

(アルバニアの位置)

(首都・ティラナより約40km)
4. ドゥレス(Durrës)
● 到着
内陸の首都 ティラナから約1時間、錆ついた潮の香りがする行き止まり式のドゥレス(Durrës)駅に百人ばかりの旅人たちが一斉にホームに降り立つ。
駅舎はコンクリート製で立派だが、トイレは見るに耐えないほど汚く、鉄道用窓口は閑散としていて、列車の発着時間以外の駅構内はがらんどうとなり閉鎖されてしまう。この駅から発車する列車は、ティラナ方向と国の南部方向の鉄道路線で、どちらも同じ方向へ発車しては途中で分岐するのだ。
鉄道駅周辺には旅行会社のオフィスが建ち並び、ここでイタリアまでの乗船券を後で買うことになる。
船賃はユーロまたはドル払いのため本日のレート表が掲げられているが、そのレートを見ると、あれ?今までユーロよりもドルの方の額面が上だたったのに、ついにドルを上回りユーロの方が価値を上回ってしまっている。為替というものは普段さほど変動はないが、動くときはダイナミックに動き、毎日気にはなる存在。旅先での為替の動向は非常に重要で、外貨を持ち歩くこの生活は為替と常に同居しているという事なのだ。
因みに、この時以降ドルがユーロを上回った事はなく、それどころかドルは一時期を除きどんどん価値が下がってゆき、10年近く経った今では目も当てられないほど全通貨に対して下落してしまっている。
さあ、駅前の通りを歩いてみると、タクシーたちが混沌としながらズラー並んではと激しく客引きが華やかに始まり、乞食が次々と近寄ってきて、宿を探す雰囲気を瞬く間にかき消してくれる。
そんな状況に躊躇していると、列車の中で知り合った夫婦が、「ついて来い」と言わんばかりに私を導き、埃っぽい道をしばらく歩かされた後、とある自転車屋に立ち止まる。
もしかしてここがお勧めの宿なのか?と勝手に思い込んでいると、夫婦は、「友人を紹介する」と言い出し、一人のハゲ面のオッサンが私の目の前に現れる。
「ホテル〜オーケ、ノープロブレム〜」
と定番の英語を使いまわしては私をタクシーに導く。まだどこかへ移動するようだ。
通常このような事は避けなければいけない事であり、知らない人間の車に乗るのは非常に危険である。しかし宿がない状況下で不安に陥っている心理はそれをも省みず、「やってみよう」と言い聞かせては運を天に任せ、私は訳の分からないまま車に乗せられる。
車は南方向へどんどん街から離れてゆき、私の不安が頂点に達する。どこかに連れて行かれて強盗だなんて事になったら可笑しくて笑われるだけだ。車は30分ほど走った末についに車は停車する。
「ついに身包み剥がされる時がきたか」
と観念すると、幸いそうではなく、彼所有のホテルに導かれただけの事である。結果は無事だったが、今後はこのような状況を気をつけた方がいい私である。
そのホテルとは、2階建ての民宿のようでなかなか立派であるが、果たしてこんな所に観光客が来るのであろうかと、まったく不思議なもの。場所的には如何せん街から遠く、周りには商店が一切なく、軍事基地の目の前だしとにかく最低のロケーション。
断ろうかな、と思っていると、ホテルの裏手から‘ドドドド〜’という音が。何とこのホテルは線路際にあるではないか。こりゃ、25時間撮影ポイントスタンバイOK!。私にとってまさしくベストな立地なのだ。そう、一瞬のその感覚が判断を迷わせ、つまり料金交渉が始まっては、あちらの言い値で2泊で30€(約3700円)、それを何とか3000LK(約2700円)にした私である。
周りを傍観していると、山側に乾いた丘が目に入り、早速その丘の上を目指して列車の撮影をしに俳諧し始めるが、丘に登る道がなかなか見つからず、たちまち民家のおばあちゃんに怪しまれる。そりゃ、普段見かけぬ東洋人がこんな所をウロチョロしているのだから、怪しくないと言えば真っ赤なデタラメである。
私は何とか、
「目的は列車の写真を撮る為なんだよ」
と、線路の方向を向きながらジャスチャーしアピールするが、果たしておばあちゃんは分かってくれたのであろうか。ここが日本ならば、鉄道撮影は理解してもらえるのだが・・・(もちろん私有地には入らない事を前提に)。
すると、そのおばあちゃんは敷地内にある早道を指さし、‘ここから丘へ登れ’との事。ありがたくこの道を利用させていただく私。野良犬がしつこく付いてきて鬱陶しく思いながらついに見晴らしのいい場所を確保、すばらしいお立ち台だ。


