2011年05月31日

最終回:沈 黙 のヨーロッパ〜 E 連合王国 / U シベリア横断 〔後〕

最終回:沈 黙 のヨーロッパ〜 E
  
B-17 ボルザノ - ボローニャ - ミラノ - ローザンヌ- パリ.jpg
  (前回までの行程)

お金 フランス 表@.jpg
(旧フランスフラン札)

  最終回 6. 連合王国

 大陸の東の島から西の島へ。ついに終着の日がやってきた。しかし、到達感がないといえば嘘であるが、あれこれ指摘されればそれほど感慨に浸れない。自転車で横断したわけでもなく、ただ列車を乗り換えて車輪に任せっきりで渡ってきただけなので、何も特別なことをしたわけではない、と言われればそれまでだ。

 でも、まあ、ロンドン目前まできた。この大陸往路も最終日。いったん立ち止まる事が出来る節目にはなるだろう。そろそろ最後の移動を試みる。

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  (パリ 〜 ロンドン 工程図)

 パリまで来ればロンドンなど屁の如くのもの。かつてはドーバーという海峡の存在がとてつもなく重かったのだが、今になってみれば海底地下トンネルでズドン、はい、終わりである。

 ロンドン行きはパリの北駅(Gare du Nord)から出ている。名前の通り、パリの町の北側に位置し、また向かう列車もフランス北部や北方の隣国へ向けられていて、まあ、東京で言えばかつての上野駅のような存在かもしれない。

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  (パリ北駅構内)

 ターミナルの駅と駅の間には地下鉄が張られている。そんな大交通網で巡らせたパリの薄暗い地下鉄で北駅に着くと、リヨン駅とはまた違った機能的な雰囲気が出迎えてくれる。

 国内TGVはもちろん、西の島国を目指す『ユーロスター』、ベルギーに向けて走りだす赤いTGVーこと『タリス』も顔を出すなど、パリにしては珍しく異国を直接伝えるターミナル駅だと思う。そして、『機能的な雰囲気』と評した通り、客層はビジネスマンが多く、ベルギー行きやフランス国内便など決まった乗り場から出ているので解りやすい。

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(ユーロスター、タリス、TGV が顔を合わせる北駅)

 イギリス行きも同様だが、こちらは他とは異なり特別扱いされているような感が滲む、飛行機のようなチェックイン制を採っているこのユーロスターの乗り場がまさにここであり、それこそ、異国へ旅立つ緊張と脱出感が入り混じり、さらに9・11のテロ直後とあって、銃器を垂らした警備隊が駅の味をきつく焦がしてくれる。

 正規の切符売り場がほのかに混雑を蒸し、そんな中、若干ドキドキしながら今日もユーロパスの日付を入れなければいけない。すると、パス所持者に限り『ホルダー運賃』というものがあるよ、と教えてくれる。つまり、パスを提示して割引料金を払えば日付は入れなくてよい、というものだ。
 ガイドブックをよく読むと、かなり高い運賃(片道約18,000円)が普通運賃の欄の片隅にち〜さく載せられていて、これが一気に約8500円程度になると書いてある。

 ところが、さらに火曜日の平日のこのひと時、なぜだかよく分からないが300フラン(約5000円)で買えてしまう。どうやらオフピークのこの時間帯は周りの旅行会社が乱売しているらしく、ある乗客に聞いてみると、ノーマルで350フラン(約5600円)で買えた者もいて、どうも一様ではないようだ。

  フランス TGV 2001.jpg
 (フランス側発行のユーロスターの切符)

 さあ、大陸最後のバトンとなる、白と黄色で塗りつぶされた車体の列車がドーム屋根の下でがっつりと現れる。パリからロンドンへ。それらをアプローチする今宵の主役は、TGVに似た高速列車、ユーロスター(Eurostar)。

 列車は定刻になってもなかなか発車しようとせず、一体何が原因で遅れているのか、さっぱり分からないまま延々待たされていると、何も告げられずにようやく動き始める。時計をちらりと見れば、時は今13:44。たかが40分の遅れを気にせずに、安らかなシフトの響きが駆け巡る。

 期待していたユーロスター。しかしその中身はというと・・・ 豊富な乗車経験が邪魔して、私の列車審査が厳しくなっているのを前提に話を進めると、想像していたよりも相当狭い座席に厳しい目を光らせ、携帯電話の単純な着信音が咲き乱れる車内に小さな不満を覚え、移動空間を重視するフランス側とは対照的なで日本的な乗り心地に辛(から)い採点をつけてしまう。因みに二等車である。

 一方、外見はTGVと似ているこの汽車旅だが、英・仏・ベルギーの3国が開発した列車のため、TGVとは違った国際レベルの壮大な違和感がカタチになって伝わり、インターナショナルな個性があるというのがプラスポイント。一応何か褒めなければ。

 北駅を脱したユーロスターの車体が、同時に発車した、隣を併走するTGVの窓ガラスに映え、二つの国の列車が轍を同時に刻むその様子が欧州らしい。フランス領内でにおいては、都市部こそはノロノロであるが、やはり専用線に入れば最高時速300km/hを確信させる走りっぷりを披露し始め、カレー(Calais)をあっという間に過ぎればいよいよのっぺりとした海峡が前に立ちはだかるはずだ。

 ドーバー海峡直前といえば、フランス側で有名なのがカレー(Calais)という町。ユーロスターもさすがに無視は出来ないが、だからといって街中まで通すわけにはいかず、よって町外れに『カレー・フレタン(Gare de Calais-Fréthun)』駅を設置したが、今宵は思いっきり通過する。大陸最後の駅だ。

 実に寂しい駅のようで、これは、青函トンネル前の津軽二股のようなものか。

 すると、貨物ヤードらしきものが見えてくる。ヤードとはシャトル列車の基地だ。ユーロトンネル社が運営するシャトル列車が、海峡を車ごと載せて行き来しており、大型バスをもぱっくり食べてしまうワゴン車輌が、ユーロスターや他の貨物列車のダイヤの間を絡めるように走り収めている。

 さあ、いよいよユーラシア大陸とおさらばの瞬間がやってくる。全長50.49kmのユーロトンネル(英仏海峡トンネル)に‘あっ’という間に突入し、底の浅いドーバー海峡の下をマッハの如く突っ走る。

 この海の浅さが日本の青函トンネルよりも短くなった要因なのだが、海底部の長さは世界一という事で我慢してもらおう。トンネル建設時は、日本の川崎重工の技術が活躍したらしいが、そのおかげで青函トンネルよりも短くされたかどうかは関係者しか知らない。

 それよりも今問題になっているのは、瀬戸大橋と同じくらいの建設費に対して、開業後数年ではあるが、旅客・貨物の輸送量がはるか予想を下回る成績に耐えかねて、トンネルを運営する会社が破産寸前(実際2006年に破綻)という事実だ。英・仏という二大国の経済力をもってしても駄目なのだから、大型プロジェクト何ていうものは、よ〜く考えないといけない、という事を物語っている。

 高速列車は、タコやイカが泳ぐ海の底のさらに下にいる実感を全く与えぬまま20分ほどで走りぬき、突然、前触れもなく‘パッ’と光の下に舞い戻ったこの瞬間、ついにUK(連合王国)本土に上陸。それはあまりにもあっけなかった。

 イギリス側シャトル基地を横切り、それほど時間をかけずに連合王国最初の駅、アッシュホード(Ashford)に到着する。

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 (イギリス側シャトル基地とシャトル列車)

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(イギリス側シャトル基地全景)

 ここから鉄路の電化方式が変わり、架線ではなく線路の横っちょに高圧電流が走り、そこから電源を取り入れる、第三軌条方式と呼ばれる集電方式に切り替わる。そのため、途端にスピードが出せなくなった連合王国内の在来線を、トロトロと一般の列車に混じって最後の走りを極めてゆく。

 海原と大陸の大地を這ったこの往路の旅もまもなく終了となる。50日のペースでこれほど内容の濃い横断旅が出来たことに、私の不満は特に無いようだ。

 ビザを待ち、列車の運転日や船の運行情報に左右され、体の疲労が行く手を阻んだ50日。常に時間との勝負であったが、何とか一つの目標は達成できつつあるので、少しの安堵をここで浮かべてみようと思う。横断自体はたいした事ではないが、熱中するものに賭けた、くだらなくても目的に向かってやり遂げる、自己満足とさらなる向上へのまなざし。そんな生き様が、事の大小に関わらず生きる喜びへの道しるべなのかもしれない。

 第一幕はまもなく終る。その50日の味を舐めながら、私は大陸側とは大分違う雰囲気を醸し出す連合王国の芝生の緑と少しの木々の大地を眺めている。列車は、連合王国らしい霞がかった視界不良の牧草地帯を静かに走りぬけ、その靄(もや)に満ちた世界が行く先を暗示する。魔物はここにいるかのように。

 やがて、通過する駅の出現テンポが小刻みになり、駅のホームも日本と同じような高さが積まれている。レンガ造りの赤い一戸建て住宅群が列車窓の多くを占め、今まで見た欧州とはまた違うヨーロッパを感じさせてくれる。さすがは単一通貨ユーロ非加盟国である。

 
 その大都市は突然現れる。鉄道の線路たちが周りから寄り集まってくると、いよいよロンドン到着を予感させ、定刻より1時間遅れたこの9031列車は、パリから3時間20分、494kmの足跡を残してロンドン・ウォータールー(London Waterloo)駅に。今は17:04、いや、1時間戻してロンドン時間16:04、近代ドーム型駅のホーム20番線に慎重に入ってゆく。

 まだ目に焼きつかない程度のこの風景は緩やかに到着地の余韻を濃くしてゆく。パリからの列車はまだ連合王国の色を被ってはおらず、国際列車としての匂いをまだブンブンと唸らせて、ここロンドンの一角に落ち着いている。島国であるこの連合王国内において、大陸からの列車は異色中の異色に感じられ、陸続き国家同士とは違う、精神的な隔たりが大きく存在しているのだ。

 ところで、書類の上ではまだこの国に入国していない。というのは、連合王国はシェンゲン協定国ではなく、ここで改めて連合王国入国の手続きをしなければいけないのだ。ヨーロッパにあってヨーロッパでない。この国家はそうありたいのだ。

 ヨーロッパの国からやって来たわけだから、入国審査など単なる事務手続きに違いない、そう確信している私は一切の緊張感はみなぎらない。逸(はや)る気持ちを抑えられずに、そして、イライラしながらパスポート・コントロールのレーンを待つ私。EU域内のレーンはささっと列の潮が引くように消えてゆくが、域外レーン(日本国パスポートなので)はなかなか前に進まない。審査官の目が平等に‘どいつにも’疑いに満ち溢れたまなざしを散らすレーンだからだ。

 砂時計の砂が落ちる頃、やっと順番がやってくる。静かに私は処刑台に立つかのように、審査官が待つカウンターの前に顔を浮かべて身を委ねる。

 「何しに来た?」

 いきなりこれだ。しかし、ここで観光と言ったら観光ビザしかくれないので正直に言う。

 「留学だ」

 そう言うと、用意していた学校側の入学証明書を勝ち誇ったように堂々と提出する。

 「金はいくら持っている?」

 敵は予想通りの攻撃を仕掛ける。

 「4700ポンドの小切手と、1870ポンドの現金、2800米ドル現金だ。」

 「どうやって稼いだ」

 「日本で働いてだ。これが過去の預金通帳だ」

 いちいち証明するのに面倒だが、それでこそ1年近くのビザの重みと価値が増すというものだ、と私は自分自身に言い聞かせる。

 審査官は一連の書類を凝視しながら最後に私の瞳を一瞥すると、

 「書類的には問題はない。ところがだ、君はなぜ日本を出てからこんなに日数が経っているのかね?」

 ???雲行きが怪しくなってきた。

 「経由地を旅行をしてきた。パスポートに押されている国々が経由国だ」

 審査官はパラパラと査証のページをめくりだすと、眉間に皺を寄せ始めて何やら難しい英語で言い始める。

 「なぜ、中国やロシアを周ってここまでやって来た?それもわざわざ鉄道で。そんな必要あるのか?」

 「必要とは・・・」

 瞬時に言葉に詰まり、審査官は一気に疑いの視線に転じ始める。

 「学校のレターによると、明日入学日なんだ。もういでしょ?」

 この一言がまずかった。審査官は確信めいたように他のセクションに連絡を取った後、

 「お前は調べる必要がある。あっちの別室に行きなさい」

 審査保留、別室行き扱いとなった。これは、万里の長城よりも堅そうなイミグレだ。さすがは大英帝国、そう簡単に落ちるはずがない。別室に呼ばれて、仕切りに区切られた空間の中で、担当係官と一対一で向き合って尋問を受けるが、今度は速くて小難しい英語の羅列でチンプンカンプン。質問の意味がほとんど分からずに言葉に詰まる場面ばかり。一層立場が難しくなってしまう。

 「もしかしたら入国出来ないのではないか?」

 また旅の危機である。最後の最後で入国拒否でも食らえば、私は永遠にこの国に入れない。まずい、の一言のみが頭の中をぐるりぐるりと回る。時あたらかも9・11テロ直後。大陸横断の履歴がここにきて不利となり、テロ組織との関連性も含めて情報捜査当局に照会をもしている。

 国境審査のレベルを甘く見ていた私に雷鳴が轟くが、自分自身がテロリストになったような、それは誇りに似た錯覚を覚えたりもする。そんな事をうろたえながらも思うのは、内心、入国を確信している証拠でもあった。

 尋問部屋はそれほど窮屈な空間ではない。どこかのオフィスのようにこ綺麗で、関係捜査機関の電話番号が羅列してある表と、各国治安情報のポスターが貼られている以外はそれほど精神的圧迫感で締め付けられるような場所ではない。ただ、隣部屋からは、何を言っているかは不明だが、黒人の怒鳴り声が金槌のように炸裂している。

 私の最大の障害は‘言葉’だ。ウンともスンとも埒があかないと判断した審査官は、ヘッドホンを取り出し、私の耳に付けるように指示する。すると、その穴から女性声の日本語が聞こえるではないか。通訳を介しての尋問が始まるようで、彼女はどこに居るのか分からないが、審査官もヘッドホンをして審査再開だ。

 「△☆×○◎△!?」  
 注記 ※(何を言っていたのか、今となっては覚えていない)

 一呼吸の間の後に日本語が耳の通路を介して流れゆく。

 「このお金はどうやって稼いだのですか」

 尋問はさらに続く。

  「△☆×○◎△!?」 
訳 「これらの国々を経由した経緯と目的を詳しく述べて下さい」

  「△☆×○◎△!?」 
訳 「あなたはニューヨークでテロがあった事をご存知ですか?あなたはどのような政治と宗教信念なのですか?どこの宗派に属していますか?」

 「△☆×○◎△!?」 
訳 「ウサーマ・ビン・ラディンをどう思いますか?」

  「△☆×○◎△!?」 
訳 「親族に心臓病疾患等、遺伝的健康を害する人はいますか?」

 ・・・ 怒涛の如く質問攻めにされ、援護なき私の城も落城寸前である。

 そして最後に、

 「どのような団体・勢力がわが国入国を支援したのですか?」

 その質問にはただただ、

 「自分ひとりで企画した。これは真実だ。バックパッカーという存在は連合王国にもいるだろ?」

 ささやかな反抗に見えなくもない。

 3時間近くが経過した。

 当局は、押収していた私の衣類や消耗品、カメラセットやビデヲテープなどをビニールから出し、丹念に机の上に置いては写真撮影すら始める。まるで泥棒の盗品のような扱いだ。没収の予感すら走る。さすがにこの風景を見せ付けられた私はすっかり弱気になり、ひとりボソっとつぶやく。

 「入国拒否なのかなぁ〜?」

 誰もがかまってくれない、とある時間が流れると、ヘッドホンが呼んでいる。

 「喜んでください。あなたはどうやら入国許可になりましたよ。」

と、向こうもちょっとした喜びの躍動を表しながら伝えてくれる。何てさわやかな女性なのだろうか、と今に至るこの顛末に感謝すら覚え、私はこの時、いつかはこの通訳の女の人のように、外国で困っている日本人を助けたい、と純粋な心を浮かべて誓うのであった。本当である。

 その後、あの審査官がツカツカ近寄り、

 「君の学校と連絡が取れた。どうやらあなたは正当な留学生としてわが国に来たようですね。犯罪を犯さぬよう、勉強に励んで下さい。とりあえず、8ヶ月のビザを発給します」

 学校にも照会したようで、どうやらそれで嫌疑は晴れたようだった。最悪の事態が回避された喜びに支配され、私はついに連合王国の土を正式に踏むことになった。

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 (ロンドン・ウォータールー(London Waterloo)駅 正面玄関)

 イミグレを潜れば、そこは、ハイソな連合王国の首都・ロンドン・ウォータールー駅の喧騒がさざ波のように響き渡っている。駅の外はまさしくロンドンだ。目の前を通勤電車が横切り、その忙しそうな電車の線路脇に沿って薄暗くなりつつあるテムズの岸に出れば、川向こうの畔(ほとり)に一人孤高に佇む煌びやかなビックベンが私を出迎えていた。

 2001年9月、足跡はまたここから始まる。

http://www.kitekikaido.com/

参考文献…
地球の歩き方『シベリア 00〜01年版』  ダイヤモンド社
地球の歩き方『ヨーロッパ 02〜03年版』 ダイヤモンド社
旅行人No 148 夏号  旅行人
『世界の鉄道』 社団法人 海外鉄道技術協力協会
外務省  外交資料、各国・地域情勢

Thomas Cook WORLD TIMETABLES OVERSEAS July – August 2001 (By Thomas Cook Publishing)
Thomas Cook EUROPEAN TIMETABLE Spring 2003 (By Thomas Cook Publishing) Publishing)
lonely planet Europe 2nd Edition 2001 blished by Lonely Planet Publications Pty Ltd
 全国铁路旅客车時刻表
 ほか

32.(GB) ビックベン.jpg
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2011年05月30日

〜沈 黙 のヨーロッパ〜 D 高速横断スイス・フランス / U シベリア横断 〔後〕

沈 黙 のヨーロッパ  D
  
  ユーレールパス 2001.jpg
  (ユーレールパス)

  5. 高速横断スイス・フランス  

 なぜ今、イタリア半島を南へ突っ走る夜行列車の闇の中にいるのかよく分からない。車内は真っ暗に消灯され、車輪が刻み、車輌がきしむ音が響いているだけの眠りのこの空間に。運命を深く考えてもそれは無意味なだけで、これすら脱線人生の一種かもしれない。

 イタリアの夜を南の星へ向けて貫いている夜汽車の中で、ぼんやりと、本来目指す場所を思い出している。そういえばそこはイギリスだった。長旅の居心地の良さに溺れていく自分を取り戻しつつ、レールから脱線した人生をさらに大回りしようとしている今、再び本来の軌道を描く事ができようか。

 ユーレールパスに2回目の日付を入れ、今夜も列車は静かに、そして勝手に前へ進むはず。ただ、行き先だけは自分で選ばなければいけない。そんな事も分からなかった未熟な男という烙印を今、押す。

 ところで、イギリスへ行くにはフランスを目指さねばならない事くらいは分かっている。ただ、ボルザノから直接フランスに行く事は出来きず、だからこの列車に乗っているのだが、どこかで乗り換えをしながら徐々に西の方へ方角を転換していかねばならない。
  
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 (ボルザノ 〜 ボローニャ 〜 ミラーノ 工程図1)

 ボルザノから南へ127km、列車はボローニャー(Bologna)に着き、このまま突っ走るとローマやナポリに連れていかれるので、いい加減この辺りで第一回目の方向転換をしなければいけない。

 朝4時の乗り換えはあほらしいとは思いつつも、義務感に誘われてホームに降り立ち、そのまま朝のいただけない駅構内を歩き回ってはミラノ行きの列車に呑まれる。

 5:03、ボローニャー始発のミラーノ行き地域間準急(IR)は、ガラガラの空気を運んでまだ夜が明けきらないイタリア北部を快走してゆく。早朝しすぎるこの時間帯だが、途中駅でポロポロ乗客を拾い、そんな客が居る事自体不思議だが、それでも他の視線を気にすることなく瞳がトロリと溶けるように意識が沈んでゆく。

 再び意識を戻すと、この一等車の小さな世界は満席状態になっており、ダラダラと栓が弱い水洗便所の流れのようによだれを流して椅子に沈んでいた自分に衝撃が走り、驚き慌てて‘ピシッ’と座りなおす。そんな身の上物語も省略されて列車は219km走り抜き、7:45、ミラーノ中央駅にスッポリ入っては、朝の通勤客をゲロのように吐き出す。

 ミラーノ(Milano)は、人口約130万人、北部イタリアでは最大都市。そんな栄華を飾るかのように、ミラーノ中央駅は駅自体が彫刻美術館並みの豪華騒乱さを魅了している。さすが、お気楽独裁者ムッソリーニーの命で造らせただけあって、芸術には破天荒な才能を発揮するイタリア人らしい力の使いどころを魅せてくれている。

 そんな大芸術の舞いが、はるか天井、頭の上で華やぐも、その下で忙しそうに動いている朝の駅構内の喧騒はどこかと同じに見える。そして、旧式の時刻案内表示がパタパタとはためく度に、それに従って、24番のレーンが並ぶ行き止まり式のホームへ各々散らばってゆく。

 さあ、ここからどうするか。今日のミラーノは単なる乗り継ぎ地点でしかなく、大理石の階段に腰掛けては列車を待ち、9:01発のインターシティー(IC・特急)の表示が現れると、スコスコと無表情でやっぱり10番線へ歩く。

 そこには、6輌の編成を並べた、小奇麗なスイス国鉄の車輌がもの静かに居る。そして、定刻通りミラーノ中央駅を離れた列車。実は、ユーレールパスには問答無用で一等車の料金が含まれているため、仕方なくここにいるのだが、寂しさが溢れんばかり湧いてくる。そんなつまらない空間と共に再びアルプスへ挑むのであった。

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(ボルザノ 〜 ボローニャ 〜 ミラーノ 〜 ローザンヌ 工程図2)

 ところで、さすがは観光国スイスの列車である為、ここの一等車にはビジネス客はおらず、遊びムード溢れる陽気な心地が少しだけ流れ、ひとまず救われる。

 やがて、遠くに見えていたアルプスの山々が再び壁となって大きくなり、列車はイタリア最後の駅、ドモドッソラ(Domodossola)に到達、機関車と車掌が交代する。第二次大戦時にナチス・ドイツとムッソリーニー・イタリアに反抗して独立し、共和国を掲げた反ファシストの気概を持つ人口2万弱の谷の中の小さな町だ。

 ガラーンとした国境設備もいまや飾りでしかなく、‘境界’的概念でここを越えようとする。ところが、出入国審査官が列車内に乗り込んでは、辺りを巡回し始めるではないか。

 実は、スイスはEUにもシェンゲン協定にも入っていない為、一応国境での出入国審査が存在しているのだ。四方八方がシェンゲン協定国に囲まれている為、完璧な検問など出来るわけないが、抜き打ち的なやり方はそれなりに効果はあるようで、どこからやって来たか分からない怪しい域外者にとっては大いなるけん制である。

 麻薬犬を引き連れた審査官が現れ、通路をゆっくり進んでくると、迷わず‘パッ’と私と目が合っては、憎らしい黒犬が『アン!』と叫ぶ。その瞬間、ターゲットが決定!荷物チェックが問答無用で始まる。

 「パスポートを出せ」

 「何で俺だけ」

 「いいから出せ」

 一等車での屈辱のてん末を晒し、そして恥じらいに似た視線を感じ、憤然やるせない表情を豪快に見せ付ける私に、審査官は淡々とリュックの荷物をスクラップにしてゆき、さらに、手を緩める気配を見せない彼らの傍らでは、あの憎たらしい黒い犬がハーハーと唸っている。

 荷物の中身は、というと・・・着替えにカップラーメン、フィルムにロシアの帽子・・・。審査官は不満そうな目つきを浮かべながらくだらない荷物を満足いくまで探索を試み、気が済んだのか、颯爽と隣の車輌に移ってゆく。

 ブツブツ唱えながら一人残骸を片付ける私。そこに、「メルシー〜」とサラサラの金髪枝毛を誘う若い女性車掌が現れ、またこれが可愛らしく言うものだから、単純な私は一瞬にしてそれまでの屈辱をご破算としてしまう。

 列車はやがて有名なトンネル、シンプロントンネル(19,823m)に突入する。つい最近までヨーロッパ最長の鉄道トンネルだった。複線なので2本穴があり、反対側のスイス側からイタリアへ走る方が古いトンネル、あちらは1905年に開業したので100年程の歴史を持つが、こちらは1921年としばらく時間があく。ちょうど日本の清水トンネルみたいなものだ。

 10分ほど我慢していると、突然光が氾濫してスイス側の最初の駅、ブリーグ(Brig)に到着する。この旅初のスイス入りだ。

 その後は、スイス南部の谷間を東からズンスン突き進み、谷間の岩崖を眺めながら奥へ奥へとスイスの真髄に近づき、3000m級の山々が両側に浮かんでは、その手前の緩やかな斜面にへばりつくワイン畑や果樹園が遠近感を滲ませてポロポロと流れてゆく。

 時々停車する駅では、登山鉄道らしい、遊びごころを惑わす可愛らしい車輌がホームの傍らに控え、スイスに脚を止めさせようと相手はあれこれ魅惑の誘いをぶつけてくるが、気になった運賃を聞けば、電気うなぎに感電したかのようなショックを覚える値段!あまりの高さにヘロヘロになりながら列車の中へ退散してゆく。

 さらに西へ快走してゆくと、やがて左側にレマン湖が流れ始める。いやぁ〜、レマン湖といえば世界中の金持ちが別荘を並べる金持ち湖ではないか。そんなところを、私のような者が近づいていいのだろうか、とにやけて頭をかき、湖岸スレスレに轍を刻みながら雨の霞に佇む湖面に我を映す。

 湖対岸のフランス側が辛うじて見えてくると、13:00、列車は完全定刻通りにローザンヌ(Lausanne)に到着してしまう。ミラノより302km、あまりのテンポの良さ、その正確な時刻の刻み、さすがはスイスであった。ここからはフランス国鉄のエース、有名なTGVが顔を覗かしている。もちろん、次はあれに乗りたい。

 日本でよくやる特急同士の数分接続。だが、時刻表通りに事が弾まない外国でこれをやるには少しきつい事情がある。ここローザンヌで実際やってみよう。

 時刻表によると、接続時間は14分。この間にTGVの切符も買わねばならない。フランス国鉄のTGV専用窓口に並ぶと、ある事に気づく。

 「5CHF?」

 そう、ここはスイス。スイスフランという、またまた別通貨が必要なのだ。だが、もはや両替などしている余裕など無い私は迷わずクレジットカードを提示する。すると、いとも簡単に切符が買えてしまうではなか。当たり前だ、クレジットカードなのだから。見えないお金は便利なアイテムだが、小槌を振る度に不安になるのはなぜだろうか。

 因みに、からくりを説明すると、ユーレールパス乗車の場合、TGV(フランス高速列車)は追加料金の予約券5フラン(約360円)だけで乗車できる。
  
ローザンヌ-パリ 切符.jpg
  (TGV予約券)

 ユーロパスと予約券を片手に、そして財布をもう片手に、クレジットカードを口にくわえて・・つまり両手と口を塞ぎながら慌ててTGVのホームへ駆けると、私の目の前に厳然と現れる、13:14発パリ行きTGV。そのデッキに飛び込んだ瞬間、『プチュ〜』と扉が閉まる。かの有名なローザンヌは、ドタバタついでにこうして幕が下りた。

 もうここまでくればイギリスなどちょろいものだ。後は何もせずに楽々と高速列車が連れて行ってくれる残りの旅。これは単なる移動の時間に過ぎない。

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(ボルザノ〜ボローニャ〜ミラーノ〜ローザンヌ 〜 パ リ 工程図3)

 ローザンヌを出た列車は、山を登り始め、30分程して国境を越え、また別の国、フランス領内に入ってしまう。あっという間のスイスであった。私にとってのわずか3時間のスイスは、記憶の壷に残らない薄いチーズのようにとろけていってしまう。

 国境を越えたといってもかつてのように劇的に何かが変わる、というものでもなく、今は在来線を走るこの銀の車体は、引き続き淡々と森の中を走り続けているだけだ。

 今回の横断旅で日本から数えてこれで9カ国目であるが、東洋側のボーダー越えの郷愁と新鮮さ、そして、ロシアから西側に入った時のあの衝撃、国境越えはいくつかの錯覚と誤解と刺激を与えてくれたが、西欧内では、今までのような国境観から来る期待は裏切られ、単なる境界というレベルでしかない現実がそこにある。

 国境を下げた欧州は、そこから水が染み込むように辺りを同一化させ、良くも悪くも個々の国を感じる力はそれほど必要の無いものにしてしまう。

 民族が居て国があり、領土を囲って線を引き、それを巡って戦争を起こし、幾万の民が犠牲になった屍の上に今のヨーロッパが出来上がり、21世紀になって国境が境界になった瞬間、中世以来の国境を巡る歴史に終止符が打たれた。そして、過去のはかなさに思いを馳せる余裕を今になって与えてくれているのが今の欧州大陸だ。

 国境の境界化、それは政治的なものだけでなく、国境を越えて鉄道が張られ、高速道路が伸び、国際語のラジオやTVが一つの電波となって飛び、そして、今やお金すら一つになろうとする欧州の進歩性に感動しなければいけないのだが、どうも消え去ろうとしている過去に価値を置きたい、と思う私はひねくれ者なのであろうか。

 さて、国境を越えた列車が初めてフランス側の町を通過する。その時、フランス語の駅名表示が微かに流れ、スイスとはやはり別の国である、という事を改めて認識させてくれる。欧州国境を見失うかと思えば、また一つ別の意味で存在感を思う。

 なんだカンダ言っても、まだ国境は単なる境界とは違う。言葉や習慣、そして気質も違う事を国境は示してくれており、なかなか国の境が完全に消す事も出来ない。

 一方、必ずしも国境=民族ではないのが彼らの概念。実はフランスはスイス側からすでに始まっていたのだ。何だか分かりにくい?スイス西部はフランス文化圏だから。町ひとつが共和国にさえなる大陸、自治政府や自治州が寄せ合う欧州の垣根は実は奥深い。そんな欧州大陸の隅々をやがて訪ねてみることになる。

 話を列車に戻す。

 長い間、耕地や森の中をダラダラ走ってきたTGVは、ようやく新線区間に入り、待っていた最高スピードの世界が車窓に展開し始める。林を突きぬけ、ただただ畑が続く農業国フランスの大地を貫き、北西へ北西へと光の如く波を追う。

 TGVは、フランス発音で『テジェヴェ』と呼び、『Train à Grande Vitesse(大速度列車)』という意。この列車は、日本の新幹線の最大ライバルの一つとして君臨している事から日本でも有名である。

