2011年02月27日

アルバニアの回(最終)

アルバニア脱出(最終)

アルバニア位置.jpg Albania2.jpg
(アルバニアの位置)
Durres.jpg
(首都・ティラナより約40km)

 4. ドゥレス(Durrës)

 ● 到着

 内陸の首都 ティラナから約1時間、錆ついた潮の香りがする行き止まり式のドゥレス(Durrës)駅に百人ばかりの旅人たちが一斉にホームに降り立つ。
 駅舎はコンクリート製で立派だが、トイレは見るに耐えないほど汚く、鉄道用窓口は閑散としていて、列車の発着時間以外の駅構内はがらんどうとなり閉鎖されてしまう。この駅から発車する列車は、ティラナ方向と国の南部方向の鉄道路線で、どちらも同じ方向へ発車しては途中で分岐するのだ。

 鉄道駅周辺には旅行会社のオフィスが建ち並び、ここでイタリアまでの乗船券を後で買うことになる。
 船賃はユーロまたはドル払いのため本日のレート表が掲げられているが、そのレートを見ると、あれ?今までユーロよりもドルの方の額面が上だたったのに、ついにドルを上回りユーロの方が価値を上回ってしまっている。為替というものは普段さほど変動はないが、動くときはダイナミックに動き、毎日気にはなる存在。旅先での為替の動向は非常に重要で、外貨を持ち歩くこの生活は為替と常に同居しているという事なのだ。
 因みに、この時以降ドルがユーロを上回った事はなく、それどころかドルは一時期を除きどんどん価値が下がってゆき、10年近く経った今では目も当てられないほど全通貨に対して下落してしまっている。

 さあ、駅前の通りを歩いてみると、タクシーたちが混沌としながらズラー並んではと激しく客引きが華やかに始まり、乞食が次々と近寄ってきて、宿を探す雰囲気を瞬く間にかき消してくれる。
 そんな状況に躊躇していると、列車の中で知り合った夫婦が、「ついて来い」と言わんばかりに私を導き、埃っぽい道をしばらく歩かされた後、とある自転車屋に立ち止まる。
 もしかしてここがお勧めの宿なのか?と勝手に思い込んでいると、夫婦は、「友人を紹介する」と言い出し、一人のハゲ面のオッサンが私の目の前に現れる。

「ホテル〜オーケ、ノープロブレム〜」

と定番の英語を使いまわしては私をタクシーに導く。まだどこかへ移動するようだ。
 通常このような事は避けなければいけない事であり、知らない人間の車に乗るのは非常に危険である。しかし宿がない状況下で不安に陥っている心理はそれをも省みず、「やってみよう」と言い聞かせては運を天に任せ、私は訳の分からないまま車に乗せられる。

 車は南方向へどんどん街から離れてゆき、私の不安が頂点に達する。どこかに連れて行かれて強盗だなんて事になったら可笑しくて笑われるだけだ。車は30分ほど走った末についに車は停車する。

「ついに身包み剥がされる時がきたか」
と観念すると、幸いそうではなく、彼所有のホテルに導かれただけの事である。結果は無事だったが、今後はこのような状況を気をつけた方がいい私である。

 そのホテルとは、2階建ての民宿のようでなかなか立派であるが、果たしてこんな所に観光客が来るのであろうかと、まったく不思議なもの。場所的には如何せん街から遠く、周りには商店が一切なく、軍事基地の目の前だしとにかく最低のロケーション。
 断ろうかな、と思っていると、ホテルの裏手から‘ドドドド〜’という音が。何とこのホテルは線路際にあるではないか。こりゃ、25時間撮影ポイントスタンバイOK!。私にとってまさしくベストな立地なのだ。そう、一瞬のその感覚が判断を迷わせ、つまり料金交渉が始まっては、あちらの言い値で2泊で30€(約3700円)、それを何とか3000LK(約2700円)にした私である。

 周りを傍観していると、山側に乾いた丘が目に入り、早速その丘の上を目指して列車の撮影をしに俳諧し始めるが、丘に登る道がなかなか見つからず、たちまち民家のおばあちゃんに怪しまれる。そりゃ、普段見かけぬ東洋人がこんな所をウロチョロしているのだから、怪しくないと言えば真っ赤なデタラメである。
 私は何とか、
「目的は列車の写真を撮る為なんだよ」
と、線路の方向を向きながらジャスチャーしアピールするが、果たしておばあちゃんは分かってくれたのであろうか。ここが日本ならば、鉄道撮影は理解してもらえるのだが・・・(もちろん私有地には入らない事を前提に)。

 すると、そのおばあちゃんは敷地内にある早道を指さし、‘ここから丘へ登れ’との事。ありがたくこの道を利用させていただく私。野良犬がしつこく付いてきて鬱陶しく思いながらついに見晴らしのいい場所を確保、すばらしいお立ち台だ。
1 アルバニア列車外撮影(夕方カーブ進入).jpg11 アルバニア列車走行光景.jpg
(列車撮影)

 そこにロバを2匹連れた老夫婦がのんびりやってくる。その光景は実にアルバニアらしい光景で、軽く会釈すると、相手側はこんなところで東洋人に会うなど思いもしないだろう。
13 ロバとアルバニア.jpg
(ロバを連れた住民)

 翌朝、あまりにも肌寒く静かな空間の中で一人佇む私の心はやはりきしんでいる。この民宿には私一人のみが宿泊者のようで、オーナーもメイドも誰もおらず、立派な飾りを施した内装の廊下を、私の細い両足は、普段足音などしないはずなのに細かな足取りも記録できるほどしなやかに響き渡る。
 そして、宿のどの蛇口からもお湯どころか水一滴さえも出ず、もちろんトイレの水は流れず、スイッチを入れても電灯は点かず、まるで未完成のお屋敷の様。孤独がしんしんと積もってくる。

 私は昨夜の食堂にまた出向き、昨夜と同じものを注文し、同じテーブルに座る。というのは、他の食べたいものが思い当たらないからで、食べたいものを作るための自炊が出来ず、このような国での外食の連続は精神的になかなかきつい。

 淡々とパンをちぎっていると、ここのやしきたかじん似の親父と息子が興味本位で私に近づいてくる。イタリア語といえばこの国の唯一の外国語で、それが世界の共通語と思っているようなので、‘英語しか出来ない’と言うと、
「何だ!外国人のくせに外国語が出来ないのか!」
と、彼らから怒られてしまう。イタリア語が通じる外国なんてアルバニアくらいじゃないのか。でも、日本語だって台湾以外一切通じないのだから、日本語はイタリア語と同じレベルかもしれない。

 そんなやり取りをしていると、外から『キキーバン!』と鈍い音が辺りを突き刺す。交通事故が食堂の目の前で展開された様だ。野次馬が集まりはじめ、なんだか面白そうになってきたので私もカメラを回すが、そのような事は事故の瞬間を映さなければ意味がなく、事故後の当事者同士のやり取りなど面白くも無い。

 事故車は、駐車場に入ろうとした乗用車同士の正面衝突のようで、が体の大きい男たちが言い争いをしている。果たしてこの国には自賠責保険などあるのであろうか。やがてポリッツェ(警察)がやってきて事態はあっけなく収拾され、なかなか警察の対応もすばやいものだ。

 やれやれといった感じでテーブルに戻ると、食堂で屯している客の中の、桂三枝似のオヤジがいつの間にか私のテーブルに居座っては何やらアルバニア語で言い寄ってくる。わけの分からないままその状況は大潮の如く、彼は勝手に話をヒートアップさせ、このアルバニア特有の人懐っこさは時には心地よいのだが、悪く言えば調子がいい。
 ビールやつまみを勝手に頼んで自ら飲み食いし、また勧めておきながら勘定は私持ち。とんでもない連中だ。
 
  ● 町の歴史

 ここドゥレス(Durrës)は、人口約11万、場所は首都・ティラナの西 約40km、一方、アドリア海を挟んでイタリア・バーリ(Bari)から300kmの対岸に位置しているアルバニア最大の港湾都市であり、革製品やプラスチィック、タバコなどを扱う産業が集まっている重要産業都市でもある。

 町の歴史は古く、紀元前627年ごろに古代ギリシャの居住民によって戦略上有利なこの地に町が造られたのが最初である。紀元前230年ごろにはローマ帝国の支配下に入り、コンスタンティノープル(今のイスタンブール)などに通じるローマ街道の宿場・港町の重要拠点として栄えた。
 西暦4世紀ごろになると、ローマ帝国内の州の首都となるが、相次ぐ地震で町が崩壊した後、ローマ皇帝アナスタシオス1世(この町の出身)が、バルカン一強固な城壁で町を囲み、更なる繁栄をする。

 その後、支配者が入れ替わり、1202年の第4回十字軍遠征時にはベネチアの支配下に入った。そして1501年、オスマン・トルコによって町は落とされ、それ以前は、クリスチャン(ギリシャ東方正教)の教会が散らばっていたが、それらの多くがイスラームのモスクに建て替えられ、やがてこの町の重要性が薄れ、人口1000人程度の田舎町に没落していった。

