2011年06月26日

日曜雑談(白夜、アライグマ、旅行計画など)

 1年で一番陽が長い季節です。

 9年前のちょうど今頃、私は英国北部、スコットランドのさらに北端にあるオークニー諸島を旅していました。その時驚いたのは、午後11時になってもまだ明るく、ようやく暗くなっても3時くらいにはまた陽が昇ってくるのです。これが私が初めて体験した白夜というものでした。

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 (午後10時のネス湖・英国 スコットランド 2002年6月)

 白夜とは、完全に太陽が沈まないまま再びまた昇る、不夜な現象を指す事が多いですが、それは北極・南極圏より向こうで起こるもの。比較的低緯度の60度あたりの地域でも、太陽は完全に沈むものの、闇に包まれないままほんのりとした明るい空のまま朝になる。これも白夜と呼ぶ事もあり、もしかしたら、日没から日の出までのこの白い薄明かりの方が白夜と呼ぶにふさわしい、と自分で勝手に思っています。

 因みに、私はその完全に沈まない太陽の季節には北欧諸国に間に合わなかったのですが、8月中旬にノルウェーに到達したとき、上記の白夜にまた出会いました。神々の存在を感じた時間でした。

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 (一番夜が深い午前1時のナルビックの港・ノルウェー 2002年8月)

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 (薄明かりのロフォーテン諸島・ノルウェー 2002年8月)

 さて、話は変わりまして闇の中のお話です。昨日、おばの家に行ったら、ノラアライグマがいました。おばの家は私の家から歩いて20分程度の所にあり、決して自然豊かなところではないのですが、周辺に比べると藪や山林に覆われていて、いろんな息物がいます。

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  (えさを求めにやってきたアライグマ。携帯カメラで撮影したため鮮明ではないのはご容赦)

 モグラや蛇をはじめ、とんびや山鳩、ツバメの群れ、もちろんタヌキや野良猫もいます。これらは私が子どもの頃から居るので、本当の自然といえるでしょう。

 ところが、今宵のアライグマはどうも勝手が違います。どうやら、ペットとして飼われていたものを誰かが捨てた可能性が濃厚なのです。その証拠に、今までアライグマなんて居なかったのに、一ヶ月前に突然現れるようになり、人を恐れる様子はあまりありません。おばは秘密裏にえさをやっていますが、その行為を快く思わない人も居て、張り紙をつけては、

 「保健所に通報するぞ!」

 と書いてます。保健所を意味するのは、イコール死です。

 自然界から採ったのか、ブリードで育てたのか分かりませんが、ペットとして客に売ったのは間違いなく、それをしたのは人間です。そして捨てたのも人間。それを不憫に思ってえさをあげるのも人間、気に食わないから保健所に通報するのも人間、そして殺すのも人間・・・人は想像を絶するほど罪深い生き物だといつも思ってしまいます。

 思えば、昭和の中ごろまで、日本人はけっこう他の生き物と仲良くくらしていました。それが、核家族となって日本人の4分の1が首都圏・中京圏・関西圏などの都会派住民となり、外に他の動物が居る事を受け入れなくなりました。カラスや野良猫もそうです。

 動物を思う心がなくなれば、人間をも思う心がなくなるのも自然でしょう。いつも通勤電車で毎日、競争社会の都会へ通っている私は、都会の人間の嫌なオーラーが年々増しているように感じます。私は最近、東京・横浜の人間がおっかなくて仕方ありません。

 とにかく、いやな事は考えないようにします。アライグマはしばらくおばが餌付けをするようでして、もし機会があればもう少し鮮明な画像を貼り付けたいと思っています。

 毎回毎回、暗いので、たまには少し楽しい事を考えます。

 今年の夏、どうなるか分かりませんが、おそらくどこかへ行くと思います。久しぶりに航空券のサイトを開けばそれは楽しいものですね。実は、スターアライアンスのマイルが45000ほどあります。まだ一回も特典航空券で飛行機に乗ったことがありません。

 たった45000しかありませんが、これをこの夏、全部使い切ってしまおうと思っています。さあ、考えるだけで楽しい作業です。

 あなたなら、この45,000、どう使いますか?