 比較される事が多いTGVは、新幹線とは違う優雅さ、落ち着いた雰囲気、デザインが客室を豊かにしてくれているが、それは乗客が求めるからそうなった結果でもあり、逆に日本の新幹線が客室よりも利便性を追及するのは乗客たちがそれを求める結果なのである。

 最近は、世界各国にTGVを輸出しようとしているフランスだが、決して生の最先端技術を明け渡すような真似はしないだろう。中国の乗客がこのTGVの粋を理解するなんぞ当分ありえないであろうし。

 高速区間はしばらく続くが、いったいどこを走っているのか全く分からないまま突き進み、列車が突然速度を緩め、気がつけば町中を這っている。スピードが近郊列車並みになってくると、駅が次々と窓外に流れていっては、通勤電車をやっと追い抜かす速度レベルに。そう、列車は華の都パリに到達したのである。こりゃ、旅の余韻もあったものではない。貴重な500キロが砂のように流れていった。
  
  27.(F) パリ・リヨン駅2.jpg
  (パリ・リヨン駅の構内)

 ローザンヌから508km、列車は14分ほど遅れて17:15、パリ・リヨン駅(Paris Gare de Lyon)に入る。『Gare de』は‘駅’という意。リヨン(Lyon)という南東部の都市を冠にした名で、南東部からの列車を一手に引き受けているからこんな駅名なのだ。

  
 ついにパリまで到達した。ここからすぐにロンドンに向かうのも一つの手だが、ここは冷静になり、宿を取ることにし、ロンドン入りは別の日にする。

 ガイドブックを片手にリヨン駅界隈をウロウロすること30分、『Youth Hostel』という看板を意外と簡単に見つけては飛び込むと、どうやら公認のユースではないようで、オーナーが勝手にユースを名乗っている宿に入り込んでしまった。ま、いいか。

 5階まで登らされた挙句、その汚い部屋には、ダニがたくさん居そうなジメジメしたベッドが横たわり、さすが大都市の片隅にひっそりと窒息しそうな空間を用意しているものだ。色白の無口な可愛い男と共に、湿った陰気臭さが影となってパリの埃を吸い続ける。

 いよいよ、ロンドンが目と鼻の先に迫ってきた。


 次回E 最終回。

28.(F) パリ・リヨン駅駅舎.jpg
(パリ・リヨン駅舎)
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2011年05月29日

〜沈 黙 のヨーロッパ〜 C チロルの小さな野望 / U シベリア横断 〔後〕

イタリア・ボルザノ-メラーノ.jpg  沈 黙 のヨーロッパ C

B-14 ボルザノ - ボローニャ - ミラノ - ローザンヌ- パリ.jpg
(工程図 インスブルック 〜 メラーノ)

  4. チロルの小さな野望 (オーストリア・イタリア)
 
 オーストリア・インスブルック。この町から45分ほど山を登った電車は高原の小さな駅、イグルス(Igls)まで登り、ここからいよいよパーチャー・コッフェル山頂へ一気に昇ってゆく。

 手段はロープウェイだ。標高も昇るが、さすがは往復208シリング(約1900円)もする物価も急上昇。しかしここで引き返すわけにもいかないので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で運賃を支払う。すると、意外にもすっくりと気持ちが晴れるものである。

 ロープウェーが山に向かって飛び出した途端、標高900m地点のイグルスの集落が一気に眼下へしぼんでゆき、イグルスだけではなく、インスブルック全体の町すら見下ろすようになる。

 やがてロープウェイは1964m地点で一旦終るが、さらに乗り換えて更なる山頂へ向け昇天し、急速にインスブルックの集落群と盆地(谷)全体がゴミのようなチリへと化し、町を取り囲んでいた向こう側の峰や山の端も同じくらいのレベルの高さになってくる。

 終点2247m地点に着くと、何とそこは白・白・そして白。鋭く、それでいて優しい純白な世界がそこに満々と広がっている。9月中旬の雪世界へ踊るように飛び込む二人であるが、9月の氷点下を想定していなかった私たちのスニーカと夏服はやっぱり大自然に拒否される。

 すると、後ろから登山用の重装備を揃えた老夫婦が追い越しては登山道を進み始めるではないか。

 我々はただ、「ハイキングがてら」と、このチロルの山を舐めきっていた。それでも‘負けじ’とこの老夫婦が歩んだ雪上の足跡にスニーカの靴底をはめる様に押しながら雪道を辿る。

 ところが、深い霧が立ち込めるようになると、私の自然本能は遭難という危険を察知する。老夫婦に追いつくも霧が晴れる気配はなく、女もさすがに不安の表情をようやく出してくれる。こうなると、私にとって周りの雪景色よりもぴったりとくっついてくる女との感触の方に関心が奪われ、状況下の心配はやがて甘い恐怖へと移ってゆく。

 結局これ以上進むのは危険という、私の状況判断は正しく、元来た道を戻り、道に迷うことなくロープウェイの駅に着く。思わぬ‘ときめき’に満足気なのは私だけ。この雪に、白だけではない色があった事に私は感謝している。
  
20.(A)インスブルック・パーチャー・コッフェル(Patscherkofel)1.jpg
(眼下に見下ろすインスブルックの町)

 イグルスの集落に戻った。

 ここは、アルプス・ヨーロッパの優雅な避暑地の趣きを出し、夢にまで見た女連れでの避暑地の乾杯にオーストリアビールもまた華麗に泡がたつ。アコーディオン奏でるレストランのテーブルに肉料理が散乱すると、二人はあたかも恋人同士のように目が合わさり、しばしの歓談に酔いしれる。いや、それは単なる私だけの思い過ごしなのかもしれない。

 女がいる前だと妙に財布のダムが緩む私は、ここぞとばかりにオーストリア・シリングをバンバン使い出し、何をここで勝負をしているのか、叶うはずも無い恋のギャンブルに賭けている。

 「電車は当分来ないよ」

と、私は冷たく空(カラ)の事実をささやき、女を軽く説得して森の中へ連れ込んでゆく。事実、電車は動く気配が無いので、何駅か先まで森のハイキングは出来そうだ。

 二人は線路沿いを歩き始め、ふと何かの拍子で振り返ってみると、花々が揺れる間を電車の軌道が半弧を描いていて、その背景に雪山が静かに浮かんでいる。そんな風景にしばし脚が止まると、この絵葉書風景と共に電車を撮り下ろしたい心境に駆られるが、女はさっさと先に進んでいってしまう。

 さあ、森の中に入れば、それまでの仮の姿であった私にいよいよ本性が滲み出てくる。深い森は人間を本能に目覚めさせるものなのか、それまでの当たり障りのない、さわやかなネタばかりの話題から、次第に究極の目的である性の話へシフトし、いよいよ臨戦態勢に突入。

 すると、そこに電車が‘スゥー’と通り過ぎ、その瞬間女は残念そうに騒ぎ立てる。この時、私の眼光に、ある種の野望めいた火粉が点火したのを女は見逃してしまう。これこそ私が長年描いていた展開である。

 当分電車は来ない。時の余裕を神から与えられた私は城攻めに着手する。インスブルックの街中に着くまでこの女をどう攻めるか、私は計算につぐ計算で頭は一杯になってくるが、現実はそう甘くはない。

 この山道は森の中とはいえ意外と人通りが多い。その森の道に戸惑い、変な事はなかなかさせてくれない。どうやら、地元の人たちの良い散歩道になっているようで、なかなか口説きに入れず、ちらりちらりと自分を売り込むが、敵もなかなか落ちない。そうこうしているうちに「あっれれ〜」とインスブルックの町に降りてしまったのだ。下り坂は意外にも町を近くしていた。

 午後5時、街の店が一斉に閉まってしまい、残るは米国資本のマクドナルドだけとなってしまう。最後はマックの夕食で一日の恋が終わってしまう、というはかない結果となった。

 女はこれから列車に乗ってどこか遠くへ消えてゆくらしい。女の心一つ落とせずに苦労の割りに何一つ収穫が無かった私は単純に落胆し、インスブルックの谷にこだまするカトリック教会の鐘の音がすべての記憶をかき消してゆく。

 欲望という電源が切られた私に先ほどまでの活力はもはやない。彼女はこの夜の夜行列車で逃げてしまい、一人取り残された私はチロルの山の神にすがるのであった。

B-13 インスブルック-ボルザノ-メラーノ.jpg
(インスブルック 〜 メラーノ、オーストリア・イタリア国境 工程図)


 翌朝、勝手に傷心した私は2泊したインスブルックを後にする。

 今日の予定を紐解けばたいした移動はしない事になっている。という事で、ユーロパスの日付を入れずにまずはイタリア領ボルザノまで 208シリング(約1900円)の切符を普通に買う。ボルザノまでは山を越えて南に127kmの距離にある。

インスブルック〜切符.jpg
(インスブルック 〜 ボルザノ 国際切符)

 横に細長〜い、西部オーストリア領の真ん中にあるインスブルックは、北はドイツ、南はイタリア、そして西はスイスが迫る十字路に位置し、古くから交通の要所として栄え、今でもインスブルックの駅では、オーストリア、ドイツ、イタリア、スイスの国鉄車輌が顔を見せる国際鉄道見本市のような賑わいを見せている。

 ここから、11:28発 白色に緑のラインが入った明るいイタリア国鉄車輌の国際列車ユーロ特急(EC)に乗る。30分遅れでやって来たその国際列車はミュンヘンから現れ、昨日とは違う幹線ルートを通ってきた。

 列車の行き先表示は『ROM』とある。つまり、イタリアのローマまで突っ走るというのだから、欧州大陸を旅している実感がひしひしと伝わってくる。とりあえず、空いていた個室のコンパートメント客車に身を置く。

 インスブルック駅から西に向けて発車すると、列車はスイスへ延びる幹線と別れて南側のチロル山脈の壁へアタックするように方角を合わせ、クネクネと曲がりながら進み始め、これから列車は国境の峠を目指す。

 イタリア方面への高速道路と平行するこちらの単線の線路は細くてか弱いが、一応国際列車が走る幹線である。窓を見上げると、それほど遠くはない空にチロルの雪帽子が浮いているのを見、そんな風景を眺めていると、12:32、もう国境駅に着いてしまう。何か儀式があるのか、すっかり落ち着いている車内で国境越えの余韻を探すが見当たらない。

 ここは、オーストリアとイタリアとの国境駅であるブレンナー(Brenner)駅。イタリア語でブレンネロ(Brennero)と呼ぶこの駅で列車はイタリア国鉄の機関車に交換される。

 数あるアルプス越えの峠の中で格段に低い標高1375mのこの峠は、古くから教皇が居るイタリア半島と神聖ローマ皇帝(やがてハプスブルク家)、ドイツ諸侯との往来で賑わった歴史ある街道筋の途中にあり、このゲルマンとラテンを分ける境地は、ヒトラーとムッソリーニーとの会談場所にされたほどだ。時代によってオーストリア(ハプスブルク家)側とイタリア側とで国境線が移動したが、現在は峠全体がイタリア領に存在している。

 1867年に開業したこの鉄道により物流が大きく変わったが、今では多くのアルプス越えのルートが大トンネルによって開かれている。それらが現れるまでこのルートは、イタリアとゲルマン圏とを結ぶ唯一の主要幹線として機能していた。

 ホームに立つと、国境事務が行われていたと思われる税関や入管の建物が駅構内に野ざらしにされていて、その静かな佇まいが私を感傷的にさせてくれる。現EU世界ではもう化石となった設備で、永遠にここでの役目はない、とふんでいるのであろうか、朽ちて間もない廃墟っぷりを奏でているが、一方、どこかまた復活しそうな気配すら感じるのはなぜだろうか。

23.(I) 国境ブレンネロ駅.jpg
(ブレンナー(Brenner)or ブレンネロ(Brennero)に停車中のEC列車)

 霧が立ち込める峠の駅に12分間停車すると、イタリア機関車に引かれた列車はゆっくりと発車し、すぐに12kmほどのトンネルに入る。これがホンモノのアルプス本体を越えている証拠なのであろうか。潜り終わると、そこはマッサラな青(ブルー)空(スカイ)が彩り、イタリアの色が車窓いっぱいに派手やかに流れる。

 下り坂となった銀色の汽笛街道は、谷筋の曲線に沿って列車は左右にカーブ、そして欧風の石の古城を眺めながらゆっくりと南下し、14:11、ボルザノ(Bolzano)に到達する。

 中世の長い間、この町はオーストリア領であったが為に今なおオーストリア色が強く、当然訛ったドイツ語の調子を残しており、そんな彼らは、この故郷の町をボーセン(Bozen)と呼んでいる。

 さて、この旅初めてイタリア領内に足を踏み入れた。国を越えるという事は通貨も変わるという事。小刻みに変わる新たな国での新たな通貨、そして現金が必要になるこの焦燥感。だが、この時のヨーロッパ国境越えの不便さは、後になって良い思い出になるのであった。

 ところで、今日は日曜日。両替商が開いていないこの状況下で、現地通貨の獲得にまたもや泣かされると思いきや、何と、心配ご無用の無人契約機ならぬ無人両替機が駅構内に備わっているではないか。レートは驚くほど不利ではあるが今は仕方が無い。

 私は50米ドルをイタリアリーラに換金し、ボザボザの10,000リーラ札を数枚手にするが、ずいぶん0が多い札だ。10,000リーラ≒700円ほどの価値らしく、さすがはラテンの国といったインフレぶりを実感する。

 因みに、その後ユーロに切り替わってしまうが、公式には1ユーロ≒1,937リーラとされた為、巷では2,000リーラ換算されてしまってすっかり物価が高くなってしまった。10,000リーラ≒700円と見れば、ユーロ換算で1ユーロ≒135円程度がリーラ消滅時程度の水準と見られる。

お金 イタリア 表@.jpg
(旧イタリアリーラ札)

 さて、せっかく途中下車したので、駅の荷物預け所に荷物を置きどこか行ってみようと思う。

 実はこの辺に温泉があると聞き、早速そこへ走る普通列車に飛び乗ってしまう。14:49発、4輌繋げた緑のディーゼルカーは、ボルザノから北西に伸びる支線へと入り込み、葡萄やりんご畑散らばる大地の中をカタコトと刻みながらのどかに走る。右に左にあちこちに古めかしい砦を見せてくるのは、ここが古くから争いの土地であった事を物語っている。

 南チロルと呼ばれるこの地域は、今でこそイタリア内自治県の地位にあるが、一方、オーストリアの影を現在も強く感じさせてくれる。それは、二大勢力の境界上にある峰々に囲まれた微妙な歴史が関係している。

 この地は絶えずイタリア系とドイツ系の住民が共存の道を模索してきた。もともとはチロル伯の領地であったが、その伯爵の位がハプスブルク家当主に移った為に、中世の長い間オーストリア領であった。だが、地域の南部ほどイタリア系が多く住んでいたため、19世紀、イタリア統一後のイタリア王国が、『未回収地域』として対オーストリアとの領土紛争の標的としてしまった。

 そして第一次世界大戦。これによってハプスブルク家が名実共に崩壊してオーストリア帝国が消滅すると、イタリアは、協商国側との約束により土壇場で参戦して、ついにこの地方を得る事に成功する。これによってドイツ系住民が被支配者となり、イタリア化される時代がやってきた。

 さらに、第二次大戦でムッソリーニーとヒトラーとの間で協定が成立し、ドイツに移住するかイタリア人となるかでドイツ系が整理されようとした時もあった。だが大戦中、イタリアがいち早く降伏すると、今度はナチス・ドイツ軍がこの地域を全面占領する。

 結局、大戦はナチスが敗北し、変わってオーストリアが管理するのだが、敗北したゲルマン系が領有する事は国際社会が認めなかった。こうして再びイタリア領有となったが、ドイツ語系住民に配慮して自治権を一応付与した。しかしこの自治権はドイツ系側にとって満足のいくものではなく、ついにはテロによって抵抗が表面化し、その混乱を重く見た国連によって仲介が行われた。

 その結果、イタリアの中の自治州として大幅な地位を認められるに至る。そんな複雑な経緯を持つ土地を私は旅している。

 ボルザノから北西へ32km、6,300リーラ(約400円)の列車はアルプスの南壁の手前で終る。

 ここは終点メラーノ(Merano、ドイツ名Meran)。人口3万ほどのボルザノ自治県の中の町で、イタリア語で市町村は一括してコムーネ(Comune・共同体という意)と呼ばれており、ここメラーノもその一つである。

 メラーノは、ドイツ系とイタリア系が半々の割合で暮らしており、私の目でも、看板や標識が独・伊両語で表記されている街角に気付く。ここはイタリアでは珍しく複数の公用語が存在する地域なんだ、と、改めて知らせてくる。

 メラーノは温泉保養地だ。しかし、日本のように公衆浴場がある訳でもなく、温泉を持っている高級ホテルや別荘が立ち並ぶ保養観光地として、こ洒落た雰囲気に圧倒されている。敷地内には温泉プールが控え、金持ち達の専用空間である事にがっかり。かすかな温泉入浴の夢は絶たれてしまう。

 肩を落としながら街を歩いていると、何かのお祭りであろうか、賑やかな公園の屋台の香りに誘われると、メキメキと腕を鳴らす料理人の手さばきに騙されて海老入りパエリアを24,500リーラ(約1,700円)でゲットする。

 しかし、この塩辛い味付けに声が詰まり、後悔しながらも涙を浮かべて胃の中へ放り投げるのであった。イタリアのくせに物価も景色もオーストリア的なこの町にもう用はないようだ。

イタリア・ボルザノ-メラーノ.jpgイタリア.メラーノ 鉄道切符.jpg
 (ボルザノ 〜 メラーノ間のローカル切符)
 
 17:44発の列車で再び32kmを戻って再びボルザノに帰ってくる。改めて紹介しよう。ボルザノは人口約10万弱、ボルザノ自治県の県都で、ここではイタリア系が7割近くを占めているのでイタリア的な雰囲気が強い。

 広場では、ブラスバンドの生演奏が奏でられていて、日曜日の余暇を楽しむ住民たちの暇つぶしが緩やかに広がっている。すると、午後7時の日没の鐘が豪快に山間の谷に響き渡り、日曜日の終わりを告げてくる。山々の稜線を境に現世と空世とがくっきりと陽と陰とに割られていたものが、そのまま両者が融合されてゆく。


25.(I) 北イタリア・ボルザノ市内 .jpg
 (陽が陰る山間のボルザノの町)

 夜となり、山の麓の灯かりが星のように光り始める頃、寒さと尿意が私に巻きついてくる。イタリアを否定するかのようなこの寒い夜のボルザノがアルプスの懐に更けてゆき、行き場を無くした私をひもじくさせてくれる。

 高いパエリアがとどめを刺したのか、すでにリーラを使い果たした私は、ポテトをかじりながら飢えを凌ぎ、難民のような面持ちで夜が深い鉄道駅の待合室で一人縮こまる。陽が暮れて2時間、3時間…。こうしてまだ来ぬ深夜の夜行列車を待つ私に駅の守衛がついに現れる。

 「ここを閉めるから出て行け」

 退去の宣告を迫られる私に選択と抵抗の余地はない。寒風すするホームはまた格別で、数年ぶりに体験する深夜の夜汽車待ちに郷愁の鳥肌に似た刺激が全身に走る。

 数時間後、待ちに待った夜行のローマ行きがアルプス山脈をかき分けて北から現れ、0:53、国際夜行(EN)は静かにボルザノを離れて一路南へ突っ走る。どこへ行くかは知れずにただ人間らしい暖かな空間に舞い戻れた事だけを感謝しながら、私は遠くなるアルプスの残影の人灯かりを細く見つめながら、誰も居ないコンパートメント部屋の闇にひっそりと身を潜めるのであった。

 Dへつづく・・・
http://www.kitekikaido.com/

24.(I) 北イタリア・メラーノ駅.jpg
(メラーノ駅にて)
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2011年05月28日

〜沈 黙 のヨーロッパ〜 B アルプスとチロル / U シベリア横断 〔後〕

沈 黙 のヨーロッパ B

ユーレールパス 2001.jpg  
  (ユーロパス)

 旅はいよいよ最終盤に差し掛かってくる。

  B-11ハンブルク - ミュンヘン (1).jpg 
 (ハンブルクよりドイツ縦断 〜 ミュンヘンまで)

 3. アルプスとチロル

  下関から始まった作戦はハンブルクまで駒が進んできた。ロンドンまであとわずかだが、このまま本気でまっすぐ‘ズドン’と向かえば1日で着いてしまう。そこで私は、ヨーロッパを少し寄り道する事にした。

 今夜の宿は夜行列車だ。欧州旅行の多額な費用の多くがが宿費と交通費。それをどう組み立てるかによって出費が変わるため、ここらで初めてユーロパスという小槌を振りかざす。

 日本の青春18きっぷならば午前0時から24時間が1日分だが、ユーロパスは、夜行列車乗車に限って前日19時から翌日が終るまで1日分として有効というルールだ。それはおいしい。

 19:35発、シティーナイトトレインという夜行列車に乗る。欧州随一の豪華列車の一つだが、安いグレードの車輌もあり、追加料金19マルク(約1100円)を払って2等座席車の椅子に落ち着けば今夜の宿は確定だ。

 それでも日本の感覚で見れば、これはハイ・グレードな余裕たっぷりの座席。その乗り心地は心配無用で、また治安も良い車内だ。しかし、所詮座席車なので、夜行帯を越えるとなれば疲労は蓄積し、結局それは中国の硬臥にも及ばない。

 この列車は‘シティーナイトトレイン社’という独立した会社が線路を借りて走らせ、列車同士の競争原理が働いているため他とは違う居心地の良さを提供してくれる。しかしここは何もない座席車である。ボーイがワインを持ってきたり、パンを運んでもらいたい、と贅沢を叫ぶなら、もう少し上の等級の車輌に乗ってくれ。
  
ハンブルク〜CITY NIGHT.jpg
 (シティーナイトトレイン (ハンブルク 〜 バーゼル)切符)

 翌、未明。体の芯まで冷気が達した瞬間、私は不意に目が覚める。列車はどうも闇の内陸部を走っているようで、9月中旬の未明とはこんなにも寒いものか、と欧州を疑ってしまう。

 駅に停車する度に乗客たちの足音や荷物をまとめる鋭い乾いた音が耳に残り、さらにイタリア人たちのヒヨコのような調子のしゃべりによって熟睡から遠ざかり、次第に疲れが溜まってくる。どうやら、鼾(いびき)や車輪の刻む音は大丈夫でも、座席車のこういった音は駄目なようだ。

 6:43、ハンブルクから921km、列車は夜明けを待ちわびるスイスとの国境駅バーゼル(Basel)に到着する。冷たい露が滴るホームに降り立つと、田舎のクソ寂しい寒風が辺りをさ迷い、ここが町中心部ではない事を瞬間的に悟る。この駅はドイツ領内にあるバーゼル・バーディッシャー(Basel Badischer)駅で、ドイツ鉄道(DB)が管理する駅。つまり、まだスイスには入っていない。

 すると私は、スイスには入らずに反対側からやって来た列車に飛び乗り、もと来た道を再び辿り始める。これは、ユーレールパスを一日最大限に利用するための作戦でもあった。

 学生時代、上下の夜行列車が出会う駅で下車し、反対側に乗ってはまた元の場所に戻る、という宿代浮かせの旅を北海道でよくやった。同じような事をここ欧州で時刻表の数字を紐解きながらそれを実践しているのだが、この齢になるとそれはきつい。

 「今日一日一杯は乗り放題だ」

 欲は義務に変わる。5日間分で43,500円。つまり1日8700円分乗らねばならない、という ドケチ根性が私の鉄道ゲームに拍車をかける。

 思いつきで飛び乗った、そのドイツ新幹線用車輌の車内は、まだ早朝とあって客はまばらのようだが、網棚の側面に表示されている予約票には、びっしりと後の駅からの予約が入っていることを示すカードが入っている。自由席は、何もない票の座席を指すのだが、それがなかなか見つからず、フリーの座席を探していると食堂車やバーにも迷い込んでしまう。

 さらに、遊び道具が散乱している子ども部屋車輌、身体障害者用の車椅子室、個室部屋(コンパートメント)、そして普通の2−1座席の1等車・・・。車内を一巡してしまい、欧州のグレードの高い客室をまざまざと見せ付けられてしまう。

 詰め込み式の日本の車輌を思えば何という差であろうか。日本の場合、サービスとは速さや正確さが絶対であるのに対して、欧州での価値は、車内の過ごし方に重点が置かれている事を感じ、単なる文化の差として流してしまってよいのか、と私は少し立ち止まって思ってしまう。

 すると、この切符で1等車輌に乗れることに気づく。目標は一等車輌に変更。さすがに一等車の座席は予約が入っておらず自由席だらけで、フカフカ ハイグレード座席に適当に収まると、昨夜のツケを払うように夢心地になってゆく。右へ左へ振り子のように揺れながら濡れた木々をぼんやり眺めながら眠りの戸びらを開けるのであった。

 欧州は階層社会だ。1等車の存在理由は、何といってもステータスと実用で、旅を楽しむ人種よりも、オフィスとして日常の空間の延長線を求める強い需要もあるからだ。リタイヤした金持ち風の年寄りたち、パソコンを開いて携帯電話片手に鋭い眼ツキでビジネスに勤しむ者、その狭間に私は居る。

 白色に朱のラインを引いたデザインのこの列車は、本来は高速列車用だが、、今走っている区間は在来線なのでそれほどスピードは出ていない。そんな在来線と専用線が組み合わされてドイツ全土に新幹線網が出来上がっているこのお国の事情は、レール幅が異なる日本の新幹線には出来ない業を成し遂げ、新幹線を連れてくる事がとても大変な日本に対してこちらは腰が軽い。

 一方、在来線を走る高速列車は、国際特急(EC)や都市間特急(IC)、それに都市部の快速や近郊電車に挟まれて走るため、日本のように数分間隔にはできないのでダイヤ作りには苦労している事であろう。

 列車は、バーゼルから北へ258km、9:14、ドイツ中西部マンハイム(Mannheim)に着くや否や、すかさず反対側ホームに別のICE列車が現れ、それに乗り換える。ミュンヘン行 9:32の列車に接続出来たこの芸当はさすが先進国、と思わせるが、いつもうまくいくとは限らないのがドイツ鉄道である事をこの時の私はまだ知らない。

 再び南を目指す。計画的なのかどうか分からないが、とにかくミュンヘン行きに乗り換えた。それはもう、列車に乗っていればいい、といった感覚かもしれない。

 さあ、ドイツ新幹線列車 ICE(アイーツェーエー)は、いよいよご自慢の走りを披露する瞬間がやってくる。専用線に入ると、時速300km/hで空を斬るように突き進み、山や谷を光線の如く刺すかと思えば、途中から在来線に入り込み、小さな駅をスレスレで通過してゆく。在来線区間では急激にスピードが落ちるが、それでもかなりの速度を出している。

 1等と2等とを比較するべく、今度はあえて2等車の座席に座ってみる。だが、実際の座席は1等も2等もたいした変わりはなく、日本の新幹線のような窮屈さは2等車ですら感じられないようだ。かえってあの1等車世界の居心地よりもこちらの方が良い、とすら思えてしまう私であった。

 12:22、列車はミュンヘン(München)に到着する。マンハイムから南西へ372kmのミュンヘンは今日一日ずっと雨がトロトロ滴るのであろうか。これから立ち向かうアルプスの雄大な眺めはあまり期待できそうもない。

 ソーセージをほうばりながら、13:00発、インスブルック行 地域急行(RB)列車に乗り込みアルプス山脈へ向かう。ついにあの正真正銘のアルプスがもうじき現れるのだ。
  
B-12ハンブルク - ミュンヘン (2).jpg
(ミュンヘン 〜 インスブルック(オーストリア))

 低い鼠色の空が垂れている重い雲の下で、だらだらと伸びる線路を列車はしんみり辿っていると、やがて左車窓に白い綿を被った山々が遠くに見え隠れしてくる。クネクネとした曲線で弧を描きながら近づくと、次第にその正体が神のように現れてくるではないか。これがアルプス山脈の本体か!
 
