2010年12月30日

リヒテンシュタイン侯国 4(終) 侯国内の鉄道

リヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein) 4

(せっかくなので、リヒテンシュタインの章を年内に最期まで終わらせる)

13.リヒテンシュタイン鉄道風景4 山をバックに.jpg  
リヒテンシュタイン領内を走る国際列車

リヒテンシュタイン位置中域.jpg
リヒテンシュタインの位置
リヒテンシュタイン図.jpg
    領内の鉄道路線地図

 到着三日目、アルプスの山魂を眺めながら優雅な朝食をいただく。実はこの日は私の誕生日。そのような日はゆっくりしてみたい、と思い、ここをもう一泊する事を決断する。誕生日をリヒテンシュタインで。何ともオツなものである。

 東から本格的に陽がどんどん昇ってくると、YHの眼前の草花が一斉に輝き始め、光のダンスがおおよそ始まろうとしている。もう外で寝っころがっても十分暖かいほど春が来ていたことに気付き、油断なく陽気なベンチで昼寝に勤しんでいると、あちらはまだ雪を多量に被っているアルプスの峰の一つ、標高2503mのサンティス(Santis)山を初め、、白と山肌のグレー、そして天の碧色の自然美が濃く深くはるか眼前にゆっくりと映えてくる。これはこれは、ずっと眺めていても飽きがこない自然の演目だ。
 昨日と全く同じ峰々を眺めているはずなのだが、今日は昨日とまた違った姿を現している。昨日の晴れと今日の晴れでも濃淡と鋭さが違う。改めて思う事だが、眺めていると、一見同じ風景であるはずの山岳美には、山々の状態とわずかな天候の機嫌によって人間の視覚を惑わす魔力が含んでいる事を確信する。

 ここに来る前の私にとって、リヒテンシュタインとは単なる侯家のお城と切手の国だと思っていたが、こんなにも心地がいい所だとは思わなかった。物価が高いのは許せるかもしれない。

 さて、今宵の最大の目的、鉄道駅に行ってみる。

 シャーン・ファドゥーツ(Schaan-Vaduz)駅は駅舎はあるが基本的に無人駅。構造は、行き違いは出来るようになっていても、駅舎側に一本のホームがあるだけの実にしょぼくて寂しい駅だ。

 一方、駅舎は可愛らしい石造りで、かと言って鉄道の業務は一切しておらず、駅舎内の売店も閉まっていて、周辺に人の気配はあまりない。実は今日はイースターという宗教上の祝日なのでお休みモードなのだ。普段はどうなのな?

 では試しに領内を鉄道で移動してみよう。私は12:30発の各停を待つ。やって来た電車は、昔の日本国鉄の荷物電車のような角ばった1輌の電車で、それがコロコロと領内を横切る。

 私が乗車すると、早速スイス入国管理官が登場しパスポートチェックが入るのだが、今日の私は他国へ行くつもりはなかったので、パスポートは宿のレセプションに預けている。これには管理官も執拗に私を追及するが、彼らを説得するのには骨が折れる。実は、本当はパスポートを常に持っていなければいけない。

 そうこうしているとあっという間にリヒテンシュタイン最後の停車駅ネンデレン(Nendeln)に到着し、次の駅は隣国のオーストリア。よってここで下車する。国外に出ないとあれば係官は何も言えない。
9.リヒテンシュタイン鉄道 駅に入線.jpg 
領内を行くローカル区間電車 

ネンデレン(Nendeln)駅は国鉄職員がいるが、彼らはあくまでも信号所操作や管理業務中心で客相手ではないので、切符はすべて車内で買うことになる。記念にリヒテンシュタイン発という切符は買おうと思ったのに・・・この願いは叶えられなかった。

 ただ、私がウィーンまでの列車の時刻を尋ねると、職員はそれくらいの事はやってくれる。まあ、鉄道は‘ついでに’リヒテンシュタインを貫いている、といった感じである。

 ところで、鉄道は領内全線オーストリア国鉄の露線で、第一次世界大戦前に開業した。当時はオーストリアと仲が良かったのでその名残である。リヒテンシュタイン領内の土地を約9.5km、細く串刺しのように貫いていて、その中に4駅(一つは殆ど使われていない停留所)、領内にポンポンと置かれている。全線単線で、技術的には3駅交換可能だが、実質的にはネンデレン(Nendeln)駅のみ上下線が交換し職員が常駐している。

 細い線だが、これがオーストリアとスイスを結ぶ主要幹線であり、また東西欧州という観点から見ても重要幹線の一部なので、領内を素通りする貨物列車や優等列車が多い。普通列車や地域快速は平日1日片道10〜12本程度で、しかも昼間はガクンと間が空く。領内3駅すべて停車する列車は非常に少なく、不規則な停車パターンだ。

 本当は、シャーンヴァイド(Schaanwaid)という小さな駅がこの先にあり、そこが本当の東端の駅であるが今回は降りれずじまい。そこからオーストリア国境まで歩ける距離だが、国境といっても国境らしい検問所などそういう類(たぐい)のものはない。以前は、税関申告所くらいはあったらしい。
 かつてはオーストリアの属国だったが、リヒテンシュタインは第一次・第二次大戦後で崩壊したオーストリアを見限って常にスイスに頼ってきた。
1923年、スイスと関税同盟を結んで以来、スイスフランを国の通貨とし、さらに郵便も電信もそして電気もスイス方式に頼る方向へ国の舵をきった。
 だが1990年、リヒテンシュタインが国連に加盟し、さらに1992年にEEA(欧州経済地域)に単独で加盟を目指すと発表した辺りから関係が微妙になってきている。

 例えば、スイス側にとって‘NO’という物品がリヒテンシュタイン側でOKという事になれば、両国の間は行き来自由なので問題が生じる。リヒテンシュタインはスイスの同意を得てから国民投票にかけ、1995年にEEAに加盟実現を果たし、少しずつだがスイスとは別の道を歩もうとしている。

 一方、長いスイス頼りの時代が続いても、国民の心は今でもオーストリアに向いている。侯爵さまがオーストリアの家臣だった事もさることながら、多くの国民の親戚筋もオーストリアが多い、というのが理由だ。以前はスイスべったりの為、このオーストリアとの国境には小さな検問所があったが、オーストリアがEUに加盟し、リヒテンシュタインがEEAに入るとそれはもう意味を成さなくなってしまった。今では再びオーストリアとの間を自由に突っ走れる。

 そんな国の歩みを抱えた農園の中を、私は領主になった気分に浸りポストバスで‘巡回’する。
 低地の集落は、教会中心へ寄り添いながら農地や果樹園に囲まれるように形成しており、それが昔からの家々のようだ。富山の平野部に見られる散居集落光景の‘大きい版’に何となく似ている。

 教会集落の風景は美しいが、その源であるこの国の宗教はカトリックである。元々は隣のスイスにあるクール司教区の中にあったが、1989年にリヒテンシュタイン人が司教になると、スイス側の人々の間から不満が出てきた。 政治とは違い宗教なので、そういったものに関してものすごくデリケートらしい。そこでバチカンはリヒテンシュタインを切り離して『大司教区』としたのである。本来なら独立して格が上がり良い事ずくめのはずだが、バチカンには意見を聞いてもらえず、さらに格が上がった事で教会の費用が増え、国民の宗教離れを加速させてしまった。現在でも無宗教の国民が増え続け、将来憲法で保障されているカトリックの地位に手を加えられようとしているらしい。

 バスを降り、昼下がりの高原をゆっくりひたひたと歩き、ローラーブレードで遊ぶ子どもたちに挨拶する。桜に似た薄白い木々の花々の下を潜り、そこでふと立ち止まると、遠くにファドゥーツ城をバックに傍らで農作業をしている老夫婦がいる。この小さいこの国にも農業はある。だが国全体で見れば農業従事者は人口の1.5%で、日本同様高齢化が進んでいるという。
 君主がいて、政府があり、国民がいて土地があるだけでは国家は成立するが、しかし、それは国とはいえない。やはり農業・工業・サービス業の三つがあってこそ国なのではないか。そう思うとやはり、リヒテンシュタインは立派な国なのである。

10.リヒテンシュタイン鉄道風景3少女たち.jpg
 今日は子どもたちも休日

 夕暮れとなり、宿へ一人トボトボ帰る。だが一つ感じることがある。確かに一時的に訪れる者にとっては気持ちのいい国かもしれないが、何か寂しい。話もかけられず、出会いもない。
 成熟した国は、その余裕からか、見ず知らずの旅人にはあまり興味を示してくれない。せっかくの誕生日なのに一際一人ぼっちを痛感してしまうのはいただけない。

 誕生日の今日、スーパーマーケット食事では虚しいので、思い切って地元特産の料理でこしらえたYHの夕食を頼む事にする。ドイツ語圏でレストランの食事とは贅沢行為。覚悟して料理が出てくるのを待っていると、それはなかなかのボリュームで、サラダから肉料理までコースになっている。この緑色のソースは奇妙でもある。

 このYHは、冬は閉館しているらしいが、春から開館したばかりなのでまだ宿泊客はそう多くは無い。ただ夏には多くの観光客で賑わうらしいので、今こそ静かな気分を味わうには良いタイミングだったかもしれない。
 スイス側の山々に灯りが星の如く点灯し始める頃、私は、宿泊している小学生くらいの少年と卓球をしながら、長い誕生日の夜を跨ぐのであった。