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 (2002年8月・ノルウェー・ナルビック沖)

 ※写真はもちろんすべて筆者撮影
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2011年06月19日

小笠原諸島を想う

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 あ〜、。毎日がどん底です。特にこの日曜のよる・・・希望も見えずにお先真っ暗。先日、かすかに知っている私の知人が自殺未遂をしたという話を聞きショックでした。なんで30代に多いのでしょうか。私も人事ではなく、人間、生きる希望をなくしてしまったら本当にそうなってしまうんだ、と恐怖に包まれています。

さて、話を変えます。

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 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110616-00000082-san-soci

 小笠原諸島が自然遺産に登録されるそうです。ですが、私は日本における、この『〜遺産』という価値基準がどうも好きにはなれません。否定はしないですが、そこには、自然を大事にしよう、という概念よりもむしろ、『注目される』『観光業が潤う』といった金がらみの強い概念が透けて見えるからです。その証拠に、地球はこんなにも広いのに、先進国に多く集中しているのが分かるでしょう。

 小笠原は屋久島の約3人の一程度の面積。いや、面積などは関係ない、周辺の海を価値に入れれば壮大な広さになる。そんな小笠原が自然遺産として受け入れられたのは、固有種が多い、という理由も大きいのですが、父島・母島に人間が移住してきて以来、小笠原の自然は壊滅的な破壊を経験しました。昔持ち込まれた大型カエルやペットの猫はもちろん、植物における外来種が島の固有種を脅かしています。これらを護るための遺産登録の意もあるようです。それなら歓迎しますが・・・

 重要なのは、当の小笠原の住人たちがどれくらい自然保護に関心を持っているかです。

 私は過去3回、小笠原を旅しました。

 母方の先祖が父島にいた軌跡も手伝って、不思議な縁をつないでくれたのですが(出会った数少ない女性も小笠原でしたが・・・)、思ったのは、この島は土建屋の島ということ。公共事業である道路工事や住宅建設のためにやってきている人たち多く、それが主な産業でした。

 他にも、役所や学校などの公共機関、そして自衛隊関係、次いで観光業といったところでしょうか。観光に携わっている人や役所の方々などは自然保護への想いが強い人たちも多いのですが、そのほかはあまり関心がないように映りました。

 つい最近まで飛行場を建設しようと相当な活動していたくらいでしたが、ただ、飛行場建設がポシャッて以降、自然保護に関するお話をよく聞くようになってきました。それが今回の自然遺産登録です。以前から登録話があったのですが、あ〜ぁ〜、ついに、という感じです。

 私個人としては、小笠原はいつまでも注目されずにそっとしておいて欲しかった。小笠原が好きな人は、万難を排して片道二十数時間の船旅を経てやって来ます。それも5日に一便程度しかないものだから、行ってすぐに帰ってくるわけにもいかず、一便か二便見逃すのです。そうすれば、休みは何週間単位も取らねばいけないでしょう。そうなれば、自然と本当に好きな人しか訪れないので、訪れた者同士意気投合してしまう心地よさがありました。

 そして、すごい人はそのまま移住してしまう。島の男と結婚し、世帯を持ってしまう人が結構いたようです。その証拠に、小笠原の父島・母島では、他の離島でみられるおばあちゃん、おじいちゃんばかりの島とは違い、若い世代の割合がとても高いのです。もちろん、戦争で強制疎開となり、人口が断絶してしまった事情もありますが。

 この新しい島の悩みは他にもあり、その一つに、学校を卒業した若者が就く仕事がないのが現状です。公共事業ばかりという事は何を意味しているのか、それは、外地からのお金に頼っている、という事です。

