2012年11月29日

マンダレーの峠道 (最後のフロンティア 6 ミャンマー編)

 援蒋ルートを辿る

援蒋ルート.jpg
(援蒋ルートの一部)

 マンダレーから北東方向へ中国へ通じる道がある。これがかつての援蒋ルートの一部であり、これに沿って鉄道が伸びている。この鉄道が西洋人旅行者にとってけっこう人気のようだが、マンダレー発朝の4時というとんでもない時間に発車するため、いろいろ考え抜いた。そこで、この鉄道を逆方向から乗ってみることにし、往路は車で移動するする事にする。

P9231425.JPG

 蒸し暑い当日の朝、泊まっている宿に私を迎えに来てくれたのはタクシー会社の男だった。バスはかなり早い時間に出てしまうので、前日からタクシーを予約していたからだ。タクシーといっても、一般乗用車に乗れるだけ同じ方向へ行きたい同志を集めてシェアするスタイルで、シェアタクシーとも呼ばれている。経済的だし、タクシー会社も人数分儲かるのでお互い都合がいい。日本ではこういうビジネスは不可能だが。

 シェアタクシーは、予約していた同乗者の家にいちいち立ち寄るためなかなか町を出発できない。ある者は工場の従業員部屋から、ある者は、団地の奥から。運転手は会社から渡された住所のメモだけを頼りに付近を右往左往。そして最後は中国人ビジネスマンの男を乗せてようやく出発!となった。

P9231429.JPG

 南に伸びるマンダレー市内の大通りをゆくと、とある交差点で左に曲がる。実質的にここから援蒋ルートが始まった。マンダレーは盆地の中にある町だが、やがてそれが終わりかけ、江戸旧街道のように木々がざわめく気持ちいい並木街道の景色に移り代わり、道は立ちはだかる眼前の山魂に向かって一直線に伸びる。

P9231428.JPG
(平らな緑の道は山にぶつかるまで)

 その山魂がすぐに額ほどの距離まで近づくと、当たり前のように急勾配が登場する。登り下りが大樹で分けられたつづら折りの険しい道路に、福山通運ロゴのトラックや、京王観光ロゴのバスなどが数珠を連ねるようにもがき登っていて、それを横目にわれ等が年代モノのトヨタ乗用車が煤をぶちまけて抜いてゆく。積載名やトン数まで日本語標記になっている強敵タンクローリなどは抜くほうもハラハラする、まるで碓氷峠か箱根の1号バイパスを登っているようだ。

P9231431.JPG
(ミャンマー版碓氷峠)

 九十九折のこの道こそ、かつて日本軍を大いに苦しませた悲劇の道であり、今、日本車が溢れるその道を這いで行っている私は、鳥肌が少しざわめくほど実に複雑な思いがするのだ。

(つづく)

P9231432.JPG
posted by kazunn2005 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月27日

マンダレーの霊魂 (最後のフロンティア 5 ミャンマー編)

P9221395.JPG
■米大統領ミャンマー初訪問、中国けん制の狙いも
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121119-OYT1T00705.htm
■北朝鮮、兵器物資輸出図る 対ミャンマー、日本押収 (朝日デジタル - 2012年11月24日5時55分)
http://www.asahi.com/international/update/1124/TKY201211230786.html

(アメリカのオバマ大統領が先日ミャンマーを訪問した。それまでならず者国家だったミャンマーが一気に国際社会の価値観を共有しようとしている。その証拠に、北朝鮮などの‘元友達’とは距離を置きつつある。ところで、日本の首相はまだ訪問の気配すらない。もちろん、過去にはまだ一度も訪問したことがない。西側の経済制裁を受けていたミャンマーであったが、日本は影ながらチョチョコ人道援助くらいはしていたが、あまりにも西側一辺倒の外交をやっていた為に、すでに現地では中国や韓国企業によって開拓されて出遅れている。最後のフロンティアといっても、日本のミャンマー進出はかなりいばらの道だ)。

 では紀行文に・・・
P9221392.JPGP9221366.JPG

● マンダレーの霊魂

マンダレー.jpg
(マンダレー市の位置)

 ミャンマー第二の都市 マンダレー(Mandalay、発音: [máɴdəlé]) は、※1) 人口約100万人、東西南北から鉄道が集まる交通のクロス町でもある。

P9231406.JPG

P9231409.JPG

P9231422.JPG
(マンダレー鉄道駅)

 ムダに豪華なこのターミナル駅から歩いて外に出ると、染みてくるように浮きあがる汗を覆うように、夜行列車明けの煤けた街の埃との戦いが始まる。それに参ってついタクシーを拾いたくなるが、料金交渉の気力はすでに無く、幌付き荷台トラックのシェアバスや、自転車お兄さんたちを捕まえては大都市めぐりをしながらホテルを目指す意欲もなく、ただただ客引きの誘いを断りながら干された足で街をゆく。

P9231405.JPG
(マンダレーの朝の大通り)

 一つ言えることは、ヤンゴンと比べてとても整った町並みで歩きやすい事であり、碁盤の目のようにカクカクした街の造りにやがて気づく。

 だから、マンダレーの宿屋街への地図を片手に持っていればなかなか迷うことはなく、またそれらは旧王宮の西側近くに集中しているので解りやすい。駅から歩いて20分ほどの所と断定してもいい。その旧王宮は、東西2kmほどの正方形の形をしていて、街はこの旧王宮の南側に市街が広がっている、といった感じだ。

P9221357.JPG

P9221362.JPG
(旧王宮)

 ところで、旧王宮の背後の北側の丘は、『マンダレーヒル(Mandalay Hill、発音:manta. le: taung)』と呼ばれている、標高236m程度の丘が控えていて、山ろくから山頂まで寺院が点在している礼拝のポイントがある。途中でいくつかの仏塔を拝みながら、頂上の寺院に登って行くのだが、なかなか勾配がきつくてとろけそうになる。ゼーゼー言いながら最後、屋根つき階段の脇に江ノ島のような土産屋群の参道のお出迎えに受け、そうしてやっと頂上に到着するのだ。

P9221379.JPG
P9221380.JPG

P9221377.JPG
(頂上の参道とお土産物屋街)