 翌朝、この時も峰々の表情は昨日とはまた違った晴れやかさである。寂しい滞在であったが、少年と卓球をしたり、レセプションのマダムからいろいろリヒテンシュタインについて聞けたりして、このYHはとても気持ちよく過ごせた。設備も充実し、朝食や夕食(有料)もボリュームたっぷりで、他の国のYHに比べて物価が高い分、質はやはり高い。はやり質は物価に比例するようだ。
 さあ、私は再び旅の姿になる。

 領内の路線バスは、リヒテンシュタインの駅ではなく、スイス側のブークス駅へ向う。バスで見事にスイスフランを使い果たし、橋を渡りあっという間にブークス駅に着く。

 今宵の目的地は一気にウィーン、ゆくゆくはウィーンからもっと東へ行く予定なのでブタペストまで買う事にする。ウィーンで区切って別々に購入するよりも一気に買ってしまったほうが安い。なぜならば、国境を跨ぐ国際切符は、有効期間が2ヶ月あるので途中下車してウィーンに十分滞在できる。
 ブークスからブタペストまでは963km、122SFR(約11,000円)、これって高いの安いの?(因みにブークスからウィーンまでは691km、89SFR)

 長距離切符を持った私は、4番線ホームにゆっくりと上がる。するとまたしてもパスポートチェックに遭遇し、パスポートにスタンプが押される。どんどんスイススタンプが増えてゆくが、まあ、これが最後のスイスのスタンプだから構わないであろう。

 10:53発EC(ユーロシティー)の国際列車が入線してくる。『Bassel--Wien』と掛かれたサボがこの列車の長旅をより一層強く醸し出してくれる。全部で14輌客車という久しぶりの長大編成で、5輌目がレストラン車輌、6輌目の半分が荷物室らしい。車内はまあまあの乗車率で、禁煙席はどこも予約席を示すカードが刺さっているので、私は仕方なく自由席になっている喫煙席に座る。

 オーストリア国鉄の機関車へ付け替えが完了し、列車はやや遅れて発車し、川を渡って再びあのリヒテンシュタイン領内へ。私にとって見慣れた大地もこれで本当に最後である。
 昨日来たネンデレン(Nendeln)駅にこの列車が運転停車する。すると逆側からEC列車が‘コトンコトン’とやって来ては、彼は関心を一切示さずに駅を通過してゆく。リヒテンシュタイン領内を通過する時間はわずか10分未満なのだから、気にしていない限り、多くの乗客はリヒテンシュタインを通過している事自体に気づかぬままスイスへ走り去ってしまうであろう。

 そして列車は再び動き出し、オーストリア領が近づき、リヒテンシュタイン侯国が私から永遠に西へ去ってゆく。

(おわり)
http://www.kitekikaido.com/ 汽笛街道 第9篇 (\ ヨーロッパ横断 前)に収録

12.リヒテンシュタイン鉄道風景2.jpg
写真:リヒテンシュタイン領内にて in 2003

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リヒテンシュタイン侯国3 侯国の歴史

リヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein) の歴史を簡単にまとめたので、参考程度に記しておきます。

リヒテンシュタイン位置広域.jpg
リヒテンシュタイン位置中域.jpg
リヒテンシュタイン侯国の位置

 ●13世紀(1200年代)

 当時勢力を誇ったハプスブルク家、そう、後のヨーロッパ超名門王家その家臣、リヒテンシュタイン家という貴族があった。

 ●15世紀

 1608年に帝国から侯爵 (ドイツ語ではFurst) の称号を与えられ、さらに、三十年戦争中(1618年から1648年の間に起こった宗教&国際戦争)、神聖ローマ皇帝 フェルディナント2世が、戦争を続ける為にリヒテンシュタイン家に帝国諸侯 (Reichsfurst) を叙任した。

 その時、侯爵はウィーンに居を構えていた。
 1699年、当時の侯爵ヨハン・アーダム・アンドレアース候はあることを考えていた。それは、神聖ローマ帝国議会に列席する権利が欲しかった。それには爵位と帝国諸侯として認められるほかに、もう一つ、土地だけでなく国民がいる領土を持っていることだった。
 すると、現在のリヒテンシュタインの土地が売りに出された事を知り、迷わずそれを購入した。しかしそれは現在の『低地』と呼ばれる小さな面積の土地だけで、とても国として認められるものではなかった。道は険しい。
 だがあきらめない。1712年、現在の『高地』と呼ばれる伯爵領(当時)を手に入れ、アントン・フローリアン候がこれらを一つにして、1719年、神聖ローマ皇帝がついに『リヒテンシュタイン侯国』を国として認め、帝国議会に列席が実現した。つまり、今のリヒテンシュタイン侯国とは、領主の欲によって出来た国といっても過言ではない。

 その証拠に、国は出来ても領主である侯爵は全く国もとには行かず、ずっとウィーンの城(邸宅)にいた。侯爵にとって国の経営とは単なるステータスだったが、時代が近代に近づくにつれて事情が複雑になってくる。

 ●近代

 ナポレオン戦争(1800年代初期のフランスナポレオンが起こしたヨーロッパの大戦争)が勃発し、1806年、神聖ローマ帝国が崩壊し、リヒテンシュタインは国家として親ナポレオンのライン同盟に参加せざる得なくなた。この辺からリヒテンシュタインは、歴史の流れに乗って近代独立国家の道を歩み始め、やがて正式に永世中立国としての独立国家となっていった。

 しかし、まだ侯爵がウィーンにおり、第二次大戦前夜まで国もとに身を動かすことはなかった。

 1938年、フランツ・ヨーゼフ2世(今の侯爵様の父君)はベルリンに行ってヒトラーと会談した。理由は、何とかヒトラーの関心をリヒテンシュタインに向わせないようにするためだった。
 また、ナチス支持者が自国の議会に進出するのを防ぐ為に侯爵の大権を発動して議会選挙を行わせなかった。後に、「リヒテンシュタインを第二次大戦に巻き込まれなく済んだ大きな功績でもある」と侯爵家は主張するようになる。

 さらにリヒテンシュタインは運がよかった。地理的にオーストリアとスイスとドイツの緩衝地帯にあり、アルプス山中の、そして資源もなく他国から見れば魅力に乏しい土地が災いして侵略を受けず、それが独立国家を維持できた大きな要因の一つ、とされている。

 第二次大戦後は、西隣国スイスと共にに戦争に巻き込まれなかった点を生かして他国より有利に経済発展を実現し、高レベルの工業国に脱皮した。1990年、国連に加盟、国際協調と独立の両輪を共存させながら今日に至っている。


 現在の侯爵さまは、1989年に即位されたハンス・アーダム2世候である。(写真 左下)
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 しかし、執務は息子のアロイス侯太子に任せている。(写真 左下)
HRHPrinceAlois[1].jpg

 侯爵家は、1608年に侯爵 (Furst)に任ぜられて以来、世襲で侯爵家を継承してきた。因みに、いつもこの爵位については混乱するのだが、英語圏と非英語圏ヨーロッパでは爵位の考え方が違う。
 英語圏では、リヒテンシュタイン家の‘Furst’は通常よりすごく格の高い‘Prince’で呼ばれているが、ドイツ圏では伯爵位の上に位置する為、日本語ではあえて『侯爵』と訳されている。実はこれも正確ではなく、国によって爵位の概念や格が違うため、単純に訳せないので混乱している。日本の公侯伯子男の爵位も中国の制度を倣っているのでより訳が難しい。

 さて、この国の侯爵さまがなぜ絶対君主と呼ばれるのであろうか。

 一つは、日本の皇室のように国家が皇室予算を決めているのではなく、独自の財産があるから。つまり、自分たちで制約を受けずに決められるほどお金持ちということである。それは元々侯爵家がウィーンにあったことから、ウィーンの財産や国外にある土地、国内にある農地、そして膨大な美術品を所有しているので、何ら経済的に困る事はないのである。また銀行も所有している。一方、かつては旧東側のモラビアなのにも土地はあったが、かの地の共産化で失った。

 さらにもう一つ、威厳というもの。侯爵家はかつて議会にナチスドイツが台頭してくるのを大権で阻止した、という自負があり、それが絶対君主のよりどころとも言われている。最近の国連加盟は、その時、スイスとは初めて別の道を歩む革命的な決定だったが、これも侯爵さまのご決定なのである。
 前代未聞のことに議会はもちろん反発した。しかし、その後はスイスの方がリヒテンシュタインの後を追うように加盟している。
 だからと言って領主のやりたい放題という訳ではなく、そこは西側ヨーロッパ、議会もあり、国民投票という直接・間接民主主義もきちんと機能しており、絶対君主制(王政とは言わないが)と民主主義いう相反する制度が共存する国は世界でここだけかもしれない。

 EEA加盟決定時は、この二つが大いに機能した。国論が二分し、侯爵は早く国民投票を主張し、議会は反対した。侯爵は議会を解散させる腹をくくっていたらしいが、何とか妥協し、隣のスイスも同様に行われる国民投票の結果を待って国民投票を実施する事にした。

