒋道路)

(10へ続く・・・)

 ※6)『Woodford Station Master's house.』 http://www.transportarchive.org.uk/getobject.php?rnum=L1335&searchitem=&mtv=&pnum=

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2012年12月04日

シャン族の田舎まち (最後のフロンティア 8 ミャンマー編)

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(シポー《Hispaw》の位置)

 シポー(Hsipaw)の町に到達した。‘シポー’という呼び名は、地元土着の民族、シャン族による呼び名であり、ビルマ名ティボー(Thibaw)という。ここではシャン族名で標記する。

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(シポー(Hsipaw)の町)

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(町の中心にある郵便局)

 シポーは、その昔現在のシャン州北部 6つの藩の一つ、シポー‘藩王国’の中心地と栄えた。ヒマラヤや中央アジアなどの内陸の山岳地帯というのは敵が入りにくいからか、19世紀あたりまで藩王国で栄えていた例が多く、その独自文化が今も息づいている。パキスタンのカラコルムでもそうであったように、例外なく大国(イギリスや中国など)の侵略にあい、藩領と帝国との二重支配となって弱体化し、最終的には消えていった。

 イギリスに支配されたシポーの藩王国は物語が多く、英領時代のソーボワ(世襲藩主)はイギリスに留学させられた。つまり、意外と丁重な扱いを受けていたのである。そして最後の『ソーボワ』、サオ・チャ・セン(Sao Kya Seng)は、アメリカ留学中に知りあったオーストリア人、インゲ・サージェント (Inge Sargent )と結婚したが、1962年3月、ヘホー空港に向かう途中行方不明になった。後年、その妻が思い出を綴った“Twilight over Burma”という本をタイの出版社から出している※3)※4)※5)。
(英単語‘Twilight’とは、薄明りという意で、日の出・日没後のたそがれ時を意味する)

 その藩王国で栄えたシポーの町も、今では何の変哲もない小さな町に違いないのだが、内面は変哲がけっこうある。人々はビルマ族よりも少し日本か中国人ッぽい顔つきのように感じるシャン族の割合がとっても高く、女の子も、日本人好みの可愛らしい娘が元気よく町を闊歩している。

 子供たちは、勉強の傍ら店の手伝いに忙しく、それでも気まぐれに訪れた外国人に対して笑顔を忘れない。このシャン族食堂のこの子は、客が居ない間は子守や、学校の英語の宿題に忙しくて、それでも私と一緒に単語の勉強をしよう!と言うほど。どこの国も子どもは大変だ。

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(この食堂で元気一杯の女の子、みんなに愛されている)

 宿のスタッフとして働いている学生の女の子たちはみな働き者で、こりゃまた愛想がいい。将来は外国に旅行に行きたい、と答える彼女の賃金は1日3ドル。これでは一生かかっても実現できないのが気の毒だ。彼女はオーナーの悪口を言い始めてたが、すぐに笑顔に戻った。

 シャンについて何も知らない私は、思わず、
「ミャンマーとシャンは違うの?」
と質問した。すると彼女は少し厳しい表情を一瞬浮かべては、また笑顔に戻り、少しまじめな瞳で言い始めた。
「シャンは日本軍が撤退した後、アウンサン将軍によって独立を約束させたのよ。でも、彼が暗殺されたために約束が果たされず、ラングーン(ヤンゴン)の政府が強引にここを支配したんです。シャン族は彼らに苦しめられ、この町からもたくさんのシャン族が強制連行されたり、拷問を受けました。だから私たちは自分たちを守るためにシャン地方革命軍(その後北部・南部で別れる)を作って抵抗してきたのです。特にこの町はとっても緊張していていました。その後、この町で北部シャン州軍(SSA North)が休戦協定を結んだので今では平和です。」

 なかなか民族愛に溢れた少女の言葉は私の心にグサッと響き、改めてここはミャンマーであってミャンマーではない、シャンの土地なんだ、という認識を持った。今では平穏に見えるが、もし相手がラングーンの政府ではなくて北京の政府だったら、彼らはチベットのような状態になっていたであろう。

 政治の話は置いておいて、シポーの町を歩いてみよう。

 町は歩いて回れるほどの大きさで、昼間でも死んだように静まり返る日本の田舎町とは違い、どこの商店も品物が豊富で、通りはけっこう活気に包まれている。

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(町の青空野菜売り場)

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(お米屋さん)

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(やっぱりあった、倉庫代わりの日本バス)

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(今では比較的自由になった政治色もかかせない)