 そしてそこから眺める旧王宮やマンダレーの町並み、そして西側を雄大に流れるエーヤワディー(Ayeyarwady)川(旧称:イラワジ川)は一見の価値はある。特に夕暮れ時からの時間がお勧めだ。

P1000130.JPG
(マンダレーヒルからの夕陽)

P9221393.JPG
(マンダレー市街の夜景)

 さて、王宮があるということは、このマンダレーとはかなり古い町だと思うであろう。しかし意外にもそうでもない。この町は、実は19世紀中ごろになって当時のミンドン・ミン(Mindon Min)という王様が、ブッダの教えに従ってこの地に都を建設したのが始まりらしい。日本で言えば幕末あたりの時代であるので、つい最近出来た町のような感じだ。

 その後まもなくイギリスに占領されたために、王都としての歴史はほとんどない。さらに、第二次大戦が勃発し、日本軍がこの地を占領したために攻撃の標的になり、結局跡形もなく破壊されたのである。

 ご存知の通り、日本はあの時代、ビルマ(ミャンマー)を占領し、連合軍と過酷な戦いを繰り広げた。日本からはるか遠いこの南方の地でいったいなぜ戦わなければいけなかったのであろうか。それは、日中戦争と関係がある。

Burma1942[1].jpg

 日本は、大東亜戦争前は中国と戦闘状態にあった。もう少し正確に言えば、中華民国(国民党)軍と紅軍(共産党)軍を相手に中国大陸を舞台に戦いに明け暮れていた。戦争は数年に渡る長期戦となり、日本軍は国民党軍を追い詰めてもゾンビの如く復活してくる敵にだんだん疲れが出てきた。そこで司令部は、後ろからの補給ルートの存在に眼をつけた。それは援蒋ルートと呼ばれる、アメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路であった。この道がビルマ経由で雲南省へ通じていたので、この輸送路を遮断することによって国民党軍を弱らせる作戦に出た。こうして日本は、1941年12月に真珠湾攻撃で対米宣戦布告とほぼ同時にビルマにも進撃を開始、南から一気にビルマを占領した。1942年5月にはマンダレーにも到達し、当初の目的である輸送路の遮断は一応実現した。

ビルマに入る前の第15軍[1].jpg
(【☆】ビルマ戦線の日本兵)

 しかし、もう一つ別ルートが生きていた。そのため、国民党軍の壊滅には至らず、そうこうしている間に連合軍が反撃してまたまた泥沼の長期戦に陥り、気づいてみれば、戦線をあまりにも拡大しすぎた日本軍は総崩れ。各戦線で肉弾戦や玉砕が相次ぎ、ついにはマンダレー近郊で大敗北(イラワジ川会戦)を喫した。結局、日本はビルマから血の退却戦争を余儀なくされ、最後は地元のビルマ人勢力からも銃口を向けられ、玉音放送にてビルマでの戦争が終わるのである。

 ビルマ戦線に投入された303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、生きて帰ってこれたのは118,352名のみであった※2)。そして地元のビルマの人々や国土に多大な悲しみと損害を与えたことは紛れもない事実である。そんな歴史があるのに無関心・完全無知である事は、ミャンマーを訪れている私にとって‘それっていったいどうなの?’という感情をどうしても無視できなかった。

 今回の私のミャンマーの旅はとても短く、そしてスケジュールがぎっしり詰まっている。そこで、貴重な時間をあえて、少しでも日本軍に関係する土地を目指すことで鎮魂の意も含ませるために予定を変更し、かつての援蒋ルートを途中まで辿ってみることにした。観光地・バガンに向かうのをやめて・・・。

 なおご心配なく、それは鉄道探訪も兼ねている。鉄道&歴史を絡めて慰め程度に強引に目的を関連づけよう。

P9221394.JPG
 次回(来週火曜・27日ごろにup)に続く・・・

(参考文献・資料)
※1) 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) 『戦史叢書 シッタン・明号作戦』, pp.501-502。厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。

【☆】添付写真引用  『ビルマに入る前の第15軍』
posted by kazunn2005 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月22日

最後のフロンティア 4 (ジャンピングトレイン) ミャンマー編

P1000374.JPGP1000089.JPG

● ジャンピングトレイン

図Yangon-Nayoyitaw-Mandalay線 .jpg
(ヤンゴン〜マンダレー)

 食堂車までの距離は2,3輌分である。だが、足元はコップを逆さまにしたような縦揺れと、揺りかごのような横揺れに阻まれてふらつき、よろけながら何とか香漂うレストランカーにたどり着く。しかしそこでは、趣味の悪い音量で現地のポップミュージックでふんだんに染められ、どんよりとやる気が感じられない従業員と客との馴れ合いが辺りを支配している。その中で独り、外国人がチョコンと座るので、なかなか注目の的になりやすい。

P1000059.JPG
(倦怠感漂う大揺れ食堂車)

 とにかくメニュー表を観なければ話にならない。ボーイだ、ボーイはどこにいる?あぁ、あいつがそうだ。読めるアルファベット標記のメニューを持ってきてくれ!。

 壊れたバネのトランポリンが勢いずく縦揺れが巻き起こる中、私は何とかメニュー表に期待をつなぎボーイが近づいてくるのを喜びのまなざしを向ける。しかし、それをもらっても何が何だかよく分からない。とりあえず、『ナントカNoddle』『ナントカRice』は解るので、麺類と炒飯らしきものを適当にオーダー。すると、汁無しジャージャー麺のような料理がプラスティックの皿に載って現れるではないか。ところがどっこい、見た目よりなかなかいける味で、その他にミャンマービールを片手にすれば、これは立派なご馳走である。

P1000060.JPG
(キモチがリッチに、食堂車の食事)

 しかしこれだけでは腹がふくれない。かといってメニューの大冒険はしたくないのだが、すると、従業員が食べているスープが妙に食べたくなり、指を差す。やはり、何を食べていいか解らない場合は、現地の人が食べているものを指差すのが一番かもしれない。

 コックはどうやら私の希望を理解したようで、厨房の火を強め始める。やがてそのスープはお椀ナミナミなってテーブルの上に運ばれてくるが、ジャンピングトレインの恐ろしさはここで本領発揮!スープが大波を打って激しく軌道の刻みにあわせて盛り上がっては沈むので、なかなか口に到達できない有様である。
 