(列車撮影)
そこにロバを2匹連れた老夫婦がのんびりやってくる。その光景は実にアルバニアらしい光景で、軽く会釈すると、相手側はこんなところで東洋人に会うなど思いもしないだろう。

(ロバを連れた住民)
翌朝、あまりにも肌寒く静かな空間の中で一人佇む私の心はやはりきしんでいる。この民宿には私一人のみが宿泊者のようで、オーナーもメイドも誰もおらず、立派な飾りを施した内装の廊下を、私の細い両足は、普段足音などしないはずなのに細かな足取りも記録できるほどしなやかに響き渡る。
そして、宿のどの蛇口からもお湯どころか水一滴さえも出ず、もちろんトイレの水は流れず、スイッチを入れても電灯は点かず、まるで未完成のお屋敷の様。孤独がしんしんと積もってくる。
私は昨夜の食堂にまた出向き、昨夜と同じものを注文し、同じテーブルに座る。というのは、他の食べたいものが思い当たらないからで、食べたいものを作るための自炊が出来ず、このような国での外食の連続は精神的になかなかきつい。
淡々とパンをちぎっていると、ここのやしきたかじん似の親父と息子が興味本位で私に近づいてくる。イタリア語といえばこの国の唯一の外国語で、それが世界の共通語と思っているようなので、‘英語しか出来ない’と言うと、
「何だ!外国人のくせに外国語が出来ないのか!」
と、彼らから怒られてしまう。イタリア語が通じる外国なんてアルバニアくらいじゃないのか。でも、日本語だって台湾以外一切通じないのだから、日本語はイタリア語と同じレベルかもしれない。
そんなやり取りをしていると、外から『キキーバン!』と鈍い音が辺りを突き刺す。交通事故が食堂の目の前で展開された様だ。野次馬が集まりはじめ、なんだか面白そうになってきたので私もカメラを回すが、そのような事は事故の瞬間を映さなければ意味がなく、事故後の当事者同士のやり取りなど面白くも無い。
事故車は、駐車場に入ろうとした乗用車同士の正面衝突のようで、が体の大きい男たちが言い争いをしている。果たしてこの国には自賠責保険などあるのであろうか。やがてポリッツェ(警察)がやってきて事態はあっけなく収拾され、なかなか警察の対応もすばやいものだ。
やれやれといった感じでテーブルに戻ると、食堂で屯している客の中の、桂三枝似のオヤジがいつの間にか私のテーブルに居座っては何やらアルバニア語で言い寄ってくる。わけの分からないままその状況は大潮の如く、彼は勝手に話をヒートアップさせ、このアルバニア特有の人懐っこさは時には心地よいのだが、悪く言えば調子がいい。
ビールやつまみを勝手に頼んで自ら飲み食いし、また勧めておきながら勘定は私持ち。とんでもない連中だ。
● 町の歴史
ここドゥレス(Durrës)は、人口約11万、場所は首都・ティラナの西 約40km、一方、アドリア海を挟んでイタリア・バーリ(Bari)から300kmの対岸に位置しているアルバニア最大の港湾都市であり、革製品やプラスチィック、タバコなどを扱う産業が集まっている重要産業都市でもある。
町の歴史は古く、紀元前627年ごろに古代ギリシャの居住民によって戦略上有利なこの地に町が造られたのが最初である。紀元前230年ごろにはローマ帝国の支配下に入り、コンスタンティノープル(今のイスタンブール)などに通じるローマ街道の宿場・港町の重要拠点として栄えた。
西暦4世紀ごろになると、ローマ帝国内の州の首都となるが、相次ぐ地震で町が崩壊した後、ローマ皇帝アナスタシオス1世(この町の出身)が、バルカン一強固な城壁で町を囲み、更なる繁栄をする。
その後、支配者が入れ替わり、1202年の第4回十字軍遠征時にはベネチアの支配下に入った。そして1501年、オスマン・トルコによって町は落とされ、それ以前は、クリスチャン(ギリシャ東方正教)の教会が散らばっていたが、それらの多くがイスラームのモスクに建て替えられ、やがてこの町の重要性が薄れ、人口1000人程度の田舎町に没落していった。
18世紀末から20世紀前半にかけて、アルバニアの独立闘争が激しくなる中、1912年のアルバニア独立宣言の時にこの町はセルビアの軍に占領された。
しかし、すぐに第一次バルカン戦争が始まり、1913年、結果的にアルバニアの一領土になり、最初の公式な首都となった。
続く第一次世界大戦時、ドゥレスはイタリア軍、オーストリア・ハンガリー軍、そして1918年に連合軍によって占領された後、主権がアルバニアに返還され、1920年に首都がティラナに移ってしまった。
しかし激動はまだ終わりでなかった。1926年の大地震、第二次世界大戦中のイタリア軍、ドイツ軍の占領、連合軍による爆撃などで町は破壊され、やっと戦争が終わった、と思うと、今度は共産主義がやってきて過酷な圧政が待っていた。唯一、1947年の鉄道敷設によって町は大きく拡大した事で、ようやく現在のような港湾都市になった。
1990年、共産政権崩壊の混乱でイタリアへ脱出する人々で埋め尽くされた町は大混乱となった。ここから船で約2万人もの人々がイタリアを目指し旅立ったが、結果、イタリア軍が介入する事態となり、また1997年、ねずみ講事件により国家経済が破綻し、ついにはイタリア軍を主力とするNATO軍平和維持部隊がドゥレスに配備され、現在も治安維持活動が展開されている。
治安の回復という元来の目的は達成されたものの、その後の隣国・旧ユーゴのコソボからの難民受け入れ、そしてイタリアへの経済難民流出阻止という新たな任務が加わり、駐留は長期化しそうだ。
現在、北アフリカのチュニジア、そしてリビアの状況に対してイタリアの置かれた立場は似ており、アルバニアの経験を基に行動するかもしれない。
さて、そんな深い歴史あるこの町を、地図を持たずに適当に街を歩いてみよう。
● 街を歩く
中心部から少し離れると、北方にこんもりとした小さな丘があり、その入り口は古代城壁が遮り、地元の人々がこの壁の前で青空市場を開いている。普通なら重要遺跡として柵か何かで覆われてもおかしくないが、ここはアルバニア。文化財なんて守っている余裕や関心などないのだ。