 しかし結果は、スイスは否決。その後のリヒテンシュタインの国民投票ではどうなるか注目されたが、結果は可決。結果的には侯爵の意図通りに事が運び、国民も納得した。人々も有能で信頼のおける侯爵さまに任せていて特段問題がないように思っているのだろう。そう思うとこの国が成熟した近代国家である事を感じる。

 国民がバカだと民主主義も国家の品格も台無しだが、みなが勉強し、しっかり国の事を考えていれば、おのずと制度が正しい方向へ導いてくれるのだという事を証明したようなものかもしれない。
切手27 リヒテンシュタイン・オーストリア - コピー.jpg
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2010年12月27日

リヒテンシュタイン侯国2 侯国を歩く

リヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein)

 スイスとオーストリア、そしてドイツが入り組んだアルプス山ろくのエリアあたりに一つの小さな、小さな国がある。その名はリヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein)。一つの町程度の規模なのになぜ世界中が認める‘国家’として生きていられるのか。なぜここが国なのか、どんなところなのか。かなり興味をそそられてしまった私は、2003年の春、実際に行ってみようと決心した。

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リヒテンシュタイン位置中域.jpg
 リヒテンシュタン位置

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(続き)

 首都 シャーン・ファドゥーツ(Schaan-Vaduz)

 首都といっても‘ぱっと観、侯家の城しか目立たないが、田舎の町のような佇まいが国家の首都と感じるには、一介の観光客如きにとって今は難しいかもしれない。

 首都ファドゥーツ(Vaduz)は、人口約5千人。広場がある、若干賑やかなゾーンこそ首都中心部であり、お城を真上に見上げる事が出来る。特にコレといって騒ぎ立てる観光施設などは無いが、首都という事もあって、政治的な施設がすべてこの界隈に集中している。政府庁舎もその一つで、首相官邸や国会議事堂も入っている小国にふさわしいサイズである。

 この国は侯爵様が君臨する国だが、議会もあるし首相もいる。だがここの首相というのはどうも『行政長官』といった感が強く、政治的権限が薄いらしい。さらに他の閣僚4人は大臣というよりも『部長』のような存在。しかし仕事は忙しいらしい。

 国会議員は全部で25名、『低地』『高地』の2選挙区から選ばれ、それぞれ定員は15、10である。二大政党と弱小政党があるが、政治の実権は二大政党の長老にあるというので、誰が首相になろうとも、最大与党の意向に反した動きをすればすぐに議会にて解任されてしまう。
 因みに国会議員は若干の報酬がもらえる程度で、ほとんどが本業と兼職しながら議員の仕事をしているという。

 
リヒテンシュタイン図.jpg
 リヒテンシュタイン地図

 ところで議員選挙の仕組みがリヒテンシュタイン独特らしい。それは、『比例代表と複数投票制』という、なかなかややっこしい制度がある。詳しく書くと すんごく長くなるのでここでは書かないが、議員選挙だけでなく、さらに国民は『国民発案権』と『国民審査権』という2つの直接投票の権利も持っている。

 国民発案権とはいわゆる日本でいうリコールで、一方、審査権は憲法改正などの重要法案を直接決めるものだが、その中には規模の大きい予算案も含まれる。
 だがスイスのように年がら年中投票日があるわけでもなく、国民審査は年に1回程度、発案権なんて地方自治体(ゲマインデ)に対してたまにある程度、だそうである。

 さて、小さな国で思いつくのは切手かもしれない。私は一つの念願であるリヒテンシュタンの郵便局へ行ってみる。
 ここもまた個性溢れる切手がズラーと並んでいる。独立国家たるべきものは、切手を独自に発行している事が最低条件であるとみなす傾向が欧州にはあるらしく、だから小国の『切手』は手が込んだものが多いらしい。だが、リヒテンシュタイン独自で最初に切手が発行されたのは1912年と意外と遅く、それ以前はオーストリアの郵便に組み込まれていた。

切手27 リヒテンシュタイン・オーストリア - コピー.jpg
 リヒテンシュタインの切手

 切手収入が国家財政の大きな割合を占める、なんていう幻想が今でも信じられている向きが一部にあるが、当然そんな事があるわけはない。ただ切手のデザインや印刷などはその国の工業水準を計る目安になるので、切手製造に関しては力を入れている。

 切手のついでに、リヒテンシュタインに来たならツーリスト・オフィスで入国スタンプをパスポートに押してもらおう。別に押す必要はないのだが、記念にするのはいいだろう。


 昼下がりの広場、その界隈には類まれな洒落たレストランなどがある。もちろん、どこも高そうだ。特に、広場の片隅に佇む高級感溢れるレストラン、『レアル』がある。ここはこの国の国会議員たちがよく集まるレストランで、日本でいう料亭みたいな所。ここで大方の政治的な動きが決められるという。

 ファドゥーツには、銀行や会社の事務所なども建ち並んでいる。リヒテンシュタインの経済は、細かい産業、つまり高技術を持つ会社が多い。建築部品や入れ歯、機械技術など世界的に進出している工業が意外と多く、小さな国というとすぐに銀行やペーパーカンパニーなどを思い出すが、リヒテンシュタインの基礎の産業はこうした高技術産業なのであり、それらを着実に育てている。

 銀行業も重要な地位を占めている。人口3万人の国に五つもの銀行があり、その中には国営ならぬ侯爵さまの所有の‘侯営’銀行も含む。
 その銀行業は、隣の金融大国スイスやEU諸国にも手を伸ばし、現在では従業員数1500人以上を形成する金融国家としての道を歩んでいる。通貨はスイスフランなので中央銀行はないが、五銀行はリヒテンシュタインの政府の監督下にある。ただスイスとの通貨協定のため、当然ながらスイス側にも組み込まれている。

 リヒテンシュタインの銀行で有名なのは対個人銀行(プライベート・バンク)で、1990年代にすでにその需要を掘り起こしていた。つまり個人の顧客の投資を任される投資顧問的な業務で、それは世界各地に顧客を持つまでになっている。
 リヒテンシュタインといえば投資顧問会社、というイメージが出来上がっているが、この国の国名を有名にしているのは銀行業かもしれない。

 もう一つ、無視出来ないのがやはりペーパーカンパニー。リヒテンシュタインに籍を置く書類会社の実態は公表されていない。だが、EEA(欧州経済領域)加盟したことにより少しずつ他の国との税制の差が縮まった影響で、年々それらの数は減少傾向にあるという。

 税率の安い国に名前だけ本社を置く手法はミニ国家にターゲットを絞られがちだが、だからといってリヒテンシュタインがそうしたペーパー会社に税収を依存しているわけでもなく、それらは法人税収入の3割程度らしい。
 つまりこの国の税収は、健全な産業の法人税収と間接税、そして若干の所得税から成っていて、国民が安い税収でのほほんとしているわけではないらしい。
 
 この国をちょっと周ってみよう。

 私は14:20発の黄色いポストバスに乗り『高地』と呼ばれる地区へ向ってみる事にしよう。
 ポストバスとは、リヒテンシュタイン内を張り巡らす路線バスの事で、かつては郵便車に客をついでに乗せたことからその名が付いている。その為、バス停は郵便局前である事が多い。

 ファドゥーツを出ると、グングン坂を登っていき、ついにはライン川を眼下にスイス領まで見渡せる位の高度に達する。そしてトンネルを一気に越えると雰囲気が一変、高山集落のような光景が広がる。

 リヒテンシュタインは、国土の3分の2が山岳地帯であり、表玄関がスイス側とすれば、裏側のオーストリア側には、標高2000m級の山々が壁となって連なっている。これら山々にはスキー場が点在していて、その人気は高く、ヨーロッパ各地から客が訪れるという。

 終点マルブン(Malbun)という所で訳もわからず下車。小さく吹雪いているが、そこは絵になるような高山保養地で、4月中旬というのにスキー場がまだ稼動している。
 このスキー場は、日本の皇太子殿下が二度滑られた事があり、日本皇室とリヒテンシュタイン侯室が親しい関係にある事を伺えさせる。

 だが、私がスキー場に行っても滑るわけはない。私は寒いのが大嫌いなはず。北風避けの場所を探していると、斜面の上方に、集落を見下ろす小さな教会が‘ポン’と建っているではないか。

7.リヒテンシュタイン 春の風景雪山教会.jpg

 中に入り、ここの礼拝堂で、町で仕入れた中華屋の焼きそばを広げて食する私。辺りにはまだ輝く雪がしぶとく残っていて、寂しい隙間風が肌に刺さるように寒いが、空気が澄み渡る中で冷たくなった焼きそばも悪いものではないようだ。

 この教会は、地区の住人によって見事に手入れされている。雪の季節中はなかなかここまで来るのは大変だろうが、住人たちのひたむきな手入れにマリア様が静かに微笑んでいる。
 時折風が外壁をつつくが、中はシーンと静まり返った小さな教会に、神々しい小国の息吹が鳥肌を立たせるように横切っている。


 リヒテンシュタインには、ゲマインテ(Gemeinde)という11の自治体がある。
 最も人口の多いゲマインデは首都ファドゥーツの5千人、最小はそこから北にちょこっと行ったところにある山間のプランケン(Planken)という、の300人強の集落で、その差約17倍。日本の町内会をもっと規模を大きくしては、権限と財産を持った程度のものと思えばいい。村長・町長が各1人と、規模に応じた(6〜12人)議員がいるが、殆ど本業と兼職らしい。土地の維持管理が主な仕事だという。