15.(D)ミュンヘン〜インスブルック線車窓1.jpg
  (窓に現れたアルプスの山塊)

 線路はアルプスの限界まで挑む。のこぎりの歯のように切れ味豪快な山の端が見事に眺められ、9月中旬というの歯磨き粉を付けたように不凍雪が申し訳なさそうに被さっている。

 列車はさらに奥まで進み、その雪渓が手に届きそうな地点、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)という、何とも言いにくくて長ったらしい駅名の駅に着く。かつては駅を挟んでガルミッシュ村とパルテンキルヒェンという村があったのだが、ヒトラーが二つを合併してこんな駅名が出来上がったのだという。まあ、日本の燕三条や水沢江刺みたいなものか。因みに、車内での車掌による放送は『ガルミッシュ』であった。

 ふと、この駅で途中下車をしてみる。

  16.(D)ミュンヘン〜インスブルック線車窓2.jpg
  (ガルミッシュ・パルテンキルヒェン町付近)
  
 ちょっとした静けさが走る駅前に立ち尽くすと、ツークシュピッツェ(Zugspitze)山とかいう、ドイツ最高峰の山に向かう登山電車が発車する電車音がかすかながら聞こえてくる。山に登りたい気持ちが涌いてくるが、運賃81マルク(約4800円)を知った瞬間、ためらいもなくあきらめてしまうのが私らしい。    

 さてもう少し先を進んでみよう。赤いドイツ鉄道の客車に乗り込むと、やがて鉄道はオーストリア領へと近づいてゆく。

 ミュンヘンから南へ118km、ドイツ・オーストリア国境駅ミッテンヴァルト(Mittenwald)に着くと、駅の目の前で直接アルプスの切れ端がそびえているではないか。しばらくその景色に向かって佇み、そしてため息を。想像以上の勇姿だ。

  17.(D)Garmisch Partenkirchen駅1.jpg

  18.(D)Garmisch Partenkirchen駅2.jpg
 (ミッテンヴァルト駅)

 墨汁画のような壁が駅を見下ろし、垂直すぎて山頂の今の気候が良く観てとれ、雲の流れを遮っている鋭い峰が天上を覗いている。それは迫力があり、足場のない斜面に恐れおののき、下から観た眺めだけで怖気ついてしまう。

 さあ線路はオーストリア領に突入する。国境審査などというものは当然存在せず、米原のようにJRの会社境界線のようなノリでオーストリア国鉄の区間が始まる。ここからオーストリア側の都市インスブルックまではわずか42km。ミュンヘンまで行くよりも近い。

 ところが、ここで重大な事に気づく。今日一杯有効なユーロパスがオーストリア領内では使えない、という事を。私は国境ギリギリまでそれに気づかず、その前に、オーストリアという国家の存在すら気薄だった事を告白せねばならない。

 私は急いで駅の切符売り場に走り、インスブルックまでの運賃、78シリング(約750円)を別に払う。シリングとはこの当時のオーストリア通貨で、1シリング10円程度。ドイツマルクよりも貧相なデザインの小額札を握り締めてオーストリアに向かう。

 16:59発 インスブルック行 RBが動き出す。ドイツ鉄道車輌による8輌の赤い客車を連ねてこのままオーストリア側へ突っ込むようだ。

 古来からこの峠のルートは、ドイツだ、オーストリアだ、という概念はあまり無く、ドイツという全体の国家が出来る以前から地中海を目指す交易・通商路としてこの道は栄えてきた。そんな交易路は、1912年、この電気鉄道の開業で以降ずいぶん変わったという。

 ミッテンヴァルトを出た列車は、何の知らせもせずにいつの間にかオーストリア領に入っており、これが国境というものか!と私を怒らせる。日本の県境並みの扱いに成り下がり、EU内の国の存在とは何であろう、と国家の位置づけに疑問を持ってしまうのであった。

 列車は、右に左に9月の雪山を眺め、どうやらこの辺りが峠のクライマックスのようで、それを醸しながら標高900mに達する。さあ、ここから怒涛の下り坂がいよいよ始まる。

 細切れのように短いトンネルが繰り返し流れてゆくと、進行方向向かって右車窓の空霧の中から突然下界が現れる。空中の鷲の眼から眺めているような谷底の村は、『鳥瞰図』という形容に一番近い演出を極め、途切れるトンネルの闇と闇の間にその風景が現れる。そして、はるかな谷集落が流れるたびに眼を細くして興奮を抑える。

 これを一気に駆け下りる列車なので、長々と極楽景色を待たせてはくれない。あっという間に標高570mほどの村落までストンと落ち、左へカーブしながらオーストリア横断本線に合流、ミュンヘンより南へ160km、インスブルック(Innsbruck)に到着する。

 ここは人口約12万人、チロルのやや幅が広がった谷底にある町で、先ほどのドイツ領とは違って、ハプスブルク家ゆかりの土地なのでオーストリア調の格式高い、古めかしい雰囲気を感じる。

 駅に降りると、両側に遥かなる高い山に挟まれたこの町を一瞬にして気に入いってしまい、今夜の宿をここに定める決意をする。ユースホステルに電話するとあっさりと「おいで」と一言言われ、市内のバスを順調に乗り継いで意外と簡単に宿に着く。夜行明けの疲れた体をほぐすに最適の宿だ。

 夜になると、夜空の下方にいくつもの星々がため息が出るほど散らばり、否、あれは星ではなく人口の灯りだ、と悟るのにそう時間はかからないけれど、あえて星々としてあがめてみたい。山々の建物の灯りは遥かチロルのてっぺん辺りまで散らばり、どこからがホンモノの星なのか適度な錯乱を覚え、山を見上げる逆夜景もまた美しいものである。

  
 お金 オーストリア 表@.jpg  
 (旧オーストリア シリング札)

 お金 ドイツ 表@.jpg
 (旧ドイツ マルク札)


 翌朝、私はまた恋をしてしまう。やはり女が絡むと活力が違う。

 実は、昨夜知り合った日本人の女とインスブルック観光の約束をゲットしたのである。人はこれを『デート』と呼ぶ。

 私は、脳知の結集を図って息を呑む暇も感じる事なく情報収集に勤しみ、本日の行き先を瞬間的にリストアップしてゆき、結論としてインスブルック東方にある蒸気機関車に標準を定める。しかし、女が渋い顔をしだすと、別の行き先を提案、そこで折り合いつく。

 目指すはここから見えるパーチャー・コッフェル(Patscherkofel)という2247mの山。ここへは途中まで路面電車で行けることが分かり、私は瞬時に行き方を覚えては女をエスコートしようとするが、悲しいかな、女はさっさと電車に乗り込む。一人旅をする女は男の手を借りるほどヤワではない。

 終点まで20シリング(約180円)、トラムはしばらく街の路面をチンタラ走り続けるが、町外れで路面電車から開放されて一転して登山電車と化す。高速道路を越えると森や林の中に突っ込み、薄暗い木々の中をひたすら‘コトン〜コトン’と丹念に登ってゆき、時々思い出したように線路が枝のように分かれては、上下の電車が行き違う森の中の停留所が現れる。

 思わぬ登山電車の発見と即席デート、これは、女連れで酒に酔いつぶれるよりもすばらしいひと時であり、だからと言っていつもの鉄道マニアぶりをここで発揮するわけにもいかず、電車の写真を撮る行為すら抑制気味である。それが私に苛立ちという副作用が覆いかぶさるのであった。

 45分ほど山を登った電車は高原の小さな駅、イグルス(Igls)に着く。爺さん婆さんばかりが集う年寄りの集落が横たわり、そこから少し坂を登ったところにロープウェイ乗り場がある。

 ここからいよいよパーチャー・コッフェルの山頂へ一気に上昇する。

 私の下心の興奮も乗せて・・・

 Cへつづく・・・

19.(A)インスブルックトラム・イグルス(Igls).jpg
(イグルス(Igls)駅にて)
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2011年05月27日

〜沈 黙 のヨーロッパ〜 A / U シベリア横断 〔後〕 

  〜沈 黙 のヨーロッパ〜 A
  
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  2. キリスト教社会の衝撃 

 嵐は始まる劇場のひと時の幕に過ぎなかった。沖に出、航海が安定する頃には風雨は収まり、続いて退屈という別の意味の嵐が襲い掛かる。自然現象の嵐が過ぎ去っただけだった。

 ところで、乗船券には自分の部屋番号が刻まれている。どうやら個室が用意されているようだ。

 「おかしいな〜二等船室のはずなのに…」

と、券面に書かれている部屋番号をしつこいほど確認する私。どうやら今、乗船しているこの船は豪華客船のようで、単なる移動手段としてみていた私は面食らった印象を受けてしまう。やはり船といえばざの雑魚寝部屋、というイメージだったのだが・・・。

 各個室には、ベッド2つにシャワー、トイレも内についているという始末の贅沢部屋に参ってしまい、後にも先にも私上最高レベルの部屋に思わず、

 「甲板でいいよ、こんな豪華さは要らないから金返してよ〜」と独り言を吐いてしまう。どんな超豪華客船であろうが、私にかかれば瞬時にカチカチ山級、ぼろ舟にして魅せる自信ある、と財布は叫ぶ。

 おまけにこの船には、サウナやカジノバー、ミュージックショー、高級レストラン、ディスコなども控えており、しかし、これらの娯楽も金があればこそ楽しいもの。ヨーロッパの民が余裕の金に溺れているその光景は単なる景色に過ぎない。白人連中が高級料理を嗜(たしな)んでいる傍らで、コッペパンとひまわりの種を摘んでいる私の姿はじつに紳士的だ。

 そう、金持ち欧米は、外の世界の人間にとって格好の妬みの対象なのだと、事を勝手に解釈する私だが、その時、ひまわりの種と共に歴史の瞬間を目撃する。

 目の上のテレビモニターが突然、英語のBBCワールドニュースに変換され、何やらただ事ではない戦慄を伝えている。

 『Four planes were hijacked』(よっつのひこうきがハイジャックされた)
 『One of four crashed to the Pentagon』(よっつのうちひとつがペンタゴンにつっこんだ)

 英語の字幕が流れる文の一つ一つは、現実ではありえない事ばかりで私の誤訳か?

 『Terror attacks!』(テロリストがアタック!)

 高層ビルが火塊となって吹いている映像が流れ、瞬く間にテレビモニターの周りは不気味な人だかりの輪を成してゆき、蒼白な面持ちの白人たちが、モニターを見上げながら突然悲鳴のような叫び声を放つ。すると、グラスを落とすようなショックが走る。一機の飛行機が、高層ビルにまばたきをさせる暇を与えないほど高速で突っ込んで大爆発してしまう。

 涙を流す者、目を潤ませてモニターに釘付けになる者、ショックで椅子にかがむ者…客船中の客から従業員まで大騒ぎである。必死になって字幕の英訳をするも信じられない訳ばかり出来上がる。

 ただ事ではない事件が起きたことだけは理解できた。

 このバルト海上での衝撃は私に一生刻まれるものとなる。

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 翌9月12日、船上の空気は一様ではない。一晩中、衛星中継の画面に釘付けに陥っていたので眼は重く、気がつけば昼の11時を過ぎてしまっている。健康に悪いので光に誘われてつい外に出てしまうと、甲板は陽に溢れながら日差しに包まれていて、風が完全に去り、代わって共にゆらゆら輝く穏やかなバルトの海が広がっている。

 海の向こうの陸地ではさぞかし大騒ぎであろう。私は、これから迎える21世紀の世界を受け入れる心の準備を試みる。何か大げさのように感じるかもしれないが、これが後々になって世界情勢という、一見関係なさそうで実は影響をもろに受ける大きな波の中へ旅はスイッチオンされたことを想うのである。

 やがて、船首前方にのっぺらとした大地が引き寄せられるように近づいてくる。

 ドイツだ。ここからヨーロッパ中央時間となり、1時間、腕時計の針を戻す。


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(ドイツ・ロストック港)

 ドイツ時間午後3時、客船は、22時間半の航海の帆を畳みながら静かに港内に入り、ドイツ・ロストック港に着桟した。

 客船からポロポロと抜け出してゆくように、上陸する肥えた乗船客に混じって貧相な姿をした私も降り立つが、新たな国に入ったにも関わらず入管や税関の手続きが一切なく、そのまま町へ行くライトバンへ誘われてゆく。フィンランドとドイツの間に関所はなく、なぜならば、ロシアからフィンランドに入った時点でEU域内に入っているからだ。

 正確には『シェンゲン条約加盟域内』という。しかし、EU域内という意味とは微妙に違い、イギリスやアイルランドが加盟していない代わりにEU非加盟国のノルウェーやアイスランド、スイスなどが仲間に入っているから事は複雑だ。

 シェンゲン域内という『輪っか』、卵の外側と内側を殻でもって境界をブロックし、今まで中身の黄身と白身にも審査があったのにそれを廃止し、殻だけチェックを厳しくし、中さえ入れば黄身だろうが白身だろうが自由に行き来出来ると考えれば分かりやすい。

 国境検問所がなくなったシェンゲン域内。おかげで、国ごとに出入国手続事務が存在していた過去を思えば驚くほど域内をスムーズに旅行する事が出来るようになった。また、各国も膨大な国境事務から解放された。しかし各々の国では法律も違う為、統一した基準を設けるのに一苦労したという。
 
 例えば、外部からA国でOKなのにB国でNOとされた人物が、A、B両国の間がフリーの為に別の第三国からA国に入国出来たら、軽々とB国に検問なしで入国できてしまう。ウンチクはそこまでとし、とにかく、私は欧州の‘殻’の中に突入している。

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(バルト海航路〜ロストック上陸〜ハンブルク)

 ライトバンは、ドイツ名物アウトバーンを突っ走り、急加速したかと思うとすぐに高速から下り、町に入って鉄道駅に横付けする。

 ここはロストック(Rostock)いう町。人口約18万人、旧東ドイツ区域の港湾都市で、その昔、ハンザ同盟の一都市であった。東ドイツが消え去って早10年のこの時、旧時代の錆びたその痕跡を消そうと町中ボコボコにしながら公共施設や道路を改装している。

 鉄道駅も例外ではなく、駅舎やホームから周辺の道路に至るまで大規模改造工事中で、その中から両替所を見つけ出さねばいけないが、その存在の気配は全く感じられない。

 また面倒な事になった。ドイツマルクが手に入らないという事は現金を持っていないという事だ。今は船の中でおつりとしてもらった端数の10マルク札しかないのだが、フランクフルト2本買っておしまいだ。これがロシアや中国ならたらふく飯が食えるのに・・。

 そこでクレジットカードが登場する。まだ外国でカードを使った経験がないが、もうここは西側先進国ではないか。それに改めて気づくと、それまでの現金主義政策一辺倒から借金政策へと大転換を図り、切符売り場の窓口に小さなプラスチックのカードを出してみると、カチカチと印字された切符と共にサインを求める用紙が現れ、そこに漢字で自分の名を刻めば一丁あがり。打ち出の小槌を振りかざした錯覚に恐怖して、後から圧し掛かる利息と手数料に怯えなければいけない端緒を作ってしまった。これが私のカードデビューだった。

 しかし、後で分かるのだが、外国でのカード使用は現金を両替して使うより場合によってはとても有利。現金両替時のぼったくり手数料や悪レートを思えばカード払いを完全否定する必要はないもしれない。一括払いであれば利息もそれほどかからず手間要らず。こんな便利な道具を知らずに西側先進国を旅するなんぞ、サクラ吹雪を見せない奉行所の遠山の金さんのようなものである。だが、その権威に溺れて金銭感覚を失えば、サクラは吹雪の下で豪快に散って、追って厳しい沙汰が待っている。

 ドイツで初めての買い物となったのは鉄道切符だった。行き先はハンブルクを指している。ロストック 〜 ハンブルク間 211km、54.2マルク(約3000円)は日本並みの運賃であろうか、1マルク≒55円計算ではじかれる過激な物価ゾーンはその後も続く。

ロストック-ハンブルク.jpg
(ロストック 〜 ハンブルク ドイツ鉄道の切符)


 18:00発 ハンブルク行きIR(地域間急行)は、滑らかな走りを放つように緑の大地を迷うことなく西へ突っ走る。中国以来の標準軌(1435mm)の鉄路はこのままイギリスまで繫がれていて、この先大きな死角はないようにも感じてしまう。やっとドイツまで達した達成感と安堵感がゆっくりと浸透し、しみじみとドイツののっぺらとした牧草と森の景色を眺めている。

 時折、風力発電と思わせるプロペラの風呂敷を広げた大風車が大地に突き刺さって回転している車窓が流れ、その向こうにやや消えかかった濃い虹が途切れそうな弧を描いている。陽が崩れる午後7時の頃だった。

 やがて、辺りは闇の訪れを察知して電灯の軌跡が流れるようになるとあっという間に夜が訪れ、20:15、列車はハンブルク中央駅に到着する。この駅は、ヨーロッパの大都市によくある行き止まり式の突端駅ではなく、東京駅のような通過式の駅であり、ドームの屋根に覆われた広大な構内に電車や列車がテンポ良く流れてゆく。


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(ハンブルク中央駅)

 ドイツの一大都市の玄関であるこの駅には、1マルク90円というとんでもないレートを装う両替所はもちろん、シャワーもレストラン街もショッピングセンターさえも法外に見えるプライスを掲げながら輝いており、日本以来の洗練された大都市の匂いにため息をこめた感触を覚える。

 だが、背に腹は代えられない私も‘90円両替所’で最小限の両替をし、本日最後の仕事である宿探しを始める。

 ガイドブックに従ってSバーンという通勤電車に乗ろうとすると、改札も検札も何にも無いのに驚かされる。ただ乗り大歓迎なのか、と都合よく解釈したい私もそこまでバカではない。抜き打ちでやってくる検札に見つかれば膨大なペナルティーが待っている事くらい想像が出来、もっとも、切符を買わずして電車に乗れば精神衛生上悪いので、ここはきちんと切符を買う。

 
 翌朝、目覚めがあまりよろしくない。昨夜はあちこち満員で散々門前払いされ、4件目でようやくチェックインできた。安宿は便利な場所から埋まってゆくようで、ここは町や駅から遠く大変だった。

 私は、起きたばかりなのに仕方なく朝食を取らされる。日本の旅館でもホテルでもそうなのだが、食事がついている事は嬉しいのだが、たいてい起床時間=朝食時間なので、腹がまだ眠っている最中は気が進まない食事となってしまう。

 だが、さすがは欧風社会、バイキング形式の食事風景がズラーと並ぶ。腹をたたき起こして、ありったけの食べ物を載せてはそのままかぶりついていると、右横から3人の日本人女性がこちらを見ている。厳しい視線だ。そういえばここはアジアではない、と我に気づき、スパッとお行儀よくナイフとフォークを両手にかざして背筋を‘ピン’と伸ばす。
 
 辺りを良く見渡すと東洋人が多い事に気づく。この当時は東洋人といえばたいてい日本人という相場が成り立っていて、それは明らかにアジアやロシアを旅行している日本人たちと違い、どこかおっとりした風向きを感じさせる。

 そんな彼女たちと旅の話が華咲くのだが、サボテンやトリカブトのようなマニアックな、コアな話よりも、チュウリップや菜の花といったほのぼのとした華の話が咲き乱れる。しかしそれでは少し物足りない。

 「アジアからシベリアを通ってここまできたのですか?」
 「すごい」

 本当にくだらない優越感が炸裂した。旅の内容に優劣をつける必要はないが、この時の私は、ヨーロッパの旅に少し物足りなさを感じていたのだ。
ヨーロッパを旅する彼女たちは必ずある種の質問を私に投げる。

「どこの国が一番いいですか?」

 1週間や2週間程度の期間でヨーロッパの行きたい国を可能な限り行こうとするらしく、彼女たちの手帳を見ればびっしりと列車の時刻と国と都市の名が埋まっている。アジアだと1、2週間では到底足りないが、航空機がボンボン飛び交い、緻密な交通網で整備されているヨーロッパ大陸は便利すぎて過密スケジュールをつい許し、余裕よりも焦りというベルトを巻きつけてしまう。

 ヨーロッパを10カ国はしごしても不便な中国一国で得られる栄養にはかなわない、と私は密かに思っていた。だが、それはまだ欧州世界を知らない自分の盲目であり、その事に気づくにはあと2年必要だった。

 ところで、彼女たちは町の雰囲気がどこか重苦しい事を直感で悟っている。その理由がよく解らないらしく、私が一言、事の事情を簡単に説明すると、一瞬驚いたような表情を見せるが、なかなかその事の重大さを理解しようとしない。

 旅行者がいる世界は間違いなく平和の象徴だ。よって、旅先でニュースを見たり異国の新聞を読むことなど普通はしないので当然かもしれない。ところが、世界的大事件起きれば旅行者は意外と直接関係してくる。実はそんな存在なのである。

 それでも彼女たちは、スケジュールに追われるように次の都市を目指し颯爽と特急列車に消えてゆく。独り、時間の感覚がおかしい事に気付かない私は、改めて町をゆっくり歩き出す。

 ドイツ・ハンブルク(Hamburg)は人口約170万人、エルベ河の最下流部沿岸に位置しており、これを遡ればチェコの首都プラハを流れるヴィルタバ川に行き着く。

 この町は比較的内陸にある港湾都市だが、ここのエルベ河は十分と海運航路を設定できるほどの川幅と水深を持ち、日本の河川概念を取り払って欧州大陸の‘河’というものを感じなければいけない。河川は今でもヨーロッパ大陸において重要な水運手段なのだ。

 ドイツの中でもベルリンに次ぐ大都市。旅行者が喜ぶ見所は何であろうか。それを史跡に求めるのであればここに来る必要はあまり無いかもしれない。

 戦争で焼かれたにも関わらず、復元された小さな旧市街は中世の雰囲気を何とか伝えているが、この復元の力はやはりすばらしい。やがて、その粋の頂点でもある広場に到達する。たいてい広場は町の中心にあり、そして市庁舎前にあるものだ。

 だが、広場の空気は重い。付近にある各国領事館の国旗を始めとして市庁舎に掲げられている州旗も半旗で垂れ下がり、ニューヨークのテロ直後の堅苦しい追悼集会と反テロ運動が行われている。

 キリスト教社会、つまり、自分たちへ向けられた攻撃とみなし、デモとは違う真剣さが伝わってくる。追悼ミサに参加している群衆の一部から叫びが炸裂し、それは、見えない敵への恐怖と恨みの行進に変わろうとしている。だが、それ以上のものにもならない。その代わり、彼らの底流には脈々と不信から湧き起こる何かが渦まくのであった。

 そんな世界情勢だが旅は続く。

 Bへつづく・・・
http://www.kitekikaido.com/

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2011年05月26日

U シベリア横断 〔後〕/ 第5章 〜沈 黙 のヨーロッパ〜 @ 

 第5章 〜沈 黙 のヨーロッパ〜 @ 

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 (サンクト・ペテルブルク 〜 ヘルシンキ)

  1. フィンランドの余裕の嵐


 高速で車窓に流れるそのヨーロッパの風景は、完成された日本の風景を思い出させるほど整然とし、それは久しぶりに先進国を感じさせるのだ。まだフォンランドでも辺境の田舎に属するこの辺一体でも、まっすぐと整ったアスファルトの道路や大きなスーパーマーケット、そして通過する小駅には駐車場が完備されていている。改めて言おう。ここは先進国だ。

 間もなくフィンランド側の係官が通路に現れ、一部屋ごとに入境審査を進めてゆく。その係官には公務員という、奉仕の精神めいた笑顔すら浮んでいて、ロシアからの亡命に近い心境でいた私にとって心地よいウェルカム儀式に思えた。もう、目的地イギリスまでのハードルはない。

 「両替はいかが?」

 ビッフェの売り子であろうか、賢そうな女性がカートを引きずりながら廊下を辿ってくる。私と目が合うと、女性は軽く頬を垂れるような会釈をし、気分良くした私は、勢いで余ったルーブルをフィンランド*マルカ(マルク)へ交換してみる。

(*フィンランドマルカとは、ユーロ通過導入前のフィンランドの独自通貨。当時、1マルカ(M)≒19円ほど)

 ロシアではパンがしこたま買えたはずの140㍔を渡すと、彼女は自動計算機にかけピッポッパと軽やかにレシートを出しては私にマルカを手渡す。

‘チャリ〜ン〜’

 人をおちょくる様なこれまた軽い硬貨音だけ鈍く伝わる。

 「え…これだけ?」

 札で来るかと思っていたが、140ルーブルがこんな小銭へ成り果ててしまうとは、そんなショックを隠すことなくたじろいでしまう。この小銭だけ30M(マルカ)(約600円弱)がここではどれくらいの価値を持つのか、だいたい想像ができる。
 
 列車は時速160km/hは出しているであろう、ぱっと見でも風を切るような速さを魅せつけている車輌のジョイント音が高速バージョンで奏で、波打つ整地された畑を真新しいトラクターが格好良く耕している風景が流れ、平行する高規格の車道は見事に立体交差をし、その沿道にはピカピカのガソリンスタンドが控え、その脇に点在する民家も綺麗だ。

 軍事大国だが社会主義時代を経た貧乏国から、片や先進超福祉国家。この、差がありすぎる両国家に挟まれた一つの国境。それを越えただけでこうも劇的に社会基盤が変化するとは、国境越えのショックを私はマックスで感じている。

 ロシアと同じものを挙げてみよう。フィンランドの鉄道はロシアの影響下で建設された為にロシアと同じレール幅(広軌2524mm)。ヨーロッパ本大陸側の標準軌(1435mm)とは違う孤立の存在を見せている。

 ところが、バルト海とロシアとを結ぶ物流において今となっては強みとなり、壮大な見方をすれば、日本海沿岸やモンゴル、中国国境まで同じレール幅とあっては、極東とフィンランドが近い存在にさえ感じてしまう。ロシアからの列車は乗り換えなしで、もちろん台車も交換せずにそのまま西側の扉を開いた。

 車窓にはやがて湖や沼地がポローンと流れ、よりいっそう順調な走りが刻まれ、フィンランド時間 12:05、北京より約8,900km、そして青島より出発して約9,800km、EU内初めての首都に到達する。

 これぞヨーロッパ、といったドームで包まれた、行き止まり式のヘルシンキ(Helsinki)中央駅に列車は到着する。サンクト. ペテルブルクから約6時間。距離の割にはずいぶんと大きくワープ(飛躍)したような一区間であった。
 
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(フィンランド唯一の国際列車が到着)

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 (ヘルシンキ中央駅構内)

 16番線以上あるこのターミナル駅、ここの駅前に立つと、ロシアで見かけたオンボロ路面電車の代わりに小回りの良さそうな新型トラムが出迎えてくれる。そして、盲人用の信号機から奏でられる電子音が街の大通りを包み、近代的な真新しいビルの谷間に古風な欧風建築も佇んでいる。何もかもが落ち着いており、あの傷大国ロシアが隣に控えている国とは思えない光景だ。
 
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 (ヘルシンキ中央駅舎)

 ヘルシンキは人口約54万人、日本の中核市程度の規模であるが、周辺都市圏全体で見ると100万人は超えるので、一応一国の首都の風格はある。地元フィン人(フィンランド人)、ロシア人はヘルシンキと呼んでいるが、10世紀ごろの支配者の言葉、スウェーデン語ではヘルシンゴアーズ(Helsingfors)と呼ばれているため、駅には二言語の表示が常に施されている。
 
 さて、ここから先がまた問題だ。地図を眺めると、バルト海を挟んでスウェーデンが横たわり、そこからデンマークを伝ってドイツに至るルートがもっともらしく思えるが、これでは物価高の北欧を隅から隅までは這うことになり、汽車賃がいくらかかるか見当もつかない。早くロシアを出たい一心でここフィンランドへ出てしまったツケが少し響いてくる。

 そこで、サカサカとリュックの奥にある、とある切符を出す。そう、これは日本で前もって買っておいたフレキシー型のヨーロッパ鉄道フリー切符、人々は‘ユーロパス’と呼んでいるものだ。

 使い始めて2ヶ月以内に任意の有効日数(通用日)分消化する切符で、日本の青春18切符みたいなフリー切符である。しかし、これは特急にも国鉄フェリー乗れ、少しの追加料金さえ足せば新幹線にも乗れるツワモノなのだ。

 私は、計5日間用、43,500円で手に入れたので、1日8,700円分使えばモトが取れる計算だ。これをモンゴルで、ロシアの大地を通じて運び、今ようやく役に立つ時がくるのか。

だが、有効ゾーンの区域は基本五カ国(仏、独、西、伊、瑞)。つまり、これにはフィンランドをはじめ北欧諸国は入っていないのだ。物価の高い北欧が圏外とはかなり不満であるが・・・

 何とか金を掛けずにドイツに入りたいものだ。そこで調べてみると、どうやらこのパスでドイツへ直行するバルト海のフェリーが割引になる、とガイドに書いてある。さらに、それのために使用しても通用日にはカウントされないようで、これは使える!とニヤリとする私。

 早速、そのフェリー会社の代理店へそのまま足を運んでみる。しかし、

 「ごめんなさい、ドイツ行フェリーの運航は昨日で終了しました」

 何と夏季だけの運行だったのだ。これはひどい。9月も半ばに差し掛かったここフィンランドでは夏は待ってくれなかった。衝撃が走る。

 「ドイツへ船で行きたいのであれば別の客船が出ているよ」

 私は、その別のドイツ行客船の詳細を尋ねると、何と料金は1,400マルカ(約27,000円)という、まさに鼻血が出るような高さ。
 
 「ウソ!そんなの乗れない!」

と思わず叫んでしまうと、窓口の社員は一言助言する。

 「学割が利くよ」

 そういえば、私はこれから学生になろうとする身である。イギリスの学校の入学許可証を提示すると、1,400マルカが一気に818マルカ(約16000円)、4割以上も安くなる、という事だ。もうこれしか選択肢がない、と思い込んでしまっている私は迷わず買ってしまう。

 手渡されたその乗船券を見ると、港がヘルシンキではなくハンコ(HANKO)とある。一体どこであろうか。聞いてみると、そこは首都ヘルシンキから西へ140km程離れた港町で、列車で2、3時間の距離らしい。通常はバスで行くというが、陸地は絶対鉄道にこだわる私にとってバスの選択肢はない。ハンコまでの鉄道運賃は、98マルカ(約2,000円)で、ユーロパス第1日目を使用するのはもったいないのでここは現金で切符を買う。

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(ヘルシンキ 〜 ハンコ間の乗車券)

 こうして、この新たな展開となった欧州での旅の最大ハードルはやはり物価である事が判明した。想像以上の物価高に恐れおののく私は、これからいかにして節約行進をするかが最大のカギとなる。

 そんな世界の西側の旅で重宝されるのはユースホステルだ。特に若者だけが泊まれるというわけではない。私は、街にあるこじんまりとしたユースホステルを見つけ無事チェックインすれば、まずは宿の問題はクリアした。次は食事だ。

 市内にはレストランが沢山あるにはあるが、日本の牛丼吉野家のようなノリの食堂は全く見当たらず、噂には聞いていたが、どれもこれも衝撃のプライスにノックアウトされてしまう。決して目の前にある敷居の高いレストランのドアをノックする事はない。入ったら最後、財布の寿命が縮まるだけである。

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 (ヘルシンキ中心部の繁華街)

 腹を空かせながら散々市内を歩いていると、とあるスーパーの地下街に脚が誘われ、おなじみのマクドナルドやチキンバーガーなどの米国資本系の店が5、6軒連なっている広場を見つける。平均して30マルカ(約600円)程度なので、ひとまずここで鶏肉セットをつまむ私は、こうやって餓えをしのぐのであった。

 消費税が高い西側欧州は、アジアのように安い外食産業がそれほど発展しておらず、そんな窮屈な思いをどの旅人も同じように感じているはずだ。おかげで、ユースホステルには自炊用の台所が完備されており、食費を浮かすには欠かせない存在となっている。自炊の旅となれば、これから醤油やソースを持ち歩かなければいけないのであろうか。
 
 さて旅の駒を進める。

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(ヘルシンキ 〜 ハンコ 行程地図)

 翌 2001年9月11日、14:08発トゥルク行きインターシティー(特急列車)に乗り込むと、5輌の客車と1輌の食堂車、計6輌編成の列車は静かにヘルシンキ中央駅を発車し、‘ウィ〜ン’という、航空機に似た加速音でスオミランド(フィンランドの別名)を快走し始める。

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(インターシティー特急) 

 フィンランド・ヘルシンキ-Karjiaa 2001-9.11.jpg
(インターシティー特急券)

 一直線に大地を貫いている路盤を高速で走る列車は2等車でも十分乗り心地は良く、それはまさに一流品の如く。そんなゆったりとした空間の中、窓の向こうに流れる森と畑に隠れた沼地を眺めながらエスプレッソを片手にしているその姿はまさに優雅な影を描いており、窓越しの沼辺にそれが映る。

 ヘルシンキから87km、15:07、列車はカルジァ(Karjia)という小さな駅に着き、ここから細い半島をゆく支線の普通列車へ乗り換える。港町ハンコは南方へ飛び出た半島の先にある。

 本線から一転して単線非電化の、一日数本しか走らないローカル線となり、2輌の青い客車と、それを引っ張る赤と白の機関車が、どこかおとぎの国のようなリズムを乗せてコトン、コトトンと可愛らしく奏でる。

 1人乗務の車掌が、1輌に16人程度しかいないお客の検札をあっという間に終わらせれば後は見るからに暇そうで、そんな森の中のリズムの間を愛らしい汽笛が‘ピョ〜’と鳴く。

 とある小さな駅での発車後のこと。自分たちが降りるべき駅を見過ごしていた事に気づいた女の子の集団が突然騒ぎ出した。何事か、と聞きつける車掌に事情を説明すると、車掌はすぐに無線機で運転手とやり取りをし始め、ついに列車は森の中で急停車してしまう。彼女たちは、冒険心をチラリと浮かべながらホーム無き森の砂利敷に‘よっこらしょっ’とデッキから着地すると、軽やかな笑顔で手を振って列車に別れを告げる。そんな北欧のローカル線での一コマだった。