(市場と化した文化遺跡)
この城壁はローマ時代の遺跡。その向こうに入ると、ローマ時代の古代スタジアムが形を崩しながらも現存していて、観客席とそこに通じる通路など、現代のスタジアムと変わらない構造が見事に息を繋げており、普段遺跡への興味が乏しい私へ新鮮な驚きと興味を与えてくれるのだ。
その古代競技場は、小学校の運動場ほどの広さで、子どもたちがそこでフートボール(サッカー)を興じている。あの子どもたちを眺めながら、私ははるかな古代ローマの興奮したスタジアムを想像してしまう。

(古代スタジアムな空き地)
再び歩こう。古代スタジアム付近から高台に登れる道が続き、さらに上へ登ってみると、正教教会とイスラームのモスクが沿道を交錯し、やがて中世の城跡らしい丘に到達する。

(中世城跡の城壁)

(戦時のトーチカの名残)
ここからドゥレスの町が心地よく一望でき、列車が駅に入って行く光景もつぶさに見渡せる。
港湾設備がデカデカと沿岸に広がり、どれも錆び付いてはいるが、アルバニア経済が何とか好調になり始めた、と聞いてはいるが、おそらく港の景気がいいのであろう。どのクレーンも元気よく動いており、錆び付いているからといっても日々息吹を吹き返している。