 まるで闇の大地が激しく怒っているようだ。雨季の空は稲妻が東西南北、豪華絢爛に激しく乱舞し、その模様は下手な芝居を眺めているよりかはるかに芸術的で面白い。そんなものに惚れていると、車内はすっかり虫の息のように寝静まった様子となってしまっている。ミャンマーの夜は意外と早いようだ。

 食堂車で優雅に腹いっぱいスープを口に運んでいる、その隣の車輌である一般座席車からは時々叫び声が聴こえてくる。そう、一般座席車は恐ろしいほど窮屈なのだ。くたびれた木造の椅子にすっかり二人分占有してスヤスヤ眠りに落ちている要領の良い子どももいれば、4人座席に6人くらい詰め込んでは嫌〜な顔しながらあちらを向いて眼を閉じている者もいる。そんなごちゃ混ぜの空間だが、治安はなかなか良い。一般のミャンマー人はたいていは礼儀正しく、そして寛容であり、僧侶も民衆も一緒になってみな安心して一夜を共にする。

 長い長い夜路をゆく第5列車は、夜9時半を過ぎた頃、ようやくタングー(Taungoo)に到着する。ミャンマーの鉄道がヤンゴンから始めて開業した一番北側の駅である。

P1000062.JPG

P1000063.JPG 

P1000064.JPG
(タングー(Taungoo)駅到着)

 さらに3時間北へ走れば道中の中間点、ピンマナー(Pyinmana)に到達する。バガン方面線の分岐点であるが、同時にここは新しい首都、ネピドー(Naypyidaw)の近郊だ。ピンマナーから20分ほど北に走ると、0:20、突然不気味に不自然な目新しい駅、ネピドー駅に到する。2009年に開業した低いコンクリートホーム3面ほどの地平の駅で、跨線橋で繋がっている。

P1000081.JPG

P1000082.JPG

P1000083.JPG
(首都・ネピドー(Naypyidaw)駅)

 2003年から2006年にかけていきなりここに首都を建設し、遷都を実行させたのだから、その大胆さと軍事政権のやりたい放題さに当時は笑いが出てしまったのを思い出すが、しかし、南に偏り、そして、イギリスによる侵略の拠点であるヤンゴンをわざわざ首都にしておく必要もないわけだから、これはこれでいいのかもしれない。

 首都・ネピドーは進行方向左側にある。もちろんこんな時間だから仕方がないのだが、煌々と輝く街路の灯りの下には車一台も走っていないが、だだっ広い道路といい、無駄に明るい街路の灯といい、ほんの少し新首都を見たような気がする。

 ここを過ぎれば後はマンダレーまでそんなに特別なイベントはない。解放の窓からは月の光が追いかけるように差し込み、どこまで走ってもその月は私を見放さなさず、頭上にぶら下げているミコディーが月光のシルエットとなって顔を照らす。時折、車輌が断続的にジャンプして下から突き上げられては空中に舞うような錯覚と相まって、異次元の世界の旅にしばし酔っていた。

P1000087.JPGP1000091.JPG 
 
 朝

P1000098.JPG

P1000112.JPG 
(夜明けの窓辺)

 いつの間にか眼はうつろい、眠っていたことすら記憶と感覚が薄い夜汽車の旅だったが、改めて眼を開けると、見事に東の空が明るい。そう、一晩をついにここで明かしたのである。何であろうかこの達成感は。列車は右手に左手に湖らしき水溜まりに車体を映しながら最後の力走をしていて、その水溜りの群れが東から差し込む陽の光に漫然と輝き始める。

P1000095.JPG
(水溜りが映える)



 朝もやの村々の小さな駅を通過する際、おそらく僧学校に登校する途中であろうか、赤いマントのような僧服をまとった子どもたちがせっせと線路の上を並んで歩いている。これこそミャンマーらしい風景だ。



 そしてここら辺はすでにマンダレー近郊の村であることは何となく感じ始め、次第に車内はソワソワと忙しくなってくる。

 やがてマンダレーの住宅群がいきなり現れ始め、右より左より線路が合流してくるとマンダレー駅は近い。堂々と町の真ん中を貫く列車は、踏み切りを使って大通りを思いっきり封鎖しては、ノッシノッシと歩んで群集の視線を一挙に集めて最後の歩みを続ける。

P1000118.JPG

P9261699.JPG
(終点マンダレーは近い)

 6:15、定刻より何と15分よりも早く、第5列車はマンダレー駅に到達する。やはりHoot(汽笛)が最後を締めくくり、‘ガツン’と客車が停止すると、一斉に人々が低いホームに流れては、四方八方に散らばってゆく。無駄に豪華なマンダレー駅は、上階の切符売り場からホームまで今日一日が始まったばかり。15時間を駆けた古傷だらけの老列車は、夜明けのミャンマーで最後の息をついていた。

P1000124.JPG

P1000126.JPG
(約16時間の旅路を終えた第5列車の兵《ツワモノ》)

※寝台車の‘たび'
P1000338.JPGP1000403.JPG

 寝台券は3日先から駅の窓口で買える。とても不便なシステムのため、手数料はかかるが、旅行会社に頼むのもありだ。寝台車は1列車に1輌しか連結されておらず、7つのコンパートメント部屋に、1部屋に2段ベッドが二つ並んでいる。部屋まで食堂車で雇われている少年たちが食べ物を持ってきてもらう事ができる。また部屋の鍵も車掌から渡されるので、セキュリティーは大丈夫だ。月の光を眺めながらレールのジョイント音を感じ、ベッドで横になる心地は、自分が今この時だけ、あらゆる世界から切り離された究極の自由の中を泳いでいる錯覚を感じるであろう。眼が覚めるとそこは太陽の下。シーツは朝方回収される。掛け布団はない。

P1000402.JPG

参考文献:
※1) CITY POPULATION :『 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) http://www.minamitours.com/yangon_circular.htm
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm

その他
『Ministry of Rail Transportation (Burmese)』 http://www.ministryofrailtransportation.com
『Heritage structure still serves railway system』
http://www.myanmar.com/myanmartimes/MyanmarTimes18-343/n010.htm