 スキー場で行き止まりのこの道はまだ戻らねばいけない。バスで元来たその道を辿り、再びトンネルを越え、先ほどのライン川を見下ろせる絶好のビューポイントで途中下車をしてみる。

 眺めのいい崖っぷちからは、スイス側の小さな列車が、細い糸を辿るように伝っている様子が見えるが、それは逆光のため大げさに輝いている。ここはテライゼン(Triesen)という集落で、山腹にへばりつく一戸建て住宅が多い。

          
6.リヒテンシュタイン 春の風景ライン川全景.jpg
テライゼン(Triesen)からライン川、スイスを眺める

 リヒテンシュタインには殆ど集合住宅は無い。これは国の政策の為らしいが、国民は集合住宅を嫌う傾向がある。住宅ローンなども無利子というのだから極上に羨ましい。日本は裕福だ、裕福だ、って信じ込まされてきたが、実際、住宅に一生を費やさねばいけない国民がなぜ裕福なのか、とやけくそでいいからここで喚きたくなる。

 だがその反面、もう家を造る土地がなくなってしまい、リヒテンシュタインに移住する事は難しい、との事。

 さてバスで再びファドゥーツに戻り、そう、侯爵様のお城にまだ参上していないではないか。すでに目の上の崖にもう見えているが、門まではまだ辿り着いていない。
 崖伝いに伸びている階段を登っていくと、城の門に辿り着く。下界の喧騒とは切り離された静かな林に囲まれ、壁が私を遮る。

 この城は、1323年に要塞として築城された。私はここが非公開である事を事前に知っていたが、門の前で怪しく撮影し、ファドゥーツの街を見下ろしながらオドオドとしている様子は不審者そのもの。やはり城下町を見下ろすという心境は、権力者冥利に尽きる、といった所であろうか、私は権力者にはなれない。

 次回は少しこの国の歴史について書いてみる。

(リヒテンシュタイン侯国 2終わり)
4.スイス国境 オーストリア国鉄車輌.jpg
列車の向こうのお城
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2010年12月26日

リヒテンシュタイン侯国

リヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein)

 スイスとオーストリア、そしてドイツが入り組んだアルプス山ろくのエリアあたりに一つの小さな、小さな国がある。その名はリヒテンシュタイン侯国(Principality of Liechtenstein)。一つの町程度の規模なのになぜ世界中が認める‘国家’として生きていられるのか。なぜここが国なのか、どんなところなのか。かなり興味をそそられてしまった私は、2003年の春、実際に行ってみようと決心した。以下はその日記である。

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(ドイツ領 リンダウ駅)

侯国入国

 私は今、ドイツ領リンダウからリヒテンシュタイン手前のスイス領ブークス(Buchs)に向かっている。たった62kmしかないが、国際切符になるので13.8ユーロ(約1900円)もする。さらにこの62kmの間に、2回も国境を越えるのだ。

 スイスに入ってもドイツ語圏のためか国が変わったという感触はあまりなく、ぐだぐだと何となく国境を越えたかな、とそんな気はするだけで、これほどにも国家間の溶け具合がまろやかになってしまうと、何の感傷にも陥らない。
 スイスは、EUはおろか国連にもつい最近まで加盟していなかった特殊な国だ。だから周りのEU諸国のように大手を挙げて出入国自由、というわけではないようだ。
 国境駅では出入国管理官がホームで待機していて、私にパスポートの提示を求めて、挙句に係官は私をジロジロ眺め、そして思いついたように荷物を開けるように命令する。なかなか厳しい。

 だが、周りはすべてEU、ユーロ圏に取り囲まれている陸続き全国境地帯の出入りを完璧に把握しているとは到底思えず、その辺はどうなっているのか知りたいものである。これは欧州お得意のけん制方式なのだろうか。こうして「きちんとやっているぞ!」というジェスチャーは大事だ。
 例えば、欧州の路面電車は改札はないが、たまに検札がやってきて抜き打ちで無賃乗車たちを威嚇する。見つかれば高額な罰金、これこそ自己責任、これは効率的で、個人のモラルに訴えたこうしたけん制方式の方が、すべての駅に改札機を導入するより文明的だと思うが。


 さて、今宵はスイスのお話ではない。列車はまもなくスイスの東端っこ、ブークス(Buchs)駅に到達する。今日の目的地はリヒテンシュタイン、そこは、ドイツ語圏の国々に囲まれた小さな、小さな独立国家で、目立たないが興味をそそる、ものがたりチックな国。ブークス駅はそこの最寄駅でもあり、ここからバスが出ているが、リヒテンシュタインに鉄道が無いわけではない。私はそこをこだわり、最初に足を踏み入れる瞬間だけは鉄道にしたい。

 リヒテンシュタイン国内にある鉄道駅は3つあるが、どれも各駅停車の列車しか停まらない小さな駅。ましてその本数が極めて少ない。
 20:39、スイス国鉄仕様の鈍行列車に乗りスイスを後にしようとするとすると、またまた国境係官たちが現れ、私の前に立ち塞がる。今回は厳しいチェックは行われないが、一応は独立国へ足を入れる実感だけは残してくれる。

 さて、列車は駅を出て東へ分岐する単線に入り、すぐにライン川支流の川を渡る。

3.リヒテンシュタイン鉄道風景6 スイス国境.jpg
(国境の川を渡る国際列車)

すると、薄暗い大地のむこうの、山の手前で光り輝く町とお城が見えてくる。そう、あれがヨーロッパ最後の君主大権の国、リヒテンシュタインの首都ファドゥーツ(Vaduz)である。そしてこの川から列車は一時的にリヒテンシュタイン領に入る。

 20:45、リヒテンシュタイン領シャーン・ファドゥーツ(Schaan-Vaduz)駅に着く。本来ならばブークスとシャーンの間の切符を車掌から買わなければいけないのだが、ついに売ってくれずに彼は列車と共に去ってしまう。
 列車が去ると、シャーンの駅には静寂と暗闇が甦り、独立国家の首都に一番近い駅だというのに、その面影は今のところ全く感じさせてくれない。
8.リヒテンシュタイン ファーデゥーツ駅.jpg
(シャーン・ファドゥーツ(Schaan-Vaduz)駅)


 リヒテンシュタインは、人口約3万3千人、面積は160平方キロメートルと世界で6番目に小さい国で、およそ日本の三浦半島ほどの大きさである。モナコの80倍、サンマリノの2.6倍だが、ルクセンブルクの16分の1と、ヨーロッパの中では極小級の国である。

 とにかくリヒテンシュタインには着いた。宿はこの国に一軒しかないユースホステル(YH)と決めており、満室でないことを祈るのみ。いざ着いてみると、YHはガラガラで、余裕いっぱいでう〜んと泊まれるようで、よかった、よかった、と物価の高い国での宿探しハラハラ感の荷を降ろすのであった。

 ところで、その代金はスイスフランとの事。Sフラン札を持っていない私は当然ユーロで払うしかないが、ここはスイスフラン建てとユーロ建てとの二表記で、それもお釣りはスイスフランなので、Sフランで『チャリ〜ん』と返ってくるわ、例によって計算がややっこしい。さらに換算手数料は持っていかれるので、何だか損してしまったようで、あらかじめまとめてスイスフランにあらかじめ両替しておいた方がいい。
 結果、一泊30SFR(約2800円)だが、ユーロで払うと割高で、換算レートで割れば本来ならば21€だが、25€も取られてしまう。

 あくる日、快晴の窓辺には、朝食を済まし、まずは列車撮影のため線路の方向に歩いてみると、素晴らしく晴れた天の気の下で、花畑の中を草木は微風に振られて勝手になびいている。西方に白色の水流豊かな峰が宿る風景に囲まれながら緑の街道と絨毯を行く。陽光はこの小さなリヒテンシュタインにも等しく照り与え、惜しみなく草草に精を吹き込んでいて、ここが小国とは思えないほど広くゆったりとした景色である。

5.リヒテンシュタイン 春の風景.jpg

 菜の花畑の向こうに鉄道が見える。列車が横切る頻度は多くはない。横切る列車は長いものもあれば短すぎる編成のものもあり様々だが、この鉄道は単線にもかかわらず実はスイスとオーストリアを結ぶだけでなく、東西欧州を結ぶ大動脈の一部でもあるので、多くの優等列車が走り去る。
 ここからこの川を首都ファドゥーツの方向へ歩き、30分ほどで首都に入ってゆく。
 (続きは次回)
11.機関車.jpg

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2010年12月19日

デンマークの海の糸 U

■欧州に大寒波、空港・鉄道・道路が大混乱
(読売新聞 - 12月19日 20:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1444544&media_id=20

 今年の欧州は大雪がすごいですね。私がヨーロッパにいた時のころはそんなに雪は降らなかったのですが、ドイツの古城や川岸、ワイン畑などが吐く息白く銀模様になった景色を見た時、落ち着いたため息が出たのを思い出します。

 実は雪の時は飛行機は弱いです。アイスランドの火山の時の頃と同様、今年は鉄道が大活躍。ただ、航空ほどではないにしろ、雪は鉄道も飲み込みます。そんな中、雪のヨーロッパ鉄道の旅もまたオツなものもあるのではないでしょうか。