 そんな町の通りから一歩裏道に入ると、所々、鉄筋造りの豪華なお屋敷が点在しているのが目に入る。これらの多くは中国系の商売人の家らしい。そうと分かると納得することがある。町の商店には簡体字の中国製品が溢れ、町で一番華やかで豪華なレストランは中華料理屋であり、道路には中国からのトラックが頻繁に出入りしている。ここから中国本土まで約200キロ、遠くはないところに巨龍は虎視眈々と控えている。ミャンマーと中国の狭間の小さな民族の将来はいったいどうなるのであろうか。

 中華料理はどこでも食べられるので、あえてシャン族の料理を食べよう。脂っこくなく、意外とさっぱりしている麺類が多いので、きっと日本人にも食べられやすいだろう。
 
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(賑わいをみせる夜のシャン族の料理屋)

 因みに、シポー独自の名産品として、竹細工や野菜、そしてお茶などがある。私が茶工房でまとめ買いしたのが、ラパ茶と言われる、ほうじ茶に近いお茶。これがなかなか油料理に合う。

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(茶工房の様子)

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(当地の名産、ラパ茶)

 そしてシポーはトレッキングの人気名所らしく、ヨーロッパ人が勇んで狩にでも出向くかのようなノリで山の方へ歩き出している光景が、午前中であれば嫌でも目に入る。山には蚊もいるし、用事はないし、興味もない。私は山の中にある温泉にだけ行きたかったが、行ってきたスペイン人の話によると、散々探したけど見つからなかった、という話を聴いて、サクッとあきらめた。

 そんな山々が町に迫る小さな盆地にこの町はある。繁華街?から少し外れると、木細工で出来た小さな民家と、木々や畑に覆われた人々の生活の営みが感じられる。そこには、イギリスさんが置いていった小さな教会が、比較的賑やかな通りに潜む一方、

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(教会)
昔から伝わる趣深い仏塔が民家の外れの森の中に静かに佇んでいる。それは実に神々しく鎮座していて、つい思わず神を見上げるように立ち止まってしまうと、突然天から稲妻が舞い降り、激しい滴雨が私を寺に呼び寄せる。

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(神々しい仏塔)

 思わず境内の人となった私は、仏像に深くお辞儀をし、しばし何を想ったのか、心の寄りかかり先を求めていたかのように、滴の音を静かに受入れながらしばし無言で仏を見上げていた。

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(ミャンマーのお寺)
 
● 援蒋ルート鉄道

 さあ、鉄道の話にいこう。

 シポーの駅は、町の中心より少し西側に外れてひっそりと佇んでいる。草じゅうたんに覆われた鉄道の線路は駅構内に入ると姿を現し、かつては列車がここで上下行き違ったり、貨物列車でも留置したのであろう、数本の線路が平行して土に埋もれている。

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(草のじゅうたんに覆われた軌道)

 駅構内だけ草があまりない理由は、時折牛飼いによって導かれた牛たちが、構内の雑草をムシャぶり食い尽くすからだろう。ノッシノッシとどこからか現れた牛の群れが夢中になって駅の草をむしり喰っている、そんなのんびりとした時間が今流れている・・・。

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(牛が線路の草を 食べる、食べる、食べる)

 これが駅でのおおよその一日の大部分がそんな空間だ。しかし、一日2回だけ、駅は一瞬の目覚めを催したかのように賑わいを奏でる瞬間がある。それは、マンダレー行きの午前10時ころとラーショ行きの午後3時ころだけに現れる列車の時だ。

 さあ、次回は今回のミャンマー旅のハイライトである、シポーからの列車である。

 (つづく・・・)

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(ネコはここでは食べられないようだ)

(参考資料)

※3)『メコン圏を題材とする 書籍』 http://www.mekong.ne.jp/books/nonfiction/020801.htm
※4)『Burma Lifeline 』 http://www.burmalifeline.org/projects/bll_twilight_over_burma.shtml
※5)『シャン州を訪ねる』 http://www51.tok2.com/home/cafemondiale/nss1.htm
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2012年12月01日

逆支援の峠道 (最後のフロンティア 7 ミャンマー編)

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(援蒋ルート)

(つづき・・・マンダレーを出発したシェアタクシーは、かつて連合軍が蒋介石を支援した道を辿って、シャン族の土地を目指して峠道を疾駆している。)・・・

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 登り坂一辺倒の九十九折の峠を越えると、やがて一気にあたりは涼しくなり、窓からは心地よい涼風が入り込んでくる。そこはピン・ウールィン(Pyin U Lwin)、以前はメイミョーと呼ばれた高原地帯だ。