『Train travel in Myanmar (Burma)』 (http://www.seat61.com/Burma.htm
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会(2005年6月発行)
『地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)』 '11〜'12 ダイヤモンド社 / ダイヤモンド・ビック社

P1000379.JPG
posted by kazunn2005 at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月20日

最後のフロンティア 3 (動脈幹線 ) ミャンマー編

P9211273.JPG

http://jp.wsj.com/World/Europe/node_551046
(米国のオバマ大統領は、2012年11月19日、米大統領として初めてミャンマーを訪問した。選挙で再選されて初めての新規外遊先にミャンマーを選んだのはかなり意味が深い。そんなミャンマーに9月に行っていた。これはミャンマーの鉄道乗車記である。)
P9211273.JPG

 ● 動脈幹線 

P9211340.JPG

 ヤンゴン(Yangon) 〜マンダレー(Mandalay)

 図Yangon-Nayoyitaw-Mandalay線 .jpg
(ヤンゴン→マンダレー線 経路)

 15:00発、マンダレー行き5列車は、すでに1番線ホームに‘ズン’と構えている。総編成は客車14輌+機関車、堂々とした国の代表列車があくびを唱えながら発車を待っている。
 
P9211277.JPG

P9211276.JPG

P9211281.JPG
 (発車前の第5列車)

P9211280.JPG
 
 私は寝台券の切符が取れなかったので、仕方なく1等車(Upper Class)に流れるしかないが、1等車といっても寝台に比べれば雲泥の差の‘泥’の地位であり、くたびれた旅だけは保障される。一応、斜め70度くらいリクライニングできるが。
 
P9211282.JPG
(1等車(Upper Class)の内観)

P9211283.JPG 
(1等車(Upper Class)の座席)

 時計の針が15時を指すころ、定刻ぴったりに笛が鳴り響き、はるか前方の機関車の汽笛が鼓長くこだまする。意外と時間には正確なようだ。列車はヤンゴン中央駅の広い構内の線路を跨ぎながら次第に軌道は2つに収斂し、ゆっくりとヤンゴン市内を刻む。
  
P9211286.JPG

P9211287.JPG
(ヤンゴンの駅を発車する)

 しかし、少し走っただけでは街は終わらない。人々や車の喧騒が漂う中、20km/hくらいの速度でトロトロ走っていると、列車を待っている売り子たちが呆然とこちらを見送る。あまりにもゆっくりだからか、列車は線路際の子どもたちの格好の遊び相手にもなり、全速力で追いかけては、デッキの手すりを捕まえて‘チョコン’と飛び乗るのだ。これはなかなか楽しい遊びだ。

 子ども達の遊び場である近郊の駅をいくつか通過し、すれ違う列車の姿がまだ頻繁に顔を見かける頃、出会う彼ら客車たちはどれも年季を経て相当使い込んでいると解る車輌ばかり。長い独裁政権の間、鉄道会社は車輌を新しく製造したり、輸入する余裕はなかったため、周辺の東南アジア諸国と比べて経済が相当遅れていることが鉄道をみてもわかる。
 
P1000431.JPG

P1000548.JPG 
 (年季が入っている車輌たち)

 ミャンマーの客車の状態はかなり悪く、事実、古いものを今でも使ってる。1,252輌ある客車のうちの約32%。386輌ある機関車においては47%。3,311輌ある貨物車輌にいたっては56%程が40年以上も前の超お古だというのだから、これから経済発展が見込まれるこの国の政府としては、急いでリニューアルしなければならない。だから、融資してくれる国であればどこでもウェルカムであろう。因みに、ドイツやフランス、そして日本からも中古の車輌を無償で受けている。※3)

P9211302.JPG

 さて、列車はやがて都会の片隅からようやく解放され、それまでの手押し車のような速度の列車はようやく本気を出し始めた。気がつけば沿線の建物は少なくなり、変わって田んぼや畑、時々水に沈んだ浮き畑が窓の向こうに流れる。トラクターの代わりに牛がのんびりと畑の上で休みながらこちらを見、機械化されていない農村の風景にしばし心を落ち着かせる。広大な大地とグレー色の雲の境目あたりに、七色の虹橋がダブルに連なる気まぐれな雨季の空が、あちらこちらで大いに湿らせていて、やがて列車がその雫の下へ突入してゆくのだ。

P9211314.JPG

P9211319.JPG

P9211322.JPG 
 (原野をゆく)

 列車はそれでもひたすら走る、走る、走る。雨が途切れ、一斉に日差しが差し込む頃、かすかに先頭の機関車から汽笛が聞こえ、光り輝く黄金の寺院が静かに彩を放ち始める。

P9211338.JPG
 
それは小さな駅を思いっきり通過する合図であり、ほんの少しだけ人の息吹を感じる瞬間を窓辺の私に与えてくれる。線路際の駅の周りの集落には、竹の材質の土台の上にヤシの木で造られた家々が並び、大人も子ども総出でこちらに関心を寄せる。中には満面の笑みと最大限の意思を表現するために両手を左右に振ってこちらにシグナルを送っている子どももいる。
 
P9211327.JPG 

P9211339.JPG
 (小さな駅を通過)

 そして列車はまた孤独な大地に舞い戻る。

 ヤンゴンから約2時間、ここまでノンストップで走り続けた列車から英国風の手動信号群が観えてくると、
P9211343.JPG

列車はバゴー(Bago)に到着する。ここは南方の モン州方面への路線が分かれる要所の駅だ。構内の線路際では黒牛が草をエッサエッサとむしり食べていて、その横に列車は‘ガツン’と停車すると、勢いよく待ち構えていた多種多様な売り子たちが一斉に乗り込んでは、商品の名前を連呼しながら車内を掻き分ける。

P9211344.JPG
(バゴー(Bago)駅)

 駅の造りといい、信号機から踏切、鉄橋のカタチといい、どれも‘ブリテッシュ’様式である。この余韻はパキスタンや本国イギリスを思い出してしまうが、この国がやっぱりイギリスの植民地であったことを改めて認識させられる。