 18世紀末から20世紀前半にかけて、アルバニアの独立闘争が激しくなる中、1912年のアルバニア独立宣言の時にこの町はセルビアの軍に占領された。
 しかし、すぐに第一次バルカン戦争が始まり、1913年、結果的にアルバニアの一領土になり、最初の公式な首都となった。
 続く第一次世界大戦時、ドゥレスはイタリア軍、オーストリア・ハンガリー軍、そして1918年に連合軍によって占領された後、主権がアルバニアに返還され、1920年に首都がティラナに移ってしまった。
 しかし激動はまだ終わりでなかった。1926年の大地震、第二次世界大戦中のイタリア軍、ドイツ軍の占領、連合軍による爆撃などで町は破壊され、やっと戦争が終わった、と思うと、今度は共産主義がやってきて過酷な圧政が待っていた。唯一、1947年の鉄道敷設によって町は大きく拡大した事で、ようやく現在のような港湾都市になった。

 1990年、共産政権崩壊の混乱でイタリアへ脱出する人々で埋め尽くされた町は大混乱となった。ここから船で約2万人もの人々がイタリアを目指し旅立ったが、結果、イタリア軍が介入する事態となり、また1997年、ねずみ講事件により国家経済が破綻し、ついにはイタリア軍を主力とするNATO軍平和維持部隊がドゥレスに配備され、現在も治安維持活動が展開されている。
 治安の回復という元来の目的は達成されたものの、その後の隣国・旧ユーゴのコソボからの難民受け入れ、そしてイタリアへの経済難民流出阻止という新たな任務が加わり、駐留は長期化しそうだ。

 現在、北アフリカのチュニジア、そしてリビアの状況に対してイタリアの置かれた立場は似ており、アルバニアの経験を基に行動するかもしれない。

 さて、そんな深い歴史あるこの町を、地図を持たずに適当に街を歩いてみよう。

 ● 街を歩く

 中心部から少し離れると、北方にこんもりとした小さな丘があり、その入り口は古代城壁が遮り、地元の人々がこの壁の前で青空市場を開いている。普通なら重要遺跡として柵か何かで覆われてもおかしくないが、ここはアルバニア。文化財なんて守っている余裕や関心などないのだ。
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(市場と化した文化遺跡)

 この城壁はローマ時代の遺跡。その向こうに入ると、ローマ時代の古代スタジアムが形を崩しながらも現存していて、観客席とそこに通じる通路など、現代のスタジアムと変わらない構造が見事に息を繋げており、普段遺跡への興味が乏しい私へ新鮮な驚きと興味を与えてくれるのだ。
 その古代競技場は、小学校の運動場ほどの広さで、子どもたちがそこでフートボール(サッカー)を興じている。あの子どもたちを眺めながら、私ははるかな古代ローマの興奮したスタジアムを想像してしまう。
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(古代スタジアムな空き地)

 再び歩こう。古代スタジアム付近から高台に登れる道が続き、さらに上へ登ってみると、正教教会とイスラームのモスクが沿道を交錯し、やがて中世の城跡らしい丘に到達する。
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(中世城跡の城壁)

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(戦時のトーチカの名残)

ここからドゥレスの町が心地よく一望でき、列車が駅に入って行く光景もつぶさに見渡せる。
 港湾設備がデカデカと沿岸に広がり、どれも錆び付いてはいるが、アルバニア経済が何とか好調になり始めた、と聞いてはいるが、おそらく港の景気がいいのであろう。どのクレーンも元気よく動いており、錆び付いているからといっても日々息吹を吹き返している。
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(ドゥラスの町の眺め)

 ドゥレスは港町だが、ここは天下のアドリア海、観光用の海遊びが出来る海岸もある。今日のアドリア海の波は荒く、岸壁に激しく潮しぶきを龍の如く上げ、その度に散歩中の通行人たちが笑顔で避けている。

 イタリアが近いということなので、町の看板などにイタリア語風の趣も感じ取れ、やはりイタリアの影響はとても大きいようだ。
 アルバニア人の多くは国内では稼げないので外国へ出稼ぎに出ており、その行き先はギリシャや旧ユーゴなど周辺国。特に海を挟んでイタリアはとっても多く、テレビ番組もイタリアのテレビがダイレクトに観られる環境にあるので、家々のテレビアンテナはみなイタリアの方を向いている。このアンテナがそろって西へ向けている光景が何ともおかしく見える。そういえば、サッカーの試合の話題はほとんどがイタリアのリーグ戦ばかりで、自国の選手の話はあまり聞かない。

 ところで、今日はアルバニア独立革命記念日前夜という事で大きなイベントがある様で、子どもやその親たちで町の中心部にある夕方の広場はすでに一杯である。あまり娯楽が無い様に思えるこの国では、このように市民によるイベントこそ最大級の楽しみであり貴重な娯楽なのかもしれない。
 始まったのは、合唱コンクールや一人でののど自慢、ダンスコンクールなどで、佳境は、ヨーロッパ各国で流行っているポップスの曲に合わせて、体つきのいい高校生くらいの女の子たちが踊り。これがなかなか見ごたえがあり、審査員の主観による採点で成績がよければ商品がもらえる、といった様なものだ。
 もちろん私が審査員をやれば、ダンスの技術よりも、体つきや風貌などであっさりと点数をつけてしまうだろう。もちろん買収もOKだ。

 夜の街をさ迷う。誰かに出会う訳でもなくただ単に何も考えずにただただ歩いていると、店のお姉ちゃんから客引きに遭ったのをいいきっかけにしてなかなか敷居の高いレストランに入る。    
 ところが、ここも他に客が居ない。私は、ピラフ、牛肉、玉子サラダとレモンジュースという、特段贅沢な料理とは言えないものを頼んだが、実はこれらのものはこの国の人々にとって高級なものなのだ。いや、食べ物が高級というより、むしろレストランで食事をする、という行為が高級なのかもしれない。

 ここの人々がレストランを利用するのは、コーヒーやビールだけ頼んで友人と語らう事が殆どの様で、それは外食すること自体が財布に合うものではないからだ。
 私が上記のものを食べて払った金額は630LK(約570円)。一般労働者の一日の賃金であり、これ自体が驚いてしまう。レストランの主人が、この数字を書いたメモ用紙を‘サッ’と無言で私に差し出すが、その薄暗いどんよりとした雰囲気といい、あまり好きにはなれないレストランであった事は記録しておく。

 この国に入って6日間、それなりに国のレベルが分かってきたが、人々はもっと質素な生活をしているに違いない。旅人からなかなか現状が見えないこの国で安い宿や食堂を求める事自体が無意味であり、旅をしながら過ごすという事自体にこの国が対応できない様子だ。観光客を優先するわけにもいくまい。電気がある、水が出る、という当たり前の事を要求する旅行者を、実はアルバニア人は快く思っていないかもしれない。
 そして、その国の経済力が弱い事を理由に、外からの外国人にとって物価が比例して安いという方程式は必ずしも成り立たない事も悟る。だが、対岸のイタリアに行けばもっと金かかる事は確かだ。

 そんな事も含めていろいろ宿で考えているとついには灯りすら消えてしまい、強制停電は後の私に鼻水の洪水を与えてくれるのであった。

 
 翌朝、陽は昇り窓の外を眺めると、治安維持部隊のNATO軍基地(イタリア軍)から、仰々しくミリタリー風の車列が門から出入りしている。占領軍の車列が通るような雰囲気だ。ここから対岸イタリアへは約300km、アルバニアとイタリアは兄弟のような関係であるが、横たわっている格差を悟ればこの海は長く険しく感じる。

 掃除のおばちゃんが、客のいない部屋も律儀に全部屋掃除をしていて、意外と働き者であると感じるが、それよりも「体を洗う水をくれ、便所の水を流したい、シャワーも浴びたい!」と水のありがたさをおばさんに訴える。
 おばさんは、そとからバケツ一杯分の水を持ってきて、何とか便所の水と洗顔の水は確保するが、宿が立派なものだけに、水や電気が来ない有様は、まるでマッチ売りの少女がマッチで擦った幻の世界に浸ったような2泊だった。

  ● 永遠の記憶の踏み切り

 ドゥレスの町には交通量の激しい踏み切りがある。私はその町一番の大踏み切りに立ち止まり、しばし人々の行動を観察してみる。
 荷車を引いた親父、ロバや馬に引かれた馬車、乗用車やトラックがひっきりなしに踏み切りを横切り、そして、それらすべての交通を遮断して列車を通す踏み切り保安係のおっちゃん。
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14 踏切1.jpg15 踏切2NATO.jpg  
(踏み切り通過!)