 今日は、昨日の続き、生きている鉄道連絡船の体験日記を書きます。この旅をしたのは7月の終わり、北欧のデンマークは陽の妖光が長く、めいっぱい輝く海辺を眺めながら旅する事が出来る季節です。午後11時ころまで明るかった記憶があります。

 では、今宵はイギリスの作曲家、アルバート・ウィリアム・ケテルビー(Albert William Ketèlbey)(1875 - 1959)の「ペルシャの市場にて」の一つ、『In a Monastery Garden』という曲を聴きながらデンマーク・ドイツ間をゆく連絡船の旅日記を読んでいただけたら、と思っております。

 http://www.youtube.com/watch?v=Pqy1xix7ml4&feature=fvw

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デンマーク位置.jpg
(デンマークの位置)

 生きている鉄道フェリー

 コペンハーゲン中央駅に到着し、ドイツのハンブルグ(Humburg)行きのEC34国際列車を数あるホームの中から見つける。IC(Intercity・国際特急)と名乗りながら、意外と短い編成に躊躇しながら飛び乗るように駆け込む。

7.コペンハーゲン中央駅.jpg
コペンハーゲン駅

 列車は、定刻通りにコペンハーゲン中央駅を東へ発車し、程なくユトラント半島へ向かう本線から別れて単線の線路を南へ進路を取る。


フェーマルン海峡位置2.jpg
(コペンハーゲン 〜 ロービュ(Rødby) 189km)

 やがて海が見えはじめ、ファルスター島、ロラン島と島伝いにピョンピョンと橋を渡りながら走る事約2時間、コペンハーゲンより189km、デンマーク側最後の駅 ロービュ(Rødby)に到着する。

 駅構内の線路は草生していて、よく見かける、朽ち果てた港湾地帯の駅の風景なのだが、ホームに隣接している線路は一人まだ延びていて、そのまま海へ消えていく。

 その海面の手前で鎮座し、パカーと口を空けた鯨のような怪物がこちらへ向けていて、ポケーと様子を眺めていると、スルスルと短い列車がゆっくり走り出しは、その真っ暗闇の口の中へ食べられてしまう。
 列車が船のおなかに入り、ゆっくりと慎重に薄暗い船底を移動し、ようやく停止を試みる。


74.フェーマルン海峡 鉄道連絡船4.jpg
(船に吸い込まれる列車)

72.フェーマルン海峡 鉄道連絡船2.jpg
(船底に停止)

 その後乗用車が次から次へと飛び込んできては、3輌編成の列車の周りを埋めていく。さあ、出来上がるって見ると、暗い薄明かりの船底に、トラックや乗用車に囲まれては一際ずうずうしく3輌の塊が王将の駒のようにどっしりと構え、小魚に囲まれた身動きの取れないマグロのような光景になっていた。
 船の中の扱いは全く乗用車やトラックと同じである。列車が列車でなくなる瞬間、船底で列車が車に囲まれている光景はなかなか見られるものではない。

 このような光景は北欧のあちこちで見られたらしいが、今では定期列車としてはこのロービュ(Rødby) − ドイツ領プットガルテン(Puttgarden) 間のフェーマルン海峡連絡運輸しか存在していない。

 フェリーに入った列車は固定され、乗客は外に出てフェリー内を自由に歩き回る事もできる。


73.フェーマルン海峡 鉄道連絡船3.jpg
(自由に降りれる)

 たとえば、家族で船室内のレストランで食事をしたり、一人でデッキで海を眺めたり、ゲームを楽しんだりと、海の時(とき)を理由にして最大限に最小限の癒しを施してくれる。鉄道の旅にも関わらず荷物は車内そのままにして置いておき、船旅を味わえる不思議な空間である。



フェーマルン海峡位置1.jpgフェーマルン海峡位置3.jpg
(フェーマルン海峡連絡船航路)


71.フェーマルン海峡 鉄道連絡船1.jpg
(短い穏やかな船旅)


 船は風力発電の風車が立ち並ぶデンマーク側の大地から引き離され、今度はドイツ側の平べったい陸地が急速に近づいてくる。幅は約18キロ、そして約45分後、ドイツ側の低い大地が近づいてくる。ゆっくりとの港に到着し、それを見届ける前に乗客たちは再び列車内に戻り、しばしじっとする。

 ドドドドーン〜、と接岸した響きが列車内にも伝わり、さあ、上陸の瞬間を構える。

 航そう‘口’が開くと、‘小魚’が散らされるように小車両が出てゆき、列車がノッシノッシとゆっくりプットガルテンの駅に進入し始める。こうして無事ドイツ鉄道の線路をまたぐ。

 ドイツ側の駅は相当古錆びていて、構内の線路は深く草生し、かつての賑わいだけが強く匂っている。今はもう鉄道貨物運輸はやっていないのであろうか、赤錆びた貨車がうら寂しくひっそり佇んでいる。


76.フェーマルン海峡 鉄道連絡船6.jpg
(ドイツ領 プットガルテン(Puttgarden)駅の構内)

 一日6往復分、12回の列車航送が行われるが、実はここも架橋の計画が着実に進んでいる。コペンハーゲンとドイツ本土を結ぶ最短ルートであるがゆえに、架橋建設計画から見放される事はやっぱりなかった。

 この20キロ弱のフェーマルン海峡に2018年の完成を目指してフェーマルン・ベルト・リンク(Fehmarn Belt Fixed Link)と呼ばれる架橋プロジェクトが進行している。これが完成すると、3時間半程度で結ばれることになっている。

 このルートを走る国際列車はよくドイツの映画に登場したが、今、大編成はいずこへ? 食堂車もない、たった3輌のステンレス気動車へとスリム化された、この心もとなさをどこへぶつければいいのだろうか。

 いや、運行されているだけでもいいと考えよう。この海峡の両岸で、あと何年、甲板に列車の輪唄が響くのであろうか。

 (おわり)

 http://www.kitekikaido.com/ 汽笛街道 第3編(アイルランド・北欧偏)に収録済み


59.Ribe旧市街4.jpg
(デンマーク Ribe にて in 2002)
posted by kazunn2005 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2010年12月18日

懐古主義  (デンマークの海の糸1)

特急「雷鳥」名称と車両を廃止
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1442879&media_id=4

 国鉄時代がどんどん遠くなっていきます。私はノスタルジック イデオロギー(郷愁主義)を持つ男です。なぜでしょうか。その答えは近年見つけられないままです。

 昔、列車ごと船で運んで対岸まで行き来する『鉄道連絡船』なるものがありました。今の日本には完膚なきまでにありません。ただ世界にはまだあります。

 ヨーロッパも同じですが、ただ、こちらも時間の問題のようです。先日、フェーマルン海峡の鉄道連絡船のことを書きましたが、本会、そのたび日記を見つけましたので、2回に分けてここに記録したいと思います。

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29.ヘルシンゴァー〜ヘルシンボーグ連絡船2.jpg
30.ヘルシンゴァー〜ヘルシンボーグ連絡船3.jpg

 デンマークの海の糸 T

 私がとっても子どもの頃、日本にはまだ『連絡船』という乗り物が生きていた。

 テレビや雑誌で知りえた情報のみで描く私の連絡船 旅模様は、子ども心ではあるが、鳥肌が立つような壮大な旅のように思えた。海を越えて鉄道のレールとレールとを結ぶ巨大な艀の旅は、遠く未知なる世界へ導く自由の生命線のように思えたが、やがて私が経済的にも自力で旅が出来るようになると、それらは歴史上の追憶となり、木っ端微塵に橋やトンネルにとって変わってしまっていた。ギリギリ時代に間に合わなかった。
 こうして北海道や四国が‘離島’である事を感覚的についに知りえず今日まで来てしまった。


 昔を知る人ならば、過去と現在を比較し哀愁に酔えるが、今しかしらない若い者にそれらを感じる事はできない。一方、出来るのは、今と未来の比較だ。列車と連絡船の乗り換え苦労話を聞かされても感触が伝わらないのも仕方がない。
 
 旅とは速いほどよい、という価値観が絶対の今日、次第に鉄道とは単なる移動手段にすぎない感覚が当たり前になってゆく。それが橋やトンネルがもたらす影なのかもしれない。人は旅情よりも経済的効果を優先するのは宿命なのだから。それを光と思う人もいるだろう。

 今、デンマークに来ている。デンマークの国土は半島部と島嶼部からなり、首都があるのは島の方だ。よって、鉄道網を形成すれば必ず海を挟んで散らばること、それは宿命で、それを繋げる連絡船は見えない線でありながら地図上では糸の様なレールが海上を貫き、輸送の大動脈として君臨していた。


デンマーク位置.jpg
 (デンマークの位置)

 この国の鉄道の旅は、つい最近までは連絡船がつき物であった。‘であった’という事はもうすでに歴史上の出来事になり、デンマーク国内だけでなく今やスウェーデンとも橋とトンネルで結ばれてしまった。
 北欧諸国は先進国であり、ちょっとした海峡は橋かトンネルで隅々を結ぶことが出来るほど技術と国力を持っている。よって、かつての連絡船の港はお払い箱。航送していた鉄道車両の港内線路はみごとに剥がされている。