(ドゥラスの町の眺め)
ドゥレスは港町だが、ここは天下のアドリア海、観光用の海遊びが出来る海岸もある。今日のアドリア海の波は荒く、岸壁に激しく潮しぶきを龍の如く上げ、その度に散歩中の通行人たちが笑顔で避けている。
イタリアが近いということなので、町の看板などにイタリア語風の趣も感じ取れ、やはりイタリアの影響はとても大きいようだ。
アルバニア人の多くは国内では稼げないので外国へ出稼ぎに出ており、その行き先はギリシャや旧ユーゴなど周辺国。特に海を挟んでイタリアはとっても多く、テレビ番組もイタリアのテレビがダイレクトに観られる環境にあるので、家々のテレビアンテナはみなイタリアの方を向いている。このアンテナがそろって西へ向けている光景が何ともおかしく見える。そういえば、サッカーの試合の話題はほとんどがイタリアのリーグ戦ばかりで、自国の選手の話はあまり聞かない。
ところで、今日はアルバニア独立革命記念日前夜という事で大きなイベントがある様で、子どもやその親たちで町の中心部にある夕方の広場はすでに一杯である。あまり娯楽が無い様に思えるこの国では、このように市民によるイベントこそ最大級の楽しみであり貴重な娯楽なのかもしれない。
始まったのは、合唱コンクールや一人でののど自慢、ダンスコンクールなどで、佳境は、ヨーロッパ各国で流行っているポップスの曲に合わせて、体つきのいい高校生くらいの女の子たちが踊り。これがなかなか見ごたえがあり、審査員の主観による採点で成績がよければ商品がもらえる、といった様なものだ。
もちろん私が審査員をやれば、ダンスの技術よりも、体つきや風貌などであっさりと点数をつけてしまうだろう。もちろん買収もOKだ。
夜の街をさ迷う。誰かに出会う訳でもなくただ単に何も考えずにただただ歩いていると、店のお姉ちゃんから客引きに遭ったのをいいきっかけにしてなかなか敷居の高いレストランに入る。
ところが、ここも他に客が居ない。私は、ピラフ、牛肉、玉子サラダとレモンジュースという、特段贅沢な料理とは言えないものを頼んだが、実はこれらのものはこの国の人々にとって高級なものなのだ。いや、食べ物が高級というより、むしろレストランで食事をする、という行為が高級なのかもしれない。
ここの人々がレストランを利用するのは、コーヒーやビールだけ頼んで友人と語らう事が殆どの様で、それは外食すること自体が財布に合うものではないからだ。
私が上記のものを食べて払った金額は630LK(約570円)。一般労働者の一日の賃金であり、これ自体が驚いてしまう。レストランの主人が、この数字を書いたメモ用紙を‘サッ’と無言で私に差し出すが、その薄暗いどんよりとした雰囲気といい、あまり好きにはなれないレストランであった事は記録しておく。
この国に入って6日間、それなりに国のレベルが分かってきたが、人々はもっと質素な生活をしているに違いない。旅人からなかなか現状が見えないこの国で安い宿や食堂を求める事自体が無意味であり、旅をしながら過ごすという事自体にこの国が対応できない様子だ。観光客を優先するわけにもいくまい。電気がある、水が出る、という当たり前の事を要求する旅行者を、実はアルバニア人は快く思っていないかもしれない。
そして、その国の経済力が弱い事を理由に、外からの外国人にとって物価が比例して安いという方程式は必ずしも成り立たない事も悟る。だが、対岸のイタリアに行けばもっと金かかる事は確かだ。
そんな事も含めていろいろ宿で考えているとついには灯りすら消えてしまい、強制停電は後の私に鼻水の洪水を与えてくれるのであった。
翌朝、陽は昇り窓の外を眺めると、治安維持部隊のNATO軍基地(イタリア軍)から、仰々しくミリタリー風の車列が門から出入りしている。占領軍の車列が通るような雰囲気だ。ここから対岸イタリアへは約300km、アルバニアとイタリアは兄弟のような関係であるが、横たわっている格差を悟ればこの海は長く険しく感じる。
掃除のおばちゃんが、客のいない部屋も律儀に全部屋掃除をしていて、意外と働き者であると感じるが、それよりも「体を洗う水をくれ、便所の水を流したい、シャワーも浴びたい!」と水のありがたさをおばさんに訴える。
おばさんは、そとからバケツ一杯分の水を持ってきて、何とか便所の水と洗顔の水は確保するが、宿が立派なものだけに、水や電気が来ない有様は、まるでマッチ売りの少女がマッチで擦った幻の世界に浸ったような2泊だった。
● 永遠の記憶の踏み切り
ドゥレスの町には交通量の激しい踏み切りがある。私はその町一番の大踏み切りに立ち止まり、しばし人々の行動を観察してみる。
荷車を引いた親父、ロバや馬に引かれた馬車、乗用車やトラックがひっきりなしに踏み切りを横切り、そして、それらすべての交通を遮断して列車を通す踏み切り保安係のおっちゃん。