 ミャンマー(ビルマ)の鉄道は、1877年、イギリス統治下の時代に、ラングーン(ヤンゴン)から北西のピイ(Pyay)までの262kmが『The Irrawaddy Valley State Railway』という会社によって開業したのが始まりである。その後、さらにまた別の会社によって、1884年にシッタン川(Sittang River)に沿いながらタングー(Taungoo)まで267kmが開業した。その路線は、今走っているヤンゴン−マンダレーの今日の大幹線の一部を成している。

 その後、内陸のマンダレーが第三次英麺戦争(英名:Third Anglo-Burmese War)でイギリス軍によって陥落されると、1889年までにそのマンダレー(Mandalay)まで開業させた。その後、路線はどんどん増えてゆき、1896年に植民地政府による『Burma Railway Company』という会社にまとめられ、1929年にインド政府からビルマ側に移管された。そして戦後の1948年、ビルマがイギリスから独立し国有化されると、それ以降は中国やインドの援助を受けながら少しずつ拡張してきた。しかし、他の東南アジア諸国との差は歴然であり、これから相当な整備が開始されるであろう。

 そんな未来を予感すると、今あるこの風景は後になってとっても貴重な一瞬になるかもしれない。開けっぴろげの窓、乗客たちの優しい笑顔、楽しい売り子たちの群れ。彼らはいつも水やジュースはもちろん、弁当にした調理モノ、カエルを燻製にしたもの、コウロギか何か得体の知れない虫をフライにしたもの、果物類、を頭の上に載せてこちらに必死にアピールしてくる。

P9211321.JPG

P9211333.JPG 
 (車内販売は彼らの貴重な現金収入源)
 
P9211331.JPG

P9211334.JPG

P9211335.JPG 
 (得体の知れない食べ物たち)

 私はその中で、『ミコディー』という果物を選ぶ。少しプラムに似て皮はかなり硬いものだが、何かで叩いて二つに割ると、白いみかんの実のようなものが一杯詰まっている。それを一口入れると、舌全体に‘シュワー〜’と甘酸っぱさが広がりけっこう病み付きになる。列車の中ではいろいろな物が売りに来るので、車内買い物を楽しめるのも列車旅の魅力の一つであろう。
 
P1000073.JPG

P1000387.JPG
 (旅のくだもの、ミコディー)

 列車はバゴーから本格的に北へ向けて針路を取るのだが、まだ全体の1割強しか走っていない。あとはひたすら原野と畑のレイルロードを刻むだけで、時々プチ嵐が襲ったり、その嵐の雲の隙間からインドへ傾いた陽が差し込み、その角度が0度になる頃、辺りはあっという間に闇が包みこんでゆく。

 街明かりというものはほとんど無く、その代わりに、弱弱しいほのかな灯りが村々の窓から炊き出しの余韻と一緒に窓から伝わり、心もとない車内の照明は実に輝きを増しているように見えるが、照らす乗客の疲れを一層濃く映すだけである。

 それでは良い時間になったので食堂車へ行ってみよう。

 続く。
 
P1000053.JPG

参考文献:
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm

その他

『Train travel in Myanmar (Burma)』 (http://www.seat61.com/Burma.htm
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会(2005年6月発行)
『地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)』 '11〜'12 ダイヤモンド社 / ダイヤモンド・ビック社
posted by kazunn2005 at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月18日

最後のフロンティア 2 (ヤンゴン 自画像の旅 ) ミャンマー編

P9211268.JPGミャンマー切手(BURMA).jpg

 2.ヤンゴン 自画像の旅 

a_19_myanmar_500n[1]. (2).jpg

 ヤンゴン環状線。1周およそ3時間である。

450px-Yangon_Circular_Railway_Route_Map[1].jpg
(サークル線路線図)

 例えば、時計周りで旅でヤンゴン中央駅を出ると、1km程度走ってはすぐに停車場に到着し、人の影を吐き出し別の群れがまた吸い込まれる。それらの出と入りのカウントは常に激しく、静脈のように脈をつき、息を放っているこのヤンゴンの縮図が、私は妙に気に入った。

 彼らは、ただの通勤通学に利用している若者、バナナやパイナップルを大量に持ち込んでは輸送車代わりに利用している行商人、商売の宣伝をする怪しい青年、オバちゃんたちの井戸端。区間によっては大混雑する箇所もあるし、一気にガラガラになったりとなかなかワクワクする。
P1000467.JPG
P1000496.JPG
P1000498.JPG
P1000489.JPG
P1000471.JPG
P1000473.JPG
P1000506.JPG
P1000532.JPG
(サークルトレイン車内の様子)

 一方、窓の外を観ると、木造の住宅から、鉄筋団地のような住宅群。その傍らには、芯まで汚いどぶ川と水溜りが控え、それは猛烈に鼻につく重い異臭をふんだんに発し、やがて顔がつぶされそうになる時も。目を下方に向けると、線路際では軒先の列車が去るとちゃぶ台を広げたり、店を出しなおしたりて線路が商店街になっているところもあり、どちらも最強のエキサイティング。
P1000520.JPG

P1000507.JPG
(線路端)

 しだいに郊外に放たれるにしたがって少しずつ駅間が長くなってくると、辺りは畑や更地が目立つようになる。『Golf Course』何ていう駅名もあり、かつてはイギリス人がここでゴルフでもしていたんだろう、と勝手に想像するしかない名前のその駅には畑しかなかったり、とイギリス時代の名残も感じることができる。

P1000510.JPG
(ゴルフコース駅付近)

 そのゴルフコース駅あたりがヤンゴンから一番遠い地点で、ここまで来ると都市の雰囲気はあまりない。その後、Wa Bar Gi駅付近で国際空港に近づき、再び都市っぽい喧騒が始まる。やがて、マンダレーからの本線が合流すると Ma Hiwa Gone駅。この辺りでもう運行サービスは終わりだよ、というような雰囲気が広がり、乗客がほぼいなくなるが、次の駅からまた乗り込んできて、列車はまたヤンゴン中央駅に戻ってゆく。
P1000552.JPG

P9271740.JPG

P1000564.JPG
(やがてヤンゴン中央駅に戻る)
 