 列車は、途中3つの小さな駅に停まりながら50kmを走り抜き、40分ほどかかって、15:55、終点ハンコ(Hanko)に到着する。スウェーデン名ハンゲ(Hangö)と呼ばれる、人口1万人弱の小さな港町。

 そして幾分寂れたものを感じるその終着駅。

 どうやら駅自体は町外れにあるようで、島式ホームに側線が横たわる構内はガラ〜ンと静まっていて、機関車が前後入れ替えをし終わり、機関車のエンジンがついに止まってしまうと、鳥の鳴き声さえも聞こえるほど一気にシーンとなる。まるで秋田県の男鹿駅のようだ。

 6.(F)ハンコ駅.jpg
 (ハンコ駅のさみしい光景)

 ここで一つ問題が発生する。港がどこにあるのか分からない。たいていは鉄道駅に隣接しているものだが、港への線路は剥がされており、どうもここでは鉄道と船との接点は遠い昔の記憶になっているようだ。

 乗客の一人か二人程度は港に向かう人がいるかと思いきや誰一人もおらず、その考えは少し甘かった。私は、フィンランド語しか分からない地元の老人たち相手に体全体で港の風景を作っては何とかフェリー乗り場への道を尋ねてみる。

 「向こうだ」

 方角だけは示してもらい、あとは南に向かって歩くのみ。すると、公園の向こうにフェリーらしき巨体が見えてくるではないか。どうやら無事出帆前にフェリーターミナルに辿り着けたようだ。

 と、ちょうどその時、冷たい雨が港を激しく叩きつけ、間一髪というところであっという間に大嵐になってしまう。そんな嵐もまた旅の演出だ、とすっかり余裕をのぞかせる私の行く手は今は海、さあ、久しぶりの航海である。
 
 午後6時半、激動の渦を秘めた嵐の中を、客船はタイタニック号の悲劇を予感させながら嵐のハンコ港を離れゆく。船首の側面から吹き上げる波を蹴り、黒雲に向かって大船は悠々と波間を滑る。まさか内海のバルト海がこんなに荒れるとは思わなかった・

 遠くなるフィンランドの大地。手のひらにあるフィンランド・マルカを使用する事も永遠やってこないのであろうか。マルカはこの年(2001年)、ユーロ通貨にとって替えられ、親分のドイツマルクと共に消えてしまうのであった。

 お金 フィンランド 表@.jpg
(かつてのフィンランド・マルカ札)

 ところで、マルカとはマルクのフィンランド読みである。日本の円と中国や台湾の元、朝鮮のウォンたちが『圓』から派生しているように、マルクもバルト海を舞台に通貨の力を共有されていた。他にも〜フラン、デゥラハム(ディナール)など、派生していった通貨の名前が世界には多くあり、お金の奥深さに興味を抱けば、両替をするたびに旅の面白さも感じるかもしれない。でも、ユーロ時代の登場は、そんな通貨の意味深い余韻さえも噛み砕いてしまう。

 船の針路はSW(南西)一直線。内海のバルト海をぶった切るように突っ切る航海だ。かつては、スウェーデンバイキングがこの海を舞台に沿岸部を支配し、また、大航海時代のおとずれまでヨーロッパ商圏の主役を担ったハンザ同盟が支配した海。中世ヨーロッパ世界の中心に位置していたその海を悠々と南下している。

 海なのに湖水のような匂いを感じさせるのはなぜであろうか。それは、日本海の4倍ほどの面積があるこのバルト海は、唯一南方の出口のみが外海と繋がっているだけの半湖状態。さらに、流入河川の流量が多いので塩分濃度が特に低いとされている。しかし、ひとたびこの海の滴が鼻につけば、その磯味にやっぱり感服してしまう。私にとってこの潮こそはるか極東の太平洋・黄海以来なのだから。

 嵐はますます手荒くなってゆき、波乱に満ちたバルトの航海を予感させるのであった。

 Aへ続く・・・
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   7.(F)ハンコ駅風景.jpg
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2011年05月25日

シベリヤ 大横断〜 E  ヨーロッパへのルート (U シベリア横断 〔後〕))

  シベリヤ 大横断 E

 92.サンクト・ペテルブルク ネバ川沿い夜の風景.jpg

  6. ヨーロッパへのルート

 ヨーロッパへのルート。悩みに悩んだ。一時、バルト三国経由が濃厚になりつつあり、時間がどれだけかかるか見積もると、鉄道の情報があまりになく見積ることが出来ない。そこで私が決心したルートは・・・

 フィンランド経由。
 
B-7ヘルシンキ広域.jpg
(ロシア・フィンランド広域工程図6)

 
 この暗黒の大国ロシアを一刻も早く脱出したい、という偏狭な脅迫に悩まされていた私は、早速、町が動き始める早朝にフィンランド行きの国際切符売り場の事務所へ駆ける。

 St(サンクト). ペテルブルク市内にはいくつかのターミナル駅がある。一つは最初に到着した『モスクワ』駅や『ヴィテプスキー』駅だが、フィンランドの首都・ヘルシンキへ向かう列車のターミナル駅もこれまた別にある。その名もスバリ、

 『フィンランド(Финля́ндский)駅』

 ヘルシンキ行列車は、朝と夕、1日2本存在しているが、夕方発だとヘルシンキ着が遅すぎるため、仕方なく早朝すぎる列車を選ぶ。

 窓口のおばちゃん職員が手馴れた手つきでキーボードを叩くと、メモに金額をスラスラと殴り書きしてぶん投げるように私にそれを渡す。すると、その金額を目にした瞬間硬く氷つく。

 『1412㍔(約6000円)!!』

 この値段がどういう意味を持つのか計算してみると、ヘルシンキまではわずか442km、モスクワまでの距離にも及ばないのに、シベリヤ急行5千キロ並みのその料金に気絶しそうなレベル、これが西欧先進国というものだ。眼がしょぼついた面持ちで、腹をくくって窓口へルーブルの札束を放り投げてしまう。
 
 サンクトペテルブルク-ヘルシンキ 切符.jpg 
(サンクト. ペテルブルク 〜 ヘルシンキ 国際切符)

 国境越えの鉄道運賃はどこか特殊な怪しさが香るが、国境の向こうの相手国によって事情が大いに違う。因みにエストニアのタリンまでは370km、340㍔(約1400円)であり、フィンランドがいかに物価が高い国であるかが分かる。

 
   95.サンクトペテルブルク 夜のネバ川沿い3(ネガ).jpg


 ○ 9月10日午前6時、透き通る町の朝が始まる頃、私は義務的に目覚めてはフィンランド駅に立つ。まだヘルシンキ行き列車は現れていないようだ。

 この1960年に造られた、今も社会主義の姿勢を貫くべく堂々とした風格を揃え、しみったれたコンクリートの駅舎を目の前にしながら、これでもうすぐフィンランドか、とロシアをバカにしたような感慨を覚えてくる。それは、フィンランドが両手を広げて待っているかのような・・・

 私の心はすっかりフィンランドだ。こんな暗黒帝国ロシアとおさらば出来ると思うと急に身が軽くなったからであろうか、駅構内で列車の写真を軽やかにパチパチ撮り始めると、やはりやって来た、二人の鉄道警察。そういえば、モスクワと言い、サンクト. ペテルブルクと言い、西ロシアに入って以降、極端に警察の姿が目立つ。昨日も地下鉄駅の出口で外国人狩りをやっていた。

「お前はここで何をやっているんだ!」

そうロシア語で豪語しているのであろうか、分からないふり、否、本当に分からないのでそんな素振りをすればお咎めがない、と思うのは甘い。鉄道駅で汽車の写真を撮るなど、彼らにとってスパイかと思うわせるほど不愉快な行為なのだ。

 片方の警官がパスポート提出を命じ、おまけに所持金チェックまで企み始め、ロシア脱出間近で連行か!とまた私の脚が震え始めたその瞬間、あっけなくパスポートが返却される。なぜだか解らないが、たまたま人が良かっただけであろうが、一歩間違えば大損害、大惨事であった。ロシアに居る限りは最後まで油断は出来ない。

 午前7時ころ、入線予定の行き止まりホーム2番線に、明らかにロシア人とは違う、金持ち風の人が集まり始めると、すると、向こうから青いフィンランド国鉄車輌7輌(うち食堂車1輌、ロシア荷物車1輌)がロシア機関車に押されて登場! 車掌に切符を預けて中に入れば、もうこれで半分ロシアを出国したようなものだ。
 
 105.サンクト・ペテルブルク・フィンランド駅 ヘルシンキ行き.jpg
(野良犬の脇にルシンキへ行き列車が入線)

 7:15、第33列車は定刻通り『フィンランド駅』を出発し、煤けた近郊電車とすれ違いながら朝のラッシュで渋滞する道を堂々と横切り、最後のSt. ペテルブルク市内の灰をかけるようにシャカシャカと後にする。

 1870年に敷かれたこの鉄道は、かつてレーニンが鉄道労働者に変装してフィンランドからロシアに入ったことで知られ、逆に1918年の革命時、多くのフィンランド人を乗せてロシアからフィンランドへの逃亡通路を担い、その決意と悲壮を含んだ鉄路が今、同じような悲壮をかみ締めさせて私を同じ鉄路を辿らせる。

 
 B-8サンクトペテルブルク-ヘルシンキ.jpg
(サンクト・ペテルブルク 〜 ヘルシンキ 工程図7)

 福祉国家フィンランドを感じさせるグレード高き優等客車は、音は静かで、個室の客室には、明るくてフカフカ座席が備え付けられている。今までのロシア型車輌に乗り慣れてしまった私にとって驚くほど優雅なものに感じたのは言うまでもない。

 一方、すれ違うロシア型車輌に詰められているロシア人民が気の毒にさえ思えてくる。軍事力ばかりが国の差ではない、西側と旧東側の差を強烈に見せ付けられたような思いだ。

 しばらく列車はノロノロと進んだり快調に走ったりと緩急激しいが、フィンランド車輌ではその不快感は全く感じさせない。でもやはり、車窓は相変わらずドロドロとしたロシアの光量がガンガン流れているので、まだロシアを出ていない事にハッとさせられる。

 家々が傾き、オンボロ自家用車が疾駆し、波打つ舗装道路が並行する、それを眺める高みの見物のような心境は、私が別空間に潜んでいる結果からであり、ある種の優越感すら湧いてくるのが ちと悲しい。

 この辺りは大戦中、フィンランド・ソ連両軍による激しい戦闘があった地域。そんな大地を淡々と走りぬけ、サンクトから139km目で列車はロシア最後の停車駅、ビヴォルグ(Вы́борг)に到着する。

 フィンランドの匂いを留めたこの周辺は、かつてフィンランド領であった。そして、この町はフィンランド時代の重要な都市であったが、第二次大戦でフィンランドは大敗北を喫し、その結果ここはソ連領となった。

 フィンランドにしてみれば、ここは日本の北方領土に似た感情を持つ、対ロシアへの領土の郷愁を帯びた土地であるが、返還運動をしているといった話は聞いた事がない。そういえばフィンランドは、ソ連と闘ったおかげで日本と感情的に相通じるものがあり、両者枢軸国側に立ったということで現在も国連の敵国条項の一員となっている。こう思うと、フィンランドと日本はロシアを通じて境遇が似ており、そして親近感が涌いてくる。

 ビヴォルグの駅はちょうど通勤ラッシュ時のようで、ガンダムに出てくる深緑色の旧型ザクのような電車からドッと乗客が吐き出される光景が音も聞こえずに展開され、その人々の服装は一見貧相に感じるが、悲壮感はあまり感じられないような気がする。むしろ日本の通勤電車で生きるオヤジたちの目の方がよっぽど死んでいる。

 生き生きとしている、とまでは言いがたいが、その表情から、元気よく一生懸命生きている、といったオーラーだと勝手に表現してみたい。

 ビヴォルグでロシア入管の係官が乗り込み、そんな目的で停車しただけ、とフィンランド人から教えられ、さあ、列車はゆっくりとビヴォルグを離れ、ここよりわずか30km先の国境の駅までレールのジョイントを数えながら最後の関門、出国審査の儀式が待ち受ける。

 モスクワ.jpg

 入管の係官が廊下に立つ。

 「全員、コンパートメント個室から出てはいけない」

とやつらの厳命が伝えられ、相変わらずの煤けた制服がドア越しに映る。緊張の時はみな同じで、それまで雑談に興じていたフィン人(フィンランド人)たちもさすがに押し黙ってしまう。こうしてパスポート審査から始まる一連の儀式が沈黙の車内に流れてゆく。

 やつらが部屋に入ってきた。8人居るこの仕切り部屋の中を見渡すと、やはり東洋人である私と目が合ってしまう。目立つのは当たり前であろう。一層怪しく見えるこの風貌に、入管・税関係官が勝ち誇ったように一瞬微笑んでは再び厳つい表情を作り上げ、

 「税関申告書を出せ」

と英語で命じる。税関申告書とは、モンゴルから入国した時に書かされた所持金の詳細の書類の事。あれが今まさに7千キロのかなたより役に立つのである。税関連中がこの書類を一瞥すると、予想通りの命令が下される。

「金を全部見せろ」

 これは、ロシア経済が脆弱な中、国内の外貨持ち出しを制限しようとする政府の政策であり、入国時よりも増えていたら、増えていた分だけではなく、所持金全部没収という悲劇が待っている。私にとってまたまた過酷な儀式なのは間違いない。

 私は入国時、バカ正直に記載したためよかったが、逆に過少申告でもしていたらこれまた悲劇である。申告書の内容を証明するため、所持しているドル、ポンド、円、ウォン現金をさらけ出し、すべてをテーブルの上に並べる。

 緊張の一瞬が始まる。係官は入念に、そして丹念に札を一枚一枚、慣れない手つきで数え始め、その慎重さと眼光の真剣さはただ単に職務だから、というものではなく、それはどこか野心めいた奥底の野望を覗かせる。
1ドルでも申告書の金額と違えば、その瞬間、イギリスは行かずして終了となる。

 「しまった、韓国ウォンを書き忘れた!」

 私の顔から血を抜いたように蒼白さが浮き始め、これで何回目であろうか、イエス・キリスト様とお釈迦様とアッラーの神へ念仏を強固に唱えはじめ、そして、天を仰いだまましばらくすると、係官が本当に残念そうな表情をして、

 「オーケー」

と妙な英語とその低い声が部屋内にこだまする。どうやらクリアしたようだ。数えてみれば入国申告時より金が少ない。そうか、少ない分なら問題ない。そりゃ、ロシア国内で散々ルーブルへ両替したドル分が無いからだ。

 パスポートも戻り、これですべての出国儀式が終了。最後の最後までロシアに恐怖したこの体験は私の血となり肉となるのであろうか。

 列車は国境駅、ブスロフスカヤ(Бусловская)に到着し、連中がここで降りてゆくと、車内は一気に圧政から解放されたの如く歓喜が湧き起こる。そして、本当の国境が目の前に迫り、この旅初めての昼間の越境にその興奮が頂点に差し掛かる。

 一旦停車した後、再びゆっくりと走り出せば程なく‘のろし台’のような櫓の塔が現れ、それが通路側窓外 左から右へゆっくりと流れ行く。

 すると森の中から小さな青いポールと鉄網の壁が一瞬だけ出現する。

 どうやらこれが本当の国境のようで、延べ13日間、7千キロに渡ったロシアの旅は終焉するのだ。

 腐敗臭と矛盾と独裁に満ちた国を掻い潜り、安心という喜びを手にする瞬間がついにやってくる。列車は銃器を施した櫓の脇をさらりと横切ると、急にジョイントのテンポが軽やかになり、確実に心地よい異次元へと導いてゆく。

 特段、音楽が流れるわけでなく、何かチャイムが鳴るわけでもない。景色的に特段何かが変わった訳でもなく延々森が続いているのだが、列車は突然あっけなく ヴァイニカラ(Vainikkala)という駅に停まる。

 おやおや、デザインや造りも先ほどまでとは雰囲気が違う駅だぞ。ここで、重く煤けたロシアの機関車が離れ、変わって白い高性能なフィンランド国鉄の機関車にとって代えられる。駅の時計は1時間遅い欧州中央時間を指し、私の腕時計がそれに合わせる瞬間、それは完全にロシアと離別した瞬間に気付いた。

 そう、ついに名実共にヨーロッパに着いたのだ。日本を出て約40日、最後の大陸横断の道が開く。

  シベリヤ 大横断 @〜E おわり

  そしてつづく・・・
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 106.サンクト・ペテルブルク・フィンランド駅 ヘルシンキ行き発車間際.jpg
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2011年05月24日

〜シベリヤ 大横断〜 D  サンクト・ ペテルブルク (U シベリア横断 〔後〕))

 シベリヤ 大横断〜 D

 B-6モスクワ-サンクトペテルブルク.jpg 
(モスクワ 〜 サンクト・ ペテルブルク / 工程図5)

  5. サンクト・ ペテルブルク

 その姿はどこか逃避行のような悲惨めいたものだった。

 モスクワ・レニングラードスキー(Ленингра́дский)駅の薄暗い大ホールに立ち、列車からの赤い光線を帯びた揺らぐランプをぼんやりと眺めながら、クレムリンのあの屈辱を癒していた。

 さっさとこの町を出よう、と。

 そこでウンチクが始まる。

 この駅の名は、主な列車の行き先からとっているが、実は今となっては旧名。例によってソ連邦がなくなって以降、向こうの町は改名されて『サンクト・ペテルブルク』となっている。だが、当地の年配の方々にとってはまだ旧名のほうがしっくりとくらしく、そのリクエストにお応えしてからか、どうやら鉄道だけはソ連時代を闇雲に否定はしていないようだ。

 旧(ふるい)名を引きずるこの余韻はソ連時代も連想させる。駅名こそは今の St(サンクト)・ ペテルブルクのソ連時代の旧名だが、州名は今でもレニングラードなので正確には古い名でも間違いではない。因みに、ここから北方のムルマンスク方面の列車も発着する。

 さて、ここから伸びる鉄道は『十月鉄道』という。‘十月’とは、ロシア革命の第二ステージ、十月革命から名づけられ、もともとは、9年の歳月をかけて1851年に開業したモスクワ・St・ ペテルブルク鉄道だった。ソビエト時代になると何でもかんでも革命色に染めてしまい、鉄道の駅や会社名までも変えてしまった。

 しかし、ソ連邦なき今、せわしく通うこの駅の人々にとって正式な駅名などどうでもよく、今となってはこの名の響きも化石のようなもの。

 少し話が脱線してしまうが、シベリヤ方面の駅がなぜウラジヲストーク駅ではなく『ヤロスラヴリ』であるのか、突き詰めていくとわけがわからなくなる。要は、開業当時の名をそのまま使用している場合が多く、あの駅はモスクワ東方、ヤロスラヴリ行きが発車する駅としてスタートしたからだ。後になってシベリヤ急行が入るようになり、スケールが大きいシベリヤ鉄道がいつまでもおまけ扱いにされ、今でもシベリヤ側が間借りしているような印象も受ける。

 そんなことはともかく、旅を続けよう。

 改札を抜けると3つの行き止まり式ホームが並び、目指すSt・ ペテルブルク行き052列車を1番線で見つけては、長いホームを歩きだす。クレムリンショックで疲れているが、クヨクヨしていても仕方が無い。ここからは精神力を絶やさずに前に進まねばならない。

 モスクワ〜 St・ ペテルブルク間は1日15本以上も運転されているが、不思議な事に当時、昼間の列車は3、4本程度しかなく、あとは全部夜行列車というダイヤ。夜8時を過ぎると、10分から40分間隔程度で夜行列車がここから抜け出して行き、ここが夜のターミナルである事を感じさせる。

 今夜の寝台は2等寝台11号車。車止めから歩いて11輌目だ。車内に入ると、小粒の電球群が慎ましく車内を包み、ベッドにはすでに毛布が配られており、これはいつ寝てもOK、という事を告げているのであろう。時計を見れば午後10時を回ろうとしており、意外とこの汽車旅は短いものだと察知する。

 21:52、052列車は定刻通り発車し、やっと、という思いで悪都モスクワの夜韻が蹴られて後ろへさがってゆく。

 すぐさま、中年男性車掌が検札に現れてはあっけなく切符が回収されるとあとは寝るだけ。車掌が無言でデッキにあるストーブへ石炭の黒い石をくべる。その音が何とも心地よく、とろける様に聞き流しながらモスクワ時間は永遠に暮れてゆくのであった。

 モスクワ−St・ ペテルブルク間は650km‘しか’なく、ロシアにしては非常に短い汽車旅だ。そして、運賃・寝台料金合わせて317㍔(約1400円)と安く、まだまだロシアの国内鉄道は物価に優しかった。

 モスクワ-サンクトペテルブルク 切符.jpg
(モスクワ〜サンクト・ ペテルブルクの切符)

 この路線はロシアで一番最初に開業した歴史ある本格鉄道でもあり、本当かどうかは知らないが、当時の皇帝ニコライ一世が自分の別荘に行きたいが為に建設を断行し、定規で地図上に一直線に引いたものをそのまま敷設させたらしい。まるで甲武鉄道(中央線)だ。そんな直線鉄路を夜汽車は乱れも無く淡々と轍を弾ませてゆく。

 103.ネバ川 サンクト・ペテルブルク市内3(夕暮れ)(ネガ).jpg 


○ 翌朝午前5時半ごろ、軽快なる安らかな響きとイビキを載せた列車にまだ終着点への気配が漂わぬ頃、突然センスを疑うような、それはそれはもう、空怖ろしい、腹の底から唸る、ブタが締め付けられた悲鳴のような音楽が流れ出る。日本ならオルゴールとか流してくれそうだが、これがロシア式心地よい起こし方なのか。不快な目覚めのもう一つの理由は、モスクワを発車してわずか7時間しか経っていないこと。思えばたった650km、東京−姫路間程度の距離ではロシア旅は少なすぎる。

 朝六時ごろ、列車はまだ夜が明けきれないSt(サンクト)・ペテルブルク(Санкт-Петербург)市内に列車は入る。実は、シベリヤ鉄道の本当の終点はここと考えても良いかもしれない。何せ開業当時の1851年はここがロシア帝国の首都であった。そして、ここからモスクワまでの鉄道開業こそがロシアが東に向かって鉄路を歩ませた、まさに‘起点’でもあったからだ。

 遥か1万キロ先のウラジヲストークまで完全全線開業するまで53年を費やしたシベリヤ鉄道。そして私は今、北京より約8500km、青島より約9400km、大大陸の銀の道を一本で貫いた。

 列車はまもなく駅に到着する。その名も『モスクワ駅』。モスクワ行きが発車するからこんな名である。ややっこしい。

 古都St・ ペテルブルク、その町並みには人口約460万、ロシア第二の都市が宿り、かつて欧州の一帝国としての首都だったからでもあろう、その匂いは完全にヨーロッパそのものである。

 この町は、第一大戦後(1914 〜 24年) はペトログラード (Петроград)に、ソ連時代はレニングラードという名が付けられ、1991年に今の名に戻ったが、コロコロ変わる名称に嫌気したので、一般のロシア人の間ではピーテル(Питер)という愛称でもって呼ばれている。

 97.ネバ川 サンクト・ペテルブルク市内1(昼)(ネガ).jpg 
 (St・ ペテルブルク、ネヴァ河の昼)

 さて、あまりにも朝早く着いたので、眠りに不足を覚えている私は待合室にてその不足分を補うべく居眠りを試みるが、掃除機に追い払われては老婆に二つや三つほど罵られる。どうにもこうにも落ち着けないので、仕方なく駅を後にし、目指すユースホステルに向かってガイドブック片手に地下鉄に潜る。

 4路線ある地下鉄路線網にすべての国鉄駅が繋がっている訳ではないが、町の主要な所へは通じているようだ。しかし、基本的にはモスクワ同様、大深度地下鉄なので気軽に乗るにはやや腰が引ける深さである。

 モスクワと違う点と言えば、ここにはまだ旧式の切符販売方法、ジェトーン方式が残っている点だ。ジェトーンとは、使いまわしの地下鉄専用のコインの事で、地下鉄に乗る度に改札機に古びたこのコインをチャリン〜と入れる。おお!、これこそロシア〜という感じがする瞬間だ。

 さて、ガイドブック誌上の1号線と3号線とが逆に扱われていたおかげで散々迷いながらも何とかユースホステルに辿り着く。陽の明かりが差し始めた空の下で究極の静けさが漂っている中、早朝の宿の門で申し訳なさそうにベルを鳴らす。すると、待ち構えていたように宿主が顔を出し、私を快く迎えてくれるではないか。地獄の中の仏とはまさにこのことだ。

 そしてうれしい事に、久しぶりに日本人とも出会い、胸に溜まっていたモスクワでの過去を思う存分話をする機会が巡ってくる。同胞がいるという瞬間がこれほどまでにありがたいと思ったことはなく、異国での孤独から瞬間的に解放される。

 人は辛いことがあった時、他人に喋ることによって精神的にラクになるタイプと、静かに自分の胸の内に永遠にしまっておくタイプとで別れる。私は前者だが、こうしたタイプこそもしかして旅に適しているのかもしれない。

 ところで、この町で滞留している旅行者は、これまでアジアやモスクワにいた人種と少しタイプが違う。どこか日程がきつめだったり、観光ポイントを効率よく周ろうとしたり、そして時刻表を丹念に調べ、その彼らの行き先はヨーロッパ諸国ばかりである。つまり、私はついにヨーロッパ文化圏に入ったのだ。

 ここまで来ればヨーロッパ、西側諸国は屁の如く簡単にアプローチでき、そこは地獄のロシアに比べて安全地帯のような空間に見えるのだが、事態はそう簡単には転ばない。

 そこへ辿り着くルートはまだ関門が残っている。まず、どのルートを通ってヨーロッパに行くのかだ。

 考えられるのは、昔からの通常路、ベラルーシ、ポーランド経由ドイツ入り。そしてエストニア経由ポーランド・ドイツ入り。もう一つは、直接フィンランドに脱出する作戦がある。フィンランドはもう眼と鼻の先。

 どれも一長一短。ベラルーシ経由だと別にまたベラルーシビザを取らねばならない。そういえば、ベラルーシビザが無くてもロシアビザだけでOK、という噂を聞いた事もあるが、確認もしないで列車に乗って、後で国境で追い返されて、おまけにロシアビザが切れたら大変な事になる。

 バルト三国は、ビザこそ要らないが、現地に入ってからの情報が少なすぎる。フィンランド経由だと驚愕の物価高に直面する。スパッと正面斬ってポーランドへ突っ走りたいが、ソ連時代以降、ビザが必要となる余計な国々が出来たおかげで何かと旅がしにくくなったものだ。

 決めかねている中、そんな関係国へ出発する列車の情報を仕入れるべく、市内のターミナル駅、ヴィテプスキー(Ви́тебский)駅に向かう。

 20世紀始めに建築された豪勢な駅舎の中を切符売り場、待合室、そして改札口と列車の情報を捜し求めて駆け巡るが、一向にこの駅からベルリン、ワルシャワ、そしてバルト三国方面行きが発車している気配が感じられない。なぜならば、そこは単なるSt. ペテルブルク郊外電車の発着駅だからであるからだ。

 
 結局、情報は得られなかった。何か行く先の選択を誤るような感を抱く私の足先に冷たい小雨が滴る。雨の‘サンクト’は頑なに雫を落とし続け、その跳ね返りの一滴がまぶたに当たっても私は微動だにしない。

 ネヴァ川沿いを考え事をしながらサラサラ歩を刻んでいると、古美術の箱のような中世の建物が、静かに流れる小さな運河を挟むようにして佇んでる風景と出会う。さすがに北のヴェネチアと呼ばれるわけだ。

 101.サンクト・ペテルブルク旧市街運河にて1(ネガ).jpg
 (北のベニスと呼ばれて納得できる)

 この都市は、土着で築かれたモスクワと違って計画的に造営された。300年程度の歴史しかないが、町の名は何度も散々塗り替えられ、革命と戦争のページを行き来した。ナチス・ドイツ軍による第二次大戦のレニングラード包囲戦争に代表されるように、典型的なヨーロッパの町の破壊がここでもあった。

 そんなSt. ペテルブルクは歴史的にも文化的にも欧風の香りが漂い、なぜならば、デンマークから流れているバルト海がさらに西へ奥まってフィンランド湾へと裂けたその果てにこの街が控えているからだ。その地理のおかげで、ロシアにとってもそして私にとってもヨーロッパへの玄関口となり、そして始まりでもあった。
 
 雨の滴りが次第に殴り雨と化し、慌てて古ぼけた路面電車の車輌に飛び乗ると、すかさず車掌が運賃徴収に重い体をエンサと動かしてくる。一回3.5㍔(約15円)、電車はこの繊細な路地の目を這いでは美しい都の細部へ導いてゆく。大通りから外れて、

「何でわざわざこんな路地へ」

というノリでレールの導く先はワンダーランド。ルートの選定はなかなか趣味が良く、ベランダの花から滴る水さえも汲めるほど庶民的だ。電車はクネクネと曲がっては急停車して豪快に乗客たちを吐き出してゆく。そんな繰り返しが延々と続く。

 99.サンクト・ペテルブルクトラム(ネガ).jpg 
 (サンクトのおんぼろトラムの車内)

 運河越えの短い橋を渡るトラムの姿は町の風景に滲み、水面にくっきりと映し出される。

 100.サンクト・ペテルブルク市内運河(ネガ).jpg
 (運河で遊ぶこどもたち)

 やがて終点が近づくと、そこは欧州の海、バルト海。潮の方を眺めると、ドイツの旗を靡かせた客船がどんより浮かんでいて、この海がドイツと繋がっている実感を始めて受け止める。

 すると、雲の切れ端から陽がこぼれ、薄汚い虹がささやかな演出を波止場を盛り上げ、美術館のような豪華な現役のヨーロッパ調政府庁舎が虹橋の下で映える。運河の向こうには、スライムみたいなロシア寺院が陽日を浴びて燦燦と輝き始め、私のロシアの悪い思い出を少しばかり洗い流してくれるのであった。

 Eへつづく・・・

    102.サンクト・ペテルブルク旧市街運河にて2(ネガ).jpg
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2011年05月23日

〜シベリヤ 大横断〜 C 屈辱のモスクワ (U シベリア横断 〔後〕)

 〜シベリヤ 大横断〜 C  
 
 B-6モスクワ広域.jpg
 (モスクワの位置)
 
 B-5エカテリンブルク-モスクワ.jpg
 (工程図4.)
 