 列車の時刻が近づくと、おっちゃんは、踏切棒の横に立ち始め、列車がやってくる方角をじぃーと見つめ、列車がまだ遠く汽笛を鳴らしながら近づいてくるのを察知すると、一瞬でそれが列車であると判断し、垂直に天に伸びている遮断機をロープで降ろし始めてはテキパキと道を遮る。
 それには車を止めるタイミングがある様で、なかなか止まってはくれない車輌を強引にも遮断機で通せんぼして止めてしまう。
 ようやくおっちゃんは、近づいてきた機関車の運転手に向かってサインを出しては無事列車が踏み切りを通過させる事に成功するのである。
 その様子をカメラで撮っていると、やがておっちゃんとは意思疎通が軽やかに運び、踏み切り小屋でコーヒーを飲むまでの仲になってゆく。
 おっちゃんも、自分の仕事っぷりを撮影される事にあながち嫌な気分ではないようで、自分の華麗な任務を、特別な表情を見せるわけでもなくいつも通りの作業を黙々とやってのけてくれた。おっちゃんの下ろす遮断機は、あらゆる車輌を止め、NATOの軍用車輌でさえも遮断機の前では足もでない。
18 踏切おじさん2 .jpg
(任務終了)

 一方、この踏み切りの真上では、目下、立体交差のための高架橋建設工事中で、その現場作業員からも

「俺を撮れ!」

と、私の頭上からダミ声を浴びせる。私も労働者たちも笑顔で手を振り、そんな光景が交通量の多い、とある街角の建設現場で繰り広げられている。見知らぬ東洋の日本人がこんな踏み切りでビデヲ撮影をしているのだから、注目を浴びるな、と言う方が難しく、だけどみんな快く私を迎えてくれる気持ちのいい現場であった。
 数年後、この踏み切りは無くなっているだろうが、私にとって永遠の記憶に佇む踏切である事は間違いない。

 ● アルバニア脱出

 港近くの町のホットドック屋では、やはり私は好奇心の対象になる。
 18、19歳くらいの若者たちが自分の名前を漢字で書いてくれ、と次々に頼んでくるので、一人ひとりのリクエストに応じる。ところが、アルバニア人の名を漢字にする、それは意外と難しい。例えばアランデロ(Alandelo)。ただ単に日本漢字を当て字として使うのは余りにも芸がない。そこで‘荒泥男’。私にしてはなかなかいい発想力だ。
 ところが、‘チェッ’や‘ツェ’などはどう考えても浮かばないものもある。彼らはそんな筆が滞った私の表情を見ると、
「どうした、日本語忘れたのか?」
と不思議がるのだからどうしようもない。これをどう説明したらよいものか、解らないだろうな〜、この悩み…。

 ドゥレスの港は、市内中心部からやや外れた所にあるが、意外と簡単に客船の乗り場が分かる。さあ、アルバニア出国のときである。出国手続きは、プレハブ小屋のような適当な造りの建物の中で行われ、乗船客が長い列を作っている。私の番になると、
「白い紙をよこせ」
と係官が言う。
「白い紙?」
そう、入国時にもらったあの入国税領収書の事を指している様だ。危なくどこかへ捨てるところだった程、どうでもいい書類を思い込んでいた。
 それを提出し、難なく出国スタンプを‘ポン’と押されいよいよ乗船開始。これでアルバニアのすべての日程が終了する。

 午後10時、フェリーは最後の車輌である大型トラックを載せ、岸壁からロープが離されるとついに出航。汽笛一発!港を駆け巡り、ドゥレスの港を静かに離れる。町は次第にゆっくりと弱い光となってゆき、近郊の海岸線の灯かりが遠くに下がってゆく光景を眺めながら、私は熱いコーヒーを片手に静かに見つめていた。
 
 (アルバニア編おわり)

4 ドゥラスの親子.jpg
(デゥレスで出会った親子)

posted by kazunn2005 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2011年02月20日

アルバニアの鉄路:後編

食糧価格の高騰、2008年のような暴動引き起こす可能性=仏農業相
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1507346&media_id=52

 そういえばあの時、日本の人々は、民主党を中心にした石油にかかる暫定税率廃止の叫びに流されていましたね。結局暫定税率は一瞬なくなりまた復活してそのままなんでしょう。何だったのでしょうか。

 それを思うと、今回の騒動は石油だけではなく、穀物など食料全般、鉱物、そして綿花などの他の農産物が対象です。特に食料は生きていくのに不可欠なので、値上げって困るのは食料。その食べ物を買えなくなる人々が多くいる新興国ではまさに生きるか死ぬかの問題。

 先ほど私も西友の食料品売り場に行きまして、肉や野菜が騰がっており確かに日本も大変なのですが、諸外国ほどの高騰ではないようです。その証拠に格安の牛丼店がある日本は本当に幸せだと思います。ただ、今後どうなるか解りませんが。

 今回の食料相場の高騰は三つ原因があるとされています。一つはオーストラリアやパキスタンなどの洪水、中国の干ばつ、ロシアの猛暑などの天候不順による不作、二つ目は新興国などの需要の増大、ここまでは仕方ないとして、三つ目、アメリカの二回の大規模な金融政策、Quantitative easing(QE、量的金融緩和政策)。アメリカのFRB(中央銀行にあたる)がお金を世界にばらまいた結果だといわれています。

 これは、銀行や政府の債権や証券を中央銀行が買い入れることによって通貨を銀行に行き渡らせて世の中のお金の貸し出しを金利を低く抑えるからそのお金で経済活動を盛んにやってくださいよ、というもの。

 ところが実際は銀行は焦げ付きが怖いので融資に消極的、消費者は借金が怖いのでこれもためらい、だから売り上げが上がらない企業は借りてまで設備投資をし難い。結果、金融機関にたくさんのお金が眠ったままとなります。FRBは第一回目の緩和で145兆円ほどばら撒いています。こういった単位のお金を他で運用すれば利子とかで儲けが出るでしょう。だから株や債権だけでなく、石油などのエネルギー穀物などの食料、金などの鉱物等の先物・現物市場、そして新興国の経済投資にお金が滝のように流れてきたのです。

 新興国では景気が良くなったけど相場が騰がり、また米ドルが極端に安くなったので手持ちの米ドルでモノが買えなくなり国内の価格が急騰、結果、今まで何とか我慢してきた独裁者の不正腐敗に爆発したのが今回の騒乱と見ていいでしょう。簡単に書けばこんな感じですが、フェイスブック等インターネットツールが米国発などまだまだ沢山理由はありますけど。

 米国としては複雑な気分でしょうね。自分たちの政策によって反米国家が出来るかもしれないのに。でも計算済みかもしれません。

 
 さて、今回もアルバニアのお話を書きます。ちょうど物価のニュースが頭にあったので、アルバニアの鉄道と題は打ってありますが、多くは物価のお話を中心に書きました。訪問年は2002年11月です。

 今宵はこんな曲を聴きながら読んでください。当地では結婚式が多かったので・・・
http://www.youtube.com/watch?v=uKB6zM4SKBg

(中編からの続き・・・)

アルバニア位置.jpg
Albania2.jpg
(アルバニアの位置)

アルバニアの通貨
アルバニア レク:当時のレート(2002年)は、1€≒136.1LK、1Lk≒1.08\と額面は日本円に近いので計算しやすい(2011年2月現在:米ドル(USD)≒103 アルバニア レク(ALL) )。

こんな感じのお札です(筆者撮影)
お金 南欧 アルバニア 表 - コピー.jpg
お金 南欧 アルバニア うら - コピー.jpg



  首都ティラナ

 闇間の鉄道駅をとぼとぼと離れ、その向こうの燦燦と光り輝く明るい通りの下をアテもなくさ迷い始めるその時、ようやく気が緩み体がほんの少し軽くなるのを覚える。長かった暗闇の旅、人はやはり常時の暗闇には耐えられないのかもしれない。

 ホテルを探すため大通りを歩いていると、一人のオッサンに声を掛けられ、不安だったホテル探しもあっけなく終了。実はここティラナの宿情報がほとんどなかったため、オッサンの一声が天の声かと思ったほどだった。ただ、10ドルと彼は言ったのに結局最終的には15ドルに吊り上げてくる。彼らと交渉する時は、いちいち紙に書かないと駄目なのだろうか。

 仕方なく15ドルで妥協する私であるが、宿と言ってもただの家、つまり彼の自宅の一室を提供するというもの。これはルーマニアやブルガリアでもそうだった様に、現金収入の乏しいこういった国でのささやかな臨時収入ゲットの常套手段。今(2011年)はどうなっているのか分からないが。

 さて、その現場であるが、外見としてはただの傷んだコンクリート団地、中に入るとアルバニアの住宅としては中々立派で、宿としては申し分ない。蛇口からはお湯が垂れ、アルバニア初のシャワーを浴びる事ができるようで、暖かいお湯が奇跡のように思える私であった。