 そんなサークルトレインに乗ってヤンゴンの町を感じるのもいいかも。因みに外国人は一周1ドル、駅のホーム上の事務所みたいなところで切符を買う。



 ● 旅行者から遠ざかる鉄道

P9211269.JPG

 この、人口約250万人を数えるミャンマー最大都市である旧首都ヤンゴン。その陸の玄関口であるヤンゴン中央駅は、イギリス植民地時代の1877年に開業した。陸橋から観るヤンゴン中央駅の構内は堂々とし、狭い線路幅の軌道が低いホームを挟んで秩序よく並んでいる。ミャンマー鉄道のレールの幅は1,000mm、つまり1メートルゲージで、タイ、マレーシアやベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国と同じである。

P1000434.JPG

 2010年現在、総延長5,403kmだが、そのうち41%ほどにあたる2,242kmが1988年以降に開業しており、つまり独裁軍事政権時代に造られたことになる。

map_rainway-jp[1].jpg
(ミャンマー鉄道路線図)

 とある新聞記事によると(※3)、2012-13年の計画では、中国やインドから融資を受けてさらに拡張してゆくらしい。インドは歴史的な経緯でシステムが似ているのでわかるが、中国とは関連がない。しかし、ミャンマーにおける政治的な中国の影響力の大きさが鉄道面からみて感じ取れる。特に中国は、機関車、貨車そして客車も多く譲渡している。

 そんなことを思うと、北側に正面を向いている今のヤンゴン中央駅のその駅舎は、どこかで観たような?。それは北京駅の駅舎に似ている、と直感的に思った。

33.北京駅 .jpg
(北京駅舎:2003年)

 これも中国影響か?と思ってしまうが、調べてみると、この華麗で立派な駅舎は、第二次大戦でイギリス軍によって駅が破壊されてしまった駅舎に代わって、戦後、ミャンマーの建築家、シン・ユー・ティン(Sithu U Tin)によるデザインで、1954年に駅舎が完成したらしい。

P9191213.JPG

P9191214.JPG
(現ヤンゴン中央駅舎)

 因みに、中央駅は将来的に30kmほど東の郊外へ移転する話があるが、詳しいことは分からない。

 その駅前は典型的な車だまりの広場を形成している。その真ん中に草木を植えた庭が‘ちょこん’と意外と堂々とした感じで佇み、大都会の真ん中とは思えない穏やかさが漂うロータリーである。それにしても外国人の姿が一切ない。それもそのはず、外国人はミャンマー人の10倍もする特別運賃が組まれていて、競合する長距離バスよりもはるかに高い設定となっているからだ。よって、よほど鉄道が好きではない限り、外国人旅行者がミャンマーの列車で長距離の旅をするなんてないであろう。

 因みに、ミャンマーの通貨はチャット(Kyat)。1ドル≒860チャット程度(2012年9月)が為替レートで、空港で換えることが出来る。空港のレートは悪くはなく、市内の闇レートでの交換はそれほどうまみはなくなったようにも感じる。

 お札は1、5、10、15、20、35、45、75、50、90、100、200、500、1,000、5,000,10,000、とあるらしいが、100以下はインフレのためほぼ存在価値なしでみる事はなかった。

ミャンマー@表.jpgミャンマーA表.jpg 
(ミャンマーの紙幣)

 外国人は、政府の運営するものや、宿の支払などは米ドル現金を要求され、両替も、ドルやユーロ、シンガポールドル以外はなかなか交換出来ない。因みに日本円は、不利ながらもヤンゴン市内の両替屋で換えることができるが、地方都市は難しい。

 100ドル換えると86000チャットに化けて出てくるわけだが、少し金持ちになった気がしても市内の物価はそう安くはない。宿代がヤンゴンの場合はだいたい13ドル程度、食事も3,000チャットが平均、タクシーも一回乗れば市内だけで最低2,000チャット、と、バンコクに比べてそんなに割安感は感じず、それでいてレストランや売られている物の品質は悪いので、物価安を目当てに来たらがっかりするかもしれない。もちろん、日本に比べれば格段に安いことは間違いないが。

 肝心の列車であるが、ヤンゴン−マンダレー間は、寝台だと33ドル、1等座席車30ドル、準一等が22ドル、一般座席車が11ドルとなっている。外国人は米ドル払いを必ず要求される。

ミャンマー国鉄 ヤンゴン−マンダレー(2012).jpg
(ヤンゴン−マンダレー 鉄道切符)

 さあ、これから中部の都市、マンダレーへ列車で行こう。まずは切符だ。ミャンマーの長距離列車の切符の買い方はあほらしいほど面倒だ。まず、前売り券と当日券の売り場が異なる。前売り券は、駅南にある、鉄格子の窓口が並んでいるところで売られている。薄暗くて野良犬がたくさんタムロしている陰気な場所なのであまり行きたくはない。さらに前売り券は1日前から3日前までで、4日後以降の切符は買えない。電話も難しく、だから、忙しいあなたが、直接、人気のある寝台券など抑えるのはなかなか難しい。

P9201242.JPG

P9201243.JPG

P9201244.JPG
(離れにある切符売り場)

 さて、午後3時ころを過ぎると、中央駅構内は、ミャンマー各地へ走る長距離列車が続々と発車を迎え庶民の声に包まれ賑やかになる。私が目指すのは、中部にある第二の都市、マンダレーへ突っ走る5番列車だ。このヤンゴン(Yangon)−マンダレー(Mandalay)間は、日本で言う東海道線みたいなもので、全線複線化されている一大幹線といっていいだろう。

 マンダレーまで通しで走る列車は上下3本。622kmを約15〜16時間かけて走るのだが、近隣諸国の列車と比べてなかなか遅い。因みに、日本で同じような距離をディーゼル列車では、1980年(昭和55年)の函館〜幌延間の急行列車でみるとそれでも11時間だから、よほど遅いか分かる。

さあ、出発!