 83.モスクワ・ヤロスラヴリ駅舎.jpg
 (ヤロスラフスキー駅舎)

 C 屈辱のモスクワ(Москва)

 情はあるが趣きはちっとも感じないヤロスラフスキー駅の人垣の隙間をかき分け、やっとの事で大通りに出るとそこは交通量激しいミャスニーツカヤ通りが横切っている。とりあえず、適当に目の前にいる14番トロリーバスに飛び込むと、車内の混雑とその窮屈に圧倒され、人々のテンポについていくのが精一杯といったところ。さすがは北京以来の大都市だ。

 トロリーバスがいかつい電子音で架線下の車道をズンズン進むと、早速交差点のド真ん中で停止してしまう。あれま、パンタグラフ(集電装置)が見事に架線から外れ、運転手がしぶしぶ降りて行っては鉄棒を操って「よいこらしょ」と、‘ど根性技で集電ポールを架線に戻す。これがモスクワの日常のようだ。

 鉄道基地界隈の雑居住居に安宿はひっそりと隠れていた。そこで運よくベッドの空きを見つけて、4日ぶりに揺れていない寝床にホウホウとありつく。あちこちに染みが湧いている共同部屋には二層ベッドが連なっていて、そんな簡易な宿泊も一泊18米ドル(約2200円)前後もするのだから、確実に西への物価は高くなってきている。そんな怪都市モスクワに数泊する。

 まずやる事は、数日先の次の鉄道切符を買いに行く事。何とか辞書片手にキリル文字を連呼、英語は一切なく、ロシアの旅では、最低地名くらいキリル文字で読めないと厳しい。

 切符は発車する駅で買う。やって来た所はモスクワ市内にあるサンクト(ST)・ペテルブルク駅で、先ほどのシベリヤ方面向け ヤロスラヴリ駅の隣に構えている。駅名がおかしい、と思うかもしれないが、あくまでもモスクワ市内にある駅である。
 
 駅前は、やる気のない浮浪者たちで溢れ、陽が沈みきろうとしている豪層ビルの影の下でひざまつき、いきなり市場経済という、残酷な西側世界に放り出され負けた人たち。痛々しい。

 駅に一歩入れば、絢爛で芸術的な造りに囲まれた構内に圧倒され、この異様さはいったい何なのであろうか、まるで美術館だ。そんなゴージャスな切符売り場はすぐに見つかり、長い行列を耐え忍んでは、窓口のババァと格闘すること約1時間、運賃・寝台料金合わせて650km、317㍔(約1400円)でという安さで手に入れた。

     81.モスクワ・ヤロスラヴリ駅風景3.jpg


 翌朝、久しぶりに気持ちのよい夜を越した私はいたって機嫌がよかった。そんな笑顔には幸運も舞い込んでくるというものだが、同部屋の男たちの表情が冴えない。

 一人はスペイン人のアレックス。23歳の学生で、彼の表情はまるで冴えがない。もう一人は韓国人のデートン。30歳前後の大柄な男で、彼の仕事は薬剤師らしく、表情はすっきり冴えている。なぜアレックスが冴えないのか。それは後で触れる。

 さあ、モスクワ観光の時間だ。アレックスは、どこで見つけたのか、オランダ人の姉妹を連れてくる。妹がアンネ、姉がアンという似たような名の姉妹は、妹のほうが一層可愛く、勇気を出して妹のほうにモスクワ観光を誘うと、彼女は微笑み返しながら、『姉も一緒』という条件付きで承諾する。

 下心揺れ動くモスクワデビュー。歩く事が大好きな欧州人が目指すところは、30分も歩いて辿り着いた、隠れるように佇む、とある入り口のドア。なんだろう?

 地底への入り口だと半分信じてそれを開ければ、そこは出口と入口に別れていて、目の前の窓口で5㍔(約20円)の磁気カード切符を買い、‘半’自動改札機を砕くように抜けると、軋むロングエスカレーターが遥か地底深くぶち抜いている。そう、これは地下鉄駅なのだ。さすがは核シェルターついでに造っただけの事はある。

 気軽に乗る気が起こらないこの地下鉄の構造。それでも負けずにやっとホームに辿り着くと、決して笑顔を見せないレーニン様の不気味な顔が薄暗い壁から出迎えていて、闇の向こうからギロチン台の悲鳴のような汽笛と足音を奏でた古ぼけ電車が猛突進して、『ガーキーキーキ〜』と急停止する。

 すべてが恐怖であった。

 ドアが『ドバン!』と開くと、鉄砲のように人が‘ボカッ’と飛び出し、今度は‘ドズッ’と中に押し込められては、すぐさまドアが食いちぎるかのように『バン!』と閉まり、あとは『ズヲォー』と急発進して闇に溶け込む。

 すると今度は、孤児と思われる子どもの一群が現れては、不幸話を淡々と演説し歩きながら同情金をせびり回る。さらに、悲壮な口調で何かを歌う少女、政治演説を叫ぶように始めるオッサン・・・。展開する出来事すべてが、この極東のおのぼりにとっては衝撃的だ。

 さて、オランダ娘たちと軽やかなモスクワ観光だが、私に一切の主導権など無く、お構いなく動く狩猟民族には逆らえないもの悲しさだけが大きくなってくる。

 連れまわされるところは、トルストイの住居跡やロシア正教の教会など、あまり興味が湧かない場所ばかり。私にとって『知らない都市を探検する』 とは、どこ行きでもいいから列車に乗ること、百歩譲って、橋の上から列車を眺めることを意味する。

 84.モスクワ市内 ロシア正教教会.jpg
 (市内のロシア正教の教会)

 そんな私の心境など考えるはずもなくオランダ娘たちはよく歩き、よく食べる。交通量の多い広いモスクワの幹線道路を車列の合間を見計らって横断する術を強引に磨かされ、町中でピロシキ屋を見つけては、蜂蜜をどっぷりつけたピロシキをペロリと平らげ、さらに次はアイスだ、何だ、とスズメバチの如く甘食に立ち向かってゆく姿を傍観するしかない。

 挙句に、地下鉄何駅か分、モスクワ川のほとりを散々歩かされ、限界が見えたところでかつての社会主義の殿堂、ザ・クレムリンが見えてくる。

 『クレムリン』

 ようやく興味の湧く観光地だ。

 85.モスクワ川越し・クレムリン遠景1.jpg
 (モスクワ川岸のクレムリン)

 それは泣く子も黙る、かつてのソ連共産党の牙城、巣窟のこと。その時代、西側から恐怖と怨念の眼差しを向けられていたこの熊城も、今ではロシア共和国大統領府とでも呼ばれている。それでも永田町などに比べれば実にスケールが大きく威圧感バッチリで、さすがにかつて世界を二分していた片方の府である。

 ロシアの最頂点の城であるクレムリンは三角形の敷地をしていて、一辺はモスクワ川に面し、他の二辺の正面にはロシア最高の繁華街と官庁街がひしめき、今でも現役の政治の府であるが、観光名所でもある。

 繁華街では、ドルや欧州通貨をかき集める両替所がぎっしりと立ち並び、一番の目抜き街、アルバート通りは、資本主義の生唾に侵されている若者たちで賑わっており、表向き、まったく社会主義時代の名残は見られない。

 クレムリン前広場に立つと、聳える赤壁がピシッと目の前を塞ぎ、その手前のカフェでようやくオランダ娘のケツが落ち着き、今度は数時間もここでのんびりする始末。このカフェでオランダ娘たちのモスクワ観光は終わりのようで、はクレムリンには次回改めて入ることにする。

    88.モスクワ市内新婚風景.jpg

 
 翌朝、同部屋のアレックスは今日も冴えない。

 「僕ね、このままじゃ殺されるよ!」

はぁ〜?

 「ひどいよ、部屋を変えてくれよ。あいつの鼾(いびき)で毎夜地獄だよ」

 イビキ。それは韓国人デートンを震源とする凄まじい地叫びに対する悲鳴だ。アレックスは、デートンの寝顔を憎たらしそうに眺めながらも、自分の力ではもはや何も出来ないことを悟っており、ただただ力ない笑いをさらすしかない。

 因みに、私はちっとも気にならずにぐっすり眠れた。確かにすさまじいいびきだ。だがシベリヤ鉄道での夜を連夜跨いだおかげでずいぶん図太くなった。

 さて、クレムリンが中を改めて見学する。

 90.クレムリン入城.jpg
 (クレムリンへ)

 クレムリンは、現役の政治の府であると共にロシア建築の寺院や宮殿が城内に凝縮され、ロシア文化最高傑作の展覧会会場。その内部を訪れる事は、ロシア文化に魅了されている人にとっては生唾ものらしい。因みに私は電車以外ちっとも解らない。

 入場料を払って内部に入れば、政治施設を感じさせずに普通の観光客が素通りする趣がそこには広がり、その傍らで観光ガイドを盗み聞きすれば、私の鼻先の向こうに佇むあの宮殿に、プーチン大統領(当時)様が執務している事を知る。旗が靡いている事を知らせてくれれば、今、ロシア大統領閣下がいるのである。そんな身震いにようやく私は出会えた。

 だが、今回の何よりの収穫は、宮内の骨董品屋で掘り出したソ連時代の鉄道切手だ。一見膨大な無駄にさえ見えるこの細かいデザインも、画された最高水準の技術に裏打ちされた社会主義の余韻。手に取る人だけが感じる価値。

 『228㍔(約1000円)』という偶数値でこの鉄道切手が私の手に渡った瞬間、私の中でそれははるか数倍の価値となった。表面上の時価は大変低く見積もられた旧時代の芸術的傑作は、いつの日にか認められるはずである。

 切手36 ロシア 鉄道切手集.jpg
 (芸術的鉄道切手)

 そんな満足気を保ちながらクレムリンから出たその時、偶然にも同宿のデートンと出会ってしまい、孤独な都会に仲間が出来たかのように楽しい舌が回り、周りの状況が見えないほど足取りが宙に浮く。

 その時である。私たちがクレムリンの正面門に差し掛かると、二人の警官が右横から悪意ある足を忍ばせ立ちはだかり、小柄な私を見下ろしながら毒がついたかのような黒いニヤつき顔を浮かべる。

 「ヘイ、おまえらパスポートを見せろ」

 始まった、ロシア名物 街角パスポートチェック。‘またか’という面持ちで渋々応じる。警官たちは、デートンのパスポートを吟味しだし、数分の後にあっけなく開放される。

 今度は私のパスポートをニヤつきながら詮索すると、『やった!』というような眼光を放ち、悪笑を浮かべながら言い出す。

 「おまえは英語が話せるか?」

 警官たちはすぐさま英語が出来る同僚を無線で呼びつけ、

「おまえのレジストレーション(外国人登録)はイルクーツクのであって、モスクワのものではない。よってお前は密入国者だから逮捕する」

 晴天の下で落雷が落ちたかのような衝撃を受け、警官たちの言っている事がまったく冗談にしか聞こえない。

 「イルクーツクの旅行会社は、ロシア入国後一回登録すればいい、と言っていた。モスクワの宿でも必要ないって言われた」

 と私が抵抗しても警官たちは噛んでいるガムを捨てる気配など見せず、事態を味わいながらさらに噛み砕いてゆく。

 「おまえにロシアの法律など分かるものか!俺たちが違法といえばおまえは犯罪者なんだ!」

 「では日本大使館に連絡させてくれ」

 「その必要は無い。出来るものならやってみろ」

 4人の警官は、私の腕を引っ張り、電話ボックスの箱に押し込めて脅迫めいた攻勢を仕掛ける。

 「いいかぁ〜。おまえは犯罪者だ。分かるな?」
 「はぁ〜??」

 私はこれから巻き起こる面倒な尻尾を踏んだようだ。

 「今ここで100ドル払えば許してやるが、これ以上手間をかかせるのであれば、ウチのボスのところへ連れて行ってブタ箱へ押し込めてやる。おまえの体は俺たち次第でどうにでもなるんだ。ブタ箱へ行けば、300でも400ドルでも罰金を払う事になるぞ」

 この事態のもつれの深刻さ、一挙にこの旅最大の危機が押し寄せてきた事を理解し、これまでの人生すべての経験を総動員して何とかこの難局を切り抜けようとする。

 「50ドルにまけてくれ」

と、罰金、いや賄賂をまけさせる作戦に出る。しかし事態は一向に改善せず、1時間以上も格闘する羽目になってしまい、傍らで恐ろしそうに見つめるデートンもあきらめ顔に変わってくる。

 しびれを切らした警官はついに護送車を手配し、一般車の姿をしたその車に私の腕を抱えて詰め込むその寸前、

 「わかった、わかった」


 今は法律に違反したのかどうかが問題ではない。マフィアに出会った不運を切り抜けなければいけないのだ。

 まずは50米ドル札を渡す。しかしそれでは足りない、と身体チェックが行われ、首かけ財布を奪われては、その場で全所持金を晒されてしまう。そこには韓国ウォンが何枚か入っており、早速彼らの興味を誘う。韓国ウォンはゼロが日本円より多い通貨だから、見た目で大金と感じてしまうからだ。

 このままだとすべてを奪われる、すべての理屈が通じない事を悟り、精神状態のバランスが壊れ、すべてを優先にしてこの場から逃れる事ばかりを探りはじめると、金銭とプライドを賭けた大勝負に出る。

 その瞬間、私のひざが大きく曲がり、目を瞬時に白くし、その場で豪快に倒れてみせる。その鮮やかな卒倒ぶりはバレリーナが気絶するかのように軽やかで且つ自然で、その華麗な気絶ぶりは芸術でもあった。

 これに驚いた警官たちはさすがに慌て始め、一人が急いでコップに入れた水を持ってくると、その水柱を強引に私の顔面めがけてぶちまける。

 私は必死で気を失い石となってみせ、一世一代の名演技をしたのだ。警官たちは焦りに走り、水を再び掛けては頬を怪しく引っ叩いては、

 「おい、このヤポニッカャ、目を覚ませ!カミカゼ、カミカゼ、ヒロシマ〜」

などと吹き始める。

いい頃合か、と意識が戻ったふりをすると、やつらは、

「おまえは露日戦争(Русско-японская война)で我が国を負かせた国の民だろ。カミカゼの民のクセにこんな事で倒れるはずはないだろ。しっかりしろ…」

 情けない名演技はこうして終わった。最終的に500㍔(約2100円)で許されて拘束にピリオドが打たれたが、二度と思い出したくない、二度もしたくない芝居だった。東洋人だけをターゲットにし、見下されたという事実は、日本民族の誇りを大いに傷つけられ、侮辱という焼け跡に悩まされているのであった。

 芝居でなく本当に倒れたかった。

Dにつづく

  91.ロシア正教会教会内.jpg
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2011年05月22日

〜シベリヤ 大横断〜 B/ (U シベリア横断 〔後〕)

〜シベリヤ 大横断〜 B/ (U シベリア横断 〔後〕)

 B-3シベリヤ鉄道 イルクーツク-スヴェルドロフスク(Свердловск) 線路あり.jpg
 (バイカル号 最終工程図3. 〜モスクワ)

   3.  モスクワ到着

 シベリヤはもうすでに終わり、このバイカル号は‘上京列車’として西部ロシアを疾駆している。日本でいえば、東北地方から出てきた夜行列車が栃木県南部を走っている、という感覚に近いかもしれないが、心なしか、沿線の町が出現する頻度が増えてきたようにみえる。

 13:07、モスクワ到着前の最後の停車駅ヴラジミール(Владимир)に停車する。いよいよモスクワの衛星都市突入といった感じで、東京近くの埼玉県に入ったようなもの。

 残り210km。ここまで迫ると、まるでヒトラーやナポレオンの軍隊のようにモスクワまでの到達念ばかりが先行するようになってくる。さあ、ここを出れば次はモスクワ。到着2時間前辺りまでくると、気が早い連中たちが車内にざわめきや慌しい埃を舞うようになり、車掌がフトンを回収し始め、乗客たちは荷物整理で忙しくなってくる。だが、思えばまだ2時間も先のことなのであるが。

 75.バイカル号車掌室の風景.jpg
(車掌も忙しくなってくる)

 70時間も列車に閉じ込められていれば、2時間なんぞ屁の如くあっという間な単位でしか感じられなくなるのであろうか。実は、時刻表の上では到着時間は悠に過ぎ去り、いわば長いロスタイムが始まっている。今まさに欧州の一大都市であるモスクワに到達しようとしているのだが、不思議とその到達感が分からない。本当にこのままモスクワにすんなり着いてよいものであろうか、なぜなのか不明だが、私に妙な寂しさから湧き出る閑散なる感傷が覆うのだ。

 「もう少しこのままでいたい。」

 窓の外はまだモスクワを告げておらず、森と畑とそして川が平行している。そして、所々に別荘が顔を覗かせる。ロシア名ダーチャ(дача)と呼ぶが、これらが本宅か別荘かはよく分からない。

 一方で、終焉が近づいてきたことをチラッと思わせる余韻も静かに伝えており、通過する小駅の間隔が短くなっている事、その駅もどっしりと構えた長距離型ではなく、対面ホームだけの軽い駅になってくる。気付けば、線路脇のキロポストは二ケタになっているではないか。すると、大都市で見かけるどこぞの電車と頻繁にすれ違うようになり、私はこの瞬間、大宮(埼玉県)のように、この辺あたりからモスクワの近郊・通勤電車ゾーンに突入した事を悟る。

 「本当にシベリヤの旅が終るのか」

 急に鳥肌が立ってくる。それは、ワクワク感とは正反対の、不安定な腹を決めねばならない天命の催促から湧き起こり、三夜に渡って根を下ろしてきたこのシベリヤの堕落した時流をそのまま引きずった生ぬるい車内がついに終わりを向かえ、変わってモスクワというとてつもないとがった激温の空間に放り投げだされる不安を覚えたからである。それは得体の知れない大都市モスクワが近づく恐怖、換言すれば、近未来への覚悟だ。

 だが、相変わらず山中を突っ切っている車窓にモスクワという文字の都市がまだ見えず、その首都圏の大きさの程度を見くびろうとするのだが、70km手前といってもその距離が東京−成田空港ぐらい、成田付近ののどかな風景を思えば納得できる。

 次第にその森の中から赤レンガ住宅群が湧き起こり、そして高層団地すら出現するようになってきて、近郊の緑園都市といった衛星都市が始まってくる。そんな都市畑を列車は刻んでいるが、大地の裂け目をはるばる5千キロに渡って這いできたバイカル号が可愛そうなくらい似合わないのだ。

 貨物列車とモスクワ近郊電車とのダイヤのすき間に入れ込まれたバイカル号はゆっくりと走らざる得なく、踏み切りで往生するドライバーののどかさはそこには無い。やはりここでの車社会の空間にバイカル号は単なる厄介者として介在するしかない。

 だがその一方、通過する駅々のホームでは大した荷物をぶら下げていない軽い乗客予備群たちがゆっくりと轍を刻むこのシベリヤからの使者を見つめ、古ぼけて煤けた深緑色の近郊電車の窓から若者たちが声をあげてはバイカル号にその存在をアピールするかの如く手を振る輩がいる。みな、駆けてきたシベリヤ特急に敬意を払うかのように。

 程なくして各方面から線路が集まって3複線となり、周りの風景からも完全に都会の匂いが伝わってきて、そこはもう正真正銘のモスクワの町が聳え、やはりデッキには競うかのように下車する体勢の乗客たちが屯している。

 あちこちから近郊電車が集まってきては併走しだし、抜かされるほど注意運転を強いられるバイカル号。いよいよ、線路たちが複雑に交わり交差をはじめ、石を割るような鈍足で前を進んでいると、17:34、バイカル号の前方に、予定より2時間16分遅れてモスクワ(Москва)のターミナル駅、ヤロスラフスキー〔ヤロスラヴリ〕(Ярославский)駅の低いホームが静かに伸びてくる。

 ヤロスラヴリとは、モスクワ東北東近郊の都市の名前であり、主な列車行き先の都市の名をかんむり駅名にしている風習はヨーロッパ大陸独特のものだ。隣の構内からは近郊電車が発着し、さらにその向こうにはST・ペテルブルク行きの列車が発着する別のターミナル駅が控え、それらをひっくるめて一種の広大な鉄道ゾーンとなっている。

 バイカル号は、それの東端に佇む4本の長距離用ホームの一番端っこに落ち着いた。

 79.モスクワ・ヤロスラヴリ駅風景1.jpg

 バイカル号から浮き足たった乗客たちが一斉にデッキから慎重に飛び出し、ホームはあっという間に歓喜と叫びで終着駅固有の雑然としたムードに包まれてゆく。

 77.シベリア鉄道バイカル号 モスクワ・ヤロスラヴリ到着1.jpg
(到着の歓喜は疲れをもしたがっていた)

 疲れたのは客だけではなく乗務員も同様で、およそ 5150kmを通して乗務した婦人車掌も、やはり達成感から来る笑顔が意外にも溢れており、そんな彼女は喜んで長い事一緒にいた私のリクエストに応じて記念写真に納まってくれる。

 76.モスクワ到着の車掌.jpg
(お世話になった婦人車掌)

 私にとって見れば、北京から約7800km、青島からだと約8700km、博多−東京−八戸間を2.5往復弱したことになる。その間、3等寝台の居心地も悪くはなく、泥棒にも事故にもめぐり合わず、代わる変わるロシアの旅友と瞳を交わした感触に大いなる満足感を覚え、81時間連れ添ったバイカル号の車体を重厚なる想いで撫でては、静かにこの記憶を後ろに置こうとしている。

 だが、それはお世辞にも似た作られた感慨かもしれない。行き止まりホームの車止めに遮られているバイカル特急の機関車へ私がファインダーを恐る恐る振り向いたその瞬間、激しい怒声が刺さる。このモスクワという解放地において、新たな不自由が巻き起ころうとしている。

 バイカル号での道中、それをお世辞と言ってしまったその意は、あのシベリヤの凍土に吸い込まれそうになった車内での記憶がシャバシャバと私の額に湧き起こってしまう、あの孤独感、あの疎外感、あの脱力感を混ぜた炭酸のような欝気が含まれており、それらが抜けるが如く今勢いよく飛び出し、もう二度と同じ轍道を辿るものか、と強固に決心する心境の方に私は傾けたくなってくる。

 あまりに長い空間であったバイカル号。この御免こうむりたくなる拘置所のような三夜を好き好んで馳せ参じる者など絶対にいるものか、と確信するのであったが、二度と乗らない、と誓ったその時、私はようやく清清しい解放を心の底から享受するのであった。

 ようやくシベリヤが過去のかなたへ後ずさりさせ、ヨーロッパでの初歩を両足で刻む。

 Cへつづく・・・

 78.シベリア鉄道バイカル号 モスクワ・ヤロスラヴリ到着2.jpg 
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2011年05月21日

〜シベリヤ 大横断〜 A シベリア横断 (後)

                  71.シベリア鉄道・バイカル号の食堂車厨房.jpg

  2. ヨーロッパ最初の即恋

 バイカル急行はアジア、シベリヤを後にし、今、ウラル山脈(山地)を淡々と越えている。

 B-4シベリヤ鉄道 イルクーツク-モスクワ 距離あり.jpg
 (バイカル号最終 シベリヤ横断工程図3. )

 たいした標高でもないのだが、極北寄りの山脈の木々は真っ赤や黄色に色付いては葉が散り始めており、日本でいう11月下旬あたりの光景がそこに流れている。線路脇のよれ曲がった古い電信線の柱が厳しいこの大地の経験を物語っていて、すぐにここも厳冬の訪れを見てはさらにこの柱の曲がり具合も一味、ふた味も角度を下げる事であろう。

 現地時間23:04、列車はペルミ(Пермъ)に着き、下車してゆく若い娘たちは優しい新欧州の闇に消えてゆく。この駅の停車時間はわずかで、列車が再び走り始めるとすぐにカマ川というロシア運河を渡る。それを終えようとするとまさにその時、ペルミの水運倉庫の背後の町の華灯りが川岸に浮いた宇宙船のようにキラキラ浮かび輝いていて、一方その夜空は孤光の華を巡覧するように燦燦と満月が町を抱くように輝き放っている。そんな瞬間の光景もまた、過去の車窓の扉の向こうに記憶の内に置き去りにされてゆく。


 第3夜を跨いだ私は、ついに、ついにモスクワとの時差がなくなっている。

 バイカル号のこの鉄箱は、夜中においてコテリニチ(Котельнич)駅からどうやら一時的にシベリヤ鉄道本線より別れたようで、正規のルートより南側を走っている。今年(2001年)からシベリヤ特急のダイヤはバイパス線であるこのルートとなっており、これまでの二等辺三角形の二辺をゆくように北側を遠回りする旧ダイヤは復活することなく過去の物語となってしまった。

 今ではシベリヤ特急の殆どが40km短い南側を走っているが、この辺まで来ると鉄道網が相当網の目のようになっているので、シベリヤ本線がその網に溶け込んでしまえばどれが正規でどこを走ろうが関係なく、今走った区間がシベリヤ鉄道になってしまう、というものだ。

 やがて、モスクワまでおよそ460km、列車はゴーリキー(Горький)まで到達してしまう。シベリヤ鉄道沿線の大都市はやはり大河川の畔が基本であるがここも例外ではなく、モスクワ、St・ペテルブルク、ノヴォシビルスクに次いでロシア第四位の規模を誇るこの都市の立ち位置も似ていて、ヴォルガ川とオカ川が合流する地点にある河川都市である。だが、川の流れは北極方面ではなく南方のカスピ海へと向かっているところが他のシベリヤ側沿線都市とは違う。

 そして、ここも鉄道駅名だけは旧ソ連時代の人の名を冠としていて、ソ連邦崩壊後の町の名は‘ニージュニイ・ノーヴゴロド(Нижний Новгород)と呼ばれている。旧名ゴーリキーとはマクシム・ゴーリキィー(Максим Горький)というロシア作家の名前からだが、やはり社会主義活動家である。

 ソ連という国家は何でもかんでもイデオロギーと結びつけ、町の名ですらそれまでのすべてを否定してその時の心地良い名称に変えてしまった。さらにそのソ連が消滅すると、これもまた元の名や別の名へ簡単に変えるその決定と実行に凄まじさすら感じ、これらは実にロシア的というべきなのであろうか。にもかかわらず、まだ鉄道駅はソ連時代のままで頑張っているし、そんなソ連の名残を今に魅せてくれている鉄道当局の気概が何ともありがたい。

 さて、ゴーリキー駅よりまた可愛らしい娘が一人私の前に現れるが、今までの娘とはいささか感じが異なる印象を与える。その何か奥深くに秘めた訳アリの佇みを静かに放っている彼女の瞳は妖精的で、手のひらにあごを乗せてじっと私を見つめ始める。キュートな瞬間を露にされる事に慣れていない私は白人コンプレックスも手伝ってたじろぎ慌て、脈がどうにも普通ではない状態に置かれてしまう。

  73.バイカル号の彼女1.jpg 

 彼女の瞳から流れる美しい視線を糸を摘む手で繰るように下へ辿れば、テーブルの上にあるカメラに吸い込まれてゆき、こんよりと薄暗い部屋での窓からのか弱い光を頼りとして、ファインダー越しに滲む彼女の影をカメラはつい黙って刻んでしまう。その瞬間の幻影ははるか将来の現像時まで蘇る事はなく、そんな瞬間を今でもって体現するため私は一時の即席の恋に落ちてゆき理性を補うのであった。

 「食堂車でも行かない?」

 とついに懇親の近づきを示す誘いを彼女にぶつけるが、その意を理解した彼女は少々照れくさく覚えているようで、しかし、よほど食堂車が嫌いなのか、私が嫌いなのか分からないが、あっさりと「ニエット(Нет)」と笑顔を魅了しながら断ってしまう。そんな彼女は疲れたのであろうか、一時的にベッドの寝具の束の一つに絡みあい、そしてしばしの休憩を宿す。感じるものがなくなった私には体が空腹を呼び起こさせ、7輌先の食堂車まで遠征する事を決意する。

 乗っているこのバイカル号は、イルクーツクからそのまま変わらずの客車15輌が引かれ、前から1号車は荷物車、2、3、4、5号車が3等寝台車、6、8、10〜15号車が2等寝台車。2等はドア付きの個室に2段×2段の4人用コンパートメントとなっている。3等の1輌のベッド数78人分に対して、2等は9部屋、36人分なので長距離を通しての切符は難しいかもしれないが、区間区間によってはがら空きの状態がある。

 実はシベリヤ鉄道が満員御礼となるのは一年のうちごくわずかな期間のようで、人々の‘切符入手困難’という既成概念を利用してそれを前提とした売り方のまずさ、社会主義時代から引き続いている乗務員の倦怠な職務に、市場経済に目覚めたロシア民衆のしらけた視線がそこにあり、このガラ隙ばかりのカラカラ状態に将来への一抹の不安が垣間見えてしまう。

 どの車輌にも車掌室とトイレと湯沸かし器があり、長時間乗車の舞台は生活空間として提供できる設備が優先されて整えられている。因みに7号車は豪華な1等寝台で、わずか9部屋、18人分しかないゆとりの2人用個室。そこには、洒落た花瓶に包まれながらお花がチョコンと添えられている。

 そんな列車内探検のまま辿り着くのは9号車の食堂車。ロシアの食堂車の評判は先ほどの娘の反応からも分かるようにすこぶる悪い。
 『まずい、サービスが悪い、品がない』の三拍子が揃った食堂車に客はやはりいない。

 だが、ここは気分の問題。常に駅食というものも味気がないし、そう思えば私のこの列車、いや、ロシア国鉄における初めての食堂車の味を体験する事に。

 最初に選ぶのは、ロシア式パンのピロシキと一杯の熱いコーヒー。

 『食堂車は高い』

という私の食堂車に対する基本的概念がやや邪魔をしてそんなものしか注文をしないのだが、ロシアにおいてそれはどうやら当てはまらないようだ。これらしめて 36㍔(約150円)と、思ったより安い勘定に目がテンとなる。
 
 68.シベリア鉄道・バイカル号の食堂車にて1.jpg

 69.シベリア鉄道・バイカル号の食堂車にて2.jpg
 (ガラガラの食堂車)

 注文の品は不味でもなく、そのコーヒーとピロシキ一つで見事満足を勝ち取った私の心は穏やかで、そんな心を持ち帰るように自分のベッドに戻ると、先ほどの娘が起き上がっては忠実に座っており、私を待っていたかのように瞳と瞳が瞬間折り重なり、そして気のせいかもしれないが、可愛らしいウィンクをしながら息を継ぎ、ほんの微動でもって窓の外へ瞳を向けてしまう。

 彼女はいったいどこまで行くのであろうか、私の考える方向すべてが彼女一つになってしまい、必死になってロシア辞書をめくっては二、三の簡単な単語を羅列して即使してみる。が、あまり役にはたたず、ただただ緊張感だけが漂う。無駄口をも交わすことが出来ない私の今の瞬間に悔しさがこみ上げ、終始近くに居ながら彼女は徐々に遠い存在になってゆく。そんな彼女もコヴロフ(Ковров)という駅で降りてゆき、永遠の存在になってしまう。

 窓の外は相変わらず針葉樹と農場が広がる景色が続いているが、思えばもうモスクワまで250km程度の地点までやって来たのである。やがて列車はノロノロ運転に陥ってゆき、緩急混ぜて走りを奏で始める。特にのろい時は、踏み切り待ちをしている車の長蛇にスカッと気持ちよさを覚え、列車を眺める向こう側トラクターの運転手たちの、タバコをくわえながらボンネットに下あごを付けて列車をぼんやり眺めている様に、一瞬のコミュニケーションが成立してしまう。