 小笠原で育った子どもたちが成人して、血も涙もない東京へ働きに出るという事は、固有種が外来種に向かって戦いを挑むようなもの。心配です。

 そんな話はともかく、自然遺産に登録されても、相変わらず船便は今のままのようなので、自然なる入島規制は継続される模様。
 
 最近、NHK・民放などで小笠原の特集をやっていますが、狭い島々なのでどこも行ったところばかりを採り上げてくれます。なつかしなぁ〜と思いながら眺めていますが、私もそろそろどこか遠いところへ行きたい今日この頃。海外に行かずともワールド級の目的地が国内にあるではないか。

 精神が病んでいる今、もっとも旅への価値が高まっている私です。ただ、この国で少し長い旅をすれば、人生を捨てる事にもなりかねません。悩ましいです。

 さあ、今年の夏は人生を捨ててどこへ行くのでしょうか。

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2011年06月12日

ダーウィンがきる

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 梅雨のこの時期、シメジメしていて天気悪いしうっとおしい!と嫌われているが、僕は案外好きな季節の一つとして感じている。

 昨日、久しぶりにゆっくりとした時間が出来たので、うちのクロを庭先の草花に連れ出した。

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 すると、あの独特の雨上がりの空気にポワーんとなった。なんだか懐かしく、小さい頃、梅雨時にカタツムリを散々取りに行った時の匂い、学生時代、梅雨時によくクルマを飛ばしては、軽井沢や東北の峠で感じたあの匂い、そんな記憶が瞬時に蘇ってくるのだ。

 やっぱり、なんだかんだ言ってそうした記憶って生涯に渡って本能的に宿るもんだし、人は自然の子なんだ、と日々自然から離れている生活を振り返りながら、自然が恋しくなったなぁ〜、と思った。

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 その自然を相手にして仕事を営む友人が何人かいる。その中で一人、学生時代の同級生Nがいる。彼は生き物のドキュメンタリー番組の映像を撮っていて、そんな彼と昨夜、電話で少し話しをした。

 Nは、学生時代から自然好きで、よく一緒に沼や森に連れられたが(私はそこまでに至る道の線路際の光景に興味があったのでスタンスは違った)、その趣味が仕事に発展した数少ない友人だ。

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(1997年会津鉄道にて:筆者撮影)

 彼の仕事は普通の感覚の仕事とは全く違う。たとえば、白神山地や秋田の山奥で虫や動物を半年単位で住み込みで撮り続けたり、日本全国の山や里をくまなく歩き、その土地の自然や動物の生態系を調べてきた。そんな彼が今手がけているのが『トンボ』だ。

 今、彼が住み込みで撮り続けている場所が静岡県の磐田。お茶畑が点在する台地の土地で、そこのトンボに眼をつけたらしい。

 トンボを撮る、といっても人間側の描く通りに動いてはくれず、孵化もその成長も交尾も戦いもいつ起きるか分からない。常に標的を観ていなければいけない。

 NHKでよく動物モノの番組をやっている。『ダーウィンが来た』という番組はご存知だろうか。わずか30分番組だが、実際撮ったフィルムは気の遠くなるような時間のはずで、それも山にこもったり、時には自然界へ挑戦して命を賭けるようなことさえも起きる。そんな苦労を一切感じさせずに、子どもたちの興味が湧くように演出されている。

 たとえば、鳥の子どもを守るために親鳥が奮闘しているシーンが必ず出てくるが、いつ奮闘するかは分からないし、奮闘しない可能性すらある。しかし、いくら苦労してフィルムを撮ったとしても、ドラマ性のない、奮闘しないノンベンダらりん的内容をNHKが買い取って放映させてくれることはまずない。

 さらに例を一つ、北海道中から集まったムクドリが越冬のため南下、そこで津軽海峡を集団で一気に渡るシーンを撮るとする。まず、海峡を渡るXデーがいつ来るのか分からないし、渡っているシーンを船から撮っていても、ただ穏やかに渡ってしまったらドラマにもならない。時には天敵に遭遇し、危機を乗り越え、あきらめて引き返し、さらにリベンジする、そうしてくれないと困る。そんな人間側の勝手な都合を暗に自然界に要求してしまわざる得ないのだ。それでも人間は当然自然界に合わせるしかない。