 
 ● ティラナの町

 少しティラナの街を散策してみる。

 アルバニアの首都ティラナは、人口約35万(非公式では約70万とも言われている)、山々に囲まれた盆地の都市で、大学や各種専門学校が集まる学研都市でもある。町の歴史は、数百年前、オスマン・トルコに支配されてから栄え、第二次大戦後は、ソ連による指導で工業が発達していった。

 今日は日曜日なので閉まっている商店が多い。街の中心は、国立歴史博物館付近のロータリーのようで、スカンデルベク(オスマン・トルコに抵抗した中世の将軍)の銅像が鎮座しているところがそのポイント、だが、この街の見所ははっきり言ってそれくらいである。

35.ティラナ中心部広場.jpg 
(スカンデルベク銅像広場の様子)

 そして市内交通は、地下鉄もトラムもトロリーバスも一切無く、路線バスとタクシーだけが移動手段であるのでバスは常に混雑している。街は特に危険な雰囲気も無く、人々は平穏に日々を営んでいる様である。

 さて、日本へ絵葉書を出そう。ティラナの郵便局は分かりにくく、苦労してそれを見つけてしまうと「これが郵便局かぁ?」と思うほど看板もないただの無機質な事務所の建物だが、日曜日なのに開いているのは何故であろうか。まあ、運がいいと思うことにし、アルバニアの切手を各種購入する。

 郵便局の前では、絵葉書や文房具を路上に並べて売っている爺さんたちが居て、ささやかでもいいから現金が欲しい意欲が感じられる。その横では、職安の入り口の如く若い兄ちゃん方がてんこ盛りに固まっていて、テレホンカードやタバコの闇売りをして屯し、近くを横切ると、「買え買え」となかなかしつこい。

 郵便局員はやる気のなさそうにおしゃべりに励んでいるいるわでどうも信用におけない感じもするのも仕方がない雰囲気。

 絵葉書は決して日本の友人に届くことはなかった。


 路地裏では、おっちゃん二人がさいころゲームに真剣に興じていて、こちらはなんだかのんびりムード。小さな空間にフリーマーケットのような個人商店がに寄り添うように連なっていて、そんな町の様子は、写真撮影のための雰囲気には好ましくない様だと察知するのは簡単だった。それでも勇気を出して撮影する。

36.ティラナ市内.jpg
(マーケットの衣類屋の青年)

 すると、男たちが血相を変えて近づいてきてはカメラを強引に取り上げられそうになり、カメラ映りを喜ぶ国民が何故?と思うのだが、実は彼らのほとんどがマフィア関係、という事実を知るのは後になってからであった。

 インターネットは、私が歩いた限りだと3軒ほど見つける事ができるが、日本語が打てもしなければ全く読めない。やはり日本人旅行者が来ないから誰も日本語IMEを入れられないのだろう。

 さて、今日はまだバナナ一本しか食べていない。安そうなレストランを探すが、私の探す能力が欠けているのか、英語で『Fast food』と書かれている店に入りメニューを眺めると、‘高い’。
 試しに一番安いチキンの丸焼きを適当に頼むと、本当に鳥をそのままグリルで焼いた丸焼き2匹が‘ドン’と目の前に出てくる。しめて670LK(約600円)。今思えばこの日本の感覚では安いかもしれないが、当時、私の東欧諸国汽笛街道最中の物価感覚では受け付けなかったのだ。とにかくこれをムシャムシャ食いちぎるしかない私は鳥一丸に集中し続ける。
 お味は…KFCの方がはるかに美味い様に感じるが、貴重な鶏さまの今宵の犠牲に感謝をしながら食べなければいけない。
 しばらくこの鳥と格闘していると、結局とても食べきれず、もったいないので、この鳥をお持ち帰りにしてしまう私である。


 翌朝、私はこの家の主人に、

「10€の宿見つけたからそこへ行く」

と告げると、主人は、「10€にするから出て行かないでくれ」とあっさり転換してしまう。彼はおそらくこの国の水準からみて比較的所得は高い方でお金にはさほど困っていない様に見えるが、やはり目先の現金がすぐに欲しいのであろうか。

 彼にもう一つ現金収入の道が開ける。洗濯である。しばらく洗濯をしていない私は、下着類などの洗濯物が溜まっている。そこで主人に「洗濯屋はどこか?」と尋ねると、「500LK(約450円)で洗ってあげるよ」と言う。ランドリー屋を見つけるのも面倒なのでここで洗ってもらう事に。こうして私は主人と良い関係が築かれてゆくのであった。
 だが、財布の中の現地通貨が乏しくなり、たいした事もしていないのに思いのほかポンポン金が出て行くような気がしてならない私である。

 主人に金を渡して再び周辺を散策してみよう。腹が減った。


 界隈には簡易のケバブ屋くらいしか外食は無く、これとビールを飲みながら一息つくしか楽しみはないようだ。楽しみといえばもう一つ、あちこちでアルバニア人のひと懐っこい特別待遇。これは決して悪い気分にはならないのだが、いつもの何倍も疲労感極まるのはなぜだろか。因みにアルバニア語でありがとうはファレミデニット(Falemindenit)と言い、入国以来、何回もこの単語を口にしたものである。

 広場の脇の路地裏の大衆食堂、ここではサラダと珍しくご飯、そして豆のスープとジュースで360LK(約320円)とまあまあ安く、驚くことにご飯を見つけてしまい、ここがトルコ文化の亜流であることを強く感じてしまう。
 メニューも‘ケバブ〜’という名のものが多く、すべてがトルコ風。事実、街は教会よりもモスクの方が煌びやかな存在感があり、長い間トルコに支配されてきたバルカン諸国の中でアルバニアが一番トルコ色を残し、そんな国はやはりここはヨーロッパであってヨーロッパではない、と思わせる何かが充満している。

 宿に戻ると、洗濯物は出来上がっているが乾いてはいない。乾燥機なんていう大層な機械などあるわけがないからだ。私は、交通量の多い通りに面した、‘公害バルコニー’に洗濯物を干すしかなく、排気ガスで臭くなるのを心配しながら衣類を洗濯ばさみに刺してゆく。

 ● アルバニアの物価

 ところで、アルバニアの物価というのはいったいどれくらいのものだろうか。

 ここにはスーパーマーケットというものがなかなかお目にかかれない。  散々探した末、少し郊外の住宅地の一角にそれはあった。小規模の割には品揃え豊富に感じるが、ここで売られている物の値段は他の個人商店に比べてやや高い。この割高スーパーが存在し得る理由としてただ一つ、辺りを見渡すと、政府高官やホワイトカラー層の住居である団地が集まっており、物価高は大体が察しがつく。

 アルバニア内の月収入は、商店主で大体日本円で2万から3万、失業率は大体15%ほど。それに比べて何故物価が高いか、いろいろ調べてみると、やはり物資のほとんどが輸入物だからという事が分かる。洗剤もノートも紅茶も服もみーんな・・・。

 例として・・・たばこ/約140円、たまご1ダース/約160円、トマト500g/約40円、じゃがいも1kg/約40円、牛乳1L/約150円、米国資本コーラー/約250円、ビール(国産系?)/約230円、食パン/約50円、トイレットペーパー6ついり/約180円、ガソリン1g/約90円、ジーンズ(安すぎずフツウの)/約2200円、ソニーハンディーカム(一番安いの)/約80000円。
(野菜は市場で、ハンディーカムとジーンズ以外はスーパーマーケットより)(2002年11月調査)

 国内で生産している物が農産物以外殆どなく、産業も乏しく外貨も無いため通貨が弱く、よって物が高いのだろう。写真屋でフィルムの価格を見るが、日本よりも高い位である。

 物価散歩も佳境、辺りは暗くなり、トボトボ歩いていると煌々と明かるい床屋が目に入る。そこで、6ヶ月ぶりに散髪屋に入ってみようと決心するのだ。なかなか腕は良く、洗面台などの設備も整っていて、先進国で髪を切ってもらっているのとさほど変わらず、髪を切る腕に先進国も後進国も関係ないと悟る。一散髪髭剃り入り500レク(約420円)

 床屋のオヤジは、珍しい日本人が髪を切りに来た、というので大張り切り。愛想のいいアルバニア人に切ってもらう事に幸せさえも感じる私は、奮発して髭まで剃ってもらう。
 散髪後、改めて写真撮影をと私が願うと、子どものようにはしゃぎ、そしてお決まりのポーズをとる彼ら。私はそんなキマッた非日常の瞬間よりも、客の髪を削いでいる凛々しい普段姿を収めたい。
 
37.ティラナ市内床屋.jpg
 (その凛々しい姿)

 ● イタリアへの道

 翌朝、シャワーを浴びようとしたらお湯が出ない。電灯も反応せず、強制停電が始まったようなのであっさりとあきらめ、あのお湯のシャワーが幻のように思える。よって、冷たい水で歯磨きと洗顔で我慢する。