 ロシアの鉄道は貨物優先の思考である為に、時には旅客列車は隅に追いやられる傾向があると聞いている。広大すぎる国土に厳しい冬が国中を包むこの国において鉄道は陸上を網羅する唯一で重要な施設であり続け、当然ながら鉄道輸送量が世界第一位である。豊富な石炭や鉱物、そして石油を産出するロシアにおいて、その輸送手段も鉄道であり続け、一列車10,000トン、100輌も擁する貨物列車はそれを物語る。因みに日本の大動脈、東海道線をゆくコンテナ貨物列車は、最大1,300トンである。

 そんな貨物銀座街道に差し掛かった為か、列車はどんどん定刻より遅れてゆき、ざっと2時間の差が働いているようである。それでもモスクワは近づいているはずであるが、車窓からは首都に近づいている感は全く伝わってこない。しかし、バイカル特急にとって確かにラストスパートなのである。

 Bへつづく

 72.シベリア鉄道・バイカル号 3等寝台にて.jpg 
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2011年05月20日

第4章 〜シベリヤ 大横断〜 @ シベリア横断 (後)

                  74.バイカル号の彼女2.jpg

U シベリヤ横断(後編)

 第4章   シベリヤ 大横断

   68.シベリア鉄道・バイカル号の食堂車にて1.jpg

  B-2シベリヤ鉄道 イルクーノボシビルスク 線路一部あり.jpg 
  (シベリヤ横断工程図1. イルクーツク−ノヴォシビルスク 1850km)

  1. シベリヤ急行(ノヴォシビルスク 〜 ウラル山脈)

 B-3シベリヤ鉄道 イルクーツク-スヴェルドロフスク(Свердловск) 線路あり.jpg 
 (シベリヤ横断工程図2. ノヴォシビルスク 〜スヴェルドロフスク〔エカテリンブルク〕1525km)

 陽はまだ高く、決して夕暮れの日差しを醸していない。

 ただ、現地時間は18:51を差している。改めるが、ロシアにはもう一つの時の針があり、そのモスクワ時間は15:51を刺し示している。今まで極東側にいた時、二つの時は互いに遠かったのが、ここノヴォシビルスクまでやってくると現地時間とモスクワ時間との差が大きく縮まり、ついに3時間時差までに迫り、そして、北京より約4300`、モスクワまで約3300`、気付けば北京よりもモスクワのほうが近くなるまで走っていた。

 『バイカル号』はノヴォシビルスク(Новосибирск)駅構内を前に‘タ・タン、、トトン♪タ・タン、、’とドラムが息切れしたような音階のリズムでゆっくりと入線し、久々に大きい駅にして広い車輌基地が右手に流れ、やれやれ・・・といった足取りでホームに入ろうとする。何本かが横たわる低いホームのあちこちで、各方面の列車がゴロゴロと転がっている光景は圧巻で、あきらかにイルクーツクなどよりも比較にならない、北京を出て以来最大の大ターミナル駅を感じる。

 ここは、南方のカザフスタンへ向かうトルクシプ鉄道の分岐駅で、人口約150万弱、シベリヤ最大の都市にして20世紀に出来た比較的新しい都市だ。大都市には海か河川はつきもので、ここはオビ川河畔の都市であり、その川幅のスケールの大きさには圧倒させられるほどだ。都市の規模もやはり北京を出て以来の大都市ということになる。

 列車が静かに停止し、車掌がドアを手動で開けると、ドサッと多くの乗客が下車してゆき、大いなる賑わいが放たれる。
 島式ホームの隣の番線には、日本海沿岸都市 ウラジヲストーク行きの『ロシア号』が休憩しており、お互い長旅の真っ最中という出会いである。
  
 65.シベリア鉄道ノヴォシビルスク2.jpg
 (浦塩方面 東行きロシア号と対面)

 相手は、モスクワーウラジヲストーク間9290kmを6泊7日掛けてゆく世界最長距離旅客列車で、日本人にとっては始発駅の関係上、シベリヤ鉄道の中で最も有名な列車である。6泊も列車の旅をするなんぞ日本人から見れば非常識・想定外のはずだが、ロシア人にしてみれば、『列車旅は日を跨ぐもの』と普通に受け入れる耐性を持ち、冬の寒さ同様、彼らと日本人とはあまりにもすべてにおいて皮の分厚さが違う。彼らから観れば、狭い国土の新幹線速度競争など遠い意味で鼻で笑うかもしれない。

 国土から来る国民性の関係上、よい移動=極限までの速さの図式に慣れきった日本人にとって、このシベリヤの移動を『時間の無駄』と見るのか、『贅沢な時間』と見るのは様々だが、こんな時間の使い方を羨む事が出来るか、または生き地獄と思うのか、それはその人間の人生観に関わってくるもので、そんな事を深く考えてしまう私は日本人ならではなのかもしれない。

 近郊電車が行き交う都市の余韻を横目に、私のバイカル号はノヴォシビルスクを発車、再び西へきしみ始めてはゆっくりとオビ川に架かる橋に突入してゆく。1898年に橋が架かるまでここもシベリヤ鉄道を分断していた難所の一つであった。

 川は北に向けてはるか遠くの北極海へ流れていて、西方に輝く陽美が川面に鋭く反射しては粉々に散らばって、光の渦の下、大きな河港の傍らで控えている小船中船たちにそっと陽のかけらをまぶしている。

 中流域といってもその姿は大河の如く太く大きく、水量が満々と溢れている川面の真上を行く恐竜のような大架橋を、列車はソロリソロリと轍を踏んで歩む。

 その後列車は落ちる太陽を追うように西へ西へ突き進むが、貨物優先だからであろうか、よく運転停車したり、ノロリノロリとだましながら先方を走っている大列車の顔色を伺っている状態がいつまでも続くのだ。ノヴォシビルスクまで意外と時刻表通りに走っていたものがここにきて怪しくなってくる。

 しかしそんな遅れなど、全体に比べれば屁のような単位、と腹が出来あがっていれば第二夜の夕食を広げることなど実に悠々としたもの。悠々といってもそれらは韓国製カップラーメン『トシラグ』。その意味はまさに‘弁当’。涙が出てくる・・・。それと蒸したジャガイモを片手にすれば十分満足な食事、と言えば言葉に詰まるほど、私の食概念も低下したもの。だが、そうでもなければこの3等車で生き抜く術はついてこない。

 陽はなかなか粘りを見せて夜の訪れを邪魔し、没する陽の影が遅くなっている事象に私は確実に西へ向かっている手ごたえをかすかに、一方で強く覚え、こうした天体の微妙な変化が、地球の丸みさえも実感させてくれるのである。そして現れる第二夜に車内灯が灯る頃、イルクーツク時間では午後11時を迎えており、はるか東のシベリヤの時を過去として覆い隠しながら、ジョイントのきしみだけが過去と変わらない音を奏で、月明かりの残照が大地の雑音を無言で消してゆくのであった。

 66.シベリア鉄道・ノヴォシビルスクの西への夕陽.jpg


 バイカル号・シベリヤ第3日目がやってくる。

 私の中に宿るイルクーツク時間と走行現地時間、そしてモスクワ時間の狭間の中で私は身動きを興し、今が何時であろうかと考える気力も与えられずにただ本能的に窓に向かって首を曲げる。
 腕時計が示す真の時流は、昨晩最後に観て以来、確かに8時間を刻んでいるのだが、通過する小駅の置時計の針の位置はどうしても1時間足りず、こうして西へ駆ければ駆けるほどまるで時を貯金しているかのような、錯覚でも蜃気楼でもない営みの断層に誘われている。

 外の光はほのかに遅れた朝の模様を醸し出し、それはやや終盤の香さえ臭覚でもって反応する。空は怪訝な情を映し、小寒い涙を振り落してはレールに弾く水滴の華が窓一杯に散らばる瞬間、私は何とも言えぬ落ち着きさと憎らしい倦怠を保ちながら一人ベッドの上でまずい歯磨き粉(個)を歯ブラシに付ける。そこには轍の刻む音と口の中で一杯に広がる歯磨きを伝える尾音がわずかにマッチしている。

 思えば、シベリヤ鉄道に入って初めての雨の朝である。周りを見渡すと、寝ている間にどこか蝋燭の穂が消えるようにイルクーツクで家族と涙の別れをしたあの女の子の姿はなく、それに代わってマザコンタイプのバカ息子と子離れしない母親といった感の親子&その婆ちゃんという新しいメンツがそこに居る。

 だが、一人ロシア語が話せない東洋人として蚊帳の外である事は変わりはなく、さすがの私もシベリヤの鉄の道に飽きという怠惰と望郷の念という郷愁に襲われてくる。日本を出て早1ヶ月強、睡眠時の夢に出てくるものは飼い猫、うどん、ラーメンなど日本の事ばかりで、私は完全なホームシック状態になっているのであった。

 歯磨きの後の唾を出しに洗面所に向かうと、蛇口の調子が悪いのか、タンクに水がないのか定かではないが、とにかく、水量が弱弱しくて顔も洗えず、さらに運動不足も手伝って乾いたストレスが巻き起こってくる。今の私はただただモスクワ到着だけを夢見ているようだ。

 車窓は相変わらず森と牧草地帯の回転ショーが続く。だが一方、異なる風景、雰囲気といえば、すれ違う列車の本数が一段と多くなってきた事である。その多くは貨物列車であるが、モスクワに物資が集まることから当然の事。列車内の時刻表を見れば、モスクワまであと2000kmのところまでこぎつけているようで、その2千キロという数字がちっぽけな単位でもって迎えられている事実こそ成長の証、それが今ここにある。こんなに気が遠くなるような領土を持っているならば、北方領土くらい返してくれてもいいものだが、と私は一人呟いたところで聞いてくれる者はこの国に誰もいない。

 今日は思いのほか肌寒く、昼間でも脚が冷え冷えする程、9月のロシアは初冬に陥るのかさえも思えるようになる。やはり9月のうちにロシアを突っ走り逃げる事こそ最善の道だ、と私はそう謳い、自身のシベリヤ横断のスケジュールに軽く酔う瞬間を見せては望郷の念を打ち消すのであった。

 しばらく走り続けていた列車はまもなくどこぞの駅に到着しようとしている。駅が近づくなり、駅構内での糞尿垂れ流し防止のため、車掌によって便所の鍵が閉められると、その時、中で用をたしていたおっちゃんが重機のようなうなり声をあげてドア向こうからバンバン戸をぶち叩く様はまさにロシア的大雑把さを感じる。このようにトイレは常に大陸の車掌によって清潔に保たれていて、こうした感性を大事にした仕事はやはり女性が向いているからであろうか、車掌に女性が多いのも頷ける。
 さらに、乗客の切符と下車駅管理、寝具整理とそのレンタル代回収、暖房や湯沸かし器の調節など、まあ、シベリヤの車掌はどちらかというとハウスキーパーのような役割が強いのだが。

 こうした長い真空の箱のようなシベリヤの昼夜を跨いだ男女共有の職場は暗に恋愛の道場と化す。

「ねえ、次の街は何を想うの、ダーリン」

「そうだね、君の心の谷間さ」

と、デッキで激しく肉体の抱擁を交わす列車クルーの男女の垣根は優に取り払われ、それが女車掌と機関士と知るのにそれほど時間がかからない。肌の刺繍を飾り立てて熱を鼓舞し、車輌端の人目の死角でもって、深くて浅い恋に陥る経緯はシベリヤでなくとも通じる運命かとうなづく一方、日本であれば乗務員同士の現場での情事が罪のように惑わされる事を思い出せば、彼らがロシア人であった事に数段の幸福を感じる事なしにいられない。

 そんな事を考えていると、現地時間15:43、列車はどこぞの駅、つまりはそこがスヴェルドロフスク(Свердловск)に到着している事に気付くに少してこずってしまう。ここは人口約130万人、今では都市名・エカテリンブルク(Екатеринбург)と呼ばれているが、列車の駅と州の名前はソ連時代の名前が今なお使われている。スヴェルドロフスクとは、旧ソ連時代の他の町のネーミング同様、革命関係の人の名である。

 因みに、エカテリンブルクという名は昔のロシア帝国女王の名。知っている人が聞けば一発で分かるのだが、この町はその女王の子孫、ロマノフ王朝一家が最後の時を迎えた町なのだ。一家が革命軍に殺されて革命側の名が付けられ、今度はこうして殺された側の名を取るのだから、ロシアとは負けた側にどこまでも残酷なものである。

 雨が滴る駅構内は待ち人にとってこの上なく冷たく、構内に屯している貨車や客車の台車下に潜って雨宿りしている光景が展開し、それでもなおも西から流れてくる雨雲に途切れは見当たらない。

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 (冷たい雨の下の機関車交代:スヴェルドロフスク)

 ところで、モスクワまで残り1810km、ついに大阪から北海道の遠軽までの距離ほどになってきた。つまりはもうここはシベリヤが終わりに近づいているという事だ。それを物語るように、欧州の入り口を示す山脈、ウラル山脈が目前に遮っていて、この駅で機関車を取替えてはこれから挑むウラル山脈に列車は備える。

 現地時間 16:00、列車は新しい走りを始め、再び森の中に迷い込み、時々沼地を現しては蚊の大群の舞が車窓に踊って見せている。景色がやや新展開を見せたところで、三等車の乗客の方もスヴェルドロフスクから大分入れ替わったよう。そしてまた、別の可愛らしいロシア娘2人が座っている。2人は想像通りの活発な若い友達同士のようで、私に何の関心も寄せることなくただただ、くっ喋っているだけ。私の車窓眺めに何の影響も与えはしないように見える。

 列車はウラル越えに差し掛かる。これより西側はヨーロッパ、東側はアジアと人が勝手に決めているらしく、それは地理的にというよりも文化的にそういう事になっている。私にとって、その文化の匂いはウランバートルからすでに欧州を感じているのでどうも胡散臭さが滲み出ている境界線なのだが、同じユーラシア大陸同士、亜州と欧州の明確な境界というものがどうしてもロシアにとって必要なもので、ウラルはそんな適当な障害物というわけだ。

 だが、大それた意を含んだその山脈ではたいそうな峠越えとはならない。山脈と聞いて、刃が鋭い、高山めいた壁を思い浮かぶのだが、そうした若々しい新紀のものは違い、ここはヨボヨボの爺さんの如く現存する最古の山脈というのだから、その山脈感も弱弱しい。

 列車は標高500mほどの山道を限界にソロリソロリと山中を辿り、やがてヨーロッパ到達を知らせる塔の直線で最徐行を奏でる。私はじっくり左側の窓の向こうを見入るが、わずかに草むらに混ざって伸びる石碑を確認すると、アジアは過ぎゆくように後ろへ流れてゆく。どうやら私は地理的にあっけなくヨーロッパに入った。

 Aへつづく・・・

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2011年05月19日

〜シベリヤの水滴 〜 E /シベリア横断 (前)

  6. さらば極東

 極東という地をいよいよ脱する時が来た、と認識してもいいだろう。

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  B-2シベリヤ鉄道 イルクーノボシビルスク 線路一部あり.jpg
  (シベリア横断工程図 1)

 どこからどこまでが極東でありシベリヤであるかは定かではないが、少なくともヨーロッパから見る極限の東から陽が昇るように急速に西へ駆けていることは確かだ。ここからシベリヤ横断後半部、旅の最長区間を爆走するバトンを担当するのはシベリヤ鉄道急行列車、バイカル号。一列車でイルクーツク−モスクワ間の距離は5,150km、時間にして約4日間世話になる。

 今宵の宿はもちろん寝台列車。シベリヤ鉄道なので近郊電車を除けば夜を跨ぐのは当たり前で、寝台も当たり前。金のない私が選択したのは当然、最安最下等の3等寝台2段目ベッド。しめて1730㍔(約7400円)なり〜ぃ。このお値段は距離にしてみれば格段の安さで、1kmあたり1.5円という計算が成り立ってしまう。この列車には他にも1等寝台3800㍔(約17000円)、2等寝台2400㍔(約11000円)とそれでも安く感じるのだが、私のドケチ根性はここでも発揮される。
  
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(イルクーツク〜モスクワ間 5150km 切符)

 安い買い物をしてなお且つそれがいいものだったら自然とご機嫌になる、という論理を適用すれば、最高の大陸横断ということになり、じゅうじゅう満足気で西へ刻んでいる線路の枕木を心地よく目で受け流す。
 ただ、興奮と満足の夏は早くも『飽き』が忍び寄り、次第に空間はレールのきしむ音しか漂わなくなり、疲労を従えた倦怠が全身を覆い始める。

 何かときめくものはなか、と辺りを見渡すと、あった、あった、目の前に。気がつくと対面には可愛らしい少女がちょこんと座っては何かの想いに陥っている。

 この少女は、イルクーツクの駅で家族と涙の別れを従えたばかりで、田舎から華やかな大都市へ上京する少女への期待を両親が渾身を込めて送り出したばかりなので、まさに今時の悲しみに没頭している。私はその少女に話しかけようとするが、無論ロシア語しか分からない少女とロシア語が分からない私とでは単純な肉体同盟を結ぶ以外に接点は見出せない。言葉の壁はより高く、さらに少女の前に繊細な感傷が邪魔をして言葉の壁以上のはるかな感傷の溝が深く沈み、そして立ちはだかっている。今日はどうやら無言で一日が終るようだ。

 車窓には農場とスカスカの針葉樹森林が交互に映され、線路脇のキロポストが5千キロ台を示している他は改めて見入るものはなく、これから80時間はこんな風景、いや、このすばらしきタイガの眺めばかりを満喫できる、と確信させられる私に果たしてモスクワまでの忍耐が宿るのであろうか。延々と住宅地が続くよりマシと何とか自身を納得させながら、世界地図をテーブルに広げて眺める。
  
 退屈な空間は私だけではなくこの車内にいる長距離旅行者たちすべて同様の時流感覚のはずであるが、誰も車窓の事など気にはしていない。実は彼らにとって列車の中の流れこそが貴重で楽しい時間であり、中を観れば、家族連れ、色恋グループ、おっちゃんたちの連帯、年寄連中とシベリヤの民たちの笑いが通路に流れている他は外国人の香りは一切なく、あえて3等車を選んだ余韻を味わっている私が寂しさで妙にむなしく思えてくる。対面の少女とは一向に話すら出来ない状況が続く中、私の口は次第に小さくなってゆくのであった。

 そんな庶民派3等車にも途中の駅から金持ちそうな家族が乗り込んでは周りを取り囲む。オヤジがビデヲカメラを片手に、その息子が手の平で操る食事姿を映しており、ロシアの一般庶民が動画を撮って楽しんでいる風景を目撃し違和感を覚える。

 太陽をひたすら追っていても追いつかずに次第に夕陽の時間に差し掛かってくる頃、軽く考えていた食料の事をそろそろ深刻に考え、空腹の恐怖がやはり覆い始める。列車内には給湯器があるのだが、毎食毎食韓国製カップラーメンばかりでは腹の悲鳴が聞こえてきそう。そう思った私は次の停車駅でこそ食料を手に入れよう、と力む。

 列車はジマ(Зима)という駅に停止する。

 ジマは人口約3万強、ロシア語で‘冬’という意らしいが、なるほど、9月初旬なのにもう木枯らしが吹いており、もっともらしい余韻のする名である。ここで直流から交流へと電化方式が変わるため機関車が交換される。

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 (日本の機関車とは桁違いの馬力を持つシベリヤのツワモノ)

 その間20分の停車のうちに迷わず駅舎の方へ買出しに向かうが、しかし、タバコや酒は充実しているがめぼしい食べ物はないキヨスクばかりで、食べ物スタンドを探しているだけでその20分が経ってしまう。

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 (20分の停車時間は短い)

 仕方ない、とドタバタで水と粉スープを買い込んで列車に戻れば、車掌が待ち構えたようにすかさず重厚な扉を手動で閉めてコックする。ゆったりしたようで実は忙しいシベリヤの旅のようである。

 再び西へ走り出した車内で一人、カップラーメンの湯気を挙げる。買ってきた飲料水は実にまずい炭酸水で、カップラーメンの晩餐と共に一層ひもじく思えてくるのであった。

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 (決して尽きない大地をひたすら疾駆)


 翌9月3日、バイカル号初めての朝を迎える。イルクーツク時間にすれば午前10時頃だが、気がつけば現地時間が1時間‘あと’に刻まれており、確実に西へ動いている事を掴む。こうした陸上時計のわずかな穴針の移動で大体どれほど走ったかを感じる機会などそうはあるまい。

 車内の気流はまだ早朝のようにいびきの底に沈みきっており、一向に目覚めが感じられないのだが、車窓の向こうはけっこう陽が高く、その太陽に向けて鉄馬は走りを極めている事実だけで列車は今も西へ走っている事を掴む。その太陽の高さでもって一体どこを走っているのか、と勘ぐりたくなり世界地図を広げるも、あまりにもおざっぱな位置感覚にしかなりえないのでどうしようもない。

 私が眠っている間、列車は当然走りを刻んでいた訳で、であれば、イルクーツクから相当走っている筈だ。なのにまだ東シベリヤを駆けているように思え、シベリヤとはどこからどこまでとは多分言えないものだが、おそらくウラル山脈までであろうが、それはよく『アジアはウラルまで』という表現を聞くのでシベリヤは当てはまらないかもしれない。こうした漠然とした広大さが人の距離概念をおかしくさせ、さらに考えてみると、まだモスクワまでもう二晩費やすのだから、本当にユーラシア大陸は大きい。

 列車は相変わらず森と広大な農場の中を走り続けているが、意外にも沿線は人の息吹が視覚で感じ取れるのだ。それは鉄道が通じて以来、シベリヤ一帯は鉄道沿線から開発が始まった事を物語っている。

 ひもじい思いをして久しい頃、ようやく初めての車内販売がやって来るではないか。いったい今まで何をやっていたんだ、と今さら車内に遅い朝が始まる。手に取ったのは分厚いピロシキ(ロシアパン)。実にまずいが、これを夢中になって食いちぎり、口に詰めていると、現地時間13:29(モスクワ時間 9:29)、バゴトル(Боґотл)という駅に到達し、15分の停車時間を与えられては腕をまくって、ヨーグルトやみかんジュース、韓国製カップラーメン等をバカスカ買ってくる。

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 (長い道中のわずかな停車時間で・・・)

 イルクーツクを出てから約1日が経とうとするが、まだ1,339km、東京−旭川間程度の距離‘しか’走っておらず、まだまだバイカル号全行程の3割にも満たない。

 この駅でひとまず食糧問題は解決され、物質的には豊かになるが引き続き誰とも口語を交わさない時流がなおも続き、私はただひたすら外を眺め、写真を撮り、読み尽く去れそうとしている持参の本を放り投げては倦怠なる眠りに陥り、一人の世界が延々と続いてゆく。

 14:55(10:55)、マリインスク(Мариинск)に到達し、ここで機関車が交代される。

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 (グレート機関車交代)

 ビデヲカメラの親子はここで下車してゆき、代わってお姉さん風のがっしりした女性が入ってくる。美形だが少し男っぽく、一瞬『可愛い男の子だな』と甘い毒薬をかみ締めた印象を抱く。しかしその後のあえない沈黙の状態は続き、しびれを切らした私は彼女にやや乾燥したりんごを渡して何とか氷解の糸口を見出そうとするが焼け石の水であった。

 車内の倦怠な空気は外にも波及し、相変わらず森と畑が続くだけとなり変化はない。この時期のロシアの昼間の気温は真夏を過ぎたとはいえ無風で20℃はあるが、窓から顔を出し、気流に逆らって進む列車の窓をもがくように開けてはその風流れに触れば、それはぶん殴られたような冷たさが頬にぶち当たってゆくと共に、遠くを見れば所々紅葉さえも始まっており、ここは確実に一足も二足も早く短い秋を迎えている。

イルクーツクから1,848km、鉄路の刻みはノヴォシビルスク(Новосибирск)で一旦止まろうとする。シベリヤは過ぎ去り、ヨーロッパ的な韻律がかすかに、ほんのりと大地から伝わってくる、久しぶりの大鉄道駅のようだ。

 〜シベリヤの水滴 〜 /シベリア横断 (前)おわり.
 (シベリヤ横断(後)につづく・・・)

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2011年05月18日

シベリヤの水滴 〜 D /シベリア横断 (前)

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5. 最後のシベリヤ

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  湖岸の宴にアルコールの火柱が燃え盛る。

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 聞けば、彼らの娘たちがこのたび立派に小学校にデビュー、その入学祝と銘打った宴の途中だそうで、線路脇に停めてあるジープから流れる傷んだ軽いロシアンポップミュージックにのっては皆で適当にはしゃいでいる。改めて言うが、今宵9月1日はロシア全土において学校が始まる節目の日である。

 私は、露語辞書を片手にコミュニケーションを繋げながら相手の機嫌を取っていると、次々とアルコール類とキューリを勧められては、腹をくくって胃の中へ入れてゆかねばならず、当然の如く湖がひっくり返る風景がそこに溜まってくる。

 酒盛りの名目的主人公であるチビ娘すら親たちからウオッカを喉に通される始末で、ついには娘たちも心地よい狂いをリードしながらミュージックに合わせて雛踊りをおっぱじめる。ロシア人がアルコールに強いのは、こうして小さい頃からアルコールに鍛えられて大きくなるからロシア人はアルコールに強いんだ、と絶対的な確信に陥る。

 そしてしまいには、肉体労働で鍛え上げられた男衆たちとチビ共がバイカルの透水に次々と飛び込んでは悲鳴で目を覚ます行動に移り、何を考えているのかもうメチャクチャなご様子。彼らにとって、この短い夏の終わりに湖で泳ぐ事は大きな貴重な喜びなのであろう。

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 (酔っ払いの入学記念のチビたち)

 さあて、私も調子に乗って湖水に足を入れると、電流のような知覚過敏が足元から這い上がってくる。9月入りたての湖水の冗談じゃない冷たさはまさに格別で、これにて酔いも粉砕。‘君らとは皮膚の弱さが違う’という事を叫んでも彼らは納得せずに「入れ入れ」の一点張り。そんな無邪気で陽気なロシア人とのこの日の出会いによって私のロシア像は大きく転換されるのであった。
  
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 (湖岸旧線の線路際をゆく観光列車)

 別れ際、酔っ払いジープで船着場まで酒酔い運転をしながら送ってもらい、
「必ずまた来いよ」と言い残して再びジープを転がす大男のリクエストに、私は応えられる日は来るのであろうか。次来る時は必ずあのチビ共はそそられる程相当な美人になっていることであろう、と勝手にいい思い出としてそのままにしながら、今日の一瞬の出会いを置き土産にして再び船の人となる。

 祭りは終わった。落ち着きながらリストヴァンカに戻り、帰りのイルクーツク行きのバスを待っていると、日本とドイツのハーフの女の子とその彼氏のドイツ人が話しかけてきては旅話の華が咲き始める。すると、そこに水上翼船が登場。やはり誘惑されてしまう。帰りのバスの切符を持っているのだが、彼らに

「これに乗る?」

と尋ねててみると、意外にもOKサインが出、あっさりバスの切符を捨ててはアンガラ川を行く船旅を選んでしまう。

 予定外のクルーザー気分を味わうことになったが、実はこの翼船、前もってその存在は知っていて、イルクーツク側の乗り場を探していたが分からなかった為に乗るのをあきらめていたのだ。こうして忘れた頃になって目指していたものが現れては簡単に乗れてしまうのであるから、人生というものは案外そんなものなのかもしれない。

 リストヴァンカをあっさり出向するとアンガラ川へ舵をきり、川幅の広い河を下流へ下流へとぶっぱなし始め、かなりの速さに達しては水上をかっ飛ばす水上翼船は風を引き裂くように河を下ってゆく。

 この河幅の異様な広さはやはりダムのおかげであり、ひょろ長い人口湖と化しているが、このダム河の底の下に旧シベリヤ鉄道は沈んでいるはずである。そんな事を感じようと狭いデッキに立つと強烈な冷風が顔に殴り、とてもじゃぁないが外で悠々と景色を眺める状況ではない。

 あっさりと退散とあいなって中に引っ込んでは震える手で暖かいコーヒーを抱え進むこと約1時間、意外とあっという間にイルクーツク側の船着場に到着してしまう。実はこれより下流はいけない。つまり、ダムによって行く手を遮られる格好で終点となり、イルクーツクの町までまだ大分ある地点のようだ。これでは船着き場なんて分かるわけはない。

 その後何とか迷いながらもミニバスでイルクーツクの町に出、ドイツ人たちと永遠の別れをする。彼らはこれからウラジヲストークに向かうらしく、大陸を舞台として目的地が西と東と相反する桁違いのすれ違いな出会いとなった格好だ。

 54.ポートバイカル駅2.jpg

 イルクーツク最後の夜、家にでは広いリビングで一人ロシア洗濯機と格闘する。人の家の洗濯機を勝手に使ってはその使い方がよく分からず、適当にボタンを押していたら妙な動きを誘ったようだ。‘乾燥’の絵らしきボタンを押してもすすぎになってしまうし、洗剤を入れて水を供給したらすぐ様脱水になってしまうなど、壊してしまったかと不安になるほど他人様の洗濯機に祈りをささげる。最後は乾燥の仕方が分からなかった結果、部屋中に洗濯物を干す羽目になってしまった。
 
 そんな乾かぬ収穫物の下着を干しながら、ロシア語のテレビニュースを観ていると、日本のニュースがトップで飛び込み、新宿の繁華街で大きな火災が発生した事を伝えている。異国の地で自分の国の事がトップニュースとして伝えられる興奮を勝手に覚え、詳細をも知れないもどかしさにストレスを溜めるのであった。

 ところで、下着を伸ばしていると、部屋の片隅にある大テレビの上にここの主らしき、家族写真が飾ってある。若い夫婦と小学生くらいの娘2人が写っており、その父親は軍の将校のようなピシっときまった軍服に収まっているが、寂しき感傷を抑えながら私はついにここの主とは出会うことなく西へ旅立つ。いよいよ明日、モスクワに足を向ける。


 さて、シベリヤ横断に話を戻す。

 モンゴルやイルクーツクで散々寄り道をしてしまった私は良い加減の頃合で欧州への足を速めねばならない。だが、あと3分の2もある距離とはいえ、モスクワ行きの切符を手にしてしまった今となれば後は列車の中にいるだけで、距離に反比例して感覚的にはもはやモスクワはあと少しなのかもしれない。航空券を持てば遠くの目的地に着いた感覚に似ている。

 どんよりとした空のカタチをしているシベリヤの朝、私は今、イルクーツクの大待合室の椅子に腰掛けている。

 爺様が長椅子でゴロンとトドのように横になり、バブシュカ(バンダナ)を頭にはめている婆様連中の絶えないお喋り、若い兵士とその恋人とのいちゃついた憎らしい匂いなどに待合室は実に溶け込んでいて、私はというと、ただ野良犬とにらみ合いながら東行き、西行きに隔てられたアナログ電光時刻盤のキリル文字に刻々と目を向けている。因みに、目的地名程度は読めるように勉強していた。
 その大時刻表は数分おきに内容が変わり、あくまでもモスクワ時間で各列車の到着、発車時刻と入線番線が書き換えられ、その度に待合室が一瞬うごめき、埃が舞う。