P9211280.JPG

続く
参考文献
※3)『CHINADAILY.com.cn』 http://www.chinadaily.com.cn/business/2012-02/16/content_14622694.htm
posted by kazunn2005 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月15日

最後のフロンティア 1 (サークルトレイン) ミャンマー編


 1. サークルトレイン(ヤンゴン)

a_19_myanmar_500n[1]. (2).jpg
(ミャンマーの位置)

 ミャンマー連邦共和国、通称『ミャンマー』、※1)人口約5200万人、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接する国である。南北の最長距離は約2,000キロ(南へ約700キロの方は尻尾のように狭い)、東西の最長距離は約1,000キロ、面積は日本の約1.8倍の大きな国だが、隣国タイと同じレベルの規模の国だ。

 しかし、タイと違うのは、この国は長らく中国影響下の軍事独裁国家だったこともあり、ずいぶんと遅れた国という印象がこびり付いているが、事実そうである。だが、国を開けた今、政治が後ろ向きにならない限り、これから急速に経済発展することは目に見えている。そこで、今のうちに未開の鉄道に乗ってみよう、という事で、

『ミャンマー、ジャンピングトレインの巻』
と題して、ヤンゴンからマンダレーまで約600kmを走破してみよう、という企画を立て、財政の壁と戦いながらバンコクより北西の旧首都へ飛んでみた。
P9191187.JPG
(ヤンゴン国際空港)

P9191193.JPG
(日本製のバスが早速お出迎え)

 バンコク国際空港に比べて笑ってしまうほど片田舎のように感じるヤンゴン空港から車で約30分、僧侶やアカデミックな若者が闊歩する喧騒の町、ヤンゴンが姿を現す。この大都会の町の造りは、海からやってきた侵略者たちが、大河ヤンゴン川から這い上がるようにして占領し、そこを拠点にしてビルマ全土に広がっていった名残でもある。
P9271718.JPG
(植民地時代の建物が堂々と。ヤンゴン中央郵便局)

P9191195.JPG

P9271715.JPG
(日本語のロゴのトラックはある意味でステータス?)

P9201253.JPG

P9201251.JPG

P9201252.JPG

P9191200.JPG
(ヤンゴンの街の喧騒)

 そんな歴史のおかげで、河に面した平たい一角がこの町の中で最も忙しい地域であり、そこは狭い区域に薄汚いビルや粉汚い複合建物がブタ小屋のように乱立している。そんなグチャグチャな路地を北へ歩いていると、やがてうっそうと茂った緑がポカンと広がるエリアが目の前に広がる。

 実はそこはヤンゴン中央駅。駅構内と大雑把なヤードが実に無駄なスペースを陣取っていて、太陽に向かって激しく伸びる雑草たちのおかげで線路が消えかかっている。望遠越しに覗いたその雑草から‘グーン’と広角にレンズを広げれば、そのヤンゴン駅は避難場所のようになかなか大きく観える。

P9191211.JPG
(広い構内のヤンゴン中央駅)

 駅にはいくつかの列車が屯(たむろ)し、やがて煤を吐いた機関車が‘ゴットンゴットン’と軽そうな客車たちを引き連れて車輪の鈴を鳴らしながら陸橋の下で唸って行った。駅からは東西方向へ一線しかないが、いくつかの近郊路線がヤンゴン首都圏にはあるようだ。

P9211268.JPG
(客車列車の近郊線)

 その中で環状線(サークルトレイン)というものがある。東京で言えば山手線みたな存在か。しかしこちらは電車ではない。例えば、機関車が5輌〜以上の客車を引くぱってゆくタイプのものが主流で、駅間距離は1キロ程度のものがほとんど。よってかなり鈍足である。

 一周が45.9km、山手線の1.3倍、駅数39駅、およそ200輌の客車で毎日10〜15万人が利用している。最も運転間隔が短いのが、朝どきの15分であるが、2012年9月現在、以下のような列車本数だった。
450px-Yangon_Circular_Railway_Route_Map[1].jpg
(サークル線路線図)

8;20,/8:35,/10:10,/11:30,/11:50,/13:05,/13:40,/14:25./

P1000547.JPG

P1000561.JPG
(サークル線列車)

 本当にこれだけなのか、ちょっと疑ってしまうが、上記の列車はあくまでも完全一周するタイプのもので、区間列車がまだけっこうある。しかし、けっこう頻繁に予定時刻が変わるようなので、もし訪れるのであれば、このスケジュールはあまりあてにはならないであろう。※2)

 面白いのが、馴染みだった日本の気動車と、ここでかなりの確率で出会えることだ。今回は、JRのキハ58や四国で活躍していたキハ47、そして九州の松浦鉄道出身の気動車たちと出会えた。

P9271723.JPG
(松浦鉄道出身)

P9271747.JPG
(四国出身)

P1000566.JPG
(北日本出身)



 ではサークルトレインに乗ってみることにしよう。

 続く・・・

P9281748.JPG

参考文献:
※1) CITY POPULATION :『 『by : E conomic & World Urbanization Prospects The 2007 Revision』
※2) http://www.minamitours.com/yangon_circular.htm
posted by kazunn2005 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2012年11月03日

感想 『二つの祖国で 日系陸軍情報部』

P1000952.JPG

  『二つの祖国で 日系陸軍情報部』米題 『MIS (Military Intelligence Service)』

 作品を観終わった時、MISのメンバーの素晴らしさに感嘆すると共に、思わず我が日本の情けなさを感じた。こう書くとネガティブに伝わるかもしれないが。

 この映画は、単なる証言集ではなく、映像や写真、そして資料を駆使して裏づけし、若干エピソードを添えながら日系人の目線で表現されており、それでも観るものを熱くさせる作品になっている。

 恥ずかしながら私は、ドキュメンタリー番組は観るけれど、ドキュメンタリー‘映画’という作品を、近年まで映画館で観た事はなかった。映画というのは、主人公がいて、物語があり、脚本・台詞があって、結末に期待を寄せる、そんな劇作品のことを指すのだと思っていた。やがて映画自体観ることが少なくなった。

 最後はアメリカ一番、のハリウッド映画に慣れるのも良い。しかし、そんなものばかりが映画ではなく、すずきじゅんいち監督の一連の日系人シリーズに出会ってからは、ドキュメンタリー映画の存在を意識し、イラン映画など違った角度での作品も面白いということに気付いた。その後、回数はまだまだ少ないながらも、映画館へ脚を向けるようになった。

