2011年10月31日

(終)なぎさの中の孤島 (遠くなる隣国 ) 与那国島〜

 遠くなる隣国 (最終回)

P8270662.JPG

 石垣には、かつて台湾から移り住んだ住民の集落と台湾文化が花咲いている地区がある。実は、石垣や西表のパイン産業は元は台湾からやってきた人たちが興したものであり、また、かつて西表島にあった炭鉱に多くの台湾人が働いていた。

 また、昔は農業、今では観光で活躍している水牛も台湾から持ち込まれた。

 石垣島にある台湾人の集落では、今日でも台湾的な習慣の香りが漂っている。旧盆の精霊(シャウリョウ)送りの日には、台湾風の長い線香をたき、『ポエ』と呼ばれる三日月型の神具を使って、家の精霊が満足したかを尋ねる光景が観られる。これは琉球ではない、台湾式の伝統的なしきたりだ。

 しかし、八重山の人たちはあまり台湾系の人たちの話をしたがらない傾向があるらしい。それは、過去、彼らをどこかで差別してきた歴史と関係があるようだ。その話はここではあまり触れない。

 一方、台湾人は沖縄をいまだに『琉球』と呼ぶが、それは、あちらから観て沖縄を兄弟分とみなしているほど歴史的関わりが深い証拠かもしれない。しかし、沖縄の人々にとって台湾は意外と遠い存在になりつつある。

 明治以前の沖縄(琉球)は琉球独自の歴史と文化が華やいでいた。かつて琉球王国が中国王朝の朝貢国であった事と、後に薩摩藩に間接支配された結果、中国と日本の文化が入り混じったものとなった。そしてそれ自体が琉球独自の文化ということにもなる。
 
4..1996.8.4-10 沖縄遠征 沖縄本島 勝連城 (3).jpg
 (琉球時代の城跡:勝蓮城跡・沖縄本島)

 さらに、明治期には日本に編入され、台湾も日本の植民地となったので、垣根もなくなっていっそう台湾文化もミックスされた。しかし、第二次大戦で状況は一変。沖縄戦という過酷な被害を受け、また、日本から離れた台湾側は大陸の国民党が流れてきて現地住民を苦しめた。2.28事件という虐殺事件も加わり、沖縄へ亡命してきた台湾人も多くいた。

 台湾との間に決定的な境が出来てしまった沖縄は、戦後の米国統治、日本復帰を歩んでいるうちにその境が鎖のように固くなってゆき、次第に隣国文化の度合いが薄くなってきた。

 私は以前、那覇や石垣から国際フェリーに乗って台湾に向かった事がある。当時(1996年)は、八重山(石垣)と台湾の間の国境の海を渡っていた旅客船があった。

15..1996.8.10 石垣〜台湾航路(1).jpg 
 (高雄行きフェリー、1996年)

 その時はまだ掘っ立て小屋風の石垣島のイミグレオフィスで、それをパスすれば早速そこは台湾語、普通中国語が流れる異国に見事にチェンジ!。那覇や八重山から台湾へ戻る台湾系の帰省客や台湾からの観光客で賑わっていた。

 船内放送もみんなあちらの言葉。いかに台湾との結びつきが強いかをその時知った。船内で知り合った、石垣島に住む台湾系の人にいろいろお話を伺いながら次第に仲良くなり、現地の港に着くと、親切にも私を鉄道駅まで案内してくれて頼もしかった。

3..1996.8.11-19 台湾・高雄駅 (1).jpg 
 (高雄〔カオシュン〕駅)
 
 思えば貴重な体験だったが、今、そのフェリーは存在しない。2011年10月現在、八重山から台湾へ船で行くことはおろか、飛行機ですらない状態だ。那覇まで上ってそこから中華航空の飛行機で台北を目指すのが現実的で、それには石垣から那覇までの航空代と、さらに最低3万から4万かかる台湾までの往復代がかかってしまう。かつてのフェリーでは石垣から1万円しない程度で台湾へ渡れたのを思うと、時代はおかしな方向へ向かっている。

 一応、台湾側の復興航空という会社が飛行機を石垣に飛ばす、と地元の新聞が報じているが、試験運行の域から発展せず、年に数回程度しか飛んでいない。運賃も運航日もよく分からず、気軽に乗れるような状況ではない。因みに、関西空港から台湾まで格安航空会社が就航しているが、片道8,000の安さである。これはいったい何なのであろうか。

 沖縄の台湾系の人々は、このフェリーの復活を強く嘆願してきたが、船の売却を急いだ霞ヶ関との溝は深く、次第にフェリー復活の熱は冷めてしまった。復活活動は今でも細々と続いているようだが、どうにも実現しそうにない状況のようだ。

 私は世界のいろいろな国境を越えてきたが、互いの国の仲がそんなに悪くないのに状況が悪化している例はあまりないように思う。あの仲が悪いギリシャとトルコの間の島の国境ですら旅客航路はあるのに。

 八重山全体で動いても航路一つですら復活できないのだから、与那国町独力で国境越え航路が出来るとは到底思えない。あの『フェリーよなぐに』を台湾への定期航路として直行させる事は意外にも夢物語になりつつある。結局、これは日本国政府の姿勢が映されたものであり、いかに沖縄を軽視しているかが伺える。

6.1996.8.11-19 台湾・台東〜蘇澳 (30).jpg 
 (台湾の東海岸、晴れた日には与那国島が観えるらしいが)


 与那国に話を戻す。

 この島は、『よなぐに』とあるとおり、島ではない‘くに’でありたいと思い続けている。強い保守的なくにから、いかに開かれた‘くに’になるのか。将来華やぐのか、それとも無人島へまっしぐらなのか、今後10年程度で将来が決まる、そんな気がするのは私だけであろうか。

 正直言って、与那国島の将来はよそ者をどう受け入れるか、国内・国外に向かって開くしか活路はないように思える。幸い、与那国島はよそからの移住者を不遇するほど閉鎖的ではないように思える。うまく共存し、新しい発想としがらみのない環境を作る事によってのみ、活路が見出せるかもしれない。それは自衛隊を受け入れろ、という意でもない。

 台湾の人々にも『与那国』の事を知ってもらいたい。相手が相手を知らなければ不信にも繋がりやすい。今、与那国で異国の地を感じるのは、海岸に大量に打ち上げられた異国からのゴミしかない。それだけではいかにも寂しいではないか。与那国島の海岸は想像以上にゴミでやられている。これを与那国島の中で解決させるのは少し酷だ。

P8260607.JPG 
 (海岸の草木にもゴミがからみついている)

P8260611.JPG 
 (たった30分で集めた海岸のゴミ)

P8260605.JPG

P8260613.JPG 
 (ペットボトルや漁具が多い)

P8260616.JPG 
 (7割以上が中国大陸からのゴミだった)
 
 理想としては、与那国の土着の人と台湾系の人と、よそ(国内)から与那国に惚れて移り住んだ者と、そしてあまり多すぎない自衛隊員と・・・そんな小さな島で共存共栄することなど、はるかな夢物語なのであろうか。

 なぎさは波と陸地が交互に交わる境界ゾーン。波打ち際の島の苦悩は曲がり角に来ている。

 2011(平成23)年10月

 おわり
 
 1999.8月中旬 種子島 (16).jpg
posted by kazunn2005 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行