 そんな光景の最中2時間ほど待たされていると、ついにモスクワ時間8:55(現地時間13:55)、イルクーツク始発モスクワ行き009番バイカル号の唸りを告げる表示が現れる。これが今回の私が目指す列車だ。

 4番線に向かう地下道を上へ出ると、青い15輌の客車の列がすでに待機し、遠くを一瞥し、切符の券面に書かれている指図を頼りにはるか前方2輌目を指差すと、ずいぶんと寂しい車輌までやってきた。

 1輌目は、この列車の電池というべく電源車輌および荷物車輌のようで、実質私のいる車輌が先頭客室車ということになる。車輌は3等寝台車。中に入ると、3×3の段ベッドが進行方向とは垂直に並び、さらに通路を挟んで反対側にも線路と平行して3段のベッドが横たわり、まるでカイコ棚のような車内が私を迎える。

 何も言わずにとりあえず荷物を置き、静かに下段のベッドに座って目を閉じていると、気づけば列車は定刻通りイルクーツクを発車し、ゆっくりとアンガラ川に沿って走っている。

 大移動の始まりにしては実にあっけない出発過ぎる。

 発車後まもなくして婦人車掌がやってきては、ベッドメイキングの仕方を教えてくれ、寝具の提供とそのレンタル代を徴収してくる。後は自分でやれ、とのこと。一番上の3段目がフトン置き場のようで、フトンを取り出したらその三段目に自分の荷物を置けばいいらしく、まあ、こんな上ならば盗まれる心配も薄くなるだろう。

 眺めてみれば、客はポツンポツンと点在しているような感じで、通路向こうの3段ベッドはベッドメイキングされずに普通の座席として使われている。どうやら夏の多客期は過ぎ去り、秋の閑散期に移行した様子にむさ苦しいぎゅうぎゅうの3等車を思い浮かべていた私にとって都合の良いもので、これなら3等でも十分快適な横断旅が出来る、と確信する。

 もっとも、シベリヤの多客期などほんの一瞬の出来事なので、この3等寝台の全ベッドが稼動するなどあまりないようだ。

 さあ、私の欧州遠征最長距離のバトンを担当するこのバイカル号。一列車でイルクーツク−モスクワ間の距離は5150km、時間にして約4日間で気が遠くなる長さの旅が始まった。

 Eへ続く・・・

 55.イルクーツクを出たバイカル号.jpg
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2011年05月17日

シベリヤの水滴 〜 C /シベリア横断 (前)

  38.ポートバイカル シベリア鉄道旧線貨物列車.jpg

  4. バイカルの湖岸

 異国の旅が1ヶ月を越えようとしていた。慣れない土地での生活は休憩が重要な事は言うまでもないが、思えばなかなかスケジュールぎっしりだったような気がする。そのせいが祟ってか、現地時間の時計の針が11時を過ぎても寝床から起き上がれなくなっている。イルクーツク滞在は実質あと2日。目的のバイカル湖は最終日の明日に回してしまう。

 旅が長引くにつれて次第に自身の体に甘えを認めてしまっている現状を打破したいのだが、外部要因がなければ早起き出来ない体になってしまっていた。

 翌朝、決死の思いまでして実現した早起き。とにかくバイカル湖へ行かねば、ただそれだけの義務感のおかげで無事に午前9時発のバスに乗り込み、途上で終らされていた睡眠を補うかのように、針葉樹の森林地帯を突っ走る中古いすゞ自動車バスの中で激しく眠りに陥っていた。

 バイカル湖1.jpg 
 (イルクーツク市とバイカル湖の位置)

 バスはつまらぬ走りを奏でていたが、淡々と続いていた森の営みが知らぬ間に静かに消えると、平行していたアンガラ川の谷筋がパカァ〜と口を開けた瞬間がついに現れ、広大な水平原に吸い込まれる瞬間が来る。

 バイカルの湖原だ。

 バスは、湖岸の集落 リストヴァンカ(Листвя́нка)という、人口1700人ほどの、華やかな入学式チックに飾っている小・中学生たちが闊歩する、意外とにぎやかな村で終点となる。

 35.バイカル湖岸の入学式(リストヴァンカ)2..jpg
 (村の入学パーティー)

 実にヒンヤリピリッとした湖岸の村に吐き出された乗客たちは、辺りを覆い尽くした串焼き魚の煙に早速誘われてゆく。オームリー(Омуль)という、バイカル湖中で採れた鮭の一種らしい。
 第5急行で食べたあの食感のサカナか!?とワクワクッと、煙にまみれて串し棒ごと手にしてはむしゃぶりつく。あまりいい味付けとは言えないロシア風味のゲドゲドしいソースを浴びた串焼き鮭をほうばっていると、「刺身で食べた方が旨いんじゃないの?」と独りでブツブツ噛んでいた。

 36.リストヴァンカ.jpg
(煙はMouth Watering(口涎)を誘うのだが・・・)

 さて、目の前には神秘なる湖、バイカルが広がっている。何となく、ただバイカル湖を渡りたい、というぼんやりとした欲求を背負っていると、小さな船の桟橋に自然と足は向き、湖面をゆくポンポン船に体を乗せてしまう。交通路さえあればどこへでも行きたい、そんな旅族の本能がうごめいていた。

 冷たい湖面を吹く北風に耐えてはアンガラ川河口(出入口)付近の水峡を横切り、最終的に対岸のポートバイカル(Порт Байка́л)という集落に向けて黒鉛をあげる。その船旅は、空から観ればヘチマのような形をした巨大な溝に貯まるバイカルの水塊が、アンガラ川の裂け目から滴り流れ出るような河口をただ単に渡っただけであるが、雄大な船旅に思えた。バイカル湖には350もの河川が流れ込んでいるが、湖から出てゆくのはこのアンガラ川しかなく、それははるか、はるか遠くの北極海へと落ちてゆくのである。

 湖なので潮の香がしないのが当然なのだが、それが妙な違和感を覚える。顔にぶつかる冷風の向こうの水平線の影のおかげでバイカルを海であると勘違いしたくなり、思わずこの水塊の巨大さについ惚れてしまう。さすが琵琶湖の50倍だ。

 船はまもなく対岸・ポートバイカルに着桟する。
 
 バイカル2.jpg
 (河口付近の地図)

 ポートバイカルの集落には、数件の民家が点在していて、先ほどのリストヴァンカのような観光チックな雰囲気とはまた違う影を漂わせている。私が歩き出すと、早速目の前に線路が横切り始め、見れば、その線路に息が感じられるではないか。銀色に光る若干の光沢こそ生きている証であり、どうやら廃止路線ではないようだ。

 調べてみると、ここにある線路は昔のシベリヤ鉄道の一部だった路線で、かつてはここを経由してアンガラ川沿いをイルクーツクに向けて延びていたものだったが、しかし、ダム建設によって先日体験した峠越えの路線に切り替わってしまった。以来、川沿いを行く区間は廃止され、湖の端であるここから現シベリヤ鉄道本線合流に至る湖沿いの旧線だけが枝線として残っているようだった。日本の宮城県の利府支線のようなものか。

 辺りを散歩していると、どうやらこの集落は貨物の積出港のようで、バイカル湖岸で採れた鉱物や砂利を貨物列車に積み替える末端の小さな貨物駅である事が分かり、どおりで観光チックの色が無い訳だ。

 駅構内では、宮崎駿映画に出てきそうな大男缶詰ポパイ面(づら)をした大柄機関車が、利き腕を鳴らしながら出番を待っているだけで、他はいたって静かすぎるほど人の気配があまり感じられない。

 39.ポートバイカル シベリア鉄道旧線 機関車T..jpg

 40.ポートバイカル シベリア鉄道旧線 機関車U.jpg 
 (ポパイ機関車)

 一挙に暇になった私は、あてもなく線路の真上をポツポツと歩いては気が済む所まで進んでみようと決心し、枕木のリズムに合わせながら前足をぎこちなく差し出す。この線路の行く手の先に何があるのかまったく知らない。欧米人は、未開な、見知らぬ土地を平気でドンドン行ける度胸があるのだが、島国遺伝子を持つ私はなかなか冒険心を育ませる余裕がない。

 30分ほど歩いていると、線路際でとある集団と出っくわす。この集落の家族たちが堂々と線路上で酒盛りをやっている最中のようで、その輪の中に入ってしまうのに時間はかからない。「飲め、飲め」とウオッカの誘いの嵐が巻き起こり、このはじけたオーラーになす術もなく熱水を喉に通す思いであっという間に火酒の洗礼を受ければあっという間に出来上がってしまう。

 思わぬ線路際の湖水酒が、火柱の如くあばれ狂う9月の初日の候、はすべてをどうでもよくしてゆく。

 Dへ続く・・・

 42.ポートバイカルでであった家族たち1.jpg
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2011年05月16日

〜 シベリヤの水滴 〜 B /シベリア横断 (前)

 3. 孤独のイルクーツク

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 1-1-2.ウランバートル - イルクーツク .jpg

 イルクーツク(Иркутск)駅に降り立つ。

 21.イルクーツク駅前.jpg
 (イルクーツク駅前)

 人口59万人、ロシアに入って最初の大都市である。地理的な関係から日本人と顔立ちが似ているシベリヤ土着の固有民族や中華系も多く、中国漢字(繁体字)では‘伊爾庫茨克’と表記されている。

 それほど古い町ではないが、かつては遠い西方のロシア中央世界から囚人や政治犯が流された流刑地で、そんな囚人たちによってシベリヤ鉄道は建設され、1898年に西から鉄路が繋がって以来、極東の拠点として町が大きくなっていった。

 日本海から遠く4千キロも内陸に入った地点にあるが、実は一時日本の勢力下にも置かれたこともあった。

 それは1918年、ロシア革命の邪魔立てと、ヨーロッパのチェコ人捕虜兵救出を欧州社会側の要求という名目で日本とアメリカが中心になって行われたシベリヤ出兵である。この作戦時において、ここイルクーツクまで日本軍が到達占領したが、シベリヤ一帯に約7万の兵を派遣した日本は散々な結果に終って撤兵してしまう。まるで得るものはなかった。これが近代日本帝国の最初の負け戦でもあり、これ以降勝った大戦(おおいくさ)はなかったのである。しかしよくこんなところまで到達したものだ、と驚く話でもある。

 ホームに降り立ったはずの私だが、車内で出会った若き新妻の口車に乗せられて荷物の運び屋をやらされていると、一人の男が私に声を掛けてくる。それはロシアでは珍しい英語の音のようだ。

 「ミスター〜ですか?私はツーリストエージェントです。あなたを迎えに来ました」

 セルゲイと名乗るその男は、モンゴルでロシアビザを取得した時の旅行会社の現地スタッフらしく、ロシア固有の鬱陶しい制度、バウチャーという書類を発行してくれた受け入れ先の人間らしい。一応、半強制であるが、契約通り仕事はこなすようである。

 出迎えとは恐れ入った。まるで旅行会社の世話などになった事はないのでほんの一瞬ゴージャス感を掴んだのもつかの間、

「時間が無いから早く車に乗れ」と、つれない言を言い出し、何が時間が無いのかさっぱり分からないが、予想通りの横柄な接待に満足こそしないが失望も抱えず、スコスコと運転手付きの車に近づいては、BIP待遇の如く後部座席に押し込められは堂々発進する。

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 駅を出ると、アンガラ川(河)に架かる橋を一気に越えて町の中心部に入り、インツーリストという、ロシア国営旅行会社のビルの前に急停車する運転ぶりはなかなかだ。ここでルーブル(P)という見知らぬ通貨にようやく出会える。因みにロシア語の『P』は英語の『L』であり、巻き舌を強く絡ませながら「ルーブル」と発音する。決して「Ru(ゥル)」ではない。

 ここで貴重なドルを交換するが、思えば、日本の隣国にも関わらず全くその通貨の存在を思った事がない。ソ連崩壊直後は1$≒6Pだったのが、90年代の経済の崩壊で1$≒20P台にストンと落ちてゆき、明日もどれだけ下落するか分からない通貨という事で、どこぞの銀行が買い取るのか、と揶揄されるほどクズ通貨っぷりを醸していたのだ。

 お金 ロシア 表@.jpg 
 (ロシア・ルーブル札・2001年時)

 しかし、この2001年時あたりになるとレートは安定し、プーチン大統領出現後は急激に経済が回復するのである。それは、ロシアが資源大国だからであり、いったん破綻した国家は実は強いのだ。ただ、2008年のリーマンショックでまたどん底に落ちる運命を辿る。

 そんなルーブルちゃんの今宵のレートはおいくらか?私は150ドルを窓口に差し出すと、50ルーブル札88枚と10ルーブル札1枚、計 4,410ルーブルのお返り、つまり1$≒29.4Pというレートのようだ。
 100ルーブル札というものもあるのだが、こんなにわざわざ50ルーブル札ばかりどっさりいただき、瞬時に金持ちになった錯覚に落とされるのだが、それがすごいかどうかは後になってみなければ分からない。

 用が済むと、またセルゲイの車へ押し込められては聞き苦しい英語を流されながら今日の宿に向かう。なんだか今宵の宿について話しているようだが、いまいち彼の英語を飲み込めない。ま、私の当時のジャパニース・イングリッシュも相手にとっては似たような感覚に聴こえるかもしれないが・・・。因みにロシア語はさっぱり解らない。

 適当に流しながらいつ宿に着くのか楽しみにしていると、車は街を抜け、街路樹が途切れ、住宅地の密集度が薄くなり、今来た道がテンデ分からなくなってきた頃、ようやくオンボロロシア車が停止する。

 「ここだ」

 見ればそこには外装が醜いただの高層アパートがでくの坊のように立ているだけ。部屋はこの5階にあると言うが、ワンフロアーが妙に高いゴツイ建物には、エレベーターなどという御親切なインフラなど夢の如くで、せっせとはるか階上の5階まで大荷物を背負って苦しみながら登ってゆく。1階から2階までとにかく長い!

 ノビタのマラソンの如く息が脈打つ中 何とか5階に到達すると、たった一室の扉が目の前に横たわり、ガスバーナーでもっても叩き焼くことが出来ないような重厚なドアを、これまたぶっ太い鍵でズブッとかぎ穴に入れる。これには入るコツがあるようで、私はなかなか‘カチ’と音がならない。セルゲイが代わって鍵穴に入れると、いとも簡単にドアが開く。

 すると、中は誰かの生活の息吹が感じられる空間が広がり、これは確実にホテルではない、とようやく悟る。

 どうやらここの主は夏のバカンスに行っているらしく、留守宅を旅行会社が借り切ってうまく転用しているようだ。うまい商売なのか何なのか判断がつかないが、自分の家を見ず知らずの人様に預けるなど、所有概念がきつい日本では到底無理な事であろうが、ついこの前まで社会主義国だったロシアが、資本主義国顔負けの不動産商売が行われている事に痒い驚きをもってしまう。

 部屋は子ども部屋2つ、キッチンが六畳ほどの広さで居間が十畳、ベッドルームは八畳ほどと、豪快に性の営みを施せる豪華な空間で、冷蔵庫も洗濯機も自由に使っても良いとの事。いやいや、私一人過ごすにはあまりにももったいない、というか寂しすぎる。何だか妙な体験をすることになった。

 「ところでパスポートを預からせてよ」

 セルゲイがいきなりとんでもない事情を説明する。この時ロシアでは、外国人がロシア国内に最初に到達すると、2、3日以内にオビール(Oвир)という滞在登録をしなければならない法律があった(今もあるらしい)。それは、身元保証人かホテル側が代行して手続きをする事になっているらしい。パスポートを他人に預けるという行為は何としても避けたいところだが、そういう制度の為致し方ない、と腹をくくり、一種の賭け事をするかのような気持ちで私はセルゲイに命のパスポートを渡す・・・。

 「これから役所におまえのパスポートを提出しにいくが、その前にこの町を一人で回れるようにしてほしい」

と、セルゲイは言い、私を近所のトラム乗り場へ導く。とりあえず目指すところは鉄道駅。それを伝えるとセルゲイはめんどくさそうな顔をするのだ。実はこの停留所に停まるトラムは駅には行かないらしく、セルゲイは後から来る路線バスを選んだ。

 煤を豪快に吐き出しながらそのバスは一方通行の多い界隈をジュグザグと辿って川原に出、程なく鉄道駅に着く。
 鉄道駅にやって来たという事は列車の切符を買うために他ならない。セルゲイの案内で駅の外国人窓口に導かれてモスクワ行きの切符を求めると、手元にキリル文字ばかりの薄っぺらい切符が滑り込んでくる。この瞬間、私のヨーロッパ入りが確定しては目に見える形となった。因みにイルクーツクを出発するのは3日後。その間、ここイルクーツクで孤独な空間を過ごすことになる。
 
 「じゃあ、後は適当に3日間を過ごすように!」

 セルゲイはそう言って眼前から消えると、やる事がない孤独の時流に一人放たれては適当に時を湯水の流れのように使わねばならなくなり、迷走感を覚えるめまいにため息を吐き出す。

 目的のない脚は自然とイルクーツクの街へと吸い込まれてゆく。

 イルクーツクは、三辺を川に囲まれた町で、鉄道駅はその川向こうに位置している。

 17.イルクーツク・アンガラ川沿い2.jpg 
 (アンガラ河沿いをゆく近郊列車)

 遠くバイカル湖から悠々と流れ出るアンガラ川が街と駅を隔て、架かる橋の上からシベリヤの鉄路を眺めていると、本当にアジアとヨーロッパとを直接繋いでいる鉄街道とは思えないほど小賢しく、庶民感溢れる近郊電車が真下を行く。

 そんな鉄道施設しかない寂しい場所から橋を渡って数百歩町中に入ると、欧州風とシベリヤ風の木造家屋が入り混じった路地に迷い込み、その傷んだ木壁には、乾いたように靡いているキリル文字看板や広告、政治屋ポスターなどが並んでいる。こんなところの百分の一秒の瞬間でロシアにやって来た感慨を深めるのだ。

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(欧州文化を感じるイルクーツク市内にある教会)

 その時、とある商店に横付けされている軽トラックの荷台に『佐藤太一郎商店』というロゴが入った中古車を見つけてしまう。彼は誘拐されてきたのであろうか、きちんと正規の手続きを踏んでこの地で第二の人生を謳歌しに来たのかどうかは不明だが、右車線社会のこの国において右ハンドルのまま生きている様子は、わざわざ手が加えられていない怪しい粋を感じてしまう。

 町中を行けば、極東のヨーロッパの街中に日本を感じさせる瞬間が次々と現れ、『鈴木水産』と未だ刻まれている2トントラック、『工藤鉄工所』のライトバンが堂々と街角に顔をのぞかせ、まるでそんな日本語の文字列がステータスである事さえも感じてしまう。ロシアの民は、ペイントを剥がす労力よりも、次のタイヤをかっぱらってくる労力を選ぶようで、そんな彼らの矛先は、車両に書かれている住所『富山県新湊市〜』から察して、日本海系が主力のようだ。

 そんな中を路面電車がつたないヨレヨレのレールをお構いなしに目の前を横切り、‘つい思わず’とばかりに飛び乗っては、4㍔(約16円)を払い、わら半紙切手に似た切符を握り締める。2年前は2㍔とガイドブックにあるが、わずか2年で倍額とは、相当物価上昇が今なお進行しているようである。

 23.イルクーツクとラム1.jpg

31.アンガラ川をゆくイルクーツクとラム.jpg  
 (街をゆくおんぼろイルクーツクトラム)

 イルツークの町は、郊外の住宅地も含めれば相当な広さだが、中心部街に限れば歩けるほどの広さ。トラムに乗らなくても十分街は回れる。町唯一の百貨店を冷やかしたり、市場を散歩したりと、観て回るものといったらそれ位しかないが、おかげで地元の人たちの生活の様子が良く感じとれた。

 実は、国営商店に人が並んでいるという、社会主義的風景が見られる事を期待していた私は見事に裏切られ、ついこの前までそうした経済体制だったとは思えない程露店が狭苦しそうに立ち並び、豊富な食材を台一杯に並べては余裕の表情で選別する買い物客とのやり取りが、ごく普通の風景のように流れている。

 朝から乾燥パン4個程度しか腹に入れていない私は、ここで立喰いパンケーキを手に入れてはムシャムシャ口に詰め込み、今夜の食材(ジュース、キャベツ、玉ねぎ1kg、ニンニク、豚肉、米2kg、韓国製インスタントラーメン、ねぎ、粉スープ)などを後先考えずに衝動買いしては後悔するのであった。因みに、これらでざっと120㍔(約500円)。ロシアの物価はこんな程度である。

 さらに市場を歩いていると、とある素晴らしい物に図らずしも眼が奪われる。そう、ロシア名物のモワモワの毛皮帽子、シャープカ(шапка.帽子)である。それが商店の板棚に置かれているのだ。

 その中の一つ、黒褐色の一際揚々とした暖かそうな毛ぐるみ系を見つめ、まるで女子を選別すかのように眼はその黒褐色の帽子に奪われる。まだ晩夏を過ぎて初秋に入りたての気候にこの帽子は遠く無用の存在のはずだが、まるでダイヤか黄金を買い付けるが如く所有欲だけであれこれと詮索する。

 いつの間にか店主とこの帽子をめぐって商談をしていた。計算機を叩いては示す数字に体一杯に落胆と歓喜を大げさにアピールするも、ニタニタ顔と硬直顔を織り交ぜながら必死にくらいつく店主。決して交渉ごとが得意ではない私にしてはなかなかのいい運びで、昨日両替した、今あるルーブルの所持金をわずかに下回ったところで妥協し、1400㍔(約6000円)で‘競り落とした’感覚で悦に入る。果たしてこれがいい買い物かどうかは未知数だが、これからこの無用の長物を常にリュックに入れておかねばいけない負担を思えば、ため息混じりの声しか出なくなる事に後から気がつくのであった。

 
 さて、イルクーツの町から川を遡って行けばバイカル湖がある。先日列車から眺めたその湖はこの町から約70kmのところにあり、日帰り圏内にある。その神秘なる、日本海似の冷たい風気が漂うあの透面に今なお心奪われ、宿で豚肉オニオンスープを一人で煮込みながらバイカル湖への道を考えていると、沈黙していたこの家の電話が突然不気味な悲鳴をそそり出し、恐る恐る出てみることにした。相手はセルゲイだ。

 「今、家のそばにいるから鍵を開けて待っていてくれ」

 公衆電話からかけてきたと思われる回線を切り、分厚いドアの鍵を開けて、ドア向こうの暗闇に目を向けていると奴は現れる。実は、オビールのハンが押された別紙のビザと共にパスポートを届けに来ただけであった。

 セルゲイは良いやつだった。用事を済ますと、セルゲイは忙しそうに手足を振舞っては暗闇へ消えてゆくが、セルゲイにはもう少しここに居て欲しかった、と一人寂しい部屋で食事をする事に孤独感の絶頂に上がってしまい、消えゆくセルゲイの足を止めることを出来ずにいた自分を後悔するのであった。

 Cへつづく

33.イルクーツク市内 アンガラ川辺.jpg
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2011年05月15日

〜 シベリヤの水滴 〜 A /シベリア横断 (前)

2. シベリヤバイカル湖 (ロシア領・ナウシキ〜 )

 1-1-2.ウランバートル - イルクーツク .jpg

 朝、目を覚ますと、針の位置を変えられていない私の腕時計は午前8時辺りを示している。鈍い寝起きから重たそうな体を起こして通路側の窓を眺めると列車はどこかの駅に停まっている事に気づく。

『ウラン・ウデ(Улан-Удэ)』

 私は驚いてホームに駆けてゆき、朝の深呼吸をすると、駅構内に響き渡るロシア語の放送にやっと生身のロシアを体感する。

「ロシア語だ、ロシアの列車たちだ、ロシア人の大群だ!」

 これが私の実質初めてのロシアの瞬間である。北京から続いていた単線の田舎ローカル線は終焉し、ウラジヲストークからのシベリヤ鉄道本線とついに合流したのだ。

 シベリヤ鉄道…。正式名称は‘トランス シビルスカヤ・ジェレズナダロージナヤ・マギストラーリー(Транссибирская железнодорожная магистраль)’つまりはシベリヤ鉄道交通横断。極東のはるかなる僻地を開拓してきた、

 1880年にロシア中央政府によって計画、その後東西端っこから建設が始められ、1901年、バイカル湖区間を船で介して始めてアジアと欧州間に列車が運ばれた。そして日露戦争中の1904年に鉄路として全面開通した。

 ウラン・ウデ駅構内は、それまでの非電化モンゴル支線の駅とは桁違いの太い活気が息をし、隣で重厚な近郊‘電車’が出発したかと思うと、今度は長大編成の貨物列車が構内を豪快に通過してゆき、僻地の細い鉄と見くびっていた私にため息混じりの動揺が交錯する。ここからはるかモスクワまで鉄の銀々街道が見事に伝わっているかと思うと、もうモスクワ、いやヨーロッパは着いたも同然と、アジアを脱した気分になってしまう。

 5番列車は本線を西へ快走し始め、抑えつけられていたかのような今までの不自由な苦走は見事に卒業し、ロシアを代表する大幹線の立派な軌道と堂々なる複線電化の街道を余裕の力走を奏で、夢のシベリヤ鉄道本線を這いでいる実感に酔っても良い段階に来た。すれ違う旅客・貨物列車の数は賑やかさに華を添え、沿線にはちょぼちょぼであるが人の息が感じられる気配が確認できる。

 しかし、流れる大地の景色までもが劇的に変わることはない。さっきから遠々と繰り返されている針葉樹林の森の群れ・タイガは人々を永く車窓に釘づけにはさせてくれないが、私だけ不思議とどこかで感じた光景と重なって観えてくる。やはり北海道の景色、そう、根室線あたりかな、それに近い、と私は勝手な感触に少々お世話になる。

 木々の飽き、眠気との格闘がいつものように沸き起こる頃、ムィサヴァヤ(Мыcoвaя)駅を過ぎた辺りで突然ポーランド人たちが通路から私にわざわざ告げにくる。

 「おい、バイカル湖が見えるぞ!」

 私は眼鏡を急いで掛けては通路側の窓辺にかじりつく。

 私は驚きの笑みをさらした。

 その車窓の向こうに、広大で真っ青な水溜りがポワーンと広がっている。それは確かバイカル(Байка́л)と人は呼んでいて、顔前一杯にそれが覆いかぶさってくるのだ。さらに、世界一深い湖とか何とか言っていたな、と煤で汚れた記憶を脳裏から取り出しては改めてその透面に眺め入る。
 
 5.列車からバイカル湖岸5.jpg
(車窓に堂々と現れたバイカル湖)

 だが、それがバイカル湖ともし誰も教えてくれなければ、そしてシベリヤ鉄道沿いに存在する、という情報や知識もなければ、疑いながらも『これは日本海ではないか』と楽しい誤認もしたくもなるものである。一連の歪曲は、私が日本を出て以来早速台頭してきた祖国への望郷の念の一種と解釈出来よう。

 列車は湖岸を常に走り続け、さらに旧線が海岸線ギリギリにへばりつくように並行して延びていて、この区間の歴史をも演出してくれる。

 3.列車からバイカル湖岸3.jpg
 (湖岸をゆく第5急行列車)

 読めば、この湖岸区間は1904年9月に開業し、これによってヨーロッパからウラジヲストークまで初めて鉄路によって結ばれた、とある。つまりは最後に残された区間であり、湖岸に平地が少なく、切り立った崖が囲む地形のおかげで全区間の中で一番の難所だったという。

 それでもこの‘1904’という時期に開業させた事実は、ひとえにあの日露戦争の為だったという、政治的な匂いがビンビンに伝わってくる。そんな歴史背景だが、戦争中の多くは鉄路が湖で隔てられていて、その湖岸未開業区間は連絡船で車輌を輸送し、そして湖が凍る冬は氷上にレールを敷いて列車を無理やり走らせ、果ては、回送しきれずに東から返って来る分の客車すら見捨てたほどの執念を実は晒していたのである。もしこの区間が戦争当初から開業していれば、当然日本の勝利の可能性もどうだったのか分からない。そういう事で、明治の日本はこの湖に感謝しなければいけないというところか。

 欧州行きのシベリヤ急行は、青透明の水鏡に覇を映しながらうっすらと対岸の山壁の勇美を遠くに見、西方への刻みを淡々と続ける。

 2.列車からバイカル湖岸2.jpg
  

 1時間ほど湖面に見とれていると、やがてスリジャンスカ(Слюдянка)というバイカル湖岸の港・鉱山町の駅に停車する。構内には機関車が屯し、運転上何かのケジメの要所である余韻がムンムンしてくる。聞くと、ここで機関車が交代され、シベリヤ鉄道最大の峠に臨むべく息を整えているらしい。

 峠の前というシチュエーションは、人の心を時代を問わずに覚悟という台に晒してくれる。それは一つの余興でもあり、相手の峠がすごければすごいほどその心は踊り計られ、もしたいした破壊力がない峠だと知るとその余興の力は減退するものである。

 私がこの駅のホームに足を落とすと、なかなかの熱気が衣類、雑貨、食料の市を包み、列車側の行商人たちと地元の運送業者も加わって、一種の貿易ターミナルのような光景が展開されている。港に着桟する貿易船の如く、列車は貿易経済の主人公となっており、山間の湖岸町がほんのひと時だけ人間ラッパが吹いているように小賢しい賑わいを呈している。

6.スリジャンスカ 行商列車風景.jpg  
(バーゲン列車:スリジャンスカ駅にて)

 ルーブルを持っていない私は、まずはルーブルを手に入れなければ始まらないのでそんな中から両替屋を見つけ出そうとする。しかし結局見つけられずに発車時間を迎えてしまうのだった。ウランバートルを出て以来、まともな食料にありついていない私は、ホーム上で売られているバイカル湖産の焼き魚や地元の蒸かし芋を目の前にして本気で腹虫を鳴らし、そして見過ごす辛さを味わう。ところが天使が現れる。

 「多すぎるから食えよ」

と、ポーランド人たちが私の目の前に何気なしに現れては焼き魚や芋を分け与えてくれ、これをきっかけに狭いコンパートメントの部屋の中は芋の暖かさに負けないほど、心の熱が湧き上がる。けっこう良い奴らじゃないか、と。

 長距離列車とは、居合わせたメンツ次第で楽しくも苦しくもなる運命の箱であるが、その運命は意外と自分自身で呼び起こせる奇怪なものがあるのかもしれない。

 さて、列車の刻みに話を戻す。

 スリジャンスカ駅を発車すると、いきなりぐんぐん標高を上げてゆく。強引ながら、これが極東と欧州とを隔てる精神上の境とみなそうと思えば十分なほどの迫力で、眼の下へ下へとバイカルの湖面がシューンと凹むように下がっていっては、列車は山の斜面にへばりつきながらゴムのように曲がりくねった鋼の道をゆく。
 やがて、スリジャンスカの町と湖水沿岸が航空写真のような記憶に留めることが出来るほど車窓は豪快な高さとなって彩ってゆき、最高潮を迎えたかと思うとあっけなく劇場が終焉し、列車から永遠に湖面が消え去ってしまう。