 ああ、デンマーク鉄道連絡船の旅は今や当然もう感じる事は出来ない。生まれてきた時代とはすべてタイミングであり、運命を恨むべし。その瞬間、瞬間を逃す事は実に惜しい事で、歴史的な節目を大切にしたいのだが、だからと言ってそう過去ばかり振り返っても仕方がない、と言われるのもしゃくに障る。

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グレートベルト海峡.jpg
(デンマーク鉄道旅ルートとグレートベルト海峡の位置)

 旅は今、デンマーク半島部北端の町 フレゼリクスハウン(Frederikshavn)。静かな港町にたたずむ鉄道駅は港の隣にある。

51.Frederikshavn駅.jpg
(フレゼリクスハウン(Frederikshavn)駅構内in 2002)

 ここからの帰路、車窓を楽しむつもりが大爆睡してしまい、気がついたら列車はけっこう西へこまを進ませていた。目を車窓に向けると外は海の上。それは長大な橋を‘ガガン ガガン♪’と滑るように進んでいる最中である。

 デンマークは北ヨーロッパ北部の突出たユトランド半島部とその東側483余りの島々からなり、本国全体で日本の約八分の一の広さと、最高標高173メートルしかない、のっぺりとしている国土だ。人口は約530万人(兵庫県ほど)で、早くから酪農国として栄え、第二次大戦後は重工業化も達成し先進福祉国を築き上げた。

 そんな‘半島・島国’のデンマークに初めて鉄道が出来たのは1847年、高い山もないため、陸上部はあっという間に鉄道が普及した。
 1935年、幹線を中心に国有化され『デンマーク国有鉄道(DSB)』が成立し、一方、小さなローカル線などは現在も私有鉄道が存在している。
 現在、国鉄・私鉄を含む線路延長は北海道程度の約2400キロ程で、今なおローカルな場所では数多くのフェリーが活躍中。そんな海によって引き裂かれた国土の国にとって、鉄道や道路が橋やトンネルで繋がる事は経済的にも精神的も悲願なのは同じ島国国家日本と同じである。

 とりわけ首都のあるシェラン島と中規模都市オーデンセがあるフェン島との間にある、幅約13kmのグレートベルト海峡を越える鉄道・道路建設に国家の一大プロジェクトが施工された。その名は‘グレートベルト リンク計画’。
 これは1990年代全体に渡って行われた。総工費98年時約400デンマーククローネ(約8000億円当時)、海峡の真ん中に‘スプロ−エ島’という小さな島があり、それを足場として西側は鉄道道路橋梁(6610m)、東側は鉄道トンネル(8020m)と、巨大なつり橋(6790m)の自動車専用道路として別々に建設された。

 プロジェクトはついに1998年6月完成し、それまで連絡船で約1時間かかっていたのが約8分で渡れるようになった。こうしてグレートベルト・リンクは、首都コペンハーゲンがあるシェラン島とフェン島を介してユトランド半島まで、分断する海峡を橋とトンネルで数珠のように繋いだのだった。

 特に東側の道路橋であるつり橋は、『グレートベルト・リンク』のシンボル的存在で、日本の本四公団やJR鉄道各社などの日本勢技術が多く採用された。
 スパン1624m、つり橋では、世界で2番目に長い(完成時)。そもそもの予定では、1997年に完成し、世界一長いつり橋になるはずだったが、工期が遅れ、明石海峡大橋のあとに完成となった為、一度も世界一の座につくことはなかった(鹿島建設 建設博物誌より)。

 ところでこのプロジェクトだが、19世紀からの国家の悲願なのに当初は住民の7割が反対だったという。日本同様、福祉政策に多額の予算を費やし、こと公共事業においては非常に厳しい目が注がれていたが、100%政府出資、35年償還、道路・鉄道負担率50%ずつ(デンマーク国鉄が年間4000万USドルを支払い、道路は通行料収入)という条件下で開業させた。

 その結果、それまで固定化されていた就業人口が動き始め、物流界に大きな革命をもたらした。乗用車片道210kr(約3500円) と、通行料が高額だが、経済が活発になった事実を目の当たりにした国民は総じて肯定的な意識に変わり、今後の橋梁建築においても賛成意見が占めるようになった。こうして国民意識においても大きな流れの変動をもたらしたのだった。


 しかし、そんな建設物語など知らずにいた列車内の私はどこか物足りなさに気づきつつあった。そして、このようによだれをたらしながら寝ているだけで長大海峡をあっという間に渡り終えるこの便利さに妙な消化不良を感じている。

 先日のデンマーク・スウェーデン国境海峡のヘルシンゴーアー(Helsingør)の船旅もそうだったが、かつてデンマークにあった、『列車ごと船』で運ぶ車輌航送の風景を見ないままでいるのが原因のようだ。

「このままスウェーデンに向かっていいのか」

と自問していると、ふとアタマに何かがよぎった。
「確か、まだ鉄道航送をしている連絡船がある」
と気づき、さっと時刻表を取り出し調べ始め、その瞬間急遽行き先が決まる。

(自分の日記より)。明日は鉄道連絡船体験日記を書きます。
http://www.kitekikaido.com/ 汽笛街道

38.コペンハーゲン近郊線1.jpg
posted by kazunn2005 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2010年12月12日

知っている鉄道に

帰省の季節ですね。もう正月ですか。今年は夢中だったため速すぎました。私は喪中のため餅を食べる以外正月はないのですが・・・

  「しょーがねぇーや」と言ったものの・・・

 ため息ばかりですいません。

 年明け後がとっても不安な毎日。書類選考をお願いしていた次の仕事の件もなしのつぶて。今日、久しぶりに友人と飲みに行きましたが、気持ちが晴れなくて上の空。私は思いつめるとガーと言ってしまうタイプらしいです。

 そーいえば、旅仲間とのつながりの場所がなくなった途端、全く会う機会がなくなってしまった。そして、東京勢が頻繁に‘酔い会’やっている報を聞くと、一層寂しくなってきてしまう。

 とにかく、自分に言い聞かせて楽しいことや夢のあることを考えよう、と。でなきゃ、つぶれてしまう。

 そこで、年明け、ちょっと小旅行をしようと思っています。とにかく雪がみたい、雪見の温泉だけつかりに・・・

 ところで、こんなニュース?を見つけました。
http:// topics. jp.msn. com/lif e/colum n.aspx? article id=4661 76

 こんなものが記事になるなんてへぇ〜と思ったりもしますが、私は2002年にこの鉄道連絡船に乗りました。乗客数があまりないので、もうたったの4輌編成程度のミニな国際列車としてフェリーの船底の片隅で佇んでいました。ここと、イタリアのシチリア島とを結ぶメッシーナー海峡の連絡船しかヨーロッパでは鉄道車両をフェリーに入れる光景は観られません。

 かつては日本の青函航路や宇高航路の貨物もありましたが、そんな貴重な光景も時間と共に去りぬデス。

 上記のデンマークとドイツのこの路線(フェーマルン海峡)も架橋の建設が決まりました。もし、北欧に行かれる予定がある方は、ドイツの空港で降りて、ハンブルク駅に向かい、ここからこのフェーマルン海峡連絡船経由のコペンハーゲン行きに乗ってはいかがでしょうか。因みに夜行はフェーマルン経由ではありませんので注意を。

 ごくわずかな人数しか読まないでしょうが、このフェーマルン海峡鉄道連絡船の旅日記の記録がありますので、近くここに載せよう、と思っています。
 http://www.kitekikaido.com/ (汽笛街道)

75.フェーマルン海峡 鉄道連絡船5.jpg
   フェーマルン海峡フェリーに‘収納’されるIC列車
(2002年7月 ドイツ側プットガルデン駅にて 写真by 筆者)
タグ:鉄道
posted by kazunn2005 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行

2010年12月11日

欧州の旅 (オリエント急行 V) 最終

Uから続き・・・

 オリエント急行後半部、行き先はいよいよバルカン半島。

788px-Orient-Express_1919-1939[1].png
 
 
 ブタペストへ発ち、列車はドナウ川に沿ってパンノニア平原を南に転がってはバルカン半島へと進む。この辺からユーゴスラビア王国鉄道の区間に入る。ここもまた一次大戦の後になって、オーストリア=ハンガリー帝国から独立したあやふやな国家の土地だった。

 思えば、悪夢の第一次大戦は、この地の中部、サラエボで起こったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)がきっかけだった。すかさずオーストリアがセルビアに宣戦布告し、誰も止められない大戦争へと炎は広がっていった。散々死闘に次ぐ死闘を繰り広げて、結果、なんとかセルビアが勝ったが、お互いボロボロになり、沿線は一層薄気味悪い情勢であったことだろう。

 その大戦後、バルカン半島に住むスラヴ人を集めては、スラヴ人のための国家を造ろう、と、『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)』なる国家を樹立した。しかし、同じスラヴ人でも宗教も考え方も違う‘民族’だったためにうまくはいかず、そこを強引にセルビア人主導の政治を行ったため、いざこざが絶えなかった。セルビア的ドラえもんのジャイアンみたいな考え方は通じなかったようだ。