 彼は言う。

「好きでないと出来ないね、この仕事は」

 因みに、そんな大苦労をした末に完成し、見事NHKに納入できても収入などこれっぽっちで、人が一人1年何とか生きていかれるだけの額。毎日のんべんだらりんと椅子に座ってインターンットしながら、出来上がってきた書類にハンコを押すだけ、それでも途方もない高給取りだったりする大企業の中間管理職を傍らで毎日見ている私は、Nの境遇と比較する事自体無意味だが、世の中って・・・と思ったりもする。

 さらに、もし撮影がうまくいかず、企画書通りの内容が撮れなかったらもうお仕事はこない。厳しい世界だ。

 それでも彼は言う。

「NHKに不満はあるし、文句も出るけど、やっぱりNHKなんだよね。こんな大金にならないシロモノを買い取ってくれるのはNHKだけなんだから。民放じゃまず相手にしてもらえないよ。自然モノはコストの割りに金にならないから。でもね、金=良質なモノとは限らないんだよ。最近強くそう感じるよ。NHKは日本の文化を支えていると思うし、NHKがなかったら日本の映像文化はボロボロだよ」

 なるほどな、と思った。思えば、民放で流れている番組は、スポンサーと芸能界中心の低俗なものばかりで、そのシステム上、大衆受けするものしか造れないことくらいは分かっているつもりでも、改めて最近の民放のひどさを思い返した。

 文化ってなんだろう、と思ったとき、沢山ある中の一つに、記憶に残るものと残らないものへ分けられる事に気付いた。それは、その人の興味や価値観に左右されるけど、価値あるものは記憶に残り、時間をかけて見直されるものだと・・・。

 それは、先日のすずきじゅんいち監督の映画『442』に通じるところもある。観客動員数やマスコミへの露出度に踊らされている人々が果たしてどのくらい、こういったドキュメンタリー映画に足を運んでくれるのであろうか。もし少なければそれが民度というものか。

 トンボの生態を四六時中観察撮影してるNは、今日も屋外、室内で地道に絶え間なくファインダを彼らに向けては覗いている。その気力の源は何か。

 それは多分、ただ好きなだけではなくて、うまく撮影が成功してNHKによって放映されれば、全国の学校や図書館に置いてもらえると思えばやる気が出てくる、というものもあるかもしれない。そんな前向きで希望に満ちた私と同い年程度のNが少し羨ましい。そんな彼の手がけた映像が実際NHKで放映されるのは、11月ごろの『ダーウィンが来た・生き物新伝説』番組内になるらしい。

 今日もトンボはそんな人間界の都合などあざ笑うかのように自由気ままに生活している。しかし、その自由も一瞬のひと時である。私たちの人生のように。

〔写真はいずれも筆者撮影〕

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(高原の半野生鹿:ノルウェーにて 2002年)
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2011年06月05日

映画『442』 静岡上映会

 去る5月22日、静岡にて映画『442』の上映会がありました。2週間も経った事後報告で恐縮ですが、現地での上映会、監督ご夫妻のご様子など、この場をお借りして報告したいと思います。

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 当日は雨が若干滴ったものの、予定通り会場はいっぱいになり大成功を収めました。このように、映画の内容とは縁がない日本の地方都市でも成功を収めた事はすごいです。
 
 音頭をとったのは、地元旧清水市に活動の拠点がある、NPO法人『ヤングカレッジ』。
http://www.k3.dion.ne.jp/~young/
 
 清水青年団の流れを汲む非営利団体です。大規模な商業活動や組織を持っている法人ではありませんが、やっている活動はまじめで且つ献身的で、地元企業や行政からの信頼も年々増しています。このように書いてしまうとお堅い感じがしますが、アットホームな若い女性たちが中心となって地域に密着した活動を精力的に行っています。

 こうした行政系NPO法人というのは、わたしの地元でもそうですが、比較的ご高齢の方々が日々の活動の中心になりがちです。このヤングカレッジも、必ずしも若い人が多いとは書きませんが、そこそこ新世代が活躍しているような気がします。そんな若い世代を影で支えてくれている先輩方たち、そんな暖かい世代間交流を魅せてくれています。