 私はそそくさと荷物を整い始める。主人が「どうした、どこへ行く?」と尋ねると、私は特段表情を変えずに「イタリアに行く」と答えるのみ。なぜもっと心の通った交流をしなかったのであろうか、と今になって後悔するのであった。

 先日の鶏肉は結局腐ってしまった。神に申し訳ない。食べるものが受け付けず胃が小さくなりはじめ、駅までの徒歩の間、妙にリュックがいつもより重く感じ、体力が無くなってきているからであろうか。嫌、昨日干した洗濯物がまだ乾かず、水分の分だけ重くなっているだけだ、と言い聞かす。

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 (ティラナ駅前)

 その日の午前11時半ごろ鉄道駅に着き切符売り場へ。売り場はホームから少し離れたところにあり、子連れの母親が鉄格子の窓口越しに切符を販売している。
 国鉄ティラナ駅は、ブローラ駅と違い本数がそこそこあるので(と言っても1日10本くらいだが)窓口には常に人が居る。切符は港町ドゥレス(Durrës)まで98km、50LK(約45円)。

 ホームで列車の写真を撮っていると早速ポリース出現。ビデヲカメラを取り上げられ、以前ロシアでやられた苦しい記憶が湧き上がってくるその時、私は安堵の心がよみがえる。それは単なる彼の興味本位で、そうなんだ、と早く気づけばもっと楽しい瞬間かもしれなかった。

 11:55、南部のポグラデック(Pogradec)行き 機関車&旧東ドイツ製の客車3輌列車が発車し、ティラナ駅が遠くなってゆく。カメラのファインダーの中はいつもレンズを覗き込む人たち、恥ずかしがる車掌、自信に満ちた青年たちと、いつもの汽車旅が展開されてゆく。

 コンパートメントの同じ部屋では、ムスリムの子連れ夫婦とおばちゃん2人が陣取り、せっかくだから会話をしようと英語、ドイツ語、両手手さばきなどいろいろ試してみると英語のみでは相手は理解できないけれど、どうやら日本から来た、という事は分かってくれた様で、彼らは見事中国と日本の区別をしてくれた。うれしいものである。とてもフレンドリーに振舞ってくれて、歌を歌い始めるなどアルバニア人は本当に陽気で人懐っこい。

 アルバニアにはこれといった観光名所は無いが、観光資源ならある。それはやはり‘人’であろう。確かにマフィアや盗賊・ゲリラなど悪い噂は絶えないが、ありきたりな表現だがそれは一部の人間であって、一般国民は総じて日々の暮らしを安寧に生きている。外国人と接する経験が浅く、それがかえって垢抜けず純朴で子どもっぽい姿を見せてくれる。しかしそんな光景は今後どのくらい続くのであろうか。

 オリーブの畑を行き、やがて平地に出てコトコト走れば、定刻通り12:50、ティラナから約1時間で港町ドゥレス(Durrës))に到着する。

 次回はアルバニア編最終回です。
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2011年02月13日

アルバニアの鉄路:中編


アルバニアの鉄路:中編
アルバニア位置.jpg
 (欧州広域)
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(アルバニアの位置)
Albanien_karta.jpg
(アルバニアの概略図【ウキィペディアから引用】)

 ●アルバニア鉄道:実際列車に乗ってみよう。

 私は南部の町 ブローラ(Vlorë)から北へ首都ティラナへ向かった。
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 列車は到着が若干遅れてその姿を現す。初めてのアルバニアの列車は、傷だらけで騒々しく、それでいて何となく頼もしく見える。ディーゼル機関車と客車4輌編成(うち荷物車1輌)の編成で、客車は旧東ドイツからのお下がりである。
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(アルバニアの客車)

 その列車がブローラの駅の行き止まりのホームに入る。折り返しなので、機関車を前後 機回しするため、側線で後方へ回り前方となる方へに連結される。その光景を撮影していると、彼らは映画俳優になった気分にで陽気な運転手や作業員がカメラに向かってはしゃぎ笑顔でポーズを取り、それは俺らは実に愉快な奴らだ、とアピールするかのように。

 作業を終えるともちろんすぐに発車となる。私は乗り合わせた人々の招きによって荷物車輌でしばし過ごすことになったがこれが何だか面白い。ここはただのがらんどうで、椅子も仕切りも何も無い、お座敷列車に畳が無いものだと思えばいいのだが、自分も荷物になったと思えばいい。
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(これが本当の自由席’)
 
 ここにいる彼らは、資材だかゴミだか分別がつきにくい荷物を時々担ぎ、貧しいが陽気で軽やかなその表情に悲壮感はあまりに無い。そして私のビデヲカメラにとても興味を抱き、レンズを向ければ必要以上に興奮し、はしゃぎ、踊ったりもしてしまう、何とも汚れていない素直なやつら。他の旧東欧諸国よりもカメラに対する好奇心は強いようで、撮影していてこっちまで楽しくなってくる。

 彼らにとって、貧しい階層が日常利用している鉄道になぜ私のような東洋人が乗っているのか不思議に思っているだろう。それを細かく感じられるほど私は全乗客たちから興奇の対象の視線を浴びている。
 その中からあるアルバニア人の一家が近づき、そこの長男が英語が出来るというので通訳をしてもらいながら話をし始めていった。
 
 アルバニアはもちろんアルバニア語が第一言語で、外国語といえば同系統のイタリア語なのである。観光業も盛んでないので英語なんかまるで通じない。そんな中の道中だったので彼が救世主のように思えた。

 ようやく私は彼らが何を言っているのか次第に分かってくる。とにかく各々自己紹介しろとの事で、私を始め、全家族構成員に対してまるでお見合いの如く挨拶と名前を述べる。
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(列車の中で一家自己紹介)

 通訳の兄ちゃんは、アルバニアの大学に通うインテリ層のようで、建築を専攻している大学生と言っていた。着ている服も少し立派である。そして彼の妹(19)が中々可愛い。そのうち私のビデヲカメラの被写体になってしまうのは時間の問題、でもまんざら不愉快ではなさそう。向こうも私の事を見つめている。
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(アルバニアの彼女)

 列車はアルバニア南部の平野部を走っていて、その向こうに山々も見えのんびりとした景色が流れている。
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(アルバニア鉄路をゆく)

 ところが何とも沿線にゴミが多く、木の枝には多くのビニールゴミが引っかかっている。
 この光景は中国や東南アジアでもよく見かける風景だが、原因は、乗客が窓からドアからポンポンゴミを捨てるのと、なぜか周辺から安易に線路際にゴミを捨てに来るのだろう。また洪水や風雨によって流された結果として相当こびりつくものもあるらしい。とにかく復興よりも住民の健康を考えてゴミを片付ける事が先決なのでは、とすら感じてしまう。

 途中のフィアー(Fier)駅に着く。ここでは何割かの乗客が列車から飛び降りてゆき、ゴミだか資材だか、彼らの大荷物が‘ポンスカポンスカ’と線路上やホームへ向けて豪快に放り投げられてゆく。停車場お祭りカーニバルここにあり、といった趣だ。

 さあ、フィアーを出、すかさず汽笛がぶっ放なされながら爆走!沿線の住宅地から鶏が這い出る始末も何のその。集落も傷だらけで汚く、やっぱりここはヨーロッパとは感じられない。唯一数少ない教会の鐘の音だけが欧州を感じる術なのである。

 心配していた事態がやってくる。列車がトンネルに入るのだ。もちろんその間真っ暗闇に包まれるのだが、私にとってとっても新鮮な瞬間。思えば、列車とは灯りがあって当たり前だと思っていた。
 トンネルの出口の光が近づくと、その瞬間冷気が大いに頬を覆う。もちろん荷物車には車内灯というものがあるわけがない。そのトンネルを出ると、列車を通り過ぎるのを待っていた羊飼いの農夫がその歪んだレールを辿ってトンネルを行く。一日2,3往復の列車しか来ないので、線路は住民の歩道でもあるようだ。
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(レールの上の羊飼い)

 キュートな瞳を持つ、その通訳兄ちゃんの妹の名はシバーナ(Sievána)ちゃんというらしく、私の本能をかき乱してくれる雰囲気を持っている。
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(シバーナ(Sievána)ちゃん、今ごろ何をしているのだろうか)

 彼らは途中のルーシュニジェ(Lushnjé)駅へ降りてしまい、残念だがここでお別れ。最後まで私に手を振る彼らはついに遠くへ消えてゆく。

 やがて列車内も静かになってくる。列車は妖陽に照らされながら痛々しいアルバニアの大地をマイペースに北上してゆき、一方、窓の外は穀倉地帯がバァーとお面のように広がっている景色がしばらく続き、ここアルバニアの基幹産業はやはり農業であることを改めて感じる。
1 アルバニア列車外撮影(夕方カーブ進入).jpg
(カーブを行く列車)
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(平和な汽車の旅の様子)