 結局、1929年、セルビアが暴走した。

 憲法を停止させてはセルビア人王様を立てて、『ユーゴスラビア王国』をつくったのだった。最終的にこの王国は、第二次大戦の時代にナチスドイツによって崩壊し、クロアチア人によるファシズム政権が生まれ、クロアチア・セルビア両勢力の過激な行動と思想によって虐殺の歴史を歩むことになる。

 これは1990年代にもくり返される事になる。

 
 列車はベヲグラード(ベオグラード)に到達しようとする。ドナウ川を渡り、行き止まりホームのベヲグラード駅に入ると、機関車を入れ替えして方向転換する。典型的なヨーロッパ風の行き止まり式ターミナルだ。

ここはバルカン半島で一番の都市。中世からオスマン・トルコやオーストリア帝国の争いの的となり、第一次世界大戦中はドイツ軍とセルビア・フランス連合軍と熾烈な戦場と化し、ようやく一次大戦後は新しいユーゴの首都に落ち着いていた。

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ベヲグラード城 (写真 by 筆者 in 2003)

 列車はそこからセルビアの大地をひた走る。

 ニシュ(Ниш/Niš)から列車はギリシャのアテネ行きとイスタンブール行き二つのルートが分かれる。アテネ行き列車は、※1 バルカン戦争時の激戦地を突っ切り、セルビア領マケドニア地方を経てギリシャ領に入り、ついこの前までオスマン・トルコ領だったテッサロニキを経てアテネへ南下する。そのルートは現在の21世紀初頭も変わらない。

 一方、イスタンブール行きの列車は、東を目指してブルガリア領に入り、その首都ソフィアに着く。ブルガリアは、※2 第二次バルカン戦争で周辺諸国に負け、さらにドイツ、オーストリアそしてオスマン・トルコとの同盟軍と手を組んだために第一次大戦でも連チャンで敗北し、結果、領土が大きく削られてしまった。


 さて列車であるが、この辺まで来ると西・中央ヨーロッパのようなカトリック的文化は薄くなり、ムスリムや正教など、いろいろな宗教が入り混じった大地になる。ローマを中心としたカトリック文化的欧州に対して、ビザンチン文化的欧州の方が旅をする上では面白いかもしれない。

 そして、乗客の中には中東や中央アジア風の高貴な者たちも居合わせるようになる。


9.トルコ国境駅2.jpg
ギリシャ・トルコ国境駅(in 2003)


 オスマン・トルコ領に入り、オリエント急行唯一のイスラム圏を走る。やがて列車は終点コンスタンティノーブル(イスタンブール)・シルケジ駅に到達する。この駅は1890年に開業し、21世紀のいまなお、往時の影を留めている。

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イスタンブール・シルケジ駅の少女(in 2007)


 当時、さらにこの先、狭いボスポラス海峡をアジア側に渡って、ペルシャや中央アジア、エジプト方面へ連絡する交通路が整備されていた。海峡を挟んでシルケジ駅の対岸、アジア側にあるハイダルパシャ駅(これも現在往時のまま)から、オリエント急行連絡船に接続してタウルス急行 (Taurus Express)というのがバグダッドまで出ていた。そこからさらに列車を乗り継いでカイロやテヘランまで連絡していた、と、当時のトーマス・クック時刻表にはある。それは、ロンドンからテヘラン、バスラまでの時刻が一枚の表に収められていた。


 さて、当時のオスマン・トルコもまた第一次大戦の敗戦国だった。国中が英仏などの連合国に分割占領され、それに続くギリシャとの戦争によって国はボロボロになっていた。

 トルコは、オスマン帝国と青年将校を中心にした革命政府との二重政府状態となっていたが、1923年、ケマル・アタテュルクによって最後の皇帝・スルタン(&カリフ)メフメト6世が追い出されてしまった。その後、名目的に残されたアブデュルメジト2世も、新トルコの政教分離政策によって※3 カリフも廃止され、約620年続いたオスマン・トルコ帝国は滅亡したのだった。


 オリエント急行は、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、そしてオスマン・トルコ帝国と、三つの帝国領を突っ切っていたが、第一次大戦後を通じてこれら伝統の帝国は崩壊し、それぞれ小さな独立国家が生まれていた。そのため、その政情の不安定さ、新たな国境運行には相当苦労をしたであろう。それは、冷戦崩壊後の旧ソ連圏と似ているものもある。そんな時代のオリエント急行が私は一番興味が湧いたのであった。

 いまの時代、飛行機でスッと飛ぶのが常識だが、その空の下の大地のことを思うことはあまりないだろう。旅のパンドラが詰まった列車の旅に、もう誰も振り向かない時代がすぐそこにやって来ている。

 (オリエント急行 おわり)


 ※1 バルカン戦争・・・1912年から1913年にかけて現在のバルカン半島南部、ギリシャ北部で発生した二つの戦争。
 一つ目は、バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と落日のオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争。
 ※2 その結果、トルコが敗北したが、分捕った領土をめぐってブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した二つ目の第二次バルカン戦争がおこった。結局またブルガリアが敗北、この敗北同士(ブルガリア、オスマン帝国)が手をくみ、第一次大戦を戦った。

 ※3 カリフ・・・預言者ムハンマド亡き後のかつてのイスラーム世界最高権威者の称号で、現実にはスンナ派にだけ影響を及ぼした。原義は「代理人」。スルタンと違って実質的な権限を持たない。オスマン帝国時代前期はカリフがなかったが、やがて帝国スルタン=カリフを兼務して皇帝権威を高めようとした。日本の天皇やヨーロッパのローマ教皇に近い存在かもしれないが、それよりも権威は弱かった。オスマン帝国の滅亡によってまずはスルタン制が廃止された。他のイスラーム世界からは精神的支柱としてのカリフ制の存続を強く望んでいたが、ケマル・アタテュルクによって1924年にカリフ制も廃止された。最後のイスラーム界カリフ、アブデュルメジト2世は、亡命先のパリで死去した。


PICT0157.JPG
中東への大地へ(イメージ)
(写真 筆者 in 2007 トルコにて)
タグ:鉄道話
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2010年12月07日

欧州の旅 (オリエント急行 U)

● 戦間期のオリエント急行

106.サンクト・ペテルブルク・フィンランド駅 ヘルシンキ行き発車間際.jpg

名探偵ポアロに出てくるオリエント急行は、第一次世界大戦から二次大戦との間の、ぼんやりとした無秩序な平和の時代だった。この戦間期という時流を思い浮かべてみる。

 『オリエント』 9.ウィーン トラムと夕陽.jpg

 作品‘汽笛街道’の字幕編集時によく使った単語だ。『東方』『アジア』『東洋』と、東大陸を表現する語はいろいろあるが、どれも旅の中においてその地を思う名としてしっくり来なかった。そこでよく使わせていただいたのがこの語だ。

 日本から感じる‘オリエント’とは、東アジアへはるかに延びる、ジワ〜と怪しげな匂いを奏で、そして、おぼろげな憧れに似た印象を与えてくれる。だがこの単語は、主に西洋・ヨーロッパから見た東洋・アジアを表す語のほうがストンとはまるのだ。

 文明社会ヨーロッパ、キリスト社会ヨーロッパ、その地において太陽が昇る空をいただき、大地に目を落としたとき、それは異質で不可解で、それでいて薄明るい興味の対象として抱く。そんな想いがこのオリエントに込められている。

 まだ情報があまりなかった時代、一瞬、偏見と蔑視も入り混じった想像力だけですべてを掻き立てられ、だけれども一種の芸術作品のような単語に発展したかのように。それは今、この現代においても通用する。

 そこに一つ、『急行』という名詞がつけばどうだろう。『オリエント急行』。太陽に向かって走るため、華やかにして憧れの対象、どこか嫉妬を溜め込んだパンドラのような余韻を醸し出す感じもしなくもない。今でいう世界一周の旅、という感覚と似た、そんなものかもしれない。そうした華やかな時代、このオリエント急行に乗ることは羨望の対象であった。

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 戦間期オリエント急行路線図  (ウィキペディアより)


 オリエント急行(Orient Express)とは、西ヨーロッパ大陸から今のイスタンブール(トルコ)までを結んでいた国際列車であった。1883年(明治16年)に運行が開始され、幾多の戦争や事件によって何回か中断をされたものの、意外と長く息が続き、イスタンブールまでの乗り入れが終わったのが1977年、そして、運行区間を短くし、その‘スジ’を残した列車が消えたのが2009年。つい最近まで約一世紀に渡って運行された。

 この名列車は、しばしば芸術作品の題材にもなり、アガサクリスティーの小説、『オリエント急行殺人事件』の舞台にもなった。その手法は、日本の西村京太郎サスペンスに大きな影響を与えたかと思う。

 列車とは、ただ単に人を運ぶだけの手段ではなく、人間同士、長時間居合わせる為、そこに営みが生まれ、文化も生まれる。一等、二等、寝台、食堂車、とまるで社会の縮図のように等級(階級)もあり、通してずっと一緒にいる人もいれば、区間によって出会う人たちも異なり、別れがあり出会いもある、周りの景色も違い、峠もあればトンネルもあり、谷もあれば街もある。そしてお花畑もあったりする、そんな人生みたいな流れが、一つの列車の中で介在する。

 私がシベリア鉄道に乗った時、この飛行機全盛の時代に、意外にも多くの人々が、一晩、二晩、いや、それ以上乗り通す人がいたことを思い出すと、列車を単に値段だけの理由で選ぶのではなく、大陸の人々というのは島国よりも移動の時間を大切にする習慣があるのではないか、と感じた。

 
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 シベリヤ鉄道車内(2001年 写真by筆者)

 オリエント急行は、その走る区間、その人種、その時間にして申し分なかった。それが今なお伝説の列車として歴史的に君臨している。一世紀の歴史の中で、私は特に戦間期、第一次世界大戦〜二次大戦の20年間ほどのこの時代に着目してみたいと思う。この時代のオリエント急行こそが、イメージ通りの豪華さを放った華やかなものだった。


 当時のオリエント急行の走行情景へ想いを馳せてみよう!