 さて、そのヤングカレッジが主催する映画『442』の上映会。静岡駅近くにあるサールナートホールで5月22日に開催されました。話に聞くと、この映画館はお寺さん系の施設のようで、採算度外視の、価値ある映画を数多く日々上映しています。

 そういえば、最近映画館行っていないな・・・

 上映会には、製作者のすずきじゅんいち・るみ監督夫妻が駆けつけてくれました。

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(いつも陽気な監督ご夫妻、私はいつも目の前にいると緊張してしまいます)

 詳しい上映会の様子などはヤングカレッジのホームページ上にあるのでここでは割愛させていただきますが、
http://youngcollege.eshizuoka.jp/e745340.html

 一つ知ったことは、映画そのものに関心をもっていただこう、とする努力やご苦労がいかに重要である事。当日は、テレビ局・ラジオ、そして新聞社などが取材に見え、監督ご夫妻はてんてこ舞いでしたが、何だかスポットライトを浴びている人はやっぱり違うなぁ〜、とただただ思ってしまいました。

 しかしながら、監督がここに来る、という事はもちろん、マスコミ各社が自然に、勝手にくる事は決してありません。ここに至るには、マスコミ各社との人脈、アポイント、そして説得の努力があったからです。映画『442』は、誰も傷つかず、社会性が含んだ内容であり、そして、採り上げる価値がある、と多くの方がご判断されたからこそ当日の賑わいがありました。

 これは、監督の作品におけるこれまでの実績と信用、そして監督夫妻ご自身のお人柄もあるでしょう。監督自ら細かく地方へ出向き、広報活動もしておられます。しかし、大きな営利が動かないドキュメンタリー作品の監督が動かねばならない事情も一つの悩みでもあるのですが・・・

 こうした上映会の様子などは、告知したり宣伝する事によってまた次に繋がります。実は、こうした一連の活動の裏には、ヤングカレッジを主宰しておられます、『快傑ガンコ親父』こと、松韻窯陶房(旧清水市)の主事・寒河江先生の存在があります。
 http://www.ab.auone-net.jp/~shouin/

 先生の人脈、行動力こそがヤングカレッジの活動の源です。先生はもう、若い人たちにバトンを渡したがっているようですが、まだまだそれは世間が許してくれなさそうです(笑)。そして、このような報告をなぜ私のような人間がしているのか不思議ですが、これも何かの縁ですね。

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(今回の上映会を取り仕切ったヤングカレッジの津島理事)

 このようにして、マスコミへのインタビューや取材を順番にこなしてゆき、最後は、200人以上の観客を目の前にして監督ご夫妻によるインタビュー形式のトークショーが行われました。

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(舞台上でトークショーを。当日は3方からの質問を受けました。写真は手振れのため他にロクな画像がなく、これでご勘弁を)

 トークショーの概要は、おおむね昨年六本木で行われた東京国際映画祭の内容と被ってしまうのですが、ここで一つだけ挙げるとすれば、映画の中で日系部隊が最後、ダッハウの強制収容所に到達し解放する話です。この事実を長い間アメリカ側は隠していました。無論、442部隊の存在すら一般には知られず、軍関係者の間でしか知られていませんでした。

さらに、ダッハウを開放したことは軍レベルでも長い間相当秘密にしていました。それは、自由を標榜するアメリカ合衆(州)国が、その国是を否定する強制収容所を建設し、そこに日系人を隔離し、さらに、その収容所に入れられた体験を持つ人たちの部隊によって敵国の強制収容所を開放したことは大きな矛盾でもあり、さらに正義の大国であるはずのアメリカの恥なのです。アメリカという国の本質が少しでも発見できたと共に、祖国を想う事への重要性を改めて認識させてくれました。