 12.峠の途中のバイカル湖の車窓2.jpg

15.峠からバイカル湖の車窓3.jpg 
 (峠越えの車窓から)

 峠に達したであろう列車は、森林地帯の中をぶっ放しては一路イルクーツクに向けて徐々に標高を下げながら調子に乗ってスピードを増してゆく。順調そうに走っている第5急行だが、時をごまかす様なその走りが実は約束通りの定刻に遅れて刻んでいる事を忘れさせるのだ。さらに、ウオッカをタラフク飲み被りながら踊っている露爺たちの表情から、その事をとがめる発想など微塵もない事は言わなくても分かってしまう。

 10.陽気なロシアのオッサン.jpg
 (酔っ払い露爺)


 現地時間17:20(モスクワ時間12:20)ごろ、

「もうすぐイルクーツクに着くから支度をしなさい」

と婦人車掌が知らせてくれる。私の切符はこのイルクーツクまで。切符を返してくれると、車掌は歳に似合わず濃いウインクを置き土産に後ろを向いて去ってゆく。ポーランドの連中ともついに別れとなり、ここで途中下車する私を彼らは羨ましそうに見つめている。なぜならば、彼らはもう4日間ほど列車内に缶詰だからである。

 アンガラという名の川向こうにその町が現れ、モスクワ時間 17:25(現地時間 12:25)、第5列車はイルクーツクのホームに横付けされる。

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 (イルクーツク駅到着)

 とてつもなく遠い土地にやって来た感傷にふける私だが、鉄路で計ればここは北京から2600kmくらいだろうが、しかし、モスクワ−北京というビッグスケールから見ればまだ3分の1程度で、いかに極東とヨーロッパが遠い距離であるかが分かってくる。

 航空機で飛べばそんな距離感など粉ジュースに水を入れるの如くだが、地で這って行けば、もぎ取って搾るまでの過程を楽しめるというもので、そんな過程をほんのり味わう為にもただ単にモスクワまでぶっ放すのはもったいない、と私は前もってこの町を適当に選んで降りてみることにしていたのだ。

 Bへつづく

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2011年05月14日

〜 シベリヤの水滴 〜 @ /シベリア横断 (前)

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(ウランバートル〜イルクーツク間の国際列車切符)

 1. 厳戒の国境 (ウランバートル〜 )
 
 先頭にディーゼル機関車が連結されたモスクワ行き第5列車、予定より5分遅れて13:55、静かに、そして名も知らない人々の見送りの中をウランバートル駅プラットホームから離れゆく。ついに13日間世話になったモンゴルを去る瞬間が今ついに訪れようとしている。

 これからウランバートル〜イルクーツク(ロシア領)間 1113kmの鉄道旅が始まる。料金は48ドル(約5800円・当時、うち7ドルが手数料)。距離と列車のグレードからすれば安いかもしれない。

 1.ウランバートル - イルクーツク  - コピー.jpg

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(ウランバートル → イルクーツク 1113km 工程図)

 発車後の落ち着きが定まらない頃、客車内では早速あの金髪車掌が検札に赴き、各コンパートメント部屋の乗客一人一人へ丁寧にその人の行き先を確認しながらベッドの位置を記録、乗客は切符を車掌の手に委ねる。その切符は下車時に返却され、各々どこで下車するのか、車掌はきちんと管理している。
 
 こうして一連の儀式が終わる頃、外の景色はすでに草原地帯が広がっており、はるか後方にウランバートルの盆地が見え隠れしている。どうやら盆地を囲む峠を登っているようで、列車の轍(わだち)が刻むテンポもめまいがするほど鈍足だ。

 峠を越えるとやっぱり平原が広がり、おなじみの退屈な車窓のおかげですっかり車内は落ち着きを得た、倦怠なムードが早くも漂う。相も変わらぬこの車窓に飽きるのは仕方がないことだが、よ〜く眺めていると、ウランバートル以南の景色と比べて木々が多く、森林や川、その合間に現れる草原といった流れのリズムの違いに気付き、そんな事を思いながらぼんやり受け流しながしている。

 客車13輌の列車は、時折描く曲線での弧でもってそのおおらかな存在を草原に知らしめるべく大地を滑走してゆく。国境までまだまだ時間がある事を知ると、私はお家芸の半眠りに就いてしまう。

 この4人用コンパートメントには、アジア旅行帰りのポーランド人が暖かく占拠し、男一人に女二人のこの道連れ道中でどのような情事関係になったのか、小さくない関心を持つのだが、心の中で静かに抱いているだけでは耐え切れなくなり、恐る恐る尋ねてみる。返ってきた言葉は「ジャスト フレンズ」。それ以上は追求する勇気を持てない。

 女たちも割り切っているのであろうか、だが、男は上半身裸でベッド上で片方の女ととっかえひっかえ横になり、そして彼らの世界にどっぷり浸るのでますます訳が分からない。
 男は身長180センチ以上はあろうか、長身でかっこよく、女たちもまあ、美人である。しばらくすると男は女たちを前にして下半身裸になりパンツを脱ぎかえるので、私の目の驚きは相当な表現力になってしまう。さらに想像以上の彼の男根がため息のたびに大きくゆらゆら客車の振動と共に揺れていて、パンツの中に納まってもそれは大いに目立ってしまっている。

 そんな事はどうでもいい。

 88.沙漠をゆくモンゴル列車 モスクワ行き 高画素1600 10.jpg

 19時ころ、列車はモンゴル北部の町、ダルハン(Darhan【Дархан】・達爾汗)に到着する。モンゴル語で『鍛冶屋の土地』という意で、人口7万ほどの鉱山の町だそうだ。

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  (ダルハン駅のようす)

 モンゴルは鉱産資源に恵まれ、この鉄道によってロシアや中国に鉱物や木材を運び、食料品などを輸入している貿易構造で成り立っている国。そしてこの町はモンゴル経済の重要拠点なのである。

 低いホームには小さいながらも市が並び、少年たちが「バルチャーラ〜」と叫びながら水やジュースを売り歩く、そんな声のおかげで一応活気らしいものは感じられるが、鉱山町だからであろうか、モンゴル第二の都市の喧騒は駅のホームには伝わってこない。
 ここからは殺風景な工場現場しか見られず、低いホーム2面2線とその多くの側線を持つ構内には大いなる淋しさしか残っておらず、駅前の戦車やロケットの飾り物が不気味にチョコンチョコンと並べられている様まで含めると、この駅前風景のセンスがよく分からない。

 再び列車は北へ向けて走り出し、一路蒙露国境へ向けて刻みを続け、午後8時、ついにモンゴル最後になる筈の太陽が西へ沈む頃、儀式のような夕焼けが車窓を染め、その数分後、あっという間に川や森も一気に暗闇に落ちてしまう。あとは国境を待つだけだ。

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(ダルハン駅で発車を待つ第5急行)


 ウランバートルから379km、約7時間。陽が暮れきってしまった、ひっそりと静まりかえっている駅からは、どんな町なのかさっぱり分からない。

 列車はスフバートル(Sühbaatar・Сүхзбаатар・苏赫-巴托尔)に到着していた。国境駅だ。因みにスフバートルとはモンゴル独立時に手柄をたてた軍人の名で、今では英雄扱いされている。

 ここでは乗客は外に出ることは出来ず、出国手続きだけが粛々と行われる。今回の国境越えは私以外日本人が一人もおらず、心もとない思いで一杯であるが、今のところあまり緊張した雰囲気ではなく、係官による手続きもあれよこれよと進められてゆく。

 私の番となり、パスポートを見せるや否や、瞬時に取り上げられてはその場から係官は消え去るのだが、すぐに再び現れて気持ちよく目の前で‘スパン’と出国印を押してくれる。その後は、税関担当官がベッドの下を一瞥しに訪れ、こうしてモンゴル出国の儀式は滞りなく終了してしまう。

 1時間50分ほど停車した列車は、国境越え用のディーゼル機関車に交換され、ついに牛のような汽笛でスフバートル駅を離れはじめる。
 完全な闇の下、低い針葉樹の木々の中を時速30km/h程度の足で暗流の国境へ突き進むこと30分ほど、一旦列車は停止する。いよいよ国境越えの瞬間である。

 前回の中蒙国境越えの時と同じ夜間帯であるが、視覚の上でも精神上も段違いの重厚な闇が横たわり、眼ではほとんど確認できない対象物への興味は増すばかり。仰々しい国境を示す柵や扉があるわけでもなく、いつ国境を越えたのか分からないまま、結局ロシア側へ舞い込んでしまう。

 すると、探照灯(複数の大型豆電球)が煌びやかに照らすロシア側の停車場らしき所が近づき、こわーい迷彩色姿の係官が手ぐすね引きながら、入ってくる列車を待ち構えているではないか。一転しておどろおどろしい雰囲気に包まれる意外な局面となり、笑える雰囲気ではない事くらいバカでも悟れる、そんな展開が起ころうとしていた。

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 (モンゴル・ロシア国境の位置)

 列車内に飾られている時刻表の上では、ここはロシア側国境停車場ドゾルヌィ(Дозорныи́)と表示されていて信号場扱い。つまり、乗客の乗り降りなど出来る様な駅ではない。

 列車が停止すると、すぐに彼らはドカドカやって来ては入国審査が始まる。

 「これが俺たちのやり方だ」

 屋根の上にまで探査の兵がかじりつき、ドカドカとその固い靴底は不気味に辺りを震撼させる。国ごとにやり方も空気も全く違うことは分かっていても、国境を越えただけでこうも変わるものなのか。これがあるから陸路国境越えは楽しいものである。

 さあ、中国やモンゴルのように観光客ウェルカムの国と違い、今までのような遊び半分のハンパな気持ちでは食って掛かれない、そう悟ると、神妙に入国審査の準備をして待ち受ける。

 配られた税関の用紙を記入して待っていると、まずは入管が現れてパスポートとビザの審査が始まる。それそれは真剣そのもの、ピリ辛状態の雰囲気が全車内を覆いつくし、全員に静止命令が下されればあとは成り行きに任すしかない。

 パスポートに挟まれたロシアビザは別紙になっていて、彼らはつぶさにそのビザを懐中電灯で凝視し、写真と本人の顔を取調べをするかのように見やる。

 沈黙と鋭い目つきが数秒間間に流れると、クリアしたのであろうか、再び儀式の流れに戻り、コンパートメント内乗客全員を一旦通路に出し、迷彩姿の税関係官が‘これでもか’という程、部屋の端からベッドの下まで片っ端に家宅捜査の如く検査する。

 思えば真の一人旅となった今、あてに出来る人間などいない。その存在の価値をいまさら痛感し、自分が異国の中で中身のない弱い物体として無様にさらけ出している今を認識せざる得ない。そんな中、小さな野心がゲリラのように出没した瞬間もあり、映してはいけないモノを映す快感とスリルを膨らませながらビデヲカメラを回すのであった。

 列車は検査を続けながら動き出し、しばらくするとロシア側国境の町、ナウシキ(Наушки)に到着してしまう。一応、ここで仮の‘儀式’から正式な儀式へと移り、税関連中の狼のような眼球が部屋を刺す。
 どう考えてもただでは済まないような空気がみなぎっているが、さすがは日本国パスポートである。関係があまりよろしくない 対ロシアでもいかんなく発揮し、ポーランドパスポートとの差を見せ付けてしまう。

 税関兵は懐中電灯を蛍のように掲げて、ありもしない不審物を見つけにまたせっせと暗闇しながら泳いでいるが、何もない事を悟ると、腹いせにポーランド人たちの荷物を片っ端から開けさせては彼らに何やら小言のように命令を下している。

 「二等国の連中のくせに、生意気に世界旅行なんぞしやがって」

 ロシア兵は、かつての親分国としてのプライドと西側へ心を移した格下の友邦への嫉妬を隠しきれずに堂々とその感情をぶちまけてしまう。闇の中の闇が炸裂した瞬間を目撃した私は、これからのロシア横断への行程を重苦しさとして抱えてゆく。

 長かった一連の儀式が終ろうとする時、記入した税関の書類を鋭い目線で見やり、豪快なハンを押しては申告書と共にパスポートとビザが私の手元に戻ってくる。何とか終了したその儀式は、私の脳裏から消え去ろうとするべく、すぐにくしゃくしゃにしてしまいそうなこの税関から渡された申告書の紙切れ。これは、所持金がいくらいくらあるのか申告する書類なのだが、これが後に大変な書類へと変貌するのである。

 列車はナウシキの駅に停まってしばらく経つが、入国の儀式が終ってもなお降車許可が下りず、留置場の中にいるかのような闇の中でじっと待っている。列車とは不思議なもので、走っている最中は何時間でも缶詰に耐えることが出来るが(閉じ込められている感覚もない)、停まった車内となるとこれがまたイライラしてくる。

 それがついに解除となる瞬間がやってくる。丑三つ時であろうか、突然周りが騒がしくなり、その喧騒で私の閉ざされていたまぶたが開かれる。聞けば、私にも外出許可が出たようで、車内の乗客たちが、袋から零れた大豆のように出はじめると、私もその大豆の一粒となってロシア初の土を踏む。

 ナウシキの低いホームには、線路に沿って、弱弱しく電球が輝いているキヨスクの店列が口を開けており、乗客たちで静かな賑わいを見せている。当地でもキヨスクはキヨスク(Киоск)と呼ばれており、地中海生まれのこの固有名詞はどこの国でも通用する、ありがたい名である。

 そのキヨスクの値札には‘P’と表示されている。国境を越えれば当然通貨も違う。それはロシアルーブルのPの意、レートを知らない私は早速物価のマジックに操られてしまうので、何かを買ってみなければ何も始まらない。

 「国境であれば両替所くらいあるだろう」

 そう信じて疑わなかった私の固定概念は流動概念へと様変わりしてゆき、換金場所を見つけられぬまま時だけが流れてしまう。ドルは使いたくないし、時間は真夜中。よく考えれば、こんな時間に両替所が開いている訳はない事くらいすぐに分かりそうだが、私は列車という特別的存在の威光だけを頼りにして両替システムも完備されている、そんな迷信に近いものを頭の中に飾っておいたのだ。

 やはり、ルーブルがどうしても手に入らない。ヨーロッパ調のナウシキの駅舎を出て駅前に立つが、目の前は正真正銘の墨汁が垂れたような恐ろしい闇が漂っているだけに恐怖に近いものを感じると、迷わず体を反転させてホームに向かおうとする。

 すると、駅舎内に重厚で歴史を大げさに感じさせてくれるロシア風近代建築の柱の電子時計が眼に入り、それは21:59を表示している。これは私に本気の衝撃を与えた。

 モンゴル国境を越えたのは確か午後10時を過ぎていたような気がする。あれから国境審査だ、缶詰だ、で4時間は経っている、と感覚で刻んでいた私の脳と腹時計は、今まさに針がクルクル迷い回りながらこの謎解きを明かし、ようやくかすかな知識を取り出してはこの状況を理解する。

 これははるか西方のモスクワ時間であった。鉄道など国土を縦横に走っている国家単位を預かる機関では、正式にこのモスクワ時間が採用されていて、当然現地時間というものも便宜上存在しているが為に二重の時がシベリヤに滞りなく流れているのである。その差、最西のSt(サンクト)・ペテルブルクから最東のベーリング海峡まで9時間というのだから、ロシアという国は恐ろしき広さである。(2011年時、時差改革が行われ、ロシア東西最大時差は縮まっているが、問題が多い。)

 駅の時計の上では夜はまだまだこれからであるが、現地時計ではまもなく陽が明けようとする頃で、逆にモスクワが朝7時を迎える頃はここでは真昼、ベーリングでは夕方ということになる。当然人々はそんな煩わしい時の制度に忠実ではなく、単なる指標としてモスクワ時間を横目で見ているだけで、みな自分たちの太陽を優先にして体を動かしている。

 因みに、ここナウシキの現地時間はモンゴル夏時間と同じである。つまり、日本時間と同じであって、これもまたおかしな現象となってしまっている。

 さて我が第5列車であるが、ロシア国鉄の機関車も食堂車も交換されるのだがそれだけではない。荷物車を切り離したり新たな客車も間に増結するので、切り離しては結けるの繰り返しが延々繰り広げられ、客車はガッチャガッチャと行ったり来たり前後に揺り動き、その動きに私はベッドの上でうざったい記憶を育成しながら不完全睡眠に溺れてゆく。そして4:00、ようやく静かになった駅構内から、列車は誰も気づかれないかのようにひっそり走り起つのであった。

 Aへつづく・・・

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2011年05月13日

〜 長城を越えた その平原〜E /シベリア横断 (前)

   6. ウランバートル出発

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 モンゴルの旅の陽は大きく西空へ落ちようとする。

 私は慣れた手つきで草原の糞を無言で拾い集めていると、眼前に大きな馬に跨った初老の男がもの言わぬままこちらを見下ろす様に現れ、そして立ちはだかった。

 大地に沈んだばかりの細い光線の残照がその初老の体を弱弱しく照らしていて、私はかすかな神々しさに見とれてしまい、思わず仕事の手を止めてじっと無言で初老を見つめ返す。すると、老師の馬が突然嘶(いなな)き、その瞬間、初老士は誇り高き笑みをササっと浮かべては、手綱をハッと握り締めて馬蹄の弧を描いてポコポコと東の草闇の波へ小さくなってゆく。

 長い沙漠の瞬間的に我が目の前で起きた一連のこの光景にすっかり呆然としながら、小さな感情を抑え天を仰ぐ。

 この国を貧しい土地と思い込み、先進国の民という立場からこの国を高い位置から見ていた自分が、あの初老に思いっきり何かを平手打ちされたような気がして仕方がない、と思わず舌打ちする。

 今まで様々な貧困国を見、モンゴルがその中で一番貧しいと信じてきたのだが、なのに、この大地の民にはそこから来る悲愴なものをなかなか感じはさせない。特に都市部の人々よりも遊牧をしている民にこそそれを強く感じるのだ。

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 ここの遊牧民は、自然界が許す限りの永続可能なものを価値とみなし、先祖伝来の知恵を授かり、自然を熟知した術、深い平和的な宗教観と民間信仰、家畜を家族のように敬い、そしてチンギスハーンのような偉大な先祖を持っている。モンゴルの民たちには、この大地と、これらと仲良く共存してゆく術という財産があり、それはそれで十分満足なのである。その満足こそが豊かさであり、人間本来の高い価値観なのかもしれない。初老の笑みはそんな事を語っているかのようであった。

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 さて、ウランバートルに戻った。ロシア大使館近くの旅行会社に出向くと、ビザはもうすぐ出来るというが明確な日にちは告げられない。これが社会主義スタイルの残影である。

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 (ウランバートル市内全景)

 旭川に似た盆地で北緯47度にあるウランバートルの町はもう秋を通り越して冬支度に入ろうとしていた。まだ8月下旬というのにだ。

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 (モンゴル政府庁舎)

 失業者が屯している団地には小便臭さが常に漂い、気候とともに人の心も寒々しくなり、私は早くこの町から脱したくなってくる。ロシアビザが出来るまでテレルジなどの保養地で過ごし、なるべく都市部の生活を避けようとしたが、なかなか長続きはしなかった。

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 (モンゴルの一大保養地、テレルジ)

 
 思えば私はイギリスへの途上の中にある。いいかげん駒を西に進めたい。モンゴル入国12日後の8月27日、ついにロシアビザが手に入り、次なる国を目指す道に迷いはない。

 ビザを確かなものにすると、今度はロシア行きの列車の切符を買いに行かねばならず、ウランバートル鉄道駅から少し離れた路地裏にある国際列車の切符発売所に出頭、国籍やパスポート番号などを記入する用紙を手渡されてはドル現金で切符代を払うと、向こうから手書きの切符がポンと姿を現す。ウランバートル−イルクーツク間1113km、料金は48ドル(約5800円・当時、うち7ドルが手数料)。支払いがドル払いというところが国際列車らしい。当然ロシアビザがなければ手に入らないのだが、特段ビザを確認するような事は切符売り場ではしない。

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 (ウランバートル駅舎)

 出発の当日、この日は火曜日だった。火曜バージョンの運行列車は主にロシア国鉄が運行の主催、駅の雰囲気もロシア系の物品や人々で今まさに溢れようとしており、丸々肥えた金髪女性や傷んだ皮製の服を着た大男がホーム上を悠々と闊歩している光景もあるが、しかし思ったほどロシア人の姿は見られない。

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(ウランバートル駅 ロシア行き発車間際の様子)

 ウランバートル駅舎正面の一番線にすでに待機しているモスクワ行き急行国際列車、通称5番列車。そのロシア製客車の周りには、見送る人、見送られる人、荷物や雑貨を列車に詰め込む人たちでたいそう賑わっているが、どうも中国からの時と比べて力を感じないのは、今のモンゴルの対外関係を如実に示したものなのかもしれない。今や人や経済は中国どっぷり、ロシアは資源だけ。
 しかしながら、モンゴル人の多くは中国とロシアが実は大嫌いだけど、国境を接しているのは悲しくもこの2大大国だけという現実。心は複雑だ。

 上半分がブルー、下が赤色の外装をしたロシア行き列車は、食堂車以外はロシア国鉄客車という構成。もう中国車輌とは縁がない区間となりそうだ。

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 (発車を待つ第5急行)

 そんな車輌の中に入ればうって変わってこの客車は想像以上に簡素で殺風景。もうすでにロシアに到着したかのような錯覚に陥れられ、ロシア美人の車掌と共に愉快なはずのシベリヤの旅を期待させてくれる。

 発車5分くらい前になってようやく先頭にディーゼル機関車が連結され、予定より5分遅れて13:55、第5急行モスクワ行きは静かにウランバートルのプラットホームから離れゆく。ついに13日間世話になったウランバートルを去る瞬間が今ついに訪れ、私は、見慣れてしまったウランバートルの燻ぶった街の最後の瞬間を眺め、そして見つめ直している。二度と来ないであろう、という今生の別れのシーンとして込み上げてくる感慨が、これからの旅路をぼんやり曇らせてしまう。

 イギリス到着リミットまであと3週間である。

 〜 長城を越えた その平原〜 @〜E おわり

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2011年05月12日

〜 長城を越えた その平原〜D /シベリア横断 (前)

 5. 遊牧の民

 モンゴルの大地にはこの住居がよく似合う。

 その住居とは『ゲル(Ger)』または『ユゥート(Yurt)』 と人は呼ぶ。けっこう有名な呼称で、写真と名前をかざしたら多くの人は記憶にあると思う。 これは、モンゴル民族特有の移動式住居で、どちらかというとテントに似ているが、彼らの意では『家』である。因みに中国領側の内蒙古では『パオ‘包’』と呼んでいる。

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(モンゴルの移動式住宅‘ゲル’)

 そのモンゴルの家に今夜は宿泊することになった。

 中に入り、早速乳茶でもてなされた一向たちの周りでよどみ無い暖かさで程よくまとまっているのは、草と薪が焼(く)べてある金属製のストーブのおかげであり、それは中央に‘デン’と置かれ、そこから煙突が屋根を突き出て真空の空へ伸びている。テントの中は基本は土足だが、寝床の周りだけは靴を脱ぐ習慣のようだ。

 ここの餓鬼んちょたちに案内されて外に出ると、さらにもう一つのゲルが傍に寄るように置かれ、それは寝室専用のゲルで骨組みしかない金属製の簡易ベッドしかない。金属の柱で組み立てられたベッドが五つほど並べられている。

 はてさて、偶然に辿り着いた感のあるこのゲルだが、今まで展開されてきた一連の出来事とは実は偶然ではなく、このツアーの予定内のイベントである、というのをここでようやく悟るのだった。何も聞かされていない一行だが、特段彼らに不満や不安は起こっていないようだ。

 この夜、一向は遊牧民からの最上のもてなしを受ける。観光客相手の待遇と分かっていても、普段営んでいる生活スタイルから少し格を上げている事くらいは密かに感じているのだが、一方で、彼らの特別なるこれからの夜を感じさせない程、これが遊牧民の普通の姿と思い込ませる、そんな遊牧民の日常に接する機会に恵まれた事にこの異国からの訪問者たちは熱い価値を感じている。

 陽が終末に傾く頃に台所の風景を眺めてみると、今まさに肉片が並べられ、今夜は肉料理を確信させてくれる。それも羊肉が主賓のようだ。骨以外はとことん食用にしてしまうらしく、彼ら曰く、残したら神からの天罰がくだる、と笑顔で力説する。
 肉の他にも、小麦粉から作ったうどんとジャガイモもある。どうやらモンゴル遊牧の民たちは、畑が貴重すぎてあまり緑黄色野菜は食べない様である。

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 (遊牧民の貴重な畑)

 出てきた夕食は『ゴリルタイ・ホール』という、いわば肉うどんだ。それをすすっていると、やがて人間界の刻みは午後8時を回ろうとしているのだが陽はまだ沈まず、荒くギザギザとしたはるか遠くの山ぎわを色濃く残した山脈がゆっくりと影へと化しては、弱弱しく静かに地平線上に足跡を刻々とあぶりだされてゆく。やがて陽は西空に見事なくらい臨終に赤く燃え盛り、それは神の存在さえも感じるほど非科学的な浮景に脳全体が踊らされてゆく。その身震いするほどの不気味な光と闇にすべてが巻き込まれてゆく。

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 (草原の夕陽)

 すると今度は神聖な星空がストンと現れ始め、その頃になれば、一行の宴は星を摘みながら舞い上がって放たれ、その軽い笑いに味付けされた安っぽい悲鳴と叫びがゴビの乾いた大地にフワフワと流れてゆく・・・。

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 翌朝、二日酔いの一行を乗せたバンは、太陽の位置からして真北に進んでいる事を確信する。ようやくウランバートルへ向けて折り返しが始まったようで、なん人をも惑わす不確かに見える大地の糸道を、案内役のおっちゃんは寸分の迷いすら悟られずにアクセルを踏みつけている。

 すると、地平線上に浮かぶ鏡のような反射。それは確かに泉女神の存在を肯定するしかない、見事なオアシスである。これは古くから多くの沙上の民を陥れた神の悪戯な出会いだ。

 知識の上ではそれが嘘八百である事は重々承知をしているのだが、あえてそれを湖の姿として捉えると、なんだか急に純白な人間としての素地に戻った感すら覚えてしまう。この架空の湖は、簡単に一喜一憂する人としての非武装な姿として、そして心の奥底の裏表を滲ませた鏡なのかもしれない。人はいつもこの世(よ)うに幻想に惑わされているのか、と。

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 (沙漠のいたずら、蜃気楼)

 その泉を追っているうちにクルマは‘マンダルゴビ’という村に迷い込む。往路の時は経由しなかった村で、沙漠の真ん中に突然湧き上がったかのような小さな集落だ。このツアーにおいて初めて人工的な香を嗅ぐ瞬間かもしれない。

 散々走ってきたバンのエンジンは悲鳴を挙げておりダウン寸前だ。その為にも少々ここで休ませなければならないようで、エンジンがシュウシュウ〜喚いていると、おっちゃんは村はずれにある井戸に横付けしては水を汲み上げてエンジンを冷やし始める。私も一緒になって潤水を頭から被ると、一瞬水中にでも潜り込んだ異郷を目撃するが、数分後にその水分は空上に舞い上がってしまう。

 ところで、村は凛として静まり返り、その中心には小さな広場が横たわっている。エンジンを休ませると、その異様な静寂に殺されそうになるほど一行の動きを鈍らせる。
 
 トボトボと辺りを歩いていると、神々しい仏教建築の寺が黄金の鋼を纏って煌びやかに座しているのだ。この国が改めて太古の昔から鼓動を受け継いでいる仏教国だ、という事実を目撃した瞬間だ。

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 (とある村の古寺)

 すると、寺の前には傷だらけの掲示板が横たわり、政治関連のスローガンが殴り書かれたものが雑貨のように並べられている。宗教施設である寺はコミュニティーの中心のようだ。
 その時、乾いた砂風に舞い上がる政治家のポスターの紙片が微妙な角度で声を上げ、それがこの国の奥の深い今を語っているに見えるのであった。

 この人の気がない村において、二・三軒の商店があった。入ってみると、西洋式バーに似たカウンターの背後に簡単に数えられる事が出来るほどの品数の商品が棚に置かれ、昼間からモンゴル焼酎に酔いつぶれているオヤジたちがカウンターで色気の無い話を蒸しかえしている光景が展開されている。

 若者がいなくなった村。広大な原野と共に見捨てられた彼らのやりきれない現実が、訪れる者をはばかる事なく覆っている。

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 再びエンジンを盛り返したバン。峠をいくつか越えては一日やそこらでウランバートルには戻れない為、途中でテントを張って闇雲に巣を作ることもう二晩、一行は何とかウランバートルに戻れる気配を最期に感じ始める。

 最後の夜、ゲルが点々とした人の気配のある大地でテントを張っていると、その付近で村人が何やら大きな鍋でグツグツと何かの物体を煮ている光景を目撃する。

「サンバイノー(こんちわ)。これは何だ?羊か?」

と問うと、案内役のおっちゃんは笑いながら村人と一緒に鍋の肉片を私に勧めてくる。何やら羊ではないらしい。

「タルバガーン!」

村人の一人がそう言うと、私の手は微妙に反応してしまう。そう、このタルバガンとは、この沙漠の大地の穴を掘って生活している野鼠?(又は食用リス)の事で、煮えきってドロドロになってしまっている褐色物体が私を見つめている。お前も食うか、といった勢いで村人はその一部を箸でつまみあげては私の方へ差し苦笑いをしている。外国人が食べたがらない事くらいは知っているようだ。

 タルバガンはペスト菌を媒介する恐ろしい動物と聞いていた結果、私は大げさ以上に敬遠するのだが、今なお食料事情が貧しいモンゴルの人たちはこれを食する習慣がある。つい先日、これを食べた西部のある村人がペストにかかり、その村は完全閉鎖された、とおっちゃんは怖い顔して話すが、そんな事はお構いなしに彼らはバクバクと口に放り投げてゆく。

 その横では羊や馬たちが悠々と放たれているが、彼らを囲う柵など一切ない。モンゴルの放牧風景では当たり前と思っていたものだが、私は後である事に気づく。これは必要以上の家畜を持たず、個人の能力の範囲内で畜産する伝統が生きているのだ、と。当然能力の高い者はより多くの畜羊を持てるのだが、それでも生態系の範囲内で収まるので、結果的に自然をうまくコントロールしているのである。

 多すぎる畜物は大地の草を食い尽くし、そして伝染病が一度発生すれば止めるのに相当な労力が要る。先祖伝来の遊牧の知恵は、彼らだけではなく、囲いを解けない文明という悲劇的な発明に溺れた国たちにこそ生かされるべきなのかもしれない。それは私たちの遺伝子のどこかにまだ宿っているのだと思うが・・・

 Eにつづく・・・

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