 そして沿線では、馬やロバが車を引く光景が多くみられ、彼ら動物も家族のように可愛がられているようだ。クルマが多くなってきたとはいえ、この国の輸送手段としての馬車はまだまだ主役級を占めているようだ。内戦など無かったかのような平和な光景である。
17 踏切とロバ.jpg
(ロバがまだまだ交通の主役級)
 一方、あちこちで国の混乱の跡が垣間見られる。コンクリート製の小型要塞(トーチカー)が大型マンホールのように大地に転々と備えられていて、内戦時の後片付けがまだ済んでいないように見える。
8 ドゥラス・トーチカ縦.jpg
9 ドゥラス・トーチカ横 .jpg
(内戦時のまま放棄されたトーチカ)

 アルバニアはかつて一般庶民に武器を流して革命を呼びかけた事があり、そうした過去が底流れながら今なお戦闘意識が影を差している。

 悪い悪いと書いた経済だが、実はアルバニアはわずかだが石油が採れるのだ。ここまでの間、何回か貨物列車と行き違いをした。アルバニアの鉄道は、幾つかの貨物列車も運行されていて、石油・石油製品・建材・石炭などが中心らしい。ただ、今はどうなのであろうか。

 列車は15:45、港湾都市ドゥレス(Durrës)に到着する。
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(ドゥレス(Durrës)到達)

 ドゥレスはアルバニア最大の港町。ここで機関車が逆になり、今私が居るこの最後尾の車輌に機関車が繋がれ一転して前方車輌となる。そして16:00、改めてティラナに向けて出発する列車は、ドゥレスの大踏切りをゆっくりと横切り、途中で分岐する線路を伝わり改めて北上する。
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(ドゥレスの大踏み切り)

 ここから海岸線ではなく内陸へと突き進む。
 
 列車は引き続きコンスタントに時速60km/phほどのスピードで走り続け、西に傾く鋭い赤茶の夕陽を浴びながら最後の力走をする。財布のような革製品やバナナなどを売りに来る少年やおばさんが私の所にやってくる。少しでも現金収入を得るための行動だが、そういえば欧州でこんな光景に出会うとは思わなかった。

 夕陽が夕焼けになり、やがて急激に陽が暮れ始め、車内電灯も点かないのでついに文字さえも見えなくなってくる。トンネルと違ってずっと闇なのでマジで暗いんですけど・・・
 しかし彼らは全く平気で、蝋燭の灯りを灯しながら交わす事となった。言葉は解らないので、万国共通の単語を介して筆談でやり取りが始まった。
要するに、彼らの関心ごとはカネだった。

「カメラは幾らなのか?」「一日の平均日本人はどのくらいか稼ぐのか?」

 そんな感じだ。因みにアルバニアでは、一日の肉体労働の賃金が約2ドルだそうである。それに比べては物価が高い…なぜならばアルバニアは農業国であり、食べ物以外は輸入品ばかりだからで、人々は相当暮らしが大変なようだ。

 通路側の窓にはガラスすら無いので、冬はまさに吹きっさらしであろう。一方、コンパートメントの部屋内の窓にはガラスがあるにはあるが、隙間風が入り放題。コンパートメント部屋の入り口の戸を開ければ、そこは外気でもある。はっきり言って寒い。

 車内はようやくたった一つのか弱い車内灯が点き、真っ暗闇よりかは百倍いいのだが何とも不安の種だ。しかし通路は相変わらず真っ暗、経済統制でもされているのであろうか、夜の長距離移動など辛いだろうに。泥棒や強盗が出てきても不思議ではなく実に恐怖。私にとっていい経験と言えばそうだが ・・・

 案の定、怪しい少年たちが通路を嗅ぎ回っていた。ひと目でやつらが何か害を引き寄せる連中であることは想像でき、彼らは私が外国人と察するや否や、ドアを開けてきて不自然に座り始めた。
 同室の老人たちはいきなり黙ってしまう。こいつらは泥棒だろうと察しがついたが、泥棒ではなく強盗だったらどうしようか、と嫌な感触が全身に走った。薄暗闇の中、少年たちは仲間たちとわざとらしくじゃれていて、それでいてこちらをじっと見つめ、私は不自然でもここから逃げよう、とも考える。。
 やがて同室の老人一人が外に出てゆき、不穏な空気がしばらく流れていると、ついに保安員を連れた車掌が飛び込んできて、少年たちを連行してゆく。あの老人はきっと車掌を呼びに行ったのであろう。

 彼らは厳しい経済状況下で必死に生きている。それに比べて日本人は何と弱いことか。それでも世界に名だたる自殺大国でもあるから、その現実を考えてしまう。

 やがて外に明かりが流れ始める。どうやら首都ティラナに着いたようである。電球のとりことなった17:05、ささやかな電球が光っているティラナ(Tiranë)駅の一本の行き止まり式の低いホームに到着する。ブローラから約5時間、首都ティラナ駅はほぼ闇に包まれているが、長旅を終えた機関車から めい一杯の汽笛とフロントライトが一斉に放たれ、まるで希望の光を浴びているようで精神的な暗さは感じない。

 駅前は首都の玄関駅としてはかつて経験したことが無いほど簡素で汚く、ゴミを漁る老婆や野良犬、ぬかるんだ路面。しかしその向こうに輝く首都の大通りが燦燦と伸びている。 34.ティラナ駅前.jpg
 (昼のティラナ駅前)

 次回は首都ティラナについて少し。
11 アルバニア列車走行光景.jpg

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2011年02月06日

アルバニアの鉄路 2002 前編

イスラム諸国が燃えている。独裁の下敷きにあっていたり、宗教の教えとは相矛盾する不条理な生きにくい社会。それでも宗教が個人を支え、宗教こそが人々を支えあって助けている。一方、その政府は、自由を国是とするアメリカ様にさえ気に入られれればノープロブレムな現実。実にいやらしい歴史だったような気がする。イスラームはどこに行こうとするのだろうか。

 今宵は、記憶にないかと思うが、一連の抗議運動で報道されたそんなイスラームの国々から、私が行ったことのあるイスラーム国家について三回に分けて勝手に少し書く。
 イスラームの国といえば、中東か中東アジア、そして東南アジアを思い浮かべるかと思うが、ナニナニ、実は少し厳しいがヨーロッパにもある。それは

‘アルバニア’

 アルバニア反政府デモが激化、3人死亡で治安部隊兵に逮捕状
 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1478112&media_id=52


 場所はここ。

アルバニア位置.jpg
(アルバニアの位置)
 ギリシャより北、以前のユーゴスラビアより南西、アドリア海を挟んで対岸がイタリアという位置だ。いずれもバスかフェリーで行ける。

 人口約310万人、中国地方よりも少し小さい程度の小国で、全体として石灰岩がむき出しているような山々が連なっている。国を旅していると、白い岩山脈が目の中にたくさん飛び込んで来、その‘白い’という意のラテン語が『アルバ(ス)』。ここから英語名のアルバニアという国名が国際社会で広まった。
 因みに彼ら自身は自分たちの国のことを『Shqipëria(シュチパリア)』、調べてみると、これは鷲の国』を意味するらしく、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説から来ているという。だから国旗がこうなのである(下 参照)。
1[1].png
(アルバニアの国旗:双頭の鷲、東洋と西洋の中間にある国を表す)

 失礼を承知で書くと、戦隊モノの悪組織の旗という感じもするが、ここは一つ違った観点、『力強さを感じさせる旗』としよう。

 アルバニアとシュチパリア、二つ呼び名があるが、日本人も自身たちを『日本』と呼ぶが、西洋人は『ジャパン』『ヤーパン』と呼んだりする。それと同じだ。
 今宵は私が旅したアルバニアについて、その当時の日記を基に旅行記を少し書いてみたい。どこにも行っていないので、書くものといったら昔の話ばかりだがご容赦願う。

 2002年11月・・・
 
 ギリシャ側の国境を超えてゲートを通過し、アルバニアへ一歩を記すと、それまでのヨーロッパ旅から根底を覆す事態に遭遇する。時間はまだ夜が明けてない4時。ギリシャ側とうって変わって電灯が貧相になり、暗闇の中から次々とゾンビのように群がってくる人々。

 当時の私の日記にはこうある。

 『ゲートを出ると、闇の中から乞食やマフィアが私に襲い掛かる。すごい客引きの嵐だ。物乞い、売人、タクシー。その中からバス会社の人間を捜し当てるのは難しい。その光景にたじろぎ、混乱しながらしばし考え事をしていると、怪しい事情を背負った男が私に呟く。「ワンガール、5000€(約600000万円)」驚いたことに人身売買の様だ。ここは欧州の北朝鮮か。』

 当時はまだアルバニアが一連の東欧革命の最後の波しぶきを浴び終わったところであり、社会的に混乱が続き、だから、周りの国々の人々はアルバニア人を快く思っていなかった。よって私もどこか頭に中で偏見が宿っていたのは否定しない。