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(ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)の街)

 植民地時代、下界の猛暑にほとほと疲れ果てた支配者・イギリス人が切り開いた高原の避暑地らしく、日本で言えば軽井沢みたいなところか。町に入ると、並木の傘が美しく覆い、その国道沿いにはドライブインや商店が建ち並んではけっこうな賑やかさを放っている。

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(イギリス時代の名残の教会 【ピン・ウールィン(Pyin U Lwin)にて】)

 そのドライブインはけっこうな熱気に包まれていて、30種類以上もあるカレーがテーブルの上に並べられては、好きなカレーをご自由にライスの上に盛ってください、というスタイルだ。鳥肉カレーに牛肉カレー、羊肉にジャガイモカレーなど、香りに誘われてなかなか楽しいではないか。

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(カレー三昧のドライブイン)

 お会計のやり方に迷っていると、同乗していた中国人が助けてくれ、おまけにお会計まで世話になってしまった。
『客人には払わせない』と彼はカタコトの英語でそう答え、私はしばし躊躇したが、彼の言葉に甘えることにした。以来、車の中では連中と和気あいあいと旅が進んだのは言うまでもない。

 さて、この辺からシャン州に入る。シャン州にはタイ系統のシャン族という、ビルマ族に次いで2番目に大きい勢力の民族の地であるが、州の中の県によってだいぶ異なり、政治的にミャンマー政府と対立する勢力が今でも活発な活動をしているために、近年まで外国人がなかなか自由に旅行が出来なかった。

 さて、そこからは一転して高原のさわやかな道路となり、点在する林を突き抜けて快調に車は北東方向の街道をすっ飛ばすのであった。すると、待ちに待った鉄道線路が道路を横切るではないか。これが後の主役であるマンダレー〜ラーショ線である。雑草に覆われ、かなり朽ち果てているので本当に列車が動いているのか心配になるが、一応1日1往復は走っているらしい。

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(やっと出会えた鉄路)

 街道はこの線路としばらく併走する。やがて線路が離れ、道路が北方向に針を向け、一気に腸のように崖をジグザグ降り始める。

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(さっきの峠よりも一段と厳しい)

 そして、その谷底に到達すると小さな川を渡る。

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(大渓谷を削る谷底の川)

 これが後に今回の主役である渓谷なのだ。なぜ主役になるのかは、後で述べる。

 そして再び超傾斜道を登る。ガソリンを積んだローリーが、急坂に悲鳴をあげてわき道でドロップアウト寸前で埃を巻き上げているのを眺めてながら我がタクシーは横目で流し、車道はいったん北方向に伸びて標高を稼ぐ。

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(大型車はもがく)

 そこから逆V字のように南へターンをすると、たるんだロープのような線形で斜面を登っている鉄道線路とまたかち合う。まさか列車は、あの道路のようなつづら折り方式であの谷底を越えているのであろうか。

 こうしてなかなか面白い援蒋ルートの地形であるが、戦争中はさぞかしこの難儀な道に泣かされたであろう。この道は今でもマンダレーと中国とを結ぶ重要幹線であり、中国に向かうトラックがけっこう走っているので、現代においてもこの援蒋ルートは‘援中ルート’として生きているのだ。因みに、中国に物資を補給するための道路でもあるが、今では逆にミャンマーに物資を輸送する逆援蒋ルートになった感がある。この道を通じて中国から大量の人や物資そして文化がなだれ込み、そして現在、その中国パワーにミャンマーは染められつつある。

 マンダレーより約200キロ、車はシポー(Hsipaw)に到達する。ビルマ名ティボー(Thibaw)と呼ばれるこの町の宿に、私は降り立ち、今宵の最北端地点とした。世話になった運転手や中国人たちに礼を告げ、車は中国方面へ消えていった。

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(マンダレーから世話になったシェアタクシー)

 時間の関係で今宵の旅の最北端をここにする。なぜここを最終目的地にしたのか、私もよく分からない。ただ、温泉があるというガイドブックの記述や、何となく雰囲気が良さそうだ、という曖昧な理由付けでここにしたのだ、と宣言してもいいかもしれない。

 一人残された私に、欧米人観光客慣れした高級宿のシャン族スタッフのウェルカム待遇に根気負けし、この幾分心地良さそうな宿で2泊お世話になることにする。

(つづく)(次回は4日 火曜日ごろ)

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