(踏み切り通過!)
列車の時刻が近づくと、おっちゃんは、踏切棒の横に立ち始め、列車がやってくる方角をじぃーと見つめ、列車がまだ遠く汽笛を鳴らしながら近づいてくるのを察知すると、一瞬でそれが列車であると判断し、垂直に天に伸びている遮断機をロープで降ろし始めてはテキパキと道を遮る。
それには車を止めるタイミングがある様で、なかなか止まってはくれない車輌を強引にも遮断機で通せんぼして止めてしまう。
ようやくおっちゃんは、近づいてきた機関車の運転手に向かってサインを出しては無事列車が踏み切りを通過させる事に成功するのである。
その様子をカメラで撮っていると、やがておっちゃんとは意思疎通が軽やかに運び、踏み切り小屋でコーヒーを飲むまでの仲になってゆく。
おっちゃんも、自分の仕事っぷりを撮影される事にあながち嫌な気分ではないようで、自分の華麗な任務を、特別な表情を見せるわけでもなくいつも通りの作業を黙々とやってのけてくれた。おっちゃんの下ろす遮断機は、あらゆる車輌を止め、NATOの軍用車輌でさえも遮断機の前では足もでない。

(任務終了)
一方、この踏み切りの真上では、目下、立体交差のための高架橋建設工事中で、その現場作業員からも
「俺を撮れ!」
と、私の頭上からダミ声を浴びせる。私も労働者たちも笑顔で手を振り、そんな光景が交通量の多い、とある街角の建設現場で繰り広げられている。見知らぬ東洋の日本人がこんな踏み切りでビデヲ撮影をしているのだから、注目を浴びるな、と言う方が難しく、だけどみんな快く私を迎えてくれる気持ちのいい現場であった。
数年後、この踏み切りは無くなっているだろうが、私にとって永遠の記憶に佇む踏切である事は間違いない。
● アルバニア脱出
港近くの町のホットドック屋では、やはり私は好奇心の対象になる。
18、19歳くらいの若者たちが自分の名前を漢字で書いてくれ、と次々に頼んでくるので、一人ひとりのリクエストに応じる。ところが、アルバニア人の名を漢字にする、それは意外と難しい。例えばアランデロ(Alandelo)。ただ単に日本漢字を当て字として使うのは余りにも芸がない。そこで‘荒泥男’。私にしてはなかなかいい発想力だ。
ところが、‘チェッ’や‘ツェ’などはどう考えても浮かばないものもある。彼らはそんな筆が滞った私の表情を見ると、
「どうした、日本語忘れたのか?」
と不思議がるのだからどうしようもない。これをどう説明したらよいものか、解らないだろうな〜、この悩み…。
ドゥレスの港は、市内中心部からやや外れた所にあるが、意外と簡単に客船の乗り場が分かる。さあ、アルバニア出国のときである。出国手続きは、プレハブ小屋のような適当な造りの建物の中で行われ、乗船客が長い列を作っている。私の番になると、
「白い紙をよこせ」
と係官が言う。
「白い紙?」
そう、入国時にもらったあの入国税領収書の事を指している様だ。危なくどこかへ捨てるところだった程、どうでもいい書類を思い込んでいた。
それを提出し、難なく出国スタンプを‘ポン’と押されいよいよ乗船開始。これでアルバニアのすべての日程が終了する。
午後10時、フェリーは最後の車輌である大型トラックを載せ、岸壁からロープが離されるとついに出航。汽笛一発!港を駆け巡り、ドゥレスの港を静かに離れる。町は次第にゆっくりと弱い光となってゆき、近郊の海岸線の灯かりが遠くに下がってゆく光景を眺めながら、私は熱いコーヒーを片手に静かに見つめていた。
(アルバニア編おわり)

(デゥレスで出会った親子)