 まあどうであれ、混乱している国ではあるが内戦状態ではなかったので行ってみることにした。ここに来る前々日、アテネの日本大使館にアルバニア情勢を聞いてみた。大使館の書記官は、私がアルバニアに行く、というのを聞いて一瞬戸惑ったが、
「治安に関しては今のところ、被害等あったという日本人や他国の旅行者の報告は受けていません。治安が悪いですが内戦状態ではありませんし、ここで引き止める事はしません。でもあそこは日本大使館がないのでなるべく厄介なことに巻き込まれないでください。何かあってもあそこの管轄はウィーン側が担当するので時間がかかかりますから、パスポートがなくなる、という事態だけは避けてください」
との事だった。


 国境から約1時間、夜が明けきり、ライトバンの乗合バスに揺られている。やがてローマ時代の城跡のような廃墟が脇に現れ、そしてようやく人の息吹のする町に差し掛かる。あちこちで破壊され、その残骸のままさらけ出されている鉄筋コンクリートの光景と、所々トーチカが道路わきに現れたりもする。そう、これがアルバニアの現状だった。

 そして町には必ずイスラームのモスクがあり、天を突き刺すミナレットが林立したりもしている。ヨーロッパとは思えない風景だ。

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(広場の真ん中にモスクがあり、天を突く典型的なミナレットが)

 統計ではカトリック、正教(アルバニア正教)、イスラム教は大体それぞれ同じくらいの比率だが、共産体制下での神格否定政策が影響して無宗教・無神論者が大きな結果をもたらした。しかし、唄やテレビ番組などはどちらかと言うとトルコに近いものがあり、民衆の文化はややイスラムチック寄り、というのが私の印象である。

 実は、第二次大戦後の長い鎖国体制の影響で、外から観れば中で何が起きているか分からなかったが、旧東欧民主化の波をもろに被り、中の様子が一挙に分かってきたのはつい最近のことだ。現在ではこのように旅行者が普通に入国できるが、観光基盤に乏しく、観光客は殆ど来ない。ただ、ヨーロッパ人が喜びそうな遺跡などの観光資源はけっこうある。

 しかし、経済状況が極端に悪く、水や電気もこない事もある。1997年に、国民全体が引っかかったねずみ講経済によって経済が破綻して内戦となった為、見かねたNATO諸国(主にイタリア軍)が治安維持のため派兵されている、といったレベル具合だ。
 また、ユーゴ・マケドニア国境周辺では、今も武装ゲリラとマフィアが暗躍しており、そうした事から欧州諸国からかなり恐れられていて、よく言われるのが『欧州の北朝鮮』という始末だ。現在はNATOに加盟済みであり、EUには最近ようやく加盟申請をした段階である。

 紀元前のころ、ギリシャ人と共に古代イリュリア人という人々がこの地に南下して自治都市国家を築き、彼らが今日のアルバニア人の祖先と考えられている。イリュリア人とは、古代ギリシャ文化を色濃く持つギリシャ人の枝葉別れしたような人たちであるが、現在、南部と北部は根本的に異なり、北部にギリシャ色は殆ど無い。
 やがてマケドニア王国の支配下に入るが、彼らはマケドニア王国や、周辺国家(現在のユーゴスラビア辺り)を襲うようになり恐れられた。つまり昔からアルバニア人は良い言い方をすれば勇猛果敢、悪い表現だと‘やくざな人々という感じかな。
 しかし基本的には平和な暮らしをしていて、農産物や金属加工品などを売買する貿易商人として栄えた。

 その後、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の長い支配を受け、属州テマに組み込まれた。そしてイリュリア人の原型は崩れていった。13世紀後半から14世紀前半にかけて、セルビア王国がアルバニアに侵入し併合した。その時、多くのアルバニア人がギリシャに避難した。

 転機は15世紀。東からオスマン・トルコが侵入してくるようになるが、中部アルバニア出身のオスマン帝国軍人スカンデルベグ(Gjergj Kastrioti Skenderbeu) (1404〜1467) が、勝手にアルバニア独立の旗を掲げ、※クルヤ (Krujë) の城塞を拠点として、オスマン帝国に抵抗した。それらは一定の成果を出す。つまり、現地の派遣軍隊が勝手に国を造ったというもので、日本で言う満州の関東軍みたいなものか。ただ、彼は現在アルバニアの英雄とされている。
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(クルヤの城【ウィキペディアから引用】)
※(クルヤはアルバニアのやや北部に位置する)

 1468年、スカンデルベグが死去すると再びオスマン軍によって攻撃され、1478年、抵抗の末に結局はまたオスマン・トルコの支配下に入り、以後約500年間トルコ文化の下でアルバニアは息を潜めた。その結果、支配階層はイスラム教に改宗し、国民の3分の2がイスラム教徒となり、そういった歴史からアルバニアはヨーロッパにありながらイスラーム色が強い国となったのである。そして、ブルガリアやスロバキアなどと同様に民族意識は脈々を受け継がれていき、1912年の独立となった。

 ただ、公式の統計ではイスラームを信仰する人々は7割くらいいるはずだが、実はアメリカの調査では本当にイスラームの活動をしている人々はほんの少しで、7割くらいが無宗教だとの事( アメリカ国務省『国際的な宗教の自由http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90160.htm


 あと一つ、私がアルバニアにいて思ったのはデモが多いこと。それも真剣勝負のものだ。まあ、だいたいデモを開くときは子どもを宣伝代わりプラカードを持たせてデモの開催と集合を呼びかけ、そして政治勢力ごとに固まって集会を開くので、それとは関係ない一般庶民は本当に関心なさそう。聞いてみると、今の生活にいっぱいいっぱいでデモに参加している暇はない、という。あれれ?それってどこかの国に似ている?
8.ブロラ 共産党支持集会1.jpg 
(壇上の指導者からの目線)
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(動員された支持者)

12.ブロラ 共産党支持集会5全体.jpg
(集会は一応それらしき熱気を帯びた)

 さて、アルバニアを旅している間、当然ながら鉄道にも乗った。ただ、外国人である私が駅を探したり、列車に乗るという行為を地元の人たちにはなかなか理解してくれなかった。
「外国人ならバスで行け」「何であんな汚いものに乗るのか」「金あるんなら俺のタクシーに乗っていけよ」とか、親切心からであろうが、本当に鬱陶しいものだった。

 鉄道は国土にくまなく・・・という感じで網羅されてはなく、本数も1日3本とか多くて6本とかのレベルでどうにも不便。(図1. アルバニア鉄道網参照)
無題 2.odt
(図1:アルバニア鉄道網)

 しかし、個人バスやタクシーみたいにぼった繰られる心配はなく、運賃はとっても安かった。因みにアルバニアの通貨はレク(Lekë)。当時のレート(2002年)は、1€≒136.1LK、1Lk≒1.08\と額面は日本円に近いので計算しやすい(2011年2月現在:米ドル(USD)≒103 アルバニア レク(ALL) )。

 私は南部の町 ブローラ(Vlorë)から北へ首都ティラナへ向かった。

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(アルバニア鉄道 行程図:ブローラ(Blorë)〜ティラナ(Tiranë)間221km)

 ブローラ(Blorë) の駅舎はコンクリート製の立派な建物だったが、銃痕で荒らされ本当に半ば廃墟で素晴らしくみすぼらしいものだった。でもこれこそ現役の駅舎だ。切符売り場は鉄格子(てつごうし)型で、切符を買う時、まるで刑務所の囚人と面会するような感じのもので、どれもこれもヨーロッパの鉄道風景とは思えないものばかりだった。

 売り場のババァ〜が回数券のような鉄道切符を一枚だけ本体から切り離し、そこにスタンプをポンと押す。運賃はブローラ(Blorë)〜ティラナ(Tiranë)間221km、210LK(約190円)と現地物価からしても鉄道運賃はバカみたいに安い。ブローラ発は、5:50と11:55の2本だけ。さすがに早朝はきついので、お昼の11:55の列車に乗った。

 アルバニアの鉄道は、1930年くらいに鉱山鉄道などがあったが、今の国鉄が姿を現したのは、1949年に首都ティラナ(Tiranë)から港町ドゥレス(Durrés)間102kmが開業したのが最初である。

 鉄道というのはギリシャでもそうであったが、その首都とその物資を中継する港町とを結ぶ区間が真っ先に開業するというのが定番であった。
 しかし、その後アルバニアは強力な鎖国体制を歩んだので、なかなか外国との鉄道連結は実現せず、ようやく1986年にユーゴスラビア鉄道と連結されたが、今なお大して機能していない。なぜならばあまり‘かの国’とそりが合わないらしい。しかし経済が好転すれば、やがてギリシャやマケドニアと繋がる予定であるらしい。

 鉄道施設は貧弱で、民主化時、当局は鉄道を放棄する事さえ考えたという。駅には低いホームがあるだけで、ティラナを除いて屋根も無く、駅舎は半ば廃墟と化している駅が多い。
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(ブローラ(Blorë)駅の様子)