 さて本編の感想である。

 最初に思ったことは、証言と同時並行で映される白黒の映像だ。これらは単なる参考資料ではなく、証言に沿った脈絡がある映像だった。例えば、MIS(米日系陸軍情報部)の兵士が、捕虜(日本兵)の尋問に際し、タバコを与えて相手の警戒を和らげる場面の話をする。その時、静かな笑みを浮かべてタバコを与えているその映像を添えるのである。

 証言を集めることも大変な作業だが、「よくこんな映像が残っているな、よく見つけてくるな、」とその収集能力のすごさに感嘆した。おそらくアメリカ側の映像だろうが、英米の『記録』に対する執念が伝わった。

 ところで、前作2作目と違い、本作は直接我が日本が関わってくる。そして、MISというのは情報部隊であるため、二作目の442の実戦部隊のような派手さが少ないかもしれないが、日本軍の兵士と直接関わる点でイメージがしやすい。

 しかし、敵である日本軍兵士をやっつける、とか、実戦での成果を強調するものでは決してなく、ハリウッド映画にあるような、アメリカは正義だ、何ていうプロパガンダの要素はない。その代わり、敵である祖国日本への愛情がいたるところで感じられ、私は正直ほっとした。

 むしろ、当時の日本軍の愚かさ・幼稚さに、分かっていたつもりでも改めて心底驚き、怒りさえ感じてしまう。諜報を軽視し、作戦が筒抜けで海と空で戦うなんて、兵士を捨て駒のように殺しにいくようなものである。

 MISの方々の素晴らしいところは、置かれた立場の悲劇性や優秀さを忘れさせてくれるほど、敵軍兵士に対する愛情を強く感じる点である。日本軍としては、彼らを敵として扱わなければならなかったことに不運が襲ったが、日本人としてはこれは真に幸運だったといえよう。

 顔や言葉が通じるだけでなく、精神や感覚が分かり合える人間性を持ちえた『帰米』部隊に捕虜の尋問を担当させたり、沖縄の地上戦で洞窟へ逃げ隠れている一般民の説得に起用するなど、アメリカ軍はソフトの面でも考え方が優れていた。

 沖縄戦の話しでも、たまたまMISのメンバーに説得されて命を拾った洞窟もあったが、では助からなかった洞窟はなぜ悲劇を迎えなかればいけなかったのか。コミュニケーションがある・ないで命が助かる運命の分かれ目はあまりにも辛い。沖縄戦のことは、戦後の教育で知っている‘つもり’になっていた私も改めて自分の無知を確認した。

 少しはずれるが、日本は沖縄(琉球)を併合し、地上戦で犠牲にし、そして今も米軍基地や不平等条約で沖縄に冷たい歴史を歩んできた。こんなことをし続けていると、本当に沖縄は独立するか、中国の属国になるぞ、という事が冗談話ではすまなくなるかもしれない。
 
P9230365.JPG

 そして戦争が終わった後のMISの活躍だ。

 白黒はっきりさせるアメリカ文化、対して玉虫色が大好きな日本文化。当然、占領政策にも文化や考え方が影響してくるが、どちらの精神性を兼ね備えているMISのメンバーはまさに戦後日本の占領政策の架け橋となった。

 サンフランシスコ講和条約までたった6年で占領が終わるなんて、ある意味奇跡だが、その背後にはMISの活躍があったから、と思うとは思い上がりであろうか。その後のベトナムやイラク、アフガニスタンの例でも分かるように、占領される側との間に立つ人間がいないとうまくいかないのではないか。

 一方、占領がうまくいったもう一つの要素は、我々日本人が持っていた性(さが)かもしれない。日系人は、明治生まれの1世に育てられ、日本人性というものを受け継いだ。日本人とは何か?と問われて私は即座に答えられない。なぜならば失っているからだ。なぜ失っているのか?それはアメリカ占領後に生まれた世代で多くのものを捨てたからだ。

 おそらく、それらは、宗教観であったり、年上の人を敬ったり、主人を尊敬し、弱者をいたわり・・・・つまり武士道と言われるものも入っていると思うが、MISの方々始め、日系人にはそれが残っている。我々本国の日本人が、逆に彼らから日本人とは何か?を学ぶしか日本人を理解できないのではないか、と思うのである。

 時が経つにすれ、人々の記憶から歴史は遠くなる。一方、外交文書の公表やいろいろな証拠が出てきたりして歴史がより鮮明になる側面もある。そして、時の経過は人の心もほぐし、体験者の重い証言が得られやすくなる。記録映画になるという事で、重い口を開けた方もいるだろう。

 印象に残ったのは、日本の精神を教えてもらった叔父に会いたかったけど、敵国であるアメリカに肉親を殺された叔父に会えなかったばかりか、何も伝えられなかった無念さをようやく吐露した方がいた。その思いは、まるで映画のスクリーンの向こうに現れるであろう我々日本人に向けた、最後の訴えに近いものを感じた。

 新しい事実が出たけれども、漫然と公表されては誰の関心も払われずに静かに埋もれる歴史もあれば、記録や証言を集めて学会やマスコミなどを通じて発信され、注目を集める歴史もある。アメリカの日系人の話は、今では多くの人々があの事実を知るようになったのだが、それは、コツコツと証言を集めて映画化した、すずきじゅんいち監督のおかげであろう。監督がもしこの映画を作らなかったのであれば、日系人の一連の話はこれほどまでに関心を集めなかった。

 私は、監督が第3作目の『MIS (Military Intelligence Service)』 の製作を始めた、と聞いた時、1作、2作目のような、豊富な証言が詰まった内容に仕上げられるのであろうか、と素人ながら心配した。なぜならば、今回の主役たちは、日系二世、三世たちよりもさらに年配で、90歳を超える方々が大変多い。しかし、監督はそんな困難を承知で手がけた。

 そして作品は完成し、封が切られた米国での反響を聞いていた私は最初に思った。『間に合ったんだ。』監督は歴史のギリギリのところでメガホンを取っていたのだ。

 そして今日、鑑賞する機会に恵まれた。作品は、ドキュメンタリーと記録映画作品として質の高い内容に仕上げられ、後世を生きる人間たちへ、遺産としての価値を十分手渡せる内容であった。
P1000949.JPG
posted by kazunn2005 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画