イギリスを起点に物事を眺めてみると、ロンドンからドーバーまでは連絡列車で行くとして、ドーバー海峡を渡り、フランス側カレー(Calais)、またパリ、一方もう一つ、ベルギーのオステンデ(Ostende)からオリエント急行が発車する。この二つのみなと町はいまも対イギリスへのフェリー航路の港である。ただ、鉄道連絡船という役目は終えているが・・・

 そこから平地をズンズン走り、ドイツ帝国に入ってゆく。ドイツルートは概ね、ドナウ川に沿った。

 第一次世界大戦が終わった後のこの時代、敗戦国家のドイツは惨めなものだった。よって線路状態はもちろん、治安があまりよくなく、その為、ドイツ領内を経由しない別のルートを取る列車も存在した。それがパリ発の列車であり、ナンシーを経由してスイスのバーゼルに入り、リヒテンシュタインを突っ切ってオーストリア帝国領に突入するルートだ。当時、すでにアールベルク トンネル(Arlberg tunnel・1884年開業、全長10.6km) が開業しているので、比較的スムーズにアルプス山脈の谷沿いを縫い、オリエントの太陽めがけて列車は走っていた。

 16.(D)ミュンヘン〜インスブルック線車窓2.jpg


 雪塊の渓流を上に眺め、カトリック教会の鐘の音(ね)が窓辺に漂うのを聞き流しながら列車は右に左に傾けながらまい進し、貴族たちがフォークを自由に操って手を休めている隙に、正面の王子さまと上品なおしゃべりに講じている、そんな光景が食堂車で展開されていたかと思う。


 カレー、オステンデ発、パリ発、共に列車はリンツ(Linz)で経路が重なり、ウィーンに到達する。この頃のウィーンは、さきの大戦争(一次大戦)でハプスブルク家オーストリア(=ハンガリー二重)帝国が崩壊し、帝都から一小共和国の首都に転落したばかりだった。一国家からハンガリーもチェコスロバキアも抜け落ちた、。町にはやる気のなさが蔓延し、激しいインフレが襲い、人々は強力な指導者を求めていた。

 ウィーンからドナウ川を追いかけるように歩み、独立したばかりのチェコスロバキアをかすめて東へ数十キロ走れば、もう一つの小さな共和国、ハンガリーである。

 ここもオーストリアと一緒にかつては大帝国を構え、帝都ブタペストは大いに栄えたが、一次大戦後、オーストリアから分離させられて、さらにルーマニアからは領土を取られた。一方、国内では革命が頻発してはまた王政が復活するなど落ち着かなかった。

 列車は東に進めば進むほど、不穏な情勢下を行かねばならなかった。

(続く)

汽笛街道HP http://www.kitekikaido.com/

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オリエント急行も通った、リヒテンシュタイン領をゆく特急(2003年by筆者)

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2010年12月05日

欧州の旅 (オリエント急行 T)

 新幹線が青森までついに行きました。この新幹線時代はヨーロッパも例外ではありません。あちらでも多くの在来線が役目を終えています。

 そこで今宵はヨーロッパを想ってみたい。

 ヨーロッパを代表する列車の中に、‘オリエント急行’なるものがあった。慎ましい絢爛豪華の装いをした車両は、当時の階級世界を思いっきり醸し出すはるかな空気を運んでいた。どんな列車だったのだろうか。

 【第一次大戦〜二次大戦 戦間期のオリエント急行のルート】
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(ウィキペディアより)

 名探偵ポアロ(ット) という探偵ものドラマをご存知だろうか。

 それは、イギリスBBCで放映されている息の長い人気ドラマである。そのポアロ(ット)(以下ポアロと書く) を用いて描かれたのが『オリエント急行殺人事件』、原作はイギリスの推理小説の女王、アガサクリスティー。この作品は1934年、彼女が46歳のときに発表したポアロ系推理モノの一つで、シリーズものだったエルキュール・ポアロとしては8作目にあたる。

 以下はドラマのオープニングで流れる曲なので、これをBGMとして聞き流しながら読んでいただきたい。

 http://www.youtube.com/watch?v=Hmx6dQJf_rk&feature=related

 1934年という時代を思い浮かべてほしい。第一次大戦〜二次大戦との戦間期末期となりつつあった頃、いよいよ新しい戦争が始まるという、ひどい夜明けが待ち受けていた時代だ。

 著者自身、多く中東を旅し、ロンドン・ビクトリア駅を出てすぐにドーバーに着き、英仏海峡を船で越えた。パリから当時全盛だったオリエント急行に乗って三日かけてイスタンブール・シルケジ駅に到着した。アガサクリスティーは大好きだったオリエント急行に実際乗り、それを基に作品を作り上げた。

 因みに、彼女はアジア側に渡ってハイダルパシャ駅から中東方面大陸鉄道に乗り換えてダマスカスへ向かった。これらの旅行は、作品製作前の1930年の頃で、その道中、年下の男と恋仲になっては再婚している。

 オリエント急行殺人事件の話の中では、そうした著者自身の体験が描いたであろう箇所が多く出てくる。しかしながら、オリエント急行自体を詳しく説明したり、ドキュメンタリー調では決してないので、西村京太郎作品のような鉄道趣味的の趣向を凝らした物語だと思って小説や映画を観ると少しがっかりするかもしれない。

 ただ、内容は名作品らしい、重厚な発想に満ちている。殺人事件の動機として選んだものがすごい。

 それは、リンドバーグ長男誘拐殺人事件(アメリカ)をヒントにしたものであり、誘拐犯人の背後で操った黒幕の人物が殺害される、という、歴史的事件を巻き込んでのお話というのがミソだ。

 乗客たちは貴族や金持ち、外交関係の人間など、当時の世界においてごく限られた上流層が中心で、一般庶民が気軽に乗ることなどなかなか出来なかった、オリエント急行の車内ならではの展開に、時代背景から観たその列車の価値が思い浮かぶ。

 特に、初めのころ、イスタンブール・シルケジ駅の出発シーンでは、駅構内に入る貴族たちめがけて必死に食べ物やみやげ物を売ろうと寄せ集まる売り子たちの光景は、現代の発展途上国を旅した先進国の人間たちが出会うであろう、あの情景となんら変わらない。私はしつこい物売り達に押される貴族の様子に鈍感にはならない。

 ところで、これは殺人事件なので、夜中の列車内で殺人が行われる。その後、ユーゴスラビアのヴィンコヴツィ〈Vinkovci〉(現クロアチア領)を過ぎた辺りで列車は雪だまりに突っ込み立ち往生してしまう。

 ここで一連の推理シーンはこの立ち往生中に行われる。犯人は誰か?ここではあえて書かないが、ユーゴスラビア警察という単語が出てきたりしているところを見ると、当時のユーゴが国家としてきちんと成り立っている様子が感じられる。フィクションなので実際どうだったかは分からないが・・・

 結局、犯人は解ったが、一連の後始末は架空の推理、いや、作り話にして葬り、犯人自身を処理しなかった。これは、アガサクリスティー系の一連の推理小説の中で、殺人犯人を検挙しなかったものはほとんどない事を考えればこれはけっこう異色の作品だと言えるだろう。


 私のアジア・ヨーロッパ大陸鉄道旅を撮った映像作品『汽笛街道』では、往年のオリエント急行がたどった区間の多くを辿っている。

 オリエント急行自体、いろいろな経路を通るので、『汽笛街道』では途切れ途切れになってしまうが、旧ユーゴスラビアのヴィンコヴツィも第10篇【] ヨーロッパ横断(後)バルカン】に出てくる。

  汽笛街道 オリエント急行ルート.jpg

 (『汽笛街道』でのヨーロッパ再横断ルート)

 実は私は、庶民列車が好きなのであって、オリエント急行のような超豪華特別列車などは興味が無かった。だから、一度だけ大陸をはるばる伝って、香港から海を渡って日本にやってきた時はあまり関心を示さなかった。ただ、品川駅に停車中のオリエント急行の客車を観た時に、ヨーロッパ鉄道への憧れに近い興味を抱いたことは確かだった。

 こうしてヨーロッパから離れている期間が長くなってくると、何でもいいから欧州列車を思いたくなった。だから、名探偵ポアロットのドラマを観た時に、自然とオリエント急行について調べたくなったのだった。

 今となってはオリエント急行はない。
(つづく)
汽笛街道HP http://www.kitekikaido.com/

12.東駅全景.jpg
(パリ東駅 全景・2003年)

13.パリ東駅.jpg
(東行き長距離列車出発風景・パリ東駅・2003年)


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