 通信施設は時々盗難に遭うらしく、その為将来的にはケーブルを地下化する予定らしい。なお、アルバニア国鉄は運行と施設の管理を2つの組織にして分けている。

 実際列車に乗ってみよう。
24.アルバニア鉄道から5.jpg

(アルバニアの鉄路 2002 中編に続く)

(引用元のない写真はいずれも筆者撮影)
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2011年02月04日

拝啓 アメリカ様

1ガントリーで吊り上げられるコンテナ (6).JPG
エジプトがさらに大混乱のようですね。

 ところで、今回の穏健イスラーム諸国の騒動のそもそもの発端は急激な値上がりの食料品や資源価格による生活苦が原因です。なぜそうなったかというと、アメリカ様がサブプライム破裂によるリーマンショックで経済がおかしくなったので、お金を市場にたくさん供給して(お札刷ると人は言いますが・・)お金ジャブジャブにして経済を活性化させようとするアメリカ様の都合からきたものでした。

 アメリカ様は日本のバブル崩壊をよく研究し、日本みたいにならないぞ、という思いで相当お金を刷りましたが、そのお金たちは投機マネーとなって石油に、穀物にながれてゆきました。こうしてリーマンショック前のようなバブルがまた再燃してしまいました。アメリカドルは史上空前の売られようで、相当ドルの価値が下がっています。円にだけ!対して下がっているわけではないのです。スイスフランもオーストラリアドルもアメリカドルに対して相当高くなっています。

 日本から見れば円高なので、外国に比べてそれほど苦しさは和らいでいますが、エジプトなど経済が弱い国々などは外国との取引はドルで取引していますので、そのドルの価値が下がって資源価格が騰がれば困ります。

 バルチック海運指数というのがあります。世界の不定期貨物船の運賃の指標を示す値なのですが、騰がれば騰がるほど世界の貨物船は盛況、逆に下がればガラガラです。

 資源価格や石油価格が騰がるという事は、それだけ欲しい(需要)があるから騰がっているのでしょうか。しかしそうではありません。このバルチック海運指数を見るとどんどん下がっていて、リーマンショック後の悲惨な数値に近づきつつあります。つまり、世界の貨物船は運ぶものがなくて活況がない事を示しています。つまり、この値上がりしている資源価格は実需ではないのです。中国やインドが経済過熱しているからではない事も分かります。

 リーマンショック前まであアメリカ様がいろんな国々の製品を借金してまで買ってくれたので世界景気を引っ張っていたのも事実でした。しかしリーマンショックで今度はアメリカ様が危機なので、アメリカ製をたくさん輸出したいためにドルの大安売りし、お金をバンバン作って世界に撒き散らしています。みんなバブルの可能性が高いのです。

 アメリカ様の仕業で新たな反米国家が出来る可能性もあり、なんとも皮肉です。そして、こんな状態はいつまでも続かないでしょう。つまりバブルの再度の崩壊がやってくるかもしれません。

 資本主義って怖いですね。
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(写真はいずれも筆者、単なるイメージです)
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2011年02月02日

2011エジプト革命 おさらい

カイロなどで数十万人参加デモ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1488908&media_id=2

 引き続きエジプト情勢です。
 ここで一回今回の騒動を振り返ってみましょう。

 先週1月25日(火)エジプトの『警察の日』において、首都カイロにて反政府抗議デモが起きました。

 実は本来の目的は反政府ではなかったらしく、昨年6月、エジプト・アレキサンドリアに住む28歳の男性(Khaled Saidさん)が警察官に撲殺されたのを抗議と追悼するためのものでした。http://www.excite.co.jp/webad/blogger/detail/0000010443.html

 それは何かというと・・・

 Khaled Saidがいつも通うインターネット・カフェに、2人の警察官が入ってきて、そこにいた人間全員に対し身分証明書を見せるよう要求しました。警察官にはそういう権限がないので、Khaledさんはその事を指摘したところ、怒った警察官達は殴る蹴るの暴行を加え、Khaledさんを撲殺してしまった、との事です。これがフェイスブックによって学歴のある若者たちが集い計画したのが上記の抗議集会でした。

 ところが、それよりも10日ほどまえにチュニジアで革命が起きたことがこのデモの性格を一変させました。

 翌、26日、騒動がエジプト北東部にあるスエズにも拡大してきまし、重要な海運ルートであるとともに戦略的最重要地点と位置づける欧米諸国はエジプト情勢に警戒をはじめます。

 その後、インターネットによって計画が着々と進められ、28日にはエジプト全土に大規模な抗議デモが拡大した、という事らしいです。
      
 この時点になると単なる反政府集会というレベルではなく、ムバラク退陣要求の大暴動と化してゆき、文字が読めない人たちも巻き込んで治安が乱れきりました。すぐにエジプト主要都市では夜間外出禁止令が出されましたが、国民は全く無視しました。

 英・BBCニュースによると、エジプトでは学校、会社、銀行、商店など全てが閉まっているので、ATMが壊されて麻痺状態が続いているそうです。先進国では考えられない事態ですが、エジプトだって結構近代国家なのですよ。そんなエジプトという国は、隣近所が助け合って生きていく国なので、現金がなくても食料品がある人はそれを、お水がある人はそれを、隣近所で分け合うそうです。これがイスラームの教えです。

 単なる暴動と化したカイロでは住民たちによって自警団が自然発生してゆき、それまで敵対していた警察勢力が姿を消し、代わって国軍が展開しました。しかし、軍は、「この展開は市民を鎮圧するためではなく、治安を守るため」だとし、市民に向けて発砲しないことを報道官を通じて発表しています。

 ムバラク大統領は軍出身で、第四次中東戦争においてイスラエル軍の陣地を攻撃して英雄になり、勲章をもらいました。その後、前任のサダド政権下の副大統領となりました。
 サダド大統領は、電撃的なイスラエルとの和平を実行してしまったが為に反対勢力を力で抑えてたくさんの敵を作ってしまう結果となり、1981年、軍事パレード中にイスラム主義者によって暗殺されていまいます。その時の大統領代役(Understudy)だったムバラクがそのまま大統領となり、30年間もその地位にいます。

 エジプトがアラブ諸国の中で唯一イスラエルとの融和政策を堅持してきたのは前任の大統領からの遺命でもあり、一方、そうすることによって、独裁国家嫌いのアメリカ様の支持を取り付けられるので、30年間の独裁を阻む理由はなかったのでした。エジプトは、アメリカにとってサウジと並ぶ中東において貴重な An ally(同盟)みたいなものでした。

 しかし、そんなアメリカ様お墨付きの独裁政権を崩すのがまさか民衆・市民となるとはムバラクは予想していなかったかもしれません。

 市民の生活は年々苦しくなるばかりらしいです。カイロ市内でとある材木店を営む個人商店のおじさんが手にする1ヶ月の収入は日本円にして約1万五千円、しかしほとんどが住宅と水道光熱費、そして食費に消えるらしく、トマト1個5エジプトポンド(約60円)、ここまで高騰している現状など、最近の資源高はこうした経済が思わしくない国々の物価高を巻き起こし不満を一層高めています。

 一連の中東・北アフリカの騒動はこうした資源(物価)高による市民の不満が原因であり、その資源高は、アメリカの超金融緩和←リーマンショックという図式が成り立ちます。遠因はやっぱりアメリカ様のような気がします。

 イスラーム諸国は、選挙で指導者を選ぶという国家はあまりありません。イランは宗教指導者の許容範囲の中での選挙ですし、トルコぐらいが西欧的な議会制民主主義と言ってもいでしょうね(あそこも軍の力が強いですが)。
 エジプトのムバラク大統領は30年間、リビアのカダフィ大佐は41年間、そして先日サウジアラビアに亡命したチュニジアのベンアリ大統領は23年間、イエメンのサレハ大統領は32年間 それぞれ長期政権を維持してきました。

 エジプトは、フィリピンのマルコス政権が倒れたような市民革命となるのか、サダムフセインが倒れた後の大混乱となるのか、宗教勢力が介入してくるのか、それとも軍が暫定的に国をリードするのか、今後はさっぱりわかりません。ただ、もうムバラク政権は終わることははっきりしているようです。市民はムバラク退陣だけで結束しているだけで、それが実現できれば次第に静かになるでしょうし、実現しなければ一向に収まらないでしょう。

 さて、アメリカなど欧米諸国はどうしたものか。下手に加入したらその後が大変ですし、責任取れませんし、アメリカはなるたけ表に出ないようにしていますね。

 ただ、駐日エジプト大使が言っていたのですが、「我々には情報があり、裏でこの騒動を組織し先導しているものがある。そうした組織に言いたい。」

 そうした組織とはいったいどこなのか?イスラエルの諜報機関か?分かりません。ちょっと気になります。
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