そして、私は『442』を鑑賞するのは3回目でしたが、観る度にまた違った角度で感じる事ができ、そして理解がよりいっそう深まりました。

 私は、3年間海外を出ていた頃、必然と自分の国を祖国して認識し、自然とそれを思う心、周りは異国人ばかりなので当然、私は日本人である、という心が強く芽生えました。国旗や国家、そして、その国の元首を想う心はどこの民族でも普通の概念として流れていることに気付きました。それを堂々と我が日本で想う事を許されない、今の現実に少し嘆いている次第でもあります。

 すずきじゅんいち監督は、昨年秋、大きな自動車事故を起こし、生死をさ迷いましたが、見事我々の前にカムバックしました。それは、神様が『まだまだやる事があるぞ』と、あの世から追い返えされた、とご本人は言っておられます。その『やる事』とは、これから上映準備に差し掛かります、東洋宮武、442に続く第三弾、『Military Intelligence Service, MIS』という、これまた日系人のドキュメンタリー作品の事です。いよいよお話は次回作へと参ります。

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(最後にサイン会で盛り上がる上映会)

 最後に、当日はヤングカレッジの皆様、じゅんいちご夫妻、がんこ親父さま、こんなわたくしを暖かく迎えてくださって本当にありがとうございました。

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-----------『映画442を知らない方々へ、簡単な概略のご案内』---------

 そもそも映画『442』とは?

 すずきじゅんち監督の大きなライフワークの柱の一つである、記録に残す事、この事業とも呼べる活動をドキュメンタリー作品という目に見える形で映画を製作発表しています。映画『442』はその一環の一つです。

 前作は『洋宮武が覗いた時代』。映画『442』は、これに続く第二弾として受け止められています。監督夫妻は今、米国・西海岸に居を構えておられ、その縁で通じた日系社会との交わりの中で、第二次大戦中の実戦を経験された方々がご健在中にぜひ、アメリカ人として戦った日系人の記録を残そう、と思い製作してこられました。

 本作『442』は若干、前作・東洋宮武〜から脈を受けています。前作は、第二次世界大戦中に強制収容所の日系アメリカ人を撮り続けた日系人カメラマン、宮武東洋の写真記録を基にドキュメンタリー作品として描かれました。当時の日系社会が受けた差別、アメリカの理念とは相反する強制収容所を国策として進めた事実、そして親の世代の祖国と戦っている自分たちの祖国に対する葛藤など。

 『442』は、その強制収容所の対象となった日系2世たちがアメリカ兵として戦地に赴き、その活躍とは裏腹に彼らの悩み、恐怖、それでいて暗さを感じさせない、脚色を入れず、できるだけ主観を除いて描かれたドキュメンタリー作品です。

 概略を簡単に説明すると・・・

 『1941年12月、日本はアメリカに対して真珠湾攻撃を断行し、攻撃後宣戦布告をした。これに対してアメリカは、ハワイ・および本土にいた日系人を強制収容所(Concentration camp)に収容した。
 同じ枢軸国移民であるドイツ・イタリア系には実施しなかった事は、明らかに人種差別的な政策をあえて採った意思を表している。

 このアメリカの国是とは相反する理念に、当局はこの日系人たちの扱いに困ることになり、その後、アメリカに忠誠を誓うことを確認した者たちによる部隊が編成された。
 まず、指揮官を除くハワイの日系人による第100歩兵大隊(100th infantry battalion)が編成された。軍事訓練の成果が後押しし、本土でも日系アメリカ人だけによる志願兵、第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)が誕生した。
 これはあくまでも日本人ではなく二世たち‘日系人’による部隊であり、彼らの祖国はアメリカである。しかし、彼らの理念の中には、一世たちから受け継いだ、大和魂も含んでいた。

 100歩兵大隊、442部隊は、ヨーロッパ戦線に送り込まれ、父母たちの祖国の同盟国相手に熾烈な戦いを繰り広げていた。特にイタリアの中南部、ローマ南東130キロ地点にあるモンテ・カッシーノでの戦いでは、はるか丘の上にある修道院(ドイツ軍が要塞化していた)を攻略するために多大な犠牲を払って奪還した。しかし、首都ローマ進軍は許されず、ローマを迂回させられたので、ローマ解放には立ち会っていない。

 また、部隊はフランス東部アルザス地方に移動し、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。悪天候と寒い気温の悪条件の下、森林地帯を歩兵だけで攻撃して見事奪還した。戦後、『442連隊通り』と名づけられた名称の通りが誕生している。そして次の試練は、アメリカのテキサス大隊211名がドイツ軍に包囲され、その救出を命ぜられたのであった。その作戦に442連隊では約800名が死傷した。

 その後1945年、二次大戦 ヨーロッパ戦線末期、イタリア北部のゴシックラインと呼ばれる、ドイツ軍の防衛線をわずか31分で攻略した。実は442部隊が離れていた半年間、まったく攻略されておらず、だから日系部隊が呼ばれたのだった。この時点になってそれほどに、日系部隊は相当着目されていた証明でもあった。
 ちなみに、連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。

 戦後、日本との戦争関係が終わり、堂々と勲章が授与され、その数はアメリカ陸軍史上最多となった。しかし、それにもかかわらず彼らが待っていたのは激しい人種差別との戦いであり、その戦いが終わるのは1960年代の公民権法以降となる。

 この映画は、日系人部隊がいかに優秀で勇敢であったかを伝えるために、その歴史的事実を体験者たちのインタビューと記録映像をまじえてドキュメンタリーとして仕上がっている。しかしその内容は決して重苦しい雰囲気ではなく、明るく、前向きで、そして優しく描かれており、また、功績の誇らしげを強調するものでもない。

 この映画の製作にあたって、体験者たちへのインタビューが難しい事を思うかもしれないが、実は想定していたほどでもなかった、という。製作グループが、退役軍人たちとヨーロッパへのメモリアルツアーに同行しているうちに良き人間関係が出来上がったため、インタビューにも快く応じてくれた、という。』

 以上が概要です。

 
 映画とは、商業映画のように単にエキサイティングするものもあれば、社会性に訴えたり、主張し、記録を披露する文化的なものもあり、制作費をかけられない映画の中にも魅力溢れるものがたくさんあります。映画館に出向いていろいろなタイトルの作品に眼を通していただきたいです。
 
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2011年06月01日

あとがきと御礼

 あとがき

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 5月1日から31日まで一ヶ月間に渡って記したたびの話がようやく終わりました。読んでくださった方々(とはいっても、わずか数人ですが)、ありがとうございました。

 実は、この5章、31話にまとめたものは、私の動画集『汽笛街道』の内容に合わせてまとめました。つまり、動画(DVD)のシベリヤ横断前編・後編を観てこれを読めばよりイメージがつかめる、というものにしています。機会があれば動画の方も平行してアップしたかったのですが、さすがに今回はそれまで手が回りませんでした。

 これらは、実際の日記を基に加工しまとめて文章にしたものを、改めて今回、加筆・修正を加えたものでした。詳細な時刻や通貨、その他もろもろの情報はすべて本当のことで、当時の自分はきちんと記録をしていました。

 それを、単なる日記ではなく、人が読めるようにしたためたつもりでしたが、このようにネット上に載せると、長い文章は嫌悪感を覚えるようです。友人にも、「何自己満足に浸っているんだ!こんなの無駄な事なんだから仕事に専念しろ」なんていわれる始末で、言い返す力もなく、ただ汗がダラダラでした。

 ただ、いったんはじめたものは正式に終えるまで辞める事を許さない、という性格なので、半ばを過ぎたあたりからほぼ意地の境地で書いていました。夜9時頃に帰ってきては、写真や資料を編集して、地図を作り、大急ぎで文章を書いて、アップして・・・何やってんだろ・・・という感じでした。これを書いている間、世の中で起きている事件や政治から離れ、新聞やテレビもほとんど観ていません。

 仕事や勉強と並立してこの作業は正直、倒れそうでした。ほんとうに、文章を書くというのはすごく大変な事だと改めて痛感いたしました。

 ごく一部の方々からお褒めの便りをいただきました。今の私の現実は辛いものがありますが、また気が向いたら筆を下ろそうと思っています。